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sayurusky
詠むための一首評:なめらかに音の跳躍をするときの燕が垂直にのぼるイメージ/津島ひたち
なめらかに音の跳躍をするときの燕が垂直にのぼるイメージ
津島ひたち「風のたまり場」
第36回花壇賞受賞作からの一首。作者は部活動でオーボエを吹いていることが連作の中で知れる。「音の跳躍」とは低い音から高い音へ一気に上がることを言う。「なめらかに」とあるが普通「跳躍」と言う場合、音が連続的にあがっていくのではなく、低いドから1オクターブ上のドに急に上がるような場合をいい、音を切らずに一気に上げるのが難しい。それを燕の飛翔に喩えたのだが、指導者から言われたのか、本人がそういうイメージとして感じたのか。音の跳躍の比喩と考えると凡庸だ。しかし高校の吹奏楽部の練習風景という背景を想像する時、燕が垂直に大空に急上昇していく様は「若さ」や「青春」のイメージとも重なり、凡庸だと感じた表現がいきいきしたものに感じられる。私は作者の個人的な背景を歌の読みに入れるのは好きではないが、この歌を読んで、連作には一首一首の歌を通じて読み手に強制的に情報を与えることができ、それが一首の読みを変えさせるということを実感し、連作を作る上でのヒントになった。
余談だが、作者の個人的背景と歌の読みを分けるために、いつもは作中主体という言葉を使うが、この歌の場合、連作の中で作者=作中主体であると知れるので評の表現としても作者の方がしっくりくる。しかし全ての歌評で「作者」と言ってしまうと、虚構や非現実的な情景を詠んだ短歌では使えない。もちろん究極的には、そのような虚構の作中主体も作者の創出したものに違いないが、歌の外にいるメタ作者を読みに入れてしまうのは、歌評においては無造作にすべきではないだろう。