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silent


9月15日(日)



私は、日記やエッセイを書く前に必ずおやつを用意して、一口食べて気合いを入れる。というのが描き始めのルーティンなのだけど。それがお煎餅の日もあれば、梨やブドウの日もあるし、焼き芋の日もあればコーヒーの日もあれば、日本酒の日もある。ちなみに今日はモンブランだよ(PM9:30)。太るとか痩せるとかは全く考えない。それで隣にはいつも旦那さんがいて、大抵は旦那さんも一緒に食べている。つまりはいつも半分こなんだけど、そんな時に彼は決まって「はじめの一口」を私にくれる。傲慢な私にはありえないような優しさをもっている。彼はこの上ない「気遣いの人」だ。ちょっと変わっているほど妻思いの愛情深い人間なのだろう。それはたとえば戦争が始まって、食べ物や飲み物に飢えたりして、いよいよ生死を彷徨うその時にも彼は「はじめの一口」を私に譲ってくれるだろう。そう思ってしまうくらいに、私はいつも大事にしてもらっている自覚がある。




今日は夕方、お義兄さんとその奥さん、生まれたばかりの赤ちゃんがおうちに来た。赤ちゃんを抱っこさせてもらったのは久しぶりで、小さな手足はあったかくてムチムチとしていた。その子は男の子でなんだか妙に大人っぽい顔つき。だからまだ「何も知らない」というのがどこか不思議だった。「言葉」を一つも知らない相手に向かって私はたくさん話しかけた。まだ笑うことも知らない赤ん坊はこちらを真剣に見ていたが彼が見ているのはきっと「言葉」ではなく、私だったんだろうな。赤ん坊やこどもは動物に近い。
言葉よりももっと深いところで人のことを見ている。だから私は彼らのことを尊敬しているし、好きなんだ。彼らは嘘をつかないからね。


そうしてふと思うのは、言葉がなかったら人間はもっと優しかったんじゃないかなっていうこと。人間が言葉を失ったら?
本当に見えてくるものはなんだろうね。見せかけじゃない世界は、どんなにラクなんだろうな

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