哲学とは何か?
哲学とは何か?
一言で言えば、それはさまざまな物事の本質をとらえる営みだということができる。
たとえば、現代の若き天才哲学者と注目されているマルクス・ガブリエルは、哲学の位置づけについて次のよう述べている。
さまざまな分野の序列(order)で、哲学は普遍的に一つ上のレベルに位置しています。
哲学的論理はすべてにおいて最も高い所に位置する分野なのです。なぜか。それは、人間の思想とはそれ自身について考えるという行為だからです。
哲学はすごい。なぜなら、哲学は思想について考えることであるから。
ガブリエル先生はさすが天才だ。何をおっしゃっているのかわからない。
少なくない人が、そう思ったのではないだろうか?
物事の本質をとらえる営みである哲学そのものは易しくないとして、だからこそ哲学を語る者には優しさが必要だ。
この点で、ガブリエルと同世代の本邦の哲学者である苫野一徳の語りは優しい。
哲学と宗教
物事の本質をとらえる営みは、哲学者の専売特許ではない。宗教や科学だって、物事の本質を捉えようとしてきた。
では、哲学は宗教や科学とどのように区別されるのか。
まず、哲学は万人に開かれている。万人に開かれているということは、哲学が検証可能性のある答えを模索する営みであり、したがって、批判する権利は権力関係に縛られないということを意味する。
この点、宗教と峻別される。宗教は検証可能性のない「神話」に答えを見出そうとする営みであり、教祖の「教え」を忠実に守ることが求められる。
苫野は言う。
先人のすぐれた思想を受け継ぎながらも、足りないところは徹底的に批判する。そして、思考をもっと先へと展開していく。それが哲学の精神なのだ。
検証可能性は、必然的に反証可能性を含んでいる。哲学が開かれているということは、いつでも反証可能性があるということでもある。
それに対しては宗教は、反証可能性を認めることはできない。というのは、反証可能性を認めてしまうと、宗教の教えはたちまち相対的なものとなってしまい、自らの存在意義を否定しかねないのだ。
つまり、宗教は反証可能性を認めれば、自家撞着に陥ってしまうのである。
哲学と科学
ところで、20世紀のイギリスの哲学者カール・ポパーは、反証可能性がなければ科学ではないと言った。その意味では、哲学も科学である。
では、哲学と科学との間には、どんな違いがあるのか?
科学とは、一般的に体系化された知識や経験であり、その探求であると説明される。
哲学もまた同じように説明することが可能だ。
「じゃあ同じようなもので」というザックリとした理解でもいいのだろうが、せっかくなので苫野の説明に耳を傾けてみよう。
哲学の最大の意義は〝思考の始発点〟を敷くことにある。だれもが納得できるその始発点さえ定めることができれば、その土台の上に、僕たちはより実践的な、力強い思考を積み上げていくことができるからだ。
逆にいえば、もしも僕たちが〝思考の始発点〟をまちがってしまったら、それにつづく思考は全部的を外してしまうことになる。たしかな〝思考の始発点〟を定めることは、だから哲学の命ともいうべきことなのだ。
科学的思考を発動させるためには、そのスタートを設定する必要がある。しかも、そのスタートは、みんなが納得するものでなければいけない。そうじゃないと、科学的手法としては正しくても、科学的思考としては間違った方向に進むことがある。
ここで冒頭で取り上げたガブリエルの難解な思考を再掲しよう。
哲学的論理はすべてにおいて最も高い所に位置する分野なのです。なぜか。それは、人間の思想とはそれ自身について考えるという行為だからです。
苫野の議論とあわせて考えれば、哲学は「思考の始発点」を設定する思考的営為であり、科学的思考のファンダメンタル(基礎となる条件)を形成していると理解することができる。
ここに魅力を感じるからこそ、学んだところで将来の稼ぎには影響しなさそうな哲学を敬愛する人が根強く存在し続けるのだろう。
共通了解を見出す
さて、では哲学は、どのように思考の出発点を設定するのか?
苫野によれば、哲学とは「ある命題が『真か偽か』を明らかにするもの」ではない。哲学とは、「お互いの〝確信〟や〝信憑〟を問い合うことで、〝共通了解〟を見出し合おうとする営み」である。
自分の信念を、ただ相手にぶつけるのではない。もしかしたらこれがひとりよがりな考えかもしれないということを自覚した上で、相手に投げかける。そうやって、自分の考えの〝共通了解可能性〟を問う。それが、僕たちが対話や議論をする時に、もっとも大事なことなのだ。
「自分の考えの〝共通了解可能性〟を問う」ということは、ガブリエルが言うところの「他者が正しい可能性はある」ということに近接する。
「相手が正しい」でも「自分が間違っている」でもありません。ただ単に「相手の観点を、感情も含めて考慮する必要がある」ということです。それでもあなたが100パーセント正しければ、相手に反発したり、相手を拒絶したりするかもしれません。でも大切なことは、相手の立場からどう見えているかを知ることなのです。相手の見方を取り入れることで、自分の視野を広げることができます。それが道徳的進歩(moral progress)につながるのです。
苫野は絶対的な正しさを措定しないが、ガブリエルは絶対的な正しさを措定できると考えている点で、両者の間には立場の違いがあると思われる。
ただ、哲学的に思考する上で、他者の思考を取り入れることが不可欠であると考えている点では、両者の間には共通了解が成立していると思われるのだ。
一般化のワナ
共通了解を見出すために努力するということは、「一般化のワナ」に陥らないようにするということを意味する。
一般化のワナとは、問題の立て方によって狭隘な思考へと誘導することである。
例えば、次のようなことだ。
「ホームレスになるのは自己責任だ」
「富裕層は自分のことしか考えていない」
「労働者はインセンティブを与えてあげないと働かない」
「うちの経営陣は無能だ」
一般化のワナの多くは、自らの経験(体験や伝聞)を過度に一般化することによって、自縄自縛的に仕掛けられる。
「私も一時期ホームレスになることを覚悟するくらいに困窮したことがあった。しかし、努力によって立ち直ることができた。だから、ホームレスにならないように努力すべきだ」
「お金持ちのクラスメートが『1キロ先に行くにもタクシーを使う』なんて自慢していた。だから、お金持ちは社会的にもっと批判されるべきだ」
ここで使用している「だから」という順節の接続詞には、論理的な飛躍がある。
経験を論理的に飛躍させることで導き出される問題の一般化は、総じて不適切な問題であり、状況を混乱させる結論を導き出す。
ある事実を根拠に、どれかひとつの「べし」を特権的に導き出すことなんてできないのだ。
事実から当為は直接導けない。このことを、僕たちはつねに肝に銘じておく必要がある。 ー強調は引用者
命令の思想を、条件解明の思考へと転換しよう。 たとえば、「人に思いやりを持て!」と命令するのではなく、「どうすれば人は人を思いやれるんだろう?」と考える。「苦しんでいる人たちへの無関心は悪である!」というのではなく、「どうすれば無関心が関心に変わるんだろう?」と考える。「震災ボランティアをやらないお前たちは人間としてまちがっている!」というのではなく、「人はどのような条件が整った時にボランティアをしたくなるんだろう?」と考える。
苫野によれば、「哲学の本領の半分くらいは、以上見てきたような〝ニセ問題〟を、意味のある問いへと立て直すことにある」という。
対話や議論において重要なのは、こうした「一般化のワナ」に陥ることなく、お互いの経験や考えを交換し合って、どこまでなら納得し合うことができるのか、その〝共通了解〟を見出そうとすることだ。
問い方のマジック
一般化のワナと同じく注意しなければいけないのは、問い方のマジックである。
例えば、次のような問いがあげられる。
・教育は子どものためか?社会のためか?
・人間は本来的に善であるか?悪であるか?
こうした二項対立的な問いの立て方は、人びとの思考の幅を大きく狭める。
実際には、教育は子どものためでもあるし、社会にとって有用である場合もある。また、自分の中に良いことをしたいという気持ちが湧く時もあれば、今ちょっと意地悪なことを考えたなと思うときもある。
したがって、次のように問い方を変えることが大切だ。
・教育はどのような意味において子どものためにあり、どのような意味において国家のためにあるか?
・人間はどのようなときに善をなし、どのようなときに悪をなすのか?
このように問い方を変えれば、「お互いの経験や考えを交換し合って、どこまでなら納得し合うことができるのか、その〝共通了解〟を見出そうとすること」はできるはずだ。
欲望相関性の原理
ところで、ぼくたちは一般化のワナや問い方のマジックに引っ掛かり、あるいは自らが他人を引っ掛けていることに気づく。それも日常的に繰り返している。
一体どうしたことだろう?
それは、ぼくたちの世界認識のあり方に関わっている。ぼくたちは、世界を自らの欲望や関心に応じて認識しているのだ。
哲学における思考の出発点は、ぼくたちの確信や信念に基づく。しかし、その確信や信念は、ぼくたちの欲望に応じて抱かれたものである。
例えば、人びとは平等であるべきだという確信は、「みな平等であって欲しい」という願望に基づいて形成されている。
だとすれば、ぼくたちは一般化のワナや問い方のマジックから逃れられないという結論を、それはつまるところ、思想的な対立はなくならないという身も蓋もない結論を述べなければならないのだろうか?
そうではない。欲望を理解し合うことができれば、「対立から協同へとひっくり返る」ことが可能だ。
苫野は言う。
もし僕たちが本気で対立を乗り越えたいと思うなら、こんなふうにお互いの欲望・関心の次元にまでさかのぼり、その上で、お互いが納得できる共通関心と、それを叶えるためのよりよい第三のアイデアを見出し合っていくべきなのだ。
超ディベート
ここで言う第3のアイデアを見出し合う方法が、「超ディベート」だ。
超ディベートとは、「いわゆる競技ディベートのように、肯定側と否定側、どちらが説得力があったかを競うのではなく、お互いに納得できる〝第三のアイデア〟を見出し合う対話」である。「共通了解志向型対話」とも言い換えられる。
やり方は次のとおりだ。
❶対立する意見の底にある、それぞれの「欲望・関心」を自覚的にさかのぼり明らかにする。
❷お互いに納得できる「共通関心」を見出す。
❸この「共通関心」を満たしうる、建設的な第三のアイデアを考え合う。
超ディベートは、妥協点の模索ではない。
妥協は、お互いがお互いに少しずつ折れることで、はじめに求めていたレベルより低い地点での合意を得ることだ。
それに対して「共通了解志向型対話」は、文字通り、どちらもが納得できるよりよい〝共通了解〟〝第三のアイデア〟を、共に見出し合うことをめざすものなのだ。
「ああしたい」「こうしたい」という欲望を否定するのではなく、まずは自分の欲望に気づき、それを受け容れる。
そして、お互いの欲望の共通の関心事を探る。
そこまでできたら、あとはそれを満たす解決策を採用するだけだ。
その段階になって別の欲望が共通了解の新たな壁となることもあるだろう。その場合、根っこの欲望にあらためて立ち戻る必要がある。現実的にはそれを何度も何度も繰り返し、お互いに成熟していくことを保障しなければならないだろう。
哲学的思考は一朝一夕には身につかない。訓練が必要なのだ。
たとえば、いまの野党共闘の課題は、超ディベートの訓練の真っ最中だと見ることもできよう。訓練の中で、状況は変わるはずだ。
欲望は変わる。これは僕たち人間の希望なのだ。