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🔶私の好きな奈良:聖徳太子の斑鳩宮 三井の地に法輪寺 世界遺産の法起寺三重塔

タイトルの写真は、奈良県斑鳩町の法起寺です。
三重の塔は現存最古の三重の塔として、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」のなかでは唯一、法隆寺外から登録されています。

法隆寺については47の建造物が登録されており、あまりにも膨大な数の構成資産があるため別の機会に譲るとして、今回は飛鳥の地を離れて斑鳩宮を築いた厩戸王(聖徳太子:574-622年)のこと、当時の時代背景など大まかな流れを整理し、斑鳩三塔に数えられる法輪寺、法起寺に触れてみます。


斑鳩宮建設は推古天皇の時代

日本書紀によると、推古天皇の時代である601年に「皇太子、初めて宮室を斑鳩に興す」との記載があり、当時28歳の太子が斑鳩宮の建設を開始したと考えられます。移住したのは605年です。

斑鳩の地には、他にも岡本宮、中宮、飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)が建設され、蘇我馬子の娘で聖徳太子の妃であった刀自古郎女(とじこのいらつめ)、母である穴穂部間人女王(あなほべのはしひとのひめみこ)、正妻の菟道貝蛸皇女(うじかいたこのひめみこ)、妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)や膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)ら、太子の一族が住まうことになります。

斑鳩宮建設の時期は飛鳥の地に政治の中心があり、物部守屋を倒した蘇我馬子が、用明天皇(太子の父)崩御後に即位した崇峻天皇を殺害し、皇位を継いだ推古天皇と共に政治の実権を握っていました。

崇仏派の父(用明)をもつ太子は、生まれながらの仏教徒でした。仏教を自身の勢力拡大の手段のひとつと考えていた馬子にとって、蘇我氏の血を引き継ぎ、20歳以上若い優秀な太子は、非常に利用価値の高い人物としても期待が大きかったことと思います。

ではなぜ太子は、天皇の宮があり政治の中心である飛鳥ではなく、斑鳩に新しい宮を造って移り住んだのでしょうか。

外交に手腕を発揮する聖徳太子と、権力者蘇我馬子

斑鳩の地というのは、河内と大和を結ぶ立田道にあります。かつ、陸路とならび水運の要になる点で、奈良盆地の河川はこのあたりで合流して大和川として難波に流れ込みます。
少し前、欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)に仏教が伝えられたのもこのルートで、難波津から大和川~初瀬川を遡行しています。

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奈良のいろいろなところを訪れた記録です。あまり馴染みのない人が読んでも魅力が伝わる様、わかりやすく紹介できればと思います。

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