平和を実現するためにこそ
当方の信条↓
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広島・長崎の悲劇を忘れてはならない。未だに世界各地で繰り広げられている戦争・紛争の愚かさを悟らねばならない。
人間は<平和という大義名分を実現するためにこそ>この世に生まれてきているに相違ないのだから。そのことを肝に銘じなければいけない。
軍事の<専門家>は、ときに、平和を希求してやまない人間を捕まえて<現実を知らない、お花畑の連中>などと わけ知り顔で揶揄するものである。
しかし、いずれが<非現実的>か?ということを冷静に考えてみよう。
対峙する国に備えて軍備拡張を行うと宣言したとして、お互いにそうした拡張行為に<キリ>はあるのか?答えは「ノー」である。そう、「やられたらやり返す、恨みを晴らす、あちらが備えるならこちらも」といった行為には、どこまで行っても<キリがない>のである。
加えて、仮に軍備をどこまでも拡張し、軍事費を際限なく釣り上げたとしても、そんなことをしたら、国民自身が経済的にも精神的にも疲弊してしまい、そもそも戦うエネルギーなど枯渇してしまうではないか。
さらに言うなら、戦争の基盤は武器であり、武器には必然的に金銭が絡む。(cf. Follow the money.—物事の裏・本質を知りたければ、金の流れを追え)つまり、戦争肯定派(少なくとも戦争非否定派)は、好むと好まざるとに関わらず、あるいは意識するしないに関わらず、多かれ少なかれ死の商人の代弁者となってしまうのである。
繰り返す。人間は<平和という大義名分を実現するためにこそ>この世に生まれてきているに相違ないのである。
歴史的に「宗教戦争」なるものも存在するが、戦争即ち殺人を肯定するような思想はそもそも「宗教」の名に値しない。「宗教」の名の下に行われる戦争など、自家撞着の極みではないか。そんな宗教などはない方がマシである。——ジョン・レノンの死を無駄にしてはならないのである。
https://note.com/real_hare9943/n/nc5c3921427d9
核戦争や細菌戦といったものがますます現実味を帯びてきている現代という時代において、軍備拡張はいよいよもって<非現実的>であろう。
いや、いまはそういう段階をもはや超えていて、基本的に<情報戦><ステルス戦>の段階に入っているのだ、という見解もあろう。しかしながら、そもそも<情報戦>にも両側面があるでのはなかろうか。即ち、<情報の悪用>と<情報の善用>とである。そのバランスが大事ではないか。いや、というよりも、本来ならば<情報の悪用>→<情報の善用>へと向かうべきもの、その方向を目指すべきものではないのか。
さて、個人的には<どんなことがあっても戦争はしてはいけない>を信条とするところではあるが、不幸にして万々が一戦争に突入してしまった場合であっても、戦争も喧嘩の一種である以上最低限のルールというものがやはり厳然として存在するものと考えねばならない。そうしたいわゆる「国際法」に照らして言うならば、例えば広島・長崎の原爆投下は、数多くの一般人を巻き添えにしたという意味で、明らかに<ルール違反>なのであり、どんなに正当化の屁理屈をこねようが、人道的に決して許されるものではない筈である。
なお、付け加えておくが、上の言い方は原理的に<一般人>と<軍人>とを区別することを前提としてしまっているものの、しかし個人的には、最終的にこの区別さえあってはならないものと考える。<一般人>である、<軍人>である、ということ以前に、我々は皆<人間>なのだから。誰しも皆<死を恐る人間>なのだから。
ps
核保有国について一言:
自分たちは核を捨てずに、非保有国が保有するのを阻止する
という考え方は、ものすごくわかりやすい形でたった一言で述べるなら:
ずるい
ということ。ずるい奴は理屈抜きで嫌われる。
恥を知れ。他国にぐだぐだ言いながらふんぞりかえっている暇があったら、自らとっとと核を捨てよ。話はそれからだ。
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