わたしの走馬灯・其の弍
わたしがデパスを一気飲みするのは、トリップとかヤクキメとかそういうアングラなメンヘラ思考ではなくて、単にそうしないと眠れないからである。一応書いておくがブロンやコンタックなどの咳止め薬のODに手を出したことは一度もない。日内変動というものは本当に恐ろしくて、朝は目の前にあるもの全てがわたしに悪意を持っているように見える。敵に見える。そして時が経ち昼になると、それが全て治まってくる。他の精神疾患にも当てはまるものだが、健常者には絶対に見えない世界が見えてくる。鬱というのはそういうものだ。健常者に刃物のような正論で刺された心の傷が癒えない。なんなら刃物ごと刺さりっぱなしで何年も過ごしているのかもしれない。どれだけ薬を飲もうがいつも3時間睡眠で、体もそれに慣れてしまった。8時間睡眠が提唱されているこの世の中では、それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、とにかくわたしが継続して眠れる時間は3時間が限度だ。休職という制度に甘えたまま2年が経過した。早起きして満員電車に押し込まれ、そのまま夕方まで働くなんてライフスタイルは、今のわたしには到底想像がつかない。できそうにない。それが2年前までは多少我慢しながらもできていたのだから恐ろしい話だ。
高校を卒業したわたしは、横浜の大学に進学した。都内と言わず首都圏とぼかしたのはこれが理由で、都内へのアクセスこそよかったが所在地がいかんせん横浜市だからだ。専攻したのは心理学。前記事で書いた「精神疾患という免罪符を翳せば、他者へのあらゆる悪意が許されるのか」を証明したかったのである。夕日に照らされる多摩川を、東横線の窓越しに見るのが好きだった。みなとみらいの夜景が好きだった。永遠に工事が終わらない横浜駅を、いつになったら終わるんだと茶化すのが好きだった。去年横浜駅にふらりと立ち寄った時、横浜駅の内部が随分と様変わりしていたことに驚いた。延々と続く工事は伊達ではなかった。子供向けの体験型施設。煉瓦の壁に羽根の絵が描かれたフォトスポットや、当時流行っていたタピオカの店、横浜の銘菓の製造過程が見られる工場。そんなものがわんさか増えていたけれど、それよりもわたしはみなとみらいの、横浜の海風と潮の香りが好きだ。横浜市は広い。友人に横浜出身の人がたくさんできたが、同じ横浜市でも田舎のような場所がわんさかあるらしい。わたしは幸か不幸か、横浜のキラキラした場所しか知らないまま大人になった。
成人式は振袖こそ着たし家族と前撮りもしたが、前述の無視してくる同級生に会うのが怖くてまともに参加できなかった。そんな彼女は成人式も同窓会も来なかったらしいが、概ね予想通りである。わたしも同じだ。彼女を抜きにしても、誰かをいじめていた奴ほど声が大きくてリーダーシップを取りたがる。秋田県の、中高の同級生なんて大嫌いだ。それに比べると、大学で知り合った知人は誰も成熟していて接しやすかった。他人を蹴落としてまで自分の利益を得ることしか考えていない幼稚な秋田の中高生とは大違いだと思った。そしてわたしも、そんな幼稚な秋田の中高生上がりのひとりだった。初めて人に人生相談なるものができた。友人と呼べる人間に真剣に悩みを打ち明けたところで、「は?」の一言で返される生活は終わったのだ。それが嬉しかった。秋田を出て本当によかったと思えた。初めてわたしを否定されず、無視などされず、固有の存在として認めてもらえたような気がした。
先程の海の話に戻るが、日本海側の秋田県は海が汚い。本当に汚い。中国か韓国か分からないが、とにかく海外からのゴミが砂浜の至る所に漂流している。あとは晴れていることが極端に少ないのも海の汚さを加速させている。それと比べると、空気こそ乾いているが、太平洋側の海は本当に綺麗だ。ちゃんと海が青い。空も青い。絵に描いたような海。海猫の鳴き声。どこかの汽笛。心が洗われるようで泣きそうになった。あと、イラストでよく見る通り、首都圏では入学式のシーズンに本当に桜が咲くのだと感心した。極寒の秋田県では入学式の時期の桜は固い蕾のままで、はっきりと花ひらくのはゴールデンウィークに差し掛かってからだ。わたしが大学に入った時も、新卒で入社した時も桜が満開だった。今年、東京で8回目の桜を見た。横浜にいた時は大岡川の花見に、東京に越してからは浅草寺の花見に行くようになった。コロナのせいで自粛していた屋台も去年あたりから少しずつではあるが再開していて嬉しい。
春。今年も春が来た。
大学時代は本当に何も考えなくて良い時期だった。年に数回あるテストとレポート、そして4年次からやっと重い腰を上げた卒論と就活以外はほとんどキャンパスライフをエンジョイしていた。大学に程近いアパートに住んでいたおかげで大学には徒歩で行けたし、講義が始まるギリギリまで寝ていられた。とても自堕落だった。文句があるなら部屋がユニットバスだったことくらいだが、それも湯船に浸かる習慣が減ってからはなくなった。純喫茶から始まり、やがてメイド喫茶という文化に出会いどハマりした。クラシック系も萌え系も網羅して、秋葉原か池袋に足を運んだ。大学は横浜だったが、授業がない時は専ら都内に入り浸っていた。
人間関係についていえば、楽しいことばかりではなかった。大学というのは、誰しもが恋に浮かれる歳の頃である。同じサークルの誰と誰が付き合ったとか別れたとか、何歳上の彼氏がいるとか、デートでこういうことを言われたとか、そういう話題で持ちきりになる空気に吐き気がした。サークルの部長が同期と付き合いはじめ、イチャイチャを始めて活動が滞った時は本気で心身を病んだ。ストレスで一気に体重が7㎏くらい落ちたが、正直に言うと今の方が痩せている。対等に笑い合えるはずの友人が、彼氏ができた途端メスの顔に変わるのが怖くて、わたしはとにかく人付き合いから逃げた。逃げるようにサークルを辞め、単独行動にのめり込んだ。友人がいないわけではないし、その中で彼氏がいる人もいたが、目の前でイチャつくのを見たくないばかりにその彼氏は学校が違うとか社会人とかそういう人とばかり交流していたし、最終的には恋愛にまるで興味がないような人とつるんでいた。今まではずっと趣味の話をして和気藹々とできていたのに、いざ彼氏ができた途端、その彼氏が同じ場におらずとも、話す話題が全て彼氏一色に染まるのを見るが怖かったのだ。人が人でない醜いものに成れ果てるのを見ているような悍ましさすら覚えた。それを考えると、彼氏がいても恋バナの制御が効く女性は成熟していると感じる。そういう人とわたしは一緒に過ごしていたかった。
わたしの大学生活は、自由であり孤独だった。
そんなわたしだが、全く恋をしていなかったわけではない。好きな人がいた。一緒にいると楽しかった。わたしよりずっと年上だったから、いつも甘やかされていた。そのせいで精神年齢は上がらないままだった。とても優しかった。わたしはその優しさに甘えていた。いろいろな場所に行った。さまざまなことをした。彼はいつも穏やかに笑っていて、わたしも嬉しくて、ずっとこのままでいたいと思った。やがて彼が転職することになり、わたしの就職も近づき、会えるスケジュールが合わなくなったことを機に円満に破局した。「幸せになって」と別れ際でさえも言ってくれたことをわたしは忘れない。後述するモラハラを受けた後だから尚更である。いつまでも、いつまでも優しかった。今の二次元ガチ恋相手は、あの人の無遠慮なほどの優しさと甘さにちょっと似ているのだ。わたしはそんな彼のことをあまり友人に話さなかった。恋バナが嫌いなのもあるが、口に出した途端前述の通り自分があの友人のような汚いメスになるような気がして、話したくなかったのである。そういう意味でも、わたしは自由であり孤独であった。
そんなわたしの日常は、就職と鬱の発症を機に一変した。