ひとはなぜ走るのか【2024年11月】
11/1(金) ランニングはスポーツか?
「武道はスポーツですか」という興味深い特集記事が、おととい(10/30)の朝日新聞に載っていた。剣道・柔道・合気道などは、確かに「勝敗を決する」という意味ではスポーツであるといえるが、本来、武道はそれには収まらないと論者が説く。
そのひとり内田樹さんは「武道の目的とは『天下無敵』という無限消失点をめざす行いです。他人と競うものでもないし、誰かに査定されるものでもない」と言う。終わりのない境地まで生涯をかけてただ修行するー、そういうことのようである。
ランニングはどうであろうか。実はそこに含まれるのは多様な概念である。「駅伝」「マラソン」「陸上競技」といえば、スポーツであろう。一方「ランニング」といえば、スポーツにおけるトレーニングの一環でもあれば、趣味やレクリエーションでもあり、ラジオ体操などと類型化できる「運動」でもあり、走ること一般を含んでいるようである。この場合、勝敗を決するスポーツ以上の何かであろう。
ここで、あらためて「ひとはなぜ走るのか」という表題について記しておきたい。これほど大仰にして、不遜に聞こえる問題設定もない。なぜなら、すべてのひとが日常的にランニングに取り組んでいるわけでもなければ、取り組みたいと希望していても、条件や事情がそろわず叶わない人もいるのだから。傲慢な決めつけととらえられても仕方がない。
しかし、じぶんは、「走る」という行為を、スポーツでもなければ、運動でもなく、いわば「武道」と何かを共有するような心身の領域から考えてみたいのだ。生存するうえでは、必ずしも必要ではないのだが、無為に捨て去ることもできない行為のひとつとして。
たとえば、次のような問いと並べて考えられないであろうか。
「ひとはなぜ歌うのか」
「ひとはなぜ踊るのか」
「ひとはなぜ遊ぶのか」
「ひとはなぜうそをつくのか」などなど。
類としてのヒトの本質にもつながる要素が、これらの問いには含まれているような気がする。「走ること」も、同様に位置づけられないだろうか。
不思議なことに、「走ること」(※ランニング以上の要素を加味するとこう呼ぶしかない)には、武道のように「無限消失点」をめざす目的もある。
もちろん、スポーツ本来の「勝敗を決する」という切羽詰まった状況に身を置くことでより高みを憧憬できる。そうした二律が成り立つのも「武道」によく似ているとはいえまいか。
「走ること」もまた、単なるスポーツではないのだ。
<きょうのRUN>
・3.57km アップ(キロ6分14秒)
・7.50km Mペース走(キロ4分14秒)
・3.00km 閾値走(キロ3分55秒)
・150m WS×3本
・4.57km ダウン走
⇒合計19.09km
11/2(土) 早期退職後のルーティーンをふりかえる
早期退職して、一年と二ヶ月。ほぼ毎日のルーティーンが定着してきた。
ふりかえっておく。
AM05:20 起床。ストレッチ(しながら、新聞にざっと目を通す)
AM06:00 朝食
AM07:00 資料読みか、文筆(小説を年間で2本執筆)
AM09:00 事務作業(か、資料読み等を継続)
AM11:30 昼食
PM00:30 午睡
PM01:00 買い物などし、アップ開始
PM02:00 トレーニング(筋トレ)
PM02:30 ランニング
PM04:30 資料読みか、文筆
PM06:00 入浴
PM07:00 夕食
PM09:00 TV(ニュースチェック)
PM09:30 就寝
読むか、書くか、食べるか、走っている。
誰かと会話する時間は減ったが、勤め先の人だけと話すよりも、話し相手との質的な変化が生じ、うれしい。以前ははじめての人と会って話をしても、仕事の肩書きを背負わざるを得ないためどこかで装っていたが、いまは「ただのひと」だ。等身大になった。さっぱりした。
「社会」との接点も失ったわけだが「ただのひと」になったおかげで、より「社会」を意識するようになった。勤め先だけが「社会」ではない。「社会」を構成するいろいろなメンバーにも目が届くようになった気がする。世の中のニュースをむしろしっかり受け止めるようになったのは、皮肉だ。
一方で、事務作業というものが次から次へとやってくるのが億劫だが、これまで手を付けられなかった「大物」(実家のこと、老いた両親、自らの身辺整理など)にも着手できつつあり(まだまだ後回しになりがちだが)、決して悪いことではない。
そして、ランニングは、やはり一日の肝である。
これが無いと「生きている実感」を消失するだろう。
いつまでも走れるように、今から準備しなければなるまい。
<きょうのRUN>
休養。
11/3(日) 走りながらユニコーン「HELLO」を考える
走りながら聴く音楽ー。ということでいえば、ユニコーンの「HELLO」も忘れられない。2009年の再結成時の曲である。阿部義晴がつくり奥田民生が歌うという、往年のファンにはたまらないものだが、中高年を忘我に誘う名曲だと思う。
テーマは、タイムマシンである。
曲の始まりは「到着5分02秒前」という歌詞で始まり、ぴったり5分02秒後に完奏する。その進行は、まさに時間をさかのぼるタイムマシンが、ぼろぼろになりながら使命を果たすかのような、力強くぶれないグルーブ感が印象的。「きみが元気だったあの頃に言いたくて」タイムマシンは過去へと向かう。この「きみ」は、特定の誰かを指しているのかもしれないが、聞き手はそれを自由に解釈してもよいだろう。
そこで、若かったころの「自分自身」のことを、「きみ」ととらえてみる。中高年になった主人公が、なんらかの思いを抱え、かつての自分に会いに行く。果たせなかった何かなのか、打ちひしがれた自分自身を励ますためなのか、なんらかの後悔なのか・・・(「こうかい」といえば、この曲には「航海 これ飛航海」という歌詞があるが、じぶんには「後悔 これ非公開」と聞こえてならない。「後悔しているがそれは非公開で、自分だけのナイショだよ」と言っているように聞こえてしまう)。
走りながらこの「HELLO」を聴くと、じぶんがタイムマシンと化して、過去のじぶんと同化してゆくような錯覚を覚える。
50年来いっしょにやってきた心臓も、手足も、走りさえすれば、いつでも10代に戻れる。ランニングこそが、タイムマシンなのだ。
曲の終盤にリフレインされる歌詞は、もはや細胞ひとつひとつの「声」である。
「流れゆく 光たち 消えてゆく 命たち
舞い上がる 燃え上がる 時を越え 突き進む」
走りながら目に入る樹々や空や曇。
あるいは目には見えないがあちこちに生きているであろう鳥や虫たち。
そういうものとも同化してゆく。
ああ、生きて、死んでゆくんだなあ、と、思うのだ。
<きょうのRUN>
・19.37km 故郷でジョグ。
キロ5分52秒だが、19kmのうち、7kmで400mも登るので、心肺にはそこそこ負荷をかけた。
11/4(月・祝) 無題
<きょうのRUN>
・3.93km ジョグ(キロ5分53秒)
終日、山で木々の伐採をして普段つかわない筋肉を使ったため、ちょっとほぐそうと思い、ジョグをする。
11/5(火) おお南アルプスよ!~走って地図を直せ ~
走りながら、地図を想う。
地図には「実際の地図」以外に、個人個人が頭の中でこしらえた不可思議な「地図」もあると思う。
「地図」と呼べば物質的に聞こえてしまうが、無意識にこしらえている空間認識のことである。頭の中で造り上げた「概念上の地図」と呼ぼう。「概念上の地図」は、「実際の地図」と矛盾はないものの、おのれの価値観によって、ある特定の方向性やズレが生じているのが、その特徴と言えよう。
例えば、都心から見て、長野県の上高地まではずいぶん遠いような気がするが、それは山だからなのであって、東海地方を西に向かった場合の静岡市や、太平洋側を北上した場合の水戸市までの直線距離と、それほど差はない。「山」というのは、遠いところにあるもの、或いはそうあって欲しいという願望が隠されている。
また、国交が乏しい北朝鮮は、韓国と隣り合っていることは知っていても、感覚的には、旧満州と呼ぶべきか大陸との連続性のほうを強く感じてしまう。こころの距離が、無意識のうちに空間を歪めていることもありはしないだろうか。
故郷に関する感覚も、多分に「概念上の地図」によってズレて認識していたことに、走ることによって気付くことが出来る。
走ると、じぶんの足元からコツコツと距離を伸ばしてゆくので、おかげで境界線を意識することなく、すべてを地続きで認識できる。「概念上の地図」の歪みに気付かされるのだ。
どんな歪みに気付くのか?
第一に、これまで「10代までの生活圏」に縛られていたことである。どうしても小学校や中学校といった学区が、生活の基準である。すると、学区外は「異世界」となる。少しだけコワイ。知らないやつらが跋扈していそうで、その「縄張り」にはおいそれと入ってはいけない感覚があった。でもそんなの、錯覚なのだ。実際には、学区などとは無関係に水も空気も流れ、オトナたちの世界が昔から引き継がれてきたことに、新鮮な発見がある。
第二に、暗黙裡に貫く「価値観の一本道」である。すなわち、より消費文化に接近しやすい「都会」を上位に見て、頭の中でルートが出来上がっていた。辺鄙な自宅周辺より、本屋やスーパーがある隣の街、さらに大規模な商店街がある中規模都市、そして、もっと大きな県庁所在地。そのもっと先には「東京」があり、きっとテレビが創り出す幻想の世界と混在して、ゴールとなっている。その一本道のことだ。
それにより、目に見える景色のひとつひとつが差別化される。
そして、そこからこぼれおちる「辺鄙」は、隅のほうへ追いやられる。直視しようとはしない。知らず知らずのうちに劣等感を生み出してしまう。
しかし、故郷を走ることで、こうした「概念上の地図」が少しずつほどけてゆく。
とりわけ、二点目を矯正できることは、喜びである。10代の頃は見落としていた「背後の山々」のほうが魅力的であることに気づけたのだから。
しばしば「ふるさと再発見」といったキャッチフレーズを目にするし、うんざりもしていたのは隠せないが、その意味するところは本当である。しかも深いと思う。
故郷を走ることは、「ふるさと再発見」の近道にして、確実な方法なのだと思う。
<きょうのRUN>
・25.9km ジョグ(キロ5分42秒)
そのうち10kmぐらいで700mは登る。これが故郷だ。
10代の頃には走ろうとしないのもうなづける。
11/6(水) 公憤と濡れ衣
「ここはびし!っと言ってやらねば!」と、彼女は思ったのに違いないのだ。新幹線のなかでのことである。「いま、あなた、ペットボトルを捨てたでしょ!」と、いきなり怒られたのである。もちろん捨ててはいない。
髪を肩ぐらいで切りそろえた30歳前後の女性である。ゴールデンウィークの混雑した車内には通路まで乗客が立っていた。そのひとりの女性が、降車しようとしたじぶんに向かって、そう怒鳴りかけた。周囲の乗客が一斉にこちらを見る。えっ、何のこと?「捨てていませんけど」。
実際は、混雑していた車内で、買ったばかりのペットボトルのお茶を誰かが床に落としてしまったようで、通りがけにジャマだと判断したじぶんは、あとで落とした人が拾うであろうと、すみのほうに立てかけたのである。それを「捨てた」と、彼女は勘違いしたのだ。
とっさにその全てを理解し、そう説明したかったが、混雑しているうえに、じぶんはこの駅で降りなければならない。流されるように新幹線から押し出された。後ろのほうで、再び「捨てたでしょ!」と言い募る女性の声がした。
ちがう!と胸の中で叫ぶ。が、その不満はおのれのカラダに充満するばかりで行き先がない。その後、しばらくはどこをどう歩いていたのか分からないほど、屈辱感に打ちひしがれた。
やがてそのエピソードをひとに話すことによって、少しずつ笑って済ませられるようになった。
びしっと言ってやらねば、と、思った女性は、大したものである。自らよりずっと年上の、どちらかといえば頑強そうなじぶんに向かって、なかなか言えないはずである。その公憤は、貴重かもしれない。
そして、じぶんはさっさと降りてしまうのでその後の車内のことは分からないのだが、彼女のほうこそ、残された車内で、気まずい思いをしている可能性もある。ペットボトルを落とした本人が名乗り出たりしたら、いたたまれないであろう。そうでなくても、混雑していたためにイライラしていたかもしれず、彼女は彼女で公憤の行き場が見当たらず、乗客の視線を感じたまま立ち尽くしたであろう。
そして、じぶんがこうして、そのときのすれ違いを反芻しているように、彼女もまた振り返ってみたこともありはしないだろうか。「わたしの勘違いだったのだろうか」と。それとも「まったく許せない! マナーのないひとの、なんて多いことだろう」と、いつまでもくすぶり続けていたのだろうか。
彼女の公憤のせいで被った濡れ衣ではあるが、今となっては、貴重とも思う。見ず知らずのひとと、正常に感情を交錯させる機会はめったに無いのだから。いろいろな人生を背負った人たちが一瞬だけすれ違い、そして、また別々のほうへ歩いてゆく。たぶん出会うことはない。万が一、出会ったとしても、そのときの「接点」のことは、かつての新幹線のなかに閉じ込められたまま。
なんとも切ない。そんな気もする。
ランニングとは全く関係ない(が、さて、そうだろうか?)
<きょうのRUN>
完全休養。
11/7(木) 故障の芽を摘む。
ことしの2月に、ハーフマラソンで自己ベストを出すことができた。
1時間23分54秒(ネットタイム)。
現在そこまで調子は上げていないものの、今のまま順調にゆけば、そのレベルには到達できると思っている。
フルマラソンは、残念ながら故障してしまい、終盤に歩いてしまうレースが続き、涙を飲んだ(3時間9分くらいで、ベストには届かなかった)。
故障が続くと、「ああ、こうして年齢に負けて、走れなくなるのかもなあ」と弱気になりがち。
そんなときに必要なのが、故障してしまう原因をきちんと見つめて、対処すること。
じぶんの場合、右足の足底腱膜炎から始まり、右膝の鵞足炎、腰痛まで、順番に故障を経験した。それぞれが別の原因であるように思っていたが、果たしてそうなのか、と、疑っている。
カラダ全体の使い方ももっと勉強したい。なにか原因が眠っているかもしれない。が、ひとまず、想定できるのは次の3つだ。
①根本的には、走り過ぎに由来する疲労があると認識している。
②それに加えて、フォームも良くない。
右足がアンダープロネーションぎみに着地すること。
③地面を蹴った際に足首がぐらぐらしていることから察するに、
臀部やハムストリングスといった「大きな筋肉」が使えておらず、
ふくらはぎに負担をかけていると思われること。
同じ轍は踏むまい。
まずは、休養の仕方を変える。疲れてから休むのではなく、疲れる前に休む。むしろドリルを丁寧に行う。
そして、アンダープロネーションについては、無理して修正しないように開き直った。その代わり、かかとを固定し、足裏全体で着地するよう心掛ける。よりよい反発のもらい方を習得するべく。
くれぐれも、同じ轍は踏むまい。
<きょうのRUN>
・4.84km アップ(キロ5分27秒)
・5.00km 閾値走(キロ3分57秒)
・2.59km ダウン(キロ6分46秒)
⇒合計12.43km
11/8(金) 本間俊之『40代から最短で速くなるマラソン上達法』から「笑い」を学ぶ。
本間俊之『40代から最短で速くなるマラソン上達法』は、数多くのマラソン本のなかでいちばん好きな本。すでに三回は読んだ。
読むたびに別の角度から楽しめる点が、その理由である。
第一は、もちろん練習法。ここに詳しくは記さないが、初心者がどう中級者を経て上級者になるのか、そのノウハウが勉強になる。
第二に、読み物としてスリリング。ケガを抱えながら屈せずに上達してゆく様は、他人事とは思えない。
そして、今回、新たに発見した点こそが第三のポイントである。
それは、著者がどうしてわずか1年半でサブスリーを達成することができたのか、その当然の理由ともいえるが、本間俊之さんという人の魅力的なキャラクターである。それは、行間から読み解くしかないわけだが、実に多彩な方ではないかと想像する。
まず、負けず嫌いな方であろう。同級生とタイムを競うエピソードが出てくるが、50歳前後にもなると、負けた場合の言い訳を準備したりして、本気で勝負しようとしない人が多い。しかし、本間さんはちがう。
次に、研究熱心。ご本人の仕事がら、R&D(研究開発)が得意なことはよく分かる。マラソンの練習法を、トライ&エラーで身に着けてゆく姿勢に執念を感じる。マラソンに精力を傾ける人には、寡黙な修行僧のように、ストイックに追究する人も多いが、本間さんの場合、決して孤立したスタンスではない。柔軟性を感じる。
さらに、僭越ながら、行動力をお持ちなこと。有意義だと思った練習法があれば、それを説くひとのもとへ実際に足を運び、直接、教えを乞うている。女子60歳以上で世界初のサブスリーランナーである弓削田眞理子さんも、こう語っていた。「何ごとも、『やる』か『やらない』かの違いだけなの」と。コツや情報を得ても、「そんなことは知ってるさ」と斜に構えたままで実行に移さなければ意味がない。しかしながら、実際にはなかなかできないし、いつしか忘れてしまう。だが本間さんは違う。行動する。
そして、今回はじめて刮目したのは、バーンアウトを乗り越える姿。
とりわけ「道化になることも厭わない」姿勢である。「真剣に走るだけがレースの醍醐味じゃない」というパートにおいて、バニーちゃんとして仮装ランナーを楽しむエピソードが出てくる。3回読んで初めて、この逸話に引き付けられた。
従来、じぶんは、仮装ランナーにほとんど興味を持っていなかった。応援してくれる人たちのことは、自分なりに感謝をしているつもりではあったし、仲間がいれば、ともに声を掛け合いながら完走を目指す気持ちも持っているつもりであった。
しかし、おのれの中だけで目的を完結することに汲汲とし、走る悦びをシェアしようという気持ちは欠けていた。
偶然、きのうの朝日新聞の「折々のことば」に、井上ひさしの次のようなコトバが紹介されていた。
「笑いとは、人間が作るしかないものだからです」と。
そして、こういう解説がなされていた。「生きるということには、苦しみや悲しみ、恐怖や不安などがどれもこれも詰まっているが、笑いは入ってこないと作家(井上ひさし)は言う。(略)笑いは人の内にはなく、誰かと分かち合って作るほかない」と。
笑いだけは、人間の情動のうちで特別なものなのか・・・。
試験管の中でひとり追究する成果もある。が、人と人との関係の中で生み出す成果というものもあるのだろう。
ランニングと「笑い」とはー。ついに考えてこなかったテーマである。
<きょうのRUN>
・5.37km アップ(キロ5分40秒)
・10.00km Mペース走(キロ4分12秒)
・100mダッシュ×6本
⇒合計15.97km
11/9(土) 「緊張する」と嘆く息子へ何を語るべきか?
直面する難問に「向き合う」か「逃げる」か、それこそが難問である。「緊張する」という事態もまた、そんな難問のひとつ。
駅伝大会に出る前、「緊張して実力が出せない」と、息子が言う。
さて、どんなアドバイスができるのか? わけ知り顔で「緊張するな!」と言ったところで何の助けにもならないことは、百も承知。
「痛いほど、よく分かってるさ。まあ、強いて言えばだが・・・」
自分自身、折に触れ、考えてきた悩みではあった。考えに考えを重ね、たどり着いたのは、答えにもなっていない答えであった。
「緊張は受け入れるしかないんだよ」。
「えっ!?」 と絶句する、息子。
と言っても、出来たためしはないのだ。
だが、今なら、だんだん対処の道筋だけはうっすら見えてきた。
「手始めにやらなければならないのは『なぜ緊張するのか』その理由を考えることなんだと思う」
持久走レースの場合、まず思いつくのは「必ず訪れる苦しさへの恐怖」であろう。どんなに体調がよくても、あの苦しみからは逃れられない。「地獄」が待ち構えているのを知りながら、そっちへゆく。ゆかなければならない。こわいのは当然である。強いて言えば、訓練に訓練を重ね、タフな心肺を手に入れるしかない。しかし、それでも、完璧な心肺など存在しないのだ。結局、苦しみから逃げる方法はない。
ついでに言えば、「大会」あるいは「レース」という特殊な状況がかもしだす恐怖。そうした催しを祭宴として楽しめるようになるには、「学校」とか「国」とか、自らを縛る枠組みから自由になる必要がある。どこかに「やらされ気分」がある限り、「大会」というのは居心地のいい場所ではない。ましてや中学生にとって、教育の一環として学校が主催する大会というのは、抗うことが難しい。「楽しむ」ほどの強さを求めるのは酷であろう。
それもそのはず、大会には対戦相手がいる。
「対戦相手への恐怖」がある。じぶんより実力のある相手が多ければ多いほど、おのれの弱さが露呈する。それがこわい。たとえ大したプライドではないにしても、それが毀損するのはとてつもなく恐ろしいことであろう。ではどうすればいいのか。対戦相手をすべて事前に消し去ればいいのだろうか。たったひとりの大会ならば、負けることはないのだから。それを「レース」と呼ぶことができるならば、であるが・・・。結局、競い合う場において、対戦相手がゼロというレースは、レースではない。
そして、さらに敷衍することができる。
対戦相手と競い合いながら「結果を出さなければならない」というプレッシャーである。この点は、複雑である。
「結果」というものが、とらえどころがないからである。
そもそも「結果」とは何であろう? さしあたり、大きく2つに整理することができる。ひとつめは、他人や世間が決める「結果」である。「わが国の代表である限り、3位以上は取らなければならない」といった類いのプレッシャーが、それだ。「期待に応えなければならない」のは、怖い。すなわち、負けることへの恐怖である。
もうひとつは、自分自身が設定した「結果」である。「前回は2位だったので、今回は1位になりたい」といったもの。
どちらも、「以前から成長した証し」を見せなければならない。「『前回と同じ』では許されない」といったプレッシャー。と、こうして考えてくると、頭を叩かれたように眼前が暗くなる一瞬がある。おれ自身が、父親が、息子へのプレッシャーになっている可能性がある? 期待してしまう父親の思いが。
「負けて、キズつくこともある。挫折の無いひとなんかいないんだし。長い目で見れば、大したことはないんだし。その方が、何というか、カッコいいということもある」
さて、どれだけコトバを尽くしても、この魔物のような恐怖の束(の正体)を、腹に落とすことは出来ないであろう。むしろコトバを重ねれば重ねるほど、緊張する息子の気持ちとは無縁の戯言になってしまうにちがいない。
そうであれば、言うべきことはそんなにない。
「『緊張する』というのは、真剣に向き合っている証拠だと思うよ。だって、考えてみてよ。ほとんどの人は、駅伝や、そもそも『走る』という状況とはカンケーなく暮らしているわけで、緊張する機会もないわけでしょ? 学校のみんなの悪口を言うつもりじゃないけど、校内のマラソン大会だって『無難にこなそう』と思えばそうできるわけで、緊張なんてしなくて済んでいる人もいるでしょ」
黙っている息子が何を考えているか分からないが、ふいに、何かからずっと逃げ回ってきたじぶんのことが恥ずかしくもあった。
「『緊張する』ってことは、誇っていいと思う」
じぶんのほうがよっぽど勉強させてもらった気がしている。
<きょうのRUN>
・完全休養。
11/10(日) 「The Challenge Race」でMペース走をする。
きょうは、ハーフマラソンの距離を、サブスリーペースで走った。
「The Challenge Race」の「Series 6」に参加したのだ。東京都 板橋区の荒川沿いにあるトラックコースを拠点に(トラックは利用しないが)、川の右岸を往復する。赤羽ハーフマラソンや、板橋 City マラソンでもおなじみのコース。
エントリーする者の目標タイムに合わせ、ペーサーを潤沢に提供してくれるので、じぶんも何度か参加している。
今回は、あくまでフルマラソンを視野に入れ、現段階での仕上がり具合を確かめるのがねらいであった。サブスリーペースでのペース走をハーフマラソンの距離で行ってみる、といったところだ。
さて、1kmごとのペースは以下の通りであった(ペーサーに完全に「おまかせ」ではあったが)。
・1km 4:10 ・2km 4:12 ・3km 4:13 ・4km 4:10 ・5km 4:19
・6km 4:16 ・7km 4:12 ・8km 4:08 ・9km 4:18 ・10km 4:09
・11km 4:13・12km 4:13 ・13km 4:17・14km 4:13 ・15km 4:14
・16km 4:16・17km 4:12 ・18km 4:07・19km 4:15 ・20km 4:11
・21km 4:09
成果はあったと思う。
何と言っても、サブスリーペースを(あらためて)身体で確認できたことに尽きる。が、具体的には以下の点である。
・従来、11月頃には、スタートから3kmくらいは(心肺の面で)やや苦しか
ったが、ことしは全体を通じて苦しくなかった。
・調子に乗ってペースが速くならないよう、抑えるタイミングについても考
えながら走ることができた。
・無理して蹴らずに、腕ふりを安定させるだけで、ペースを維持できる実感
をつかめた。
一方で、欠けているのは、
・脚の持久力。16kmぐらいから動きが重くなった。
・(上記で「ペースを維持できる実感をつかめた」と記したものの)
集団の足取りにフォームが引っ張られることがあり、余計な力を使ってし
まう局面もあったこと。(他人のフォームから影響を受けることで、それ
はそれで勉強になることもあるのだが、ピッチが異なると「蹴ってしま
う」傾向になりがち)
走りながら、常に「今回はハーフだけど、フルのつもりで体調を見極めろよ」と、胸の内で言い聞かせていた。その意味では、まだ足りていないのは明らかであろう。
まだ「脚」が弱いのだ。
すなわち心肺機能ともセットで対策しなければならない。
とにかく、悪い印象を持たずに、終えることができ良かった。
<きょうのRUN>
・6.24km アップ(キロ5分52秒)
・21.1km Mペース走(キロ4分13秒)
・1km ダウン
⇒合計28.34km
11/11(月) 老いた両親のカブトムシが巣立つ日
「起きて、飯食って、寝るだけ」といった暮らしは、つまらない人生の代表格みたいで、遠ざけたいはずが気がつくとそう過ごしてしまうこともあり、楽だけどそれだけに恐ろしく、他人を小馬鹿にするときの形容でありながら、それも出来なくなれば他人様から介護してもらわなければならなくなり、老いた両親を見ていると、まさに「起きて、飯食って、寝るだけ」で、肉親だけにひいき目に見るつもりはないにせよ、案外それが、というより、それこそが生き物の当たり前の姿にも思えている。
何と言ったって、「起きる」と「飯を食う」と「寝る」という、生きぬく上での飛車角クラスの仕事がそろっているわけだから。
老いると気力も体力も衰えるとよく言う。両親は、若いころには盛んに取り組んだ趣味や仕事もしないが、「しない」のではなく、残された気力と体力を「大事な仕事」へと集中して投下しているのだ。だからそれは怠惰ではない。全力でそれを行っているのである。すなわち、生きるー、それこそが目的なのだ。さげすむことなど出来ない。
だから、歳を取ると、生き物が愛おしくなるのかもしれない。
一週間ほど前、じぶんは、生家に隣接した荒れた山林の片づけをした。すると、朽ちた木の根の裏側の腐葉土に、カブトムシの幼虫がいた。そして、数時間の間に、4匹も見つけることができた。
そのまま放っておくと死んでしまうと思ったので、飼うつもりもないのだが、なんとなく空き箱に腐葉土といっしょに入れておいた。「ほらっ、カブトムシの幼虫がいたよ」と両親に見せ、生きるも死ぬもなすがままにするしかないと、翌日にどこかの畑にでも埋めてやるつもりであった。
ところが、当日、その空き箱ごと無くなっているではないか。
「あの空き箱、どこにあるか、知ってる?」と両親に尋ねたところ、
「ああ、カブトムシが寒いといけないと思って、納屋にタオルを敷いてその上に置いといたよ。来年、暖かくなった頃が楽しみだねえ」と、目を伏せる。飼うつもりなのである。
「起きて、飯食って、寝るだけ」でも崇高なことだと、そんな表現はしないが、思っているのかもしれない。そして、その行為を同じく務める生き物が「他人事」ではないのかもしれない。カブトムシの巣立ちに、じぶんたちを重ねていると見るのは、ちょっと大袈裟か。
じぶんにも、そんな老後が来るのだろう。
そのとき「走ること」はどんな位置づけになるのだろう。
「起きて、飯食って、寝るだけ」という流れの中心で、それを太く動かす柱として走り続けることが出来たらいいと思う。
<きょうのRUN>
・完全休養。
きのうハーフマラソンを走った翌日の「きょう」であるからこそ、慎重になり、完全休養とした。疲れていないのでジョグくらいは十分走れるのだが。あす以降、ぴしっと走れるカラダにしておくほうが結果的には実り多いと信じる。
11/12(火) ロードレースとトレイルランニングは、どこが同じで、どこが違うのか。
欲張っていろいろなことに手を出すより、やりたいことをしぼって集中したほうが、不器用なじぶんには向いているのだと思う。ロードレースか、トレイルランニングか、どちらかにしぼったほうが賢明なのだ。
しかし、じぶんは、両方ともやりたい。
一年のうち、10月から翌年の3月半ばまでがロードレースの期間で、そのあとの4月から9月までをトレイルランニングの期間と決めている。
本来、結果を出したいなら、しぼるべきだろう。
求められる走り方が異なるので、おのずとトレーニング方法にも違いがある。ロードレースではスピードが問われるが、トレイルランニングでは、激しい登り下りに耐えられる全身の持久力が必要だ(トップ選手になればなるほど、相応のスピードも求められるわけだが)。
具体的には、心拍数に対するアプローチが違う。ロードレースでは、より高い心拍数を維持できる能力が問われる。一方で、トレイルランニングでは、選手ごとに異なる心拍数のレベルにおいて、それぞれの許容範囲内で低く抑えつつ、長時間活動する能力が必要だ。ロングレースになればなるほど「つぶれる」選手が出てくるわけだが、自らを制御できる選手と、制御できない選手とで勝敗を分けることが多い。言い換えると「敵」は他の選手ではなく、コースや地形なのだ(「敵」と決めつけるのも正しくない気がしているが。「味方」のようなときもあるので)。
もう一点。大きな相違点がある。脚力のうち、どの筋力が求められるのか、という点だ。ロードレースでは、ハムストリングスやふくらはぎなど、カラダの後ろ側の筋肉が重要だが、トレイルランニングではそれに加えて、大腿四頭筋を鍛える必要がある。平地を走るのと、急坂を登り降りするレースとの違いである。
(余談だが、ことしの「UTMB」の「MCC」というカテゴリーに、大迫傑さんが出場したが、下りで本当に苦しんだようだ。じぶんは別のカテゴリーの「TDS」に出場したので、宿泊所の近くで何度か大迫さんを見かけた。スピードを出すのに徹した身体が印象的ではあったが、トレイルランナー独特の「ぶ厚さ」とはタイプが異なっていた)。
とはいえ、土台では共通する部分もどっしりと存在する。
それが、じぶんには、魅力なのだ。
「競い合う」というコトバではくくれない下部構造が、そこにある。
「それは何か?」とずっと問うているのだが。
<きょうのRUN>
・10.83km jogg(キロ5分28秒)
・9.00km Mペース走(キロ4分10秒)
・120mダッシュ×2本
⇒合計20.07km
11/13(水) ベテラントレイルランナーはどこへ向かうのか?
きのうに続き、ロードレースとトレイルランニングの異同について考えている。
とりわけ、両者に共通した土台の部分、すなわち「走ること」そのものについてである。ただし、技術や運動生理学上に見られる、優れたランナーに必要な共通性ではない。「ロードもトレイルもやってみたい」と思わせる根本的な魅力について、その源泉を考えている。
トレイルランニングの専門誌『RUN+TRAIL』VOL.69に、少しだけヒントになりそうな記事を見つけた。と言っても、ずばりと答えを射抜いているわけではない。
「実現の可能性を決めるのは自分だ。」という、トレイルランナー横山峰弘さん(55)と松永紘明さん(44)の対談である(P.32-37)。
現在のモチベーションは何ですか?という問いに対する、対照的なふたりの解答が興味深い。「花火の打ち上げ方」を例に会話がなされる。まず、横山さんはこう語る。「やっぱりドカンッと一発打ち上げたいと考えています」。それに対し、松永さんは「地味ですけど、小さくてもポン、ポン、ポッて打ち上げ続けられる花火でありたい」と言う。
要するに、横山さんは、ここぞ!という大会で、しっかりと成果を出したいと考えている。
一方、松永さんは、笑顔で一生健康で走り続けることを目指しているのだ。
このように答えるおふたりの「走ること」に対する背景が、興味深い。
まず横山さんの一言一句には、思わず吸い込まれる。
「トレイルランに有効な練習法も確立されてきていて、その中で自分に合うものを追求していけば、100マイルレースならまだこの歳でもどうにかなるのかなと思います。(略)。歩きの部分も磨けるところはあるし、下りの脚さばきも。あとは力を抜くことですね。今までの自分は余計な力が入りすぎていたから、いろいろケガをしたり、すぐに疲れたりしていたと最近になって気づいたんです」。
横山さんの話には、トレイルランニングにおいてあくまで頂点を目指すべく、やるべきことを追い求める姿勢が如実に出ている。ロードレースとトレイルランニングの異同という観点でいえば、トレイルランニングのほうにはっきりと照準を合わせ、キリキリと改善を重ねたいという覚悟が見て取れる。
対する松永さんは、一見、大したことを言っていないのである。
「何か変化がないか日々身体と対話して、ケアをしながら、しっかりとした食事をとって早く寝る。毎日8時半に寝ているのは、ずっと変わらないこと。身体のために最善を尽くしているだけで、それは年齢云々に関係なく続けていることです」。
そして、含蓄のある言葉が続く。
「外に対して何か答えを探すよりも、まずは自分の才能を知ること。そうしたら他人の評価なんて気にならなくなるし、歳だからどうこう言うこと自体に意味がないと理解できるはずです」。
おそらく、おふたりは、決して意見が対立しているなどと思っていないであろう。むしろ共感しあう関係だと想像する。
しかし「走ること」に対する向き合い方の違いが浮き彫りになっていると思うのは、じぶんだけであろうか。(※もちろんすべての対談が収録されているわけではなく、もっと本質的な会話があった可能性もあるだろう。誌面から判断しているに過ぎないのだが)。
横山峰弘さんが、トレイルランニングでの成果にあくまで照準を合わせるのに対して、松永紘明さんは、「走り」を通じた身体と心のより良い在り方を探しているー、そのように見える。
プロアスリートの未来を考える上でも、興味深い。
従来は「結果」を出すことがプロの要件とみなされてきたが、これからは、もしかすると、松永さんのように「生き方のロールモデル」を示すプロアスリートがいてもいいのかもしれない。スポーツには、勝ち負けのみならず、年齢に応じた身体の可能性を試すことが求められる時代になりつつあるからだ。
ともあれ、ロードレースとトレイルランニングに共通した部分、すなわち「走ること」という土台の部分を、松永紘明さんは明確に意識しているように思われるのだ(※どちらが良い悪いではありません。横山さんも意識していることは十分に推察されるのだが、同時に「成果」を強く望んでいるだけなのかもしれませんので)。
<きょうのRUN>
この時期はロードレースに軸足を移してトレーニングしているが、あえてトレイルランニングのことを考えることで、頭の中をシャッフルすることもでき、メリットもある気がしている。が、きょうも、ロード練習。
・3.08km アップ(キロ5分29秒)
・5.00km 閾値走(キロ4分00秒)
・5.00km 閾値走(キロ3分55秒)
・3.15km ダウン(キロ6分45秒)
⇒合計16.23km
11/14(木) 「監督のホンネを知りたい」
縁あって、駅伝強豪校(高校)の練習を、幾つか見学させてもらったことがある。学校ごとに重点の置き方が異なり面白かったが、なかでも、ある女子校の練習について、今でも時々思い出す。監督自身が悩みながらも取り入れている「あるメニュー」についてである。
とりたてて珍しいものではない。ウォーキングである。
その学校では、本格的なランニングに入る前に、必ずウォーキングを行っていた。大きく両腕を振り、骨盤も動かして、かなりのスピードで歩く。3分ぐらいを2セットという程度なので苦しくはないが、普通の高校生なら息が上がるだろう。競技としての「競歩」とは異なり、走ることを前提とした動作なので浮遊感を保ちつつ、実に美しい。
疲労抜きのためや、故障した選手のための補助練習ではなく、むしろ積極的に組み込んでいた。
目的は何か。監督が言うには「いまの高校生は昔に比べて日々歩く距離が短いので、故障しがち。だから、基礎を固めるために、ウォーキングは必要なのです」と。朝のランニングの替わりに、ウォーキングを導入していたほどである。
しかしながら、悩みもこぼしていた。「ウォーキングを取り入れなければならないのは、チーム全体の底上げのためなんです。選手ひとりひとりの実力を見れば、ウォーキングの替わりに別のトレーニングをしたほうが伸びる生徒もいます。でも、基礎が必要な生徒もいる。つまり『平均アップ』を優先し、エースの成長を(犠牲にするとまでは言いませんが)先延ばししているわけです」。
駅伝で「勝つ」か、将来性のあるエースを育てるかー、その二者択一。
監督ならではの悩みだな、と、思ったものだ。
このエピソードがいつまでも心に残っているのは、理由がある。答えがひとつではないからだ。どの立場から、何を優先するのかによって、見え方が変わってしまう。生徒の立場に立つにしても、生徒にもいろいろなタイプがいて、性格も、目標も、打ち込む情熱にも差があるだろう。
しかし、解くカギはあるのだと思う。
結局は、生徒たちがどうしたいのかにかけるしかない。
そもそも、ひとりひとりの生徒は、監督の方針(悩み)を知らされているだろうか? そして、その悩みを知ったら、どうしたいと思うだろうか?
じぶんが生徒であったら「チーム全体の底上げをまずは目指しましょう」と答えそうな気がする。そして、エース級の生徒も、概ね理解を示してくれるのではないかと期待できる。まずは、チーム全体で、練習方針を理解すること。それを出発点にすべきだろう。
確かに、違和も生じるかもしれない。高校生ぐらいだと、理屈ではなく感情的にもつれるケースもあるだろう。
それでも、練習方針を共有しようとしさえすれば、さらに解決策も見えてくる。次善策や柔軟なアイデアを出す生徒がいたら頼もしい。「エース級の選手のためには○○○○も併せて導入しましょう」とか、「ウォーキングの方法も、いろいろ趣向を凝らしましょう」とか。
なにより、生徒自身が、練習の目的はもちろん、監督の思いを知りたいはずなのだ。
あまりにキレイごとが過ぎるだろうか。
しかし、生徒ひとりひとりの成長こそが部活動の目的であることから目をそらさなければ、目的を一緒に達成してゆくプロセスが大切なのだろう。面倒くさいかもしれない。「上」から決めてしまえば、即決だろう。しかし、「面倒くさい」と感じてしまったら、すべて台無しになってしまうに違いない。
「監督のホンネを知りたい」。生徒のホンネであろう。
<きょうのRUN>
きょうはロング走の日。
前々回10/31より、キロあたり5秒スピードアップし、距離もできたら伸ばそうと思い、臨んだ。だが終盤に動きが鈍くなってきたので無理せず、26kmで止めた。
・5.33kmアップ(キロ5分51秒)
・26kmロングペース走(キロ4分35秒)
・1.32kmダウン走(キロ7分28秒)
⇒合計32.65km
11/15(金) ランニングを人生に「埋め込む」 ~Embed Running Into Your Life~
村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』(2007)は、幾多のランニングに関する本のなかでも、やはり特殊なものだと思う。全盛期ではなく、下降期のそれについて描く。あくまで作家活動のフレームがまずあり、そのなかに占めるランニングの位置づけを静かに見つめている。
従来、ランニングに関するほとんどの雑誌・書籍・SNSは、「すごい人」の情報に満ちあふれていた。いまでもそれが主流であろう。
しかし、いま、新しい流れが生まれつつあるとも思う。ためしに『RUN+TRAIL』VOL.69を開いてみる。巻頭の「第32回ハセツネCUP」はもちろんトップ選手たちのオンパレード。これはこれで読みたい。が、おやっ?と思わせてくれる企画が幾つもある。
なんといっても「走るイケオジ。」という企画。「人生の後半戦を謳歌する秘訣」とサブタイトルが付いている通り、下降期に差し掛かったランナーたちの多様な在り方に焦点を当てる。
えっ! でもみんな「すごい人」ばかりでしょ?という反論もあるでしょう。その通りではある。井原知一さん(47)、小山田隆二さん(52)、櫻井洋一郎さん(46)らは、100マイルレースを2ケタも走破している強者である。しかし、記事を丁寧に読んでみたい。誰も彼も、自慢してはいないし、自慢できるとも思っていないだろう。
甲府で個性的なトレイルランニングショップを営む小山田隆二さんは、「トレイルランナーの特徴は何かありますか?」という質問に対し、こう答える。
「やっぱり自分超えを目指す競技だから、・・・ギスギス感がない(笑)。
穏やかな人が多いですよね」
そして、櫻井洋一郎さんは、「歳とったなと感じることはありますか?」と問われ、こう答える。
「そもそも高みを目指しているわけではなく楽しいからやっているだけな
ので、年齢を感じる瞬間ってないんですよ。無理している感じはなくて、上がらなくてもいいから下げたくないみたいな」。
みなさん、「他人と争って勝つ」というステージに居ないのが「すごい」。ひと言で「すごい人」と言っても、「すごさ」にもいろいろあるのだ。それらを十把ひとからげにしてしまうと、大事なところを見落してしまう。
もはや、わたしたちは、「すごい人」を手放しで持ち上げるだけの切り取り方をメディアに期待してはいないー、とは言い過ぎかもしれないものの、そこにあるオモシロさは薄っぺらい。
同じく『RUN+TRAIL』VOL.69に、上宮逸子さん(46)の特集がある。かつてはバドミントンの実業団に所属していた上宮さんが、のちにトレイルランナーに転向するものの、股関節を痛め挫折し、手術を経て、復帰に至るー、その過程を取材した力作だ。
文句なく「すごい人」の記録である。
だが、じぶんは、小さなインタビューに注目したかった。
手術するかどうか悩んだ時期に「現実逃避のように小説を読みまくる生活が続いた」と言うが、それをエモーショナルに受け取りたくない。きっとそうした経験のほうが骨格として強いのだろう、と、思う。
「もうあの絶望の日々に戻りたくない。(略)山深い場所で今までのこと、手術したこと、いろいろ考えて過ごしました。そういう時間を持てることも喜びだなって気づいて、今までレースじゃないチャレンジをあまりしてこなかったから、それもいいなと」。
何かを犠牲にしてまで勝つための「走り」を追求するのか。
それとも、「走ること」を人生に埋め込むのかー。
後者の在り方がツヤツヤして見えるのは、じぶんも歳をとったからだけではないだろう。村上春樹さんは、単なる個人的な回想録として冒頭の著作を著しただけなのかもしれないが、ランナーを知るための優れたメガネにもなっている。
<きょうのRUN>
・完全休養。
11/16(土) BROOKS Hyperion Max を再び
きょうは、古いシューズを久しぶりに履いた。
と言っても、購入したのはおよそ一年前。長く走ると爪先が窮屈になってしまうため敬遠していた「BROOKS Hyperion Max」だ。
ことしに入りフォームを少し改良したので「履いても大丈夫かな?」と思い、あらためて試してみた。
去年まで、ややフォアフット気味で着地していたため、記した通り、爪先が窮屈になる上に、ふくらはぎにも負担がかかっていた。そこで、ことしの春から、足裏全体で着地するようにフォームを変えてみたのだ。その走り方にもだいぶ慣れてきたので、再チャレンジ。
はたして、きょうはぜんぶで19kmほど走ったが、OKだった。
むしろ、少しスピードアップしても、とても一体感のある履き心地があり、良かった。ソールは独特の硬さがあるのだが、そのぶん、着地をじぶんでコントロールできる感触があり、これも心地よい。
ただし、靴底が「船底」型になっているので、本来は、足の前足部で着地したほうが Hyperion の特徴を生かせるのかもしれないが。
すでに「Hyperion Max 2」が 出ているようだが、10km程度のスピード練習では積極的に履いてみたいと思いなおした。
<きょうのRUN>
・9.39km jogg(キロ6分16秒)
・9.00kmペース走(キロ4分07秒)
・100mWS×2本
・500mダウン
⇒合計19.9km
11/17(日) 脳と身体の「主導権争い」
面と向かうと、目をそらしがちで、もごもごとしか喋ることができない、そういう人がいる。相手の目を見てはっきり答えたほうがいいというのは、当人も知っているようで、余計に自信なさそうに見えてしまう。
なにかと暮らしにくい今の世の中、こういう人は形勢が悪い。が、じぶんはどちらかと言うと好きである。むしろ、はっきりと自信たっぷりにこちらの目を見て語りかけてくる人のほうがちょっと苦手なくらいだ。
案外じぶんと同じように感じている方も多いのではないだろうか。
なぜか? それはアレだよ! 理由はアレじゃない!と、多くの人がそれぞれに思いを述べることができそうだが、ランナーとしての経験から思いつく仮説がある。
結論から言えば「相手の目を見てはっきりしゃべる」のは「ウソ」じゃないかと思うのだ。「恥ずかしいのとはちがうけど、ちょっと抵抗あるなあ」という本音の部分があるにもかかわらず、意識的に説き伏せようとしている感じとでも言おうか。自分にウソをついている感じ。
カギは、身体にある。
というのも、われわれ一個の個体のなかで、脳と身体はそれぞれ別々の都合・事情・立場があって両者は拮抗しているー、そう専門家が説くのはおそらく正しく、この場合、脳=意識が身体を無理に屈服させているため、不自然さが漂うのではないか。脳の絶対的統制をうけ、身体がひるむ状態である。
脳と身体。合致していればよい。が、合致するばかりとは限らないのではないだろうか。
走っていれば、そうとは認識せずにいるが、脳のやりたいことと、身体の可能性とのあいだでいつもギシギシ主導権を競い合っているのが分かる。
エネルギーが枯渇すると、身体は「とまれ」という指示を受ける。神経回路とのつながりからはたらく指示系統であり無意識に作用している。実際、身体のほうではあちこち損傷が始まっており「もう限界です」と弱音を吐く。一方で、われわれにははっきり意識しうる自我というものがあり、こちらでは「とまるな! 負けるな」と発破をかけようとするのだ。「とまれ!」「とまるな!」「もう限界です」の応酬が、ひとりのランナーのなかで繰り返される。
ランナーとは、走ることで、脳と身体の拮抗を痛切に感じる人たちのことである。
おそらくランナーではなくても、多くの人が直感的に脳と身体の拮抗について気付いていて、あたかも両者がぴったり重なったように自信たっぷりに語る人たちのことが「フィクション」に思えてしまうのではないだろうか。ムリしてるでしょ?というふうに。「フィクション」と言うのに語弊があるなら「形式的なスタンス」と言い換えてみたい。
実際、ビジネス界隈とかインターナショナル界隈で重視されるスタイルとも言えるのでことさらに憂慮する必要もないのだが、草の根では、もっと複雑ではないだろうか。
実際じぶんの場合、何かを口に出そうとする時、それが相手にどう伝わるか、どんな感情を与えるか、じぶんの過去の発言や真意に対して偽りはないかなど、心のなかで幾つものハードルを越えているようで、一瞬ではあるがその逡巡のプロセスを経て、ようやく発話に至る。結局、歯切れの悪い言い訳みたいなことしか言えないこともある。
そしてそれは、ひとにより軽重はあるだろうし、価値の置き方にも違いがあるだろうが、多くの人が行っているはずのことであろうとタカをくくり、特別に神経質だとも思っていない(あるいは、全く正反対に、摩擦も覚悟でエイヤー!っと言い放ってしまうこともあるが)。
しかし、そんな一瞬の発話のプロセスにおいて、身体は、とても予測不能な所作をするのだと思う。口ごもるのは当たり前。目が泳ぐ。両手を握ったり離したり。爪の生皮をついついいじってしまうなんてこともある。結構、だらしない。
こうした「だらしなさ」「歯切れの悪さ」「自信のなさ」、総じて「人間くささ」の背景に、身体がいる。カッコ悪いと切り捨てたくない。
目をそらしたくなり、はっきり返事ができないみなさん、あなたの身体にエールを送りたい。
<きょうのRUN>
・5.46kmアップ(6分08秒)
・15.00kmMペース走(キロ4分15秒)
・1.00kmダウン
⇒合計21.46km
11/18(月) ウェアの選び方で勝敗は決まるか?
ウェアの選び方ひとつで、勝敗を決してしまうことはあるか?
YESと応じたい気持ちもあったが、いまはちょっと違うのではないかと思っている。そんな逸話から。
2年ほど前の晩秋のレースであった。10kmのスピード競走。遅くなっても40分以内には終わると思い、少し寒いなあ、と、思ったが、ノースリーヴで出走したのだ。
スタート直後から結構苦しい。2kmほど過ぎた。脚は重いし、息も上がる。まだ8kmもあるのか・・・と、残りの距離が頭をよぎる。ネガティブな気持ちが忍び寄るときは、ピンチなのだ。
そのときー。風がびゅっと強く吹き始めた。肩が冷たい! しまった! ノースリーヴは失敗だった! きょうはもうダメだ!
そう思った瞬間である。勝敗を決するとも言える「強気」を示すバロメーターの針が、みるみるうちに下がってゆく。と、いう間に、脚が止まった。走るのを止め、歩いているじぶん。
残り数キロは走ったり歩いたりしながら、一応ゴールはした。タイムは覚えていない。失敗レースだ。ノースリーヴを着て寒かったことが敗因。そう思ったのだ、当時は。
持久走とは、「つらい」「とまりたい」「もうダメだ」という負の感情と、「とまるな」「負けるな」「まだいける!」という強気の感情とのせめぎ合いである。両者がぎりぎりの点でバランスをとっている。
だから、そのバランスは、ふとしたことで崩れると、一気にどちらかへ傾いてしまうことがある。とりわけ負の方向に落ちてゆくのはあっという間である。そう、ウェアひとつの選び方に失敗しただけでも、バランスは簡単に崩れてしまう。
しかし、冷静に振り返ると、少し実情がちがうことに気が付く。「ノースリーヴを選んでしまい寒くなったこと」は、劣勢の条件ではあるが、決定的な敗因とは言えないのである。「とまる」か「とまらない」かぎりぎりのバランスでこらえていたじぶんは、無意識のうちに「とまる」理由をさがしていたのだ。きょうのレースはもうダメだ、と、決定づける何かを。
そこに偶然、「ノースリーヴで寒い!」というトリガーが引かれた。単なるきっかけなのだ。あとは、ドミノ倒しのごとくパタパタとバランスが崩れていったしまっただけなのだ。
つまりは、じぶんの「弱さ」が、根底にある。
ノースリーヴ云々などは、言い訳である。
ウェアの選び方ひとつで勝敗を決してしまうことも無いとは言い切れないが(トレランでは十分ありうるので)、それ以上に、じぶん自身のなかに敗因の芽はあった。
<きょうのRUN>
完全休養。
11/19(火) 二日連続で走らず
<きょうのRUN>
二日連続で完全休養。
走りたかったが、帰省し、きょうはそれより夢中になることがあり、走りそびれてしまった。生家の裏山の木片の片づけである。およそ8時間。
11/20(水) 三日連続で走らず。カラダはどうなる?
<きょうのRUN>
三日連続で完全休養。
故障していないのに三日も走らないのは久しぶりである。
トレーニングを休むと、どれだけ衰えてしまうのか。
藤井直人『運動生理学が教える弱点克服のヒント ランナーのカラダのなか』2023 (小学館)では、大きく2つの領域での衰退について記されている。
ひとつは、最大心拍出量。1分間に心臓から全身に送り出される血液の量である。トレーニングを中止して12日目に10%減少⇩している。それに伴い、最大酸素摂取量すなわち1分間に体内に取り込まれる酸素の最大量も、減少する⇩らしい。酸素を運ぶ血液の量が減少するから、酸素も減ってしまうということだろう。折れ線グラフも掲載されているが、「3日」という区切り方でどれだけ減少するのかは明示されてはないが。
もうひとつは、ミトコンドリア。
ミトコンドリアは、5週間トレーニングを継続することで2倍に増えているが(ラットの実験)、中止すると、1週間で半分に減少⇩している。こちらについても「3日」という区切り方はしていないのでよく分からないが、グラフでは減少しているのが読み取れる。
このような数字を知ると焦燥感にかられるが、一方で、経験的には、グッと追い込んだあと、ストンっと落とすと、そのあとは調子がいいことが多い。筋肉が修復するからではないかと思いこんでいるが、さて、どうなのだろう?
20-30代の若いカラダではないことは肝に銘じておきたい。
どうあがいても最大心拍数や最大心拍出量に限界があることをふまえると、カラダのキレ(≒効率)で補っていくしかない。できるだけ前者を落とさないよう維持しながら、後者を探究するのが、ことしのテーマである。
11/21(木) 「丸刈り問題」
「何かを変えなければいけない、と、思ったんです」。ある高校駅伝チームの監督はそう説明してくれた。頭髪を丸刈りにするのが伝統であったそのチームで、はじめて長髪にするのを認めたのだ。その理由を聞いてみたのである。
「丸刈りには丸刈りのメリットもあるんですよ。何事も、ひとつのことに集中するためには、雑念を払うのが大事なので・・・。『走る』うえで髪型を気にしていては集中できないでしょ。古い体質にこだわりたいから、丸刈りにするのを決まりにしていたのではなくて、ちゃんとした理由はあるんです」と言いながら、その監督は、厳しい表情でさらに説明してくれた。
「でも、いつまでもたっても結果が伴わない場合には、チームの体質を変えてみる必要があると思ったんです。何をどう変えればいいのか分かりませんでしたし、絶対的な自信があったわけではありませんが、髪型を自由にしてみるのもアリかな、と、思ったんです」。
近年は、高校球児たちの長髪がいたるところで見られるようになったが、それよりも数年早く、たまたま話をする機会のあったある駅伝監督が、その問題に向き合っていたのだ。
スポーツに励む高校生は髪型をどうすべきか、といった議論もあるだろうが、それとはべつに「頭髪問題」を自分なりにとらえなおし、考え続けている。
プラトー(停滞期)に陥らないよう、何らかの変化を放り込んでやる重要性である。頭髪に限定せず、従来は禁じていた行動やルールなどをあえて試すことで、成長を促すことである。
そもそも、わたしたちは、放っておけば何も変えようとはしないものである。きのうも、きょうも、あしたも、あさっても、同じことをし続ける。「石の上にも三年」なんていう格言もある通り、規則正しくルーティーンをこなすことで内面が安定してくるのは本当だと思う。
その「安定」が「停滞」になる境目はどこにあり、その原因はどこにあるのだろう。
こう考えてみると分かってくるのは、「安定」は「安定」として悪いことではないということだ。それが望ましくないものにすり替わってしまうのは「成長を目指している」からに他ならない。「成長したい」というベクトルが働くからこそ、「安定」は「停滞」とも同一の状態になってしまうのではないか。
「安定」には、満足がある。
「停滞」には、焦燥感がある。
と考えれば、きのうも、きょうも、あしたも、あさっても、同じことをし続けることで、何の不満があるだろう?
結局、この点がリトマス試験紙になりそうである。
変化のない日々に幸せを感じられるか。
それとも、変化のない日々に不満・焦燥感を感じるか。
どう生きたいのか?ということか。
くらっとめまいがするくらい地平が広がりすぎた。
人それぞれ。と言うしかない。
「走ること」に即して、テーマを小さくしないと・・・。
結果を出さなくても構わないのでずっと走り続けていたいというのが「安定」志向か。一方、成長し結果を出したいというのが「停滞」回避志向か。
どちらもいい。というより、どちらも欲しい。
実際、じぶんは、丸刈りでも、長髪でも、なんでもいいのだった。
「丸刈り問題」保留。
<きょうのRUN>
・13.85km jogg(キロ5分04秒)
11/22(金) 坂道ダッシュは、やはりいい。
<きょうのRUN>
・5.00km アップ(キロ5分37秒)
・坂道ダッシュ160m×6本
・坂道ダッシュ160m×6本
・3.33km ダウン
⇒合計10.25km
きょうは、久しぶりに坂道ダッシュを重点的に行った。
160mをぜんぶで12本(6本ワンセットを、2回)。
もちろん息も上がり苦しいのだが、気になった点は、回を重ねれば重ねるほど、①両脚の回転が(シザースが)にぶくなり、②早い腕ふりに上半身が対応できずに、身体の軸がぶれがちであったこと。
つまりは、筋力が足りていないのだろう。とくに体幹。
坂道ダッシュをする目的とは何か。
「心肺機能に負荷をかける」ということも期待したいのだが、それよりも「速く走るためのフォームを身体になじませる」という点が重要だろう。
だから、きょうの反省点でもあるが、短距離走のように(どうしても「スピードを出したい!」と思ってしまうので)両腕を「翼」のようにいくらか左右に開き気味にして大きく振ってしまうこともあったのだが、そうではなく、あくまでマラソンを走るイメージを忘れずに、タイトに走ることを意識したい。
あえてフォームを小さくする必要はないだろうが、全身を使ってしっかり前に進む意識だと言い換えることもできる。
フルマラソンでは 37-8km地点以降に全身のこわばりを感じることが多いが、坂道ダッシュを8本ぐらいこなすことで、それを疑似体験できる気がする。
1本1本のダッシュを丁寧に。
毎週1回は取り入れていきたい。
11/23(土) 大学の試験問題に挑戦したら・・・
きょう、40年ぶりに大学の試験問題に挑戦してみた。
もっとも、同志社大学の2022年度の「国語」(全学部日程)のうち、現代文のみ。設問を解く目的より、問題文に夢中になってしまった。藤原辰史『縁食論 -孤食と共食のあいだ- 』である(縁食論 | 書籍 | ミシマ社)。
読みたいと思っていながら、なかなか縁がなかった一冊だが、こんなに面白い本だったとは!
食べることは、味覚、嗅覚、視覚、触覚に加えて、聴覚にも関わる文化だという。食を「音」として楽しむとはどういうことか。バリバリ、ぽりぽり、シャキシャキ、ずずずずず、は、食べ物を人間がかみ砕き、吸引するときの音。
その食べ物とは、すべからく、命を絶えた他の生き物たちである。その「死せる生命体」を、われわれ「生きる生命体」がいただく。その生と死が「こすり合う」音こそが、食の「音」だという。深くて切ない。
さらにうなってしまったのは、胎児が母親のお腹のなかで聞く音には、母親が食するときの音があり、それは原初の記憶を形成している可能性もあるという指摘である。さらに、われわれが大人になっても、食卓を囲んで複数で食事をしたいと思う原点には、この胎児のときの経験があるのではないか、と言う。いいぞ!いいぞ!と、胸のうちでひとり快哉。
はなしは変わるが、走っているときも、似たような感慨を抱くことがある。川沿いを走るときに耳にする「水の流れる音」である。なんだかふいに、その水の音が、カラダのなかの血流の音と重なって感じるときがあるのだ。
もちろん血流の音が聞こえているわけではないので実際にシンクロするはずもなく、錯覚だとは思う。だが、その錯覚をきっかけに不思議な浮遊感へと誘われることがある。走っているじぶんは、川とは別々の存在物でありながらも、水が流れる音を媒介にして、相互に乗り替わるような・・・、いや、乗り替わっても不思議ではないような瞬間を覚え、その途端に、水の音と血流の音の両者のほうがあたかも主体となって、じぶんと川が混在している感覚である。
そのとき、生きている「じぶん」と、生きていない「川」とが溶け合うような不思議な思いがするのだ。
これは、とても面白い体験としてときおり思い出していたのだが、藤原辰史さんの文章によって別の角度からぽっと照らされたような・・・。
試験の回答のほうは、一問だけ間違えたが。
<きょうのRUN>
・3.58km アップ(5分08秒)
・11.00km Mペース走(4分12秒)
・1.29km ダウン
⇒合計15.87km
11/24(日) 無題
<きょうのRUN>
・5.28km アップ(キロ5分44秒)
・19.30km ペース走(キロ4分27秒)
・3.41kmダウン
⇒合計27.99km
きょうは「負けて」しまいました。
30kmのロング走をするつもりだったが、向かい風のなか往路10kmの登りでかなり疲れてしまった。それでも、下りに入り、追い風になったら調子は上がってきたのだが、それも長続きせず、徐々にピッチがつらくなり始め、走りながら「止まったらラクだろうなあ」という弱気が心がちらちらと出始めたら、急にがくんと止まってしまった。
多くのランナーたちが、各所で寒風にこらえ、レースをしている日なんに、くやしい。
それでも、かなりの向かい風だったのでもっとゆっくりのペースでもよかったのに、キロ4分30秒前後で押して行けたのは悪くはなかった。
強風のレースは必ずあるので、これも無駄にはしない。
11/25(月) 〆切について。
〆切というものは、概してツライものである。間に合わせなければならない。他人様が決めている期限なので、守らないとみんなに迷惑がかかる。そのプレッシャーがあるから、ツライ。
〆切をうまく乗り越えると、ホントにすがすがしい。その解放感たるや、雨が降っていても曇っていても、内なる心は晴れ渡る青空そのもの。その解放感だけを生きがいに、ツライ日々を我慢することもあったほどである。
ところが、早期退職してから、というもの、〆切に向き合う気持ちが根本的に変わった。〆切を設定するのは、他人様ではなく、じぶん自身なのだ。
そのぶんプレッシャーはあまり無いが、油断していると、生活というか人生そのものがぐらぐらと揺らぎだす恐れが忍び寄る。
自己管理する大切さをしみじみと思う。
で、いきなり、はなしは大きくなる。日本人とか人類にとっての〆切というものを考えてみる。
例えば、脱炭素である。日本は「2050年までに、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、すなわち2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指すこと」になっている。あと26年もないのだが、そのとき、じぶんは84歳である。
同様にして、福島第一原発の廃炉である。政府と東京電力は、2051年までの廃炉完了を目指している。じぶんは85歳である。
それぞれ、〆切を見届けることができるのだろうか?
これらの〆切は、じぶんが設定したものではない。
また「是が非でも、守らなければ!」というプレッシャーを日夜感じているわけではない。では、どこかで、誰かが、大きなプレッシャーを感じているのだろうか?(政府関係者のなかには居るのだろう)
こうして考えてみると、〆切に対して、個人の時間はあまりに短いのだ。〆切のほうが巨大な存在として屹立していて、われわれは蟻のようにちょこまか動き回っているようにさえ感じる。「いずれ誰かが守ろうと努力すれば、おれたちにはカンケーないので…」とまで言うひとは居ないが、順番に死んでゆくので、実際にはそれと大差ない。
だが、いずれ子孫に迷惑がかかるにちがいない。
どうすればいいのか。〆切という切り口から考えてみると、「じぶんで設定した〆切」というのは、早期退職したじぶんのそれと同じように、融通無碍にして無責任で済んでしまう。
だから、〆切を「他人に設定してもらう」必要があるのではないか。
そんな「他人」がどこにいるのか?という問題は残る。
「われわれ」という主体のなかに、主体でありながらも「他者」を見出す方法はないのだろうか。
と、考えていて、法律というものは、ある種の「他者」として機能することを期待されていることに気が付いた。利害の衝突を、上位から調停する「他者」である(んん~、大切なことだなあ)。
思えば、明確な〆切は設定されてなくとも、民族どうしの争いも、紛争も、食糧問題も、すべて本当は「〆切」があったほうがいいのだ。
どれもこれも、じぶんの目で解決が見られない可能性があることを思えば、すーっとさみしくなるのと同時に、意外にも、他人事とは思えなくなるのはなぜだろう?
きっちり〆切を守りたいし、みんなにも守ってほしい。
<きょうのRUN>
完全休養。
11/26(火) 12月のトレーニングプラン
来月12月のトレーニングプランを、そろそろ考えよう。
新たにメニューに取り入れるのは、坂道ダッシュ。先週(金)に試しに行ってみたところ、次の点で効果が期待できると思った。
①速い動きのフォームになじむことができる。
➁走りながら筋力を鍛えられる(=パワーアップ)。
➂休み明けに始める初日の練習として、2日目以降の「助走」になる。
しかも短時間ですみ、あまり距離を踏まなくてもよい。
かくして、12月は、次の4日間をワンセッションにしてみたい。
・ 初日 坂道ダッシュ
・2日目 閾値走
・3日目 Mペース走
・4日目 ロング走( or 「山にゆく」)
・5日目 (休み)
原則、ジョグのみという練習はしない。
その代わり、翌日に疲労がたまるほどの高強度のポイント練習はしない。
・坂道ダッシュは、160m×10~15本。
・閾値走は、5000m~7000m×1本(キロ3分50秒~3分58秒)。
・Mペース走(キロ4分15秒)は、12~15km。
・ロング走(キロ4分30秒)は、25~30km。※トレランの場合は4時間。
12月は、1日だけレースを入れているので(12/8 武田の杜トレイルランニング)、その前後は休みを入れ、後半に40km走もやっておきたい。
ハーフマラソンも、下旬くらいに入れておきたいところだが。
そして、とにかく、疲れる前に休む。これを励行していこう。
なんといっても、12月からは「故障しないこと」がいちばんのテーマ。
まだ焦る必要はない。1月も、2月もあるのだから。
<きょうのRUN>
・8.66km jogg(キロ5分45秒)
・160m坂道ダッシュ×6本
・160m坂道ダッシュ×6本
・3.22km ダウン
⇒合計13.8km
11/27(水) 港千尋『風景論』が拓く「走る醍醐味」
ワケあって、連日、大学受験の現代文を解いている。
高校生の頃には好きになれるはずもなかった論説や評論の類いも、50代にもなるとすっかり好みになり、結構おもしろい。きょうは、写真家・港千尋さんの『風景論 変貌する地球と日本の記憶』2018年 である(風景論 変貌する地球と日本の記憶 -港千尋 著|単行本|中央公論新社)。
当然ほんの一部だけしか掲載されていないが、マラソンについての文章から始まる。同志社大学(全学部日程)2020年の問題である。
いわく、「名だたる世界大会をテレビで見ていると、都市環境こそがレースの本場なのだと実感する。東京でもニューヨークでも、ランナーが走るのは、超高層のオフィスビルがつくる谷間であり、ある意味ではそれがどこの都市であろうがあまり関係のない人工環境である」。
さらに、ランナー独特の内面の変化について、こう記す。
「走り続けるうちに、人は地形と一体となる。地形に応じて身体の状態が変わり、視界からは少しずつ人工物が消えてゆく。土を覆っている上っ面はどうでもいいように思えてくる。ランニングは非-場所化した都市 (「どこでも似たり寄ったりの非個性的な空間」※筆者) から、一時的にせよ本来の街道を取り戻す営為なのかもしれない」。
ちょっと難しいが、こういうことだと思う。
ランナーは走ることに集中するにつれて、景色がどうであろうと大して関心は無くなり、そのために、ビルも舗装道路も消滅した状態での土地そのもの、すなわち土地のサブスタンス(実体)を感知できるようになる。
突き詰めると、「上り」なのか「下り」なのか「平坦」なのか、それがどれだけ続いているのか、それだけをシンプルに考えるのみとなる。強いて言えば、「昔からさぞかし大勢の人たちが行き来していたのだろう」ということを、考えるでもなく暗黙に受け止めている。土地が「ハダカ」になるのだ。
そして、同時に、走る自分自身も「ハダカ」となる。脈打つ鼓動と、それが収まる胴体、そして疾駆する四肢。それだけになる。「ハダカ」対「ハダカ」。「地形と一体となる」とは、このことではないだろうか。
このシンプルにして研ぎ澄まされた瞬間が、走ることの醍醐味とは言えそうだ。
入試問題との幸福な出会いであった。
<きょうのRUN>
・4.80km アップ(キロ4分59秒)
・5.00km 閾値走(キロ3分56秒)
・100m ダッシュ×3本
・1.31km ダウン
⇒合計11.41km
11/28(木)「徹底的に叩きのめしてやろう」
洋式トイレに座り、用を足していた。どんっどんっどんっどんっ! 開けろっ!という、悪意がこもった男の声。曇りガラスからぼんやり透けて見えるその顔は、じぶんが知っている人。しかも、仕事がらお世話になったどころか、じぶんのことをとても可愛がってくれた恩人のような人。「あ、あの、いま、開けられないのですが・・・」と言うものの、意に介せず。まるでゾンビになってしまったかのようにコミュニケーション不全。その押し問答の果て、じぶんもついにヒートアップ。扉を思い切り押し開き、その恩人の男もろとも突き飛ばしてやった。びしょびしょに濡れた地面に尻餅をつくその恩人は、三白眼をこちらに向け、なおも襲い掛かってこようとする仕草をとる。もう何もかも壊れてしまっても構わない。徹底的に叩きのめしてやろう。と、殴りかかる決意を固めたー。
という、夢の話。
早朝、盛大に放尿。
<きょうのRUN>
・4.93km アップ(キロ5分21秒)
・15.00km Mペース走(キロ4分14秒)
・1.00km ダウン
⇒合計20.93km
11/29(金) 「ゴミうんち展」から学ぶ。
まだそれほど深刻にとらえているわけではないものの、「残りの人生」というものについて、知らず知らずのうちに考えているようだ。
やりたいことをやる。第一にそれが望みなのだが、もうひとつ気になることがある。
それは、さしあたり「やりたいこと」ではない。
しかし「知らないままでは終わりたくない分野」というものがある。
きょう、「21_21デザインサイト」で「ゴミうんち展」という企画を見てきたのだが、それともつながっていることに気が付いた(21_21 DESIGN SIGHT | 企画展「ゴミうんち展」 | 開催概要)。
自然界から人間社会までを包括的にとらえ、その物質循環に注目した展示である。とりわけ、従来はネガティヴにとらえられてきた「ゴミ」にフォーカスしている。と言えば、環境問題への啓発を意図したものと思う向きもあるかもしれないが、そうとばかりはいえない。
「ゴミ」に新たな光を当て、そこに「価値」を見出すのである。
特筆すべきは、狩野佑真さんの作品群(studio yumakano|狩野 佑真)。
たとえば、錆(さび)ー、あの金属の劣化を示す腐食物である。狩野さんは、錆を農作物のように「収穫」しようと試みる。そして、収穫物である錆を、デザインの材料にするのである。
これまでも錆をアートに用いる人はいたかもしれないが、アプローチの仕方が異なると思う。狩野さんは、従来のように、錆の「劣化ぶり」を退廃の要素として取り入れようとしているのではない。錆が出来るプロセスもまた「価値」の創造としてとらえようとしている。
つまり価値の逆転であるわけだが、そう言ってしまうと、その深みを伝えることができない。
狩野さんのアプローチから見えてくるのは、わたしたちが見ようとしない、あるいは抑圧してきたネガティヴな領域を、積極的な価値に転化しようとする視点である。
そう、このアプローチである、じぶんが「残りの人生」という制約のなかで、気になる分野とは。「無意識に抑圧してきた様々なものごと」について、向き合ってみたいのだ。
ひとは生きていると、世間の影響も存分に受けつつ、おのれの価値観で「線路」を敷いている。好きなことや、やりたいことは、その延長線上に見つかることが多いだろう。
だが、そのために見落としたり、捨象してきたものに、重要なものがありはしないだろうか? パラレルワールドの考え方のように、じぶんがここに至るまでに「本当はあり得たかもしれない」じぶんの姿が、その「抑圧」のなかにも転がっているのかもしれない。
だから、むしろ、その「抑圧」とともに、ようやく「一人前」になれるのではないだろうか?
走っていると、常々感じることでもある。
都会に対して、自然と山々。
東京に対して、生まれ故郷。
出世に対して、解脱。
頭脳に対して、身体。
西欧に対して、アジア(とりわけ、我が故郷とも縁が深い朝鮮半島)。
こうした分野を、知らないままで終わってはいけないような気がしているのである。
<きょうのRUN>
きょうは「ロング走」の予定の日だったが、所要があり、朝しか走れない
ため、久しぶりに朝ランをする。距離は25km。
スピードはあげなかった。真っ暗ななか、ウエストライトで照らしながら、寒かったのでキロ6分半くらいでスタート。温まってきたら徐々に上げてゆき、最後の6㎞くらいはキロ4分27~28秒。
・25km ジョグ(平均で、キロ5分00秒)
・0.75km ダウン
⇒合計25.75km
11/30(土) 11月の月間走行距離
<きょうのRUN>
完全休養。
11月の月間走行距離は、377.6km。
今月は、すべてのトライアルのうち、5000m未満の回が全体の6割近くを占めている。そのことからも分かるように、距離よりも速く走ることに重きを置いたので、400㎞前後(週に100kmほど)が妥当であろう。
来月は、距離も伸ばす予定。420~430kmくらいか。
ただし、それを目標にはしない。
ポイント練習ではなく、休みを軸にトレーニングするのが、今期のアプローチである。