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育児コラム☆wing⑥息子の言葉に、ハッとした。そして思い出す。

日曜日、私はフルタイムの仕事があり、
会計系の仕事をしている主人は、土曜出勤したので、
息子一人で、電車で30分ほどの私の実家に、
大阪土産を届けに行って貰いました。
もっと早く行く予定が、
息子のインフル、私のヘルニアなどで遅れてしまい、
息子は、ばあちゃんちに行きたいなぁっと言っていたので、
おつかいを頼みました。

私が夕方、仕事から帰ると、
息子が実家での話を色々してくれました。

私の母は、少し認知症が出てきています。
生活に支障は無く、私たちの事も認識できており、
ただ、話した事を少しわすれがちで、
さっき話した内容も、数分後にまたする、といった感じです。

以前会った時も、その症状があるのは息子も感じていて、
その時、どう思ったかは分かりません。
「ばあちゃん、少し忘れっぽくなってるけど、
 皆の事は分かってるからね。」
とだけ、話してありました。

今回もそのような感じだったらしいのですが、
息子が、
「ばあちゃん、身長伸びたね、何センチあるの?
 そんなにあるの?凄いね~って5回くらい言ってた。」
と、話してきました。
「ばあちゃん、認知症少しあるからね。」と答えましたが、
内心、息子がどう思っているのか不安でした。

どう思っていたとしても、
認知症は母が悪いわけではないし、
ただ、息子に戸惑いはでるかもしれないな、と思っていました。

すると、息子が続けました。
息子「同じ事何度も聞かれて、何度も答えてさぁ・・・」
私「・・・・・・」ドキドキ・・・

息子「沢山褒められてる感じで、気分いいね!」と、
照れ臭そうに嬉しそうな笑顔を向けてくれました。

私「そうだね。」
そう答えるので精一杯でした。
胸がいっぱいで。
私の実家に、中学生になっても一人で遊びに行き、
お喋りを楽しんで、それを帰宅後に嬉しそうに話してくれる。
祖母と孫の関係だけど、
私の母に優しくしてくれてありがとうね、と言う気持ちでいっぱいでした。

そして、ハッとしました。

介護の仕事の経験もあったし、
認知症とはどういうものなのか、など話しておいた方が
いいかな、と思った時もあったけど、
それは、変に偏見を持たせるだけだったかもしれない。

あぶなぁ~~~~っ。

息子は、息子なりにばあちゃんの症状を、
ばあちゃんの個性として受け入れていました。
ばあちゃんの認知症による症状を、
ばあちゃんのおとぼけ、として沢山話してくれます。

その話は、とても温かいもので、
話してる息子も、とても楽しそうにしています。

そんなほっこりした話をしてる中、
私は学生時代に受けた授業で感じた事を思い出していました。

京都に住んでいる頃、
「同和学習」と言うものがありました。
それは、差別がテーマのドラマを見て、感想文を書く授業です。
広島に住んでいた頃には、
「平和学習」と言う、原爆について学ぶ授業がありましたが、
それと、京都での「同和学習」は少し違う感覚でした。

「平和学習」では、
小学生・中学生向けにアニメ仕立ての映画を観ます。
広島に引っ越すまで、原爆についてはあまり理解していなくて、
劇中に、原爆投下の時刻が迫る時計が流れると、
クラス中が、「あぁ~~!!くる~~!」とざわつき始めて、
最初は何の事か分かりませんでした。
とても衝撃的で、でも、現実に起こり、
その悲劇の影響を被爆2世・3世として戦い続けている人が、
周りには沢山いました。
映画を観た後、折り紙の内側に平和への願いを書き、
鶴を折って、千羽鶴にします。
私は、戦争を経験した祖父母の当時を想い、胸が苦しくなりました。

「同和学習」は、差別を受けている人に今もなお起きている、
悲劇について何パターンもドラマで紹介されました。
そのような差別が続いている事、
なぜその人たちが差別を受けているのか、
どの地域に今住んでいるのか、
全く知らない状態で観た私は、
ただただ衝撃でした。

そして、いつもは普通に接しているクラスメイト同士で、
その授業の後だけ、妙な距離が生まれるのを感じました。
翌日には戻りますが、あの感じはなんだったのだろうと。

その答えは卒業後に分かりました。
そのクラスメイトは、差別を受けている側の人だったのです。

「平和学習」と違い、
「同和学習」は、私にとって、
差別の対象者とその地域を特定させられた授業でした。
そんな事知らずにいたら生まれなかった偏見を、
植えつけられたような、そんな授業だったのです。
私はそのクラスメイトと登下校を卒業までしていたのですが、
果たして、卒業前にそれを知っていたら、
私はその子への接し方が変わっていたのか・・・と考えてしまいました。

きっと、変わらなかったと思います。
他のクラスメイトがその授業の後以外は、
仲良く接しているように、
もともとドラマの中のような差別は無く、
その授業の時だけ思い出してぎこちなくなってしまっている。
それは、裏を返せば、
そのクラスメイトの気持ちを案じていたのかもしれません。

いつもは普通に接しているクラスメイト同士が、
その時だけは距離を取るような、
そんな内容のドラマは、
対象の人と付き合いをしているとこういう目に遭う、
という気持ちが幼少期から学習を受けていた地域の人に
思い起こさせるものではないか、
差別をしてはいけないと伝える授業のはずなのに。

無くならない差別は、
誰にどんな偏見を植え付けられたかにもよると思いました。
関わるとどんな目に遭う、では無く、
差別が無くなると、こんな世の中になるよね、というような
どちらの立場の人にとっても、
未来が良い方向に向かう担い手の一人である事を、
実感させられる内容が良かったと思います。

そのような学習の時間を設けている事は、
「差別をなくそう」と言う気持ちを強く持った人たちが
多くいるのは間違いありません。

方法をよく考えるべきなのでしょう。

そして、多かれ少なかれ、
人は、差別を受けているとも思います。

貧富、学歴、容姿などなど。
ジェンダーについても、
「ジェンダー問題」などと、「問題」扱いすべきでは無いとも思います。

「十人十色」なんて言葉があるではないですか。
「みんな違ってみんなイイ」なんて言葉も。

認め合い、補い合い、助け合い、高め合い、
傷付き傷付いても、それは個々のぶつかり合いとして、
差別としてではなく、人同士の見つめ合いと思えたらいいなと思います。

個性と違い、家柄が何世代もその家系を苦しめているから、
「同和学習」があるのでしょうから、
それは、個を認められたくても、本人にはどうしようもなく、
とても辛いと思います。

差別には、「優劣」「優越感」が付き物です。
誰かを下に見て安心してる場合ではないです。

誰かと一緒に、前を、空を、未来を見つめながら、
共に歩いていける、そんな世の中になったらいいなと思いますし、
それを誰かに委ねるのではなく、
自分自身も確実に関係している事を忘れずにいたいです。

※使用画像元サイズ
ルーブル美術館展で購入したマグネット

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