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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉖

 これらの苦々しい文章は重大で過酷な人生経験についてのみならず、厳しい自己分析に熟練することと、自分の性格の意識的な建設、熟慮された行動規範に合致しないあらゆるものをその性格から遠ざけることについて語っている。
 オルロフはキシニョフで豪勢に暮らし始めた¹、彼の家では、戦闘前日に危険な決定を受け入れた、若く勇敢な人々を取り巻く陽気な気分が支配していた。防衛での勇敢な行動により、兵士オルロフは師団の兵たちのあいだに崇拝に達するほどの愛情を呼び起こす力量があった。《彼のやさしい応対、彼の堂々たる外見、彼のいつもの陽気な顔つき、彼の皆に対する親しみやすさ ― これが兵たちに信頼、熱中するほどの愛着心を呼び起こした。閲兵式で、彼が最前列に現れると、兵たちは、彼のあいさつのことば“やあ、諸君!”を待ちきれず、“ウラー!”という絶叫で彼を迎えた》、― とВ.Ф.ラエーフスキイは回想している²。政府の秘密諜報員は報告した:《兵たちはこう言っている:師団長〈М.Ф.オルロフ〉 ― 我らが父、彼は我々を啓蒙している。第16師団はオルロフ師団と呼ばれている〈…〉プーシキンは公衆の面前でも喫茶店でも、軍の首脳部だけでなく政府まで罵っている》³。焦燥感はあらゆる人々 ― 師団の指揮官から追放された詩人にまで及んでいた。全体の気分を、連隊長であり福祉同盟の一員でもある陸軍大佐ネペニンが、В.Ф.ラエーフスキイにこのように述べて表している:《何度も言っているが〈…〉私の連隊は準備できている。将校と兵士のことは責任を持つ ― なにもしないでいるのはうんざりだ》⁴。
 そうこうしているうちに、キシニョフの状況についての情報が政府に届いた。オルロフと彼の取り巻きに暗雲が垂れ込めてきた。
1820年、トロッパウに滞在していたアレクサンドル一世は、ヨーロッパにおける革命運動の鎮圧に費やされた会議を招集した。10月28日、彼はセミョノフスキー連隊の蜂起に関する情報を受けた。この事件はデカブリスト運動とは一切関係ないにもかかわらず、皇帝は《他に原因が隠されている》と固く信じていた。《その原因は秘密結社にあると私は考える》、― と彼はアレクチェーエフに書いた⁵。
 
 ¹ヴィゲリはこう回想した:《彼は隣り合った3、4棟の家を借りて、ロシアの将官としてではなくロシアの大地主として住み始めた》(同時代人の思い出のなかのА.С.プーシキン
第1巻,p.222)。
 ²《文学遺産》,1956,第60巻1号,p.89.
 ³《故郷ロシア》,1883,12号,p.657.
 ⁴《文学遺産》》,1956,第60巻1号,p.85.
 ⁵シリジェルН.К.皇帝アレクサンドル一世, 第4巻. サンクトペテルブルク, 1898,p.185.
 
追跡がさらに強化された。1821年、福祉同盟の本部役員である秘密工作員М.К.グリボフスキーは、政府に福祉同盟の性質と任務について説明を加えた詳細な密告を政府に提供した。М.オルロフは《熱心なメンバー》の一人と呼ばれていた。キシニョフ支部に対する監視が始まった。
 プーシキンは、彼の周辺で大きくなっていった事件の急流のなかにどれ程ひたっていたのか、二つのエピソードが物語っている:カーメンカのダヴィドフ家の領地で行われた秘密結社の役割についての問題を審議する場に彼は参加していた、また彼はВ.Ф.ラエーフスキイに逮捕される恐れがある事を前もって知らせ、全般的にデカブリスト運動に奉仕していた。
 

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