娘の教科書に「ごんぎつね」が載っていた!
ここ何日か、新美南吉 著「ごんぎつね」を読んでの、小学生の時の作文を紹介していますが、
昨日、その「ごんぎつね」を読了しました!
娘に、なにげなく「ごんぎつねって知ってる?」と聞いてみたところ、「小学生の時に習ったよ」とのことだったので、片付けて収納してあった教科書を探して読んでみたんです。
最初から最後までちゃんと読んでみると、思った以上にじわっと心に染み入るお話でした。
ごんは、心理学でいうところの、トリックスターのようだとも思いましたし、神の使い(眷属)としても描かれているのではないか、とも考えています。
最近、創作で「ねがいごと」という小説を書きました。その小説にも、きつねを登場させて、眷属について登場人物が説明する場面があります。
なので、ごんぎつねを読んでいる最中も、動物としてのきつねなのか、眷属としてのきつねなのか、新美南吉はどう描いているのだろう?と思っていました。
でも読み進めていくと、登場人物が神様について話す場面があることから、ごんは、ただの子ぎつねではないのだろうとわたしは解釈しています。最後の兵十のセリフも、なんだか、「ごん、おまえは神様だったんだな……」という、もうひとつの言葉にならないメッセージのようにも読めたり、言い換え?ができるような気がしました。
ごんは兵十をよく見ているけど、兵十がごんをちゃんと見るのは最後だけで、しかも銃で撃つ時かよ……みたいな、なんともいえない気持ちになっています。
「ごんぎつね」が何を伝えようとしているかというのは、一概にいえないとは思うのですが、わたしは、人間であれ動物であれ、「何か対象をきちんと見る」ということに、果たして人間の側は気付けるのだろうか?という問いかけや、気付けなかった時の悲しみ、気付けないがゆえの人間らしさも描いていると思いました。
娘の教科書に載っているということは、知らなかったというか、すっかり忘れていたので、思わぬタイミングで読了することができました。
ちなみに、先日、作文シリーズで紹介した、今西祐行 著「一つの花」も、教科書に載っていました。
「なんかものすごく読んだことがあるぞ……なんで?いつ読んだ?」という感じになっていたのですが、
次に紹介する過去記事を書いた時に、娘が音読していた作品のひとつが「一つの花」だったんだ、と思い出しました。
このあと、「ごんぎつね」のさまざまな読み方であったり、解釈を検索して、さらに学んでみたいと思っています。