映画『窓辺にて』感想
予告編
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今回は前置きがちょっと長いので、もしよければ[目次]から本文へ飛んじゃってください。
無駄や遠回りの贅沢
四方山話を少しだけ
過去にも何作か、本当に数こそ少ないけれど、鑑賞している間に感じる心地良さを「贅沢」と形容したことがあります。それは音響の凄まじさがどうとか映像の迫力がどうとか、 そういったものじゃなくて。
楽曲や映像コンテンツの倍速再生が当たり前になったりするのもそうだし、もしかしたらディベート対決やら論破なるものが流行っているのもそうなのかもしれないけれど……。
合理性を求めているのかな?「無駄」や「遠回り」がどうも排除されがちな印象です。片手間にスマホをいじってしまうのも、ましてや上映中にも関わらずスマホが気になってしまうことすらも、「暇」や「無駄」からの逃避なのかもしれません。
そもそも倍速再生に比べたら、 それこそいつでもどこでも観られる動画配信サービスに比べたら、劇場での映画体験そのものが「無駄」に満ちているのかな笑。
……なんか、前置きが長くなってきたな笑。
せっかくなので、この勢いでもう少しだけチョーシこいた話をさせてください笑。
映画館か、配信か。
劇場公開が終わってしばらくしてから配信するのか、それともすぐか、 あるいは劇場公開と同時に配信するなんてこともある。 配信限定作品も増えてきたよね。時代はまさに過渡期。これからどんどん配信作品は増えることでしょう。
そんな中で、“映画を映画館で観る理由はなにか”
この手の質問をよくされるんだけど、でもそんなの他人にきいてどうするんだろうとも思う。もちろん感じ方は人それぞれだから、合う合わないもあるだろうし……。何より僕なんかに質問したら、そりゃ間違いなく映画館の肩を持つに決まっている。中立の立場では絶対に話せやしない笑。
でも、数回行ったくらいで「スマホで観ても変わらない」「家で観ても一緒じゃん」と見限るのは尚早なんじゃない?
倍速視聴や上映中のスマホ操作などなど、時間をムダにしたくないのかもしれないけど……、思うに、“映画館で映画を観る理由” を知りたがる割には、”ちゃんと映画を観ていない”。
映画館は良いよね。ムダがいっぱいなんだもん笑。ムダは〈自由〉。上映中、そこに “スマホ” や “時刻” なんて存在しないも同然。仕事や時間に縛られない。ムダという〈自由〉や〈余白〉があるからこそイマジネーションに耽溺することができる。
いつも思うのは「配信で観ても大差ない」って意見がまかり通る割には、誰もが映画館で観た時に限って「あ、それ映画館で観た!」ってわざわざ口にして教えてくれる笑。
そう、みんな知っている。映画館は特別なんだって。
僕自身もそう。ただ、特別だと知っているけど、上手く説明できないだけ。
すみません。なんか知ったような口をたたいてしまって……💦 本当に、ただの戯言か何かだと思ってください。
そんな「無駄」や「遠回り」だからこその贅沢。本作『窓辺にて』には、そんな素敵な魅力がいっぱい詰まっていました。
ここから本題 映画『窓辺にて』感想文
序盤、久保留亜(玉城ティナさん)の受賞会見シーン。記者から投げ掛けられた、彼女自身が執筆した小説の曖昧さというか不明瞭な点についての質問に対する彼女の返答により、”言葉にすること”、或いは ”ハッキリさせてしまうこと” だけではわからないことがあるのだと示唆されていたように思います。
今泉作品が好きで観に来ていた方々には不要かもしれないけれど笑、何となく、本作の見方をそれとなく誘導してくれていた印象がありました。
実際、作中の会話では “間” がいっぱいある。セリフの無い部分でこそグッと集中力を少し上げて観たりすることもあるけれど、一方で、それが余計な思考を生むこともある。
本作で言えば、
「MAXで焼肉って言ってたけど、今焼肉食べてんじゃん」とか、
「チーズケーキの方がパーフェクトって言ってたらホントにチーズケーキが出てきた」等々。
本編とはおよそ関係のない雑念や雑情報が思考を過る。
……こんな横道に逸れた話をしてしまっていては「内容に集中できていないのでは?」と思われかねないけど、現実の会話でもそのようなことは往々にして起き得る。
それがたとえ、どんなに深刻な状況でも、真剣な内容でも。
要するに、世の中は何でもかんでも合理的ではない。本作の登場人物たちの置かれた状況は、傍から見れば間を置かずに「ああだこうだ」と言えてしまいそうなのに、当の本人らにはそれができない。
他人事だからこそ「そんなん別れれば?」「もうハッキリ言っちゃった方がいいよ」などと口にできるものだが、でもそんな合理的な回答に納得できていない。理解はできるけど、納得できていない、そんな感じ。
だからこそ、じっくりと待つ。間が生まれる。言葉にするまでの時間、口に出そうとする際の息や躊躇い。人の気持ちが如何に非合理的かがよくわかる。先述したような、今流行りの論破だとかディベートだとかでは決して引き出せない、人の本音や本当の気持ちを出せ得るような感じがします。
こんなことを述べている僕自身の感想文が曖昧になってしまって本当に情けない限りですが笑、上手く言えない、言葉にできない、モゴモゴと口籠ったり黙りこくってしまったり……。あんま良い形容ではないけれど、そういった待たされる時間すらも、本作の味わい深い所。余計なカメラワークが無く、長回しで会話を描くという今泉作品らしい特徴との相性がとても好い。
本作の画作り(えづくり)も非常に好き。例えば先述した会見シーンの後、市川(稲垣吾郎)と久保がホテルで会話をするシーン。質問する側の市川の姿が鏡に写っているのですが、物語の後半で、また別のホテルで二人が会話するシーンがあり、そこでは逆に久保の姿が鏡に写っている……。
(内容に触れないために詳細は割愛しますが、)悩みを抱えている当人の姿が鏡に写り込むそれぞれのシーンからは、質問・相談するという「相手に投げ掛ける」行為でありながらも、各々の悩みが故に、意識の中心が自分自身に向いていることを匂わせてくれる。
あと、市川の自宅がきれい過ぎるのも、本人の無機質感というか、人としての温度の無さみたいなものを象徴しているようにも感じられ、それもまた面白い部分だと思います。
そしてそんな人物をゴローちゃんが演じているというのもピッタリだと思う。
感情が表面化する人もいれば、しない人もいる。でもだからといって何も感じていないわけじゃない。繰り返しになってしまいますが、合理さだけでは引き出せないものがあることを改めて気付かされた、贅沢な映画でした。
個人的には、最期の最後にアイツが出てくるのも、そしてその後を描かないのも、共にステキな締め括りだったと思いました。