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わたしの走馬灯・其の壱

首都圏で一人で暮らすようになって7年が経った。そのうち4年は大学生として、そして2年は休職期間だから、社会人としてしっかり働いていた期間は1年しかないというポンコツぶりだが、今日もこうして死なないでいる。時に親の脛を齧り、時に会社の福利厚生に甘え、時に知人に愚痴をこぼし、時に向精神薬に頼りながら、鬱病という大きすぎるハンデを背負ってこの都会で息をしている。さっきもデパスを11錠キメた。何故こうまでして生きていかねばならないのだろう。わたしはどこで道を間違えたのだろう。後悔は幼少期まで遡る。

わたしは秋田県の過疎地域で生まれ育った。きょうだいはいない。両親と、中学生の時から飼った猫と暮らしていた。幼い頃はハムスターやザリガニなんかも飼っていた。ザリガニは2匹を同じ水槽で飼っていたが、片方がもう片方の腕を共食いしていた時はとにかく衝撃的だった。両親は一人娘ということもあって、とにかくわたしにいろいろなことをさせてくれた。ピアノを習ってみたり、当時の友人の誘いで書道を習ってみたり、子供向け英会話スクールに通っていたり、どれも中途半端かつ文化系に偏ってはいるがいろいろな経験を積んだと思う。

秋田は過疎地域といったが、中学の頃までは4クラスくらいはあった。しかし高校の時はクラスが2つしかなくて、わたしは3年連続で担任が同じ人だった。アラフォーのおじさん(数学担当)だったがとてもいい人で、わたしがいじめられていると相談した時は親身に応じてくれたし、わたしの進路についても真面目に考えてくれた。わたしをいじめていた中学時代の元彼はとにかく世間体に敏感で、内申で警察を目指していたということもあり、担任はそれを利用して「次に同じようなことをしたら停学にする」と内申に響くような忠告をしていじめをやめさせてくれた。いじめられていたが友達もいた。絶縁した人もたくさんいた。何を持ちかけようと絶対に口をきいてくれなくて、無視ばかりで取りつく島もなかった。何か悪いことをしてしまったと思って謝る機会を作ろうとしたが無視を貫くためについぞ与えられなかった。そもそも当時のわたしには、彼女をそこまで怒らせたり苦しめたりするような心当たりが殆どなかったのである。タコピーが「おはなしがハッピーをうむんだっピ」と言っていたが、おはなしの機会すら与えてもらえない場合はどうすればいいんだろう?とにかく無視はずっと続いて、でも何か危害を加えられるわけではなくずっと無視だった。裏掲示板的な所で誹謗中傷されていたという話もちらっと聞いたような気がするが、まあとにかく無視ばかりされていた。わたしを頑なに無視していた元友達は過換気症候群と言われていて、常にリスカの痕を隠すためのリストバンドをしていた。そういう人って不登校だったり保健室登校のイメージが強いと思うが、彼女は皆勤賞レベルで登校してきた。中学時代は綺麗に短かった黒髪は手入れもあまりされないままにどんどん伸びていって、常にマスク着用&ウイルスブロッカーを首から提げるというこのコロナ禍のご時世を先取りするようなスタイルを貫き通していた。声をかけられない限り1人行動で、休み時間はいつも机に突っ伏していた。それは薬の副作用で起こる眠気と戦っているというより、単に「自分に構うな」というオーラを放っていたように思う。だって授業中はしっかり起きていたから。自分も向精神薬を飲む身になって実感するが、副作用の眠気はそこまで耐え難いものではないのだ。卒業してから7年も経つが、わたしは彼女のことを、彼女の姿を、あの生き方をずっと忘れないだろう。わたしはまた仲良くなるまではいかなくていいからせめて無視をやめてほしくて、そんな彼女のことがなんとかならないかカウンセラーに相談したら「あの人は病気だから大目に見てあげて」と言われた時、頭に雷が落ちたような衝撃を受けた。そして同時にこうも思った。

メンタルの病気という免罪符があれば、他者を無視してあからさまに嫌って傷つけることも何もかも許されるのか。

わたしは絶望した。その間も無視は続いた。

時が経って、わたしはその女と距離を置きたいがために地元を離れて首都圏の大学を志した。理系が壊滅的だったために私文である。特待生で入りたかったが、点が足りず一般合格ではあるものの入学を果たし、彼女は地元の専門学校を受け、卒業を機に完全に袂を分かった。噂によれば地元の美大を志望していたが落ちたらしい。それを知った瞬間が高校時代で一番楽しい思い出かもしれない。

彼女は絵がとても上手かった。中学時代の展覧会で賞を取るほどの腕前で、14歳のわたしも息を呑むほどだった。賞を取るのも当然の出来栄えで、でも彼女はそれをいちいち鼻にかけるようなことはせず、当たり前でしょ?というような顔をしてサラッと過ごしていたような記憶がある。やがて高校に進学し、彼女が精神を病むにつれて、同じ展覧会で美しいパステル画を描いていた彼女は作風をガラリと変えていった。偏見を承知で言えば、「病んでいる自分の苦しみを見てほしい」という自己表現の一種として絵を使うようになっていったように感じた。忘れもしない。パステルは使わなくなった。コラージュとボールペンを中心に淡々と描かれたもの。被害妄想なのか実際に向けられた言葉なのかは分からないが、数々の罵詈雑言や厭世観を文書にしたためて印刷し、コラージュとしてびっしりと貼り付けた背景。中心には泣いている少女の全身イラスト。血が酸化したような黒ずんだ赤いものが鏤められた箇所がいくつかあった。コラージュの白黒と、一部赤で構成された色調。そして肝心のタイトルは『薄っぺらな世界』。我ながらよくここまで覚えているものだと感心する。でも覚えていざるを得ないくらい鮮烈な印象があったのだ。ちなみにその絵は賞を取るどころか入選すらしなかったらしい。ああいうお偉方は10代の未来ある若者の希望やらフレッシュさやらを求めているのだから、そういうニーズと合致しなかったのかもしれない。

わたしが髪を染めないのは、ロングヘアをやめないのは、あの頃の彼女の幻を今も追い求めているからだろう。何年経とうが、彼女は夢に何度も出てくる。あの17歳の姿の彼女が。机に突っ伏してただ休み時間をやり過ごすのを待つだけの彼女の姿が。リスカ隠しのためのナイキのリストバンド。社員証のようなウイルスブロッカー。派手な紫のカーディガン。昼食が終わると薬を飲みに洗面台に駆け込む後ろ姿。5歳下の妹を溺愛する姿。飼っていたコーギーは元気だろうか。修学旅行の日、旅館のホールで過呼吸発作を起こして、係員の女性に背をさすられながら、周りの生徒から半ば見世物のようになっていたあの丸めた背中。茶色の紙袋。3年前、彼女が志した専門学校のホームページを開いてみると、彼女の進学したとされるコースは綺麗さっぱり消え去っていて、介護やら看護やら、あの人には全く関係のないコースばかりが並んでいた。

さすが田舎だ、と思った。

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