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⬛︎読書記録 差別感情の哲学(中島義道)

ここまで心を抉られた本は今まで出会ったことがなかった。出会えてよかった。ほんとうにそう思う。

本書は疑問を投げかけてくれた。あなたの『普通』は誰かの『普通』ではない。

冒頭は、すべての差別や悪の感情を抑え付け、なくすことは可能か?そしてそんな世界は面白いのか?様々な感情があるからこそ人間であり、悪の感情も人間存在を輝かせる宝庫であると述べている。人間だからこそ攻撃本能があり、敵がいるから味方がいる…そんな人間の"らしさ"に差別は潜んでおり、だからこそ、差別をやめましょう。差別用語を発したものを罰して辞めさせましょう。なんてことを続けても意味がないのだと。

すべての行為に、相手への不快・嫌悪・軽蔑・恐怖、そして自分の肯定的な誇り・自尊心・帰属意識・向上心という感情が潜んでいる。
特に今の時代は、差別に厳しい。明らかな差別用語などは絶対に発言してはならない。
ただそれは表立ってないだけであり、差別感情はなくならず、内面に閉じ込められて表から見えないだけだ。

一方で、被差別者からすると、それらの感情を敏感に受け取っている。そこには明らかなまなざしがあるからだと。まなざしの差別は、かなり根深く、これは自分自身に切り込みを入れていく必要があると感じた。
被差別者へのまなざしの中に隠されたこのような自分の醜さを突きつけられながらも、自分自身と対話する。自己批判精神と繊細な精神をたずさえて、絶えず対話をつづける必要がある。

著者は自分が障害者とすれ違う瞬間に自分が抱いた言いようのないなんとも言えない感情と向き合った日のことを綴っていたが、これは多くの人が体験したことのある感覚・感情ではないかと思う。
私が抱いたのはただの哀れみではないか?勝手に相手の人生は過酷である、なので尊敬すると思い込むことで自分に免罪符を与えていないか?
深掘りすればするほど、非常に気持ちの悪い、醜い自分が浮き彫りになる。
でもそれでいいのだ、と著者は伝えている。

自分の中の信念ー差別すべきではない、こうあるべきだなどーに対する誠実性とを保ちながら、他人の幸福を願うことはできるのか?
究極の問いであるし、正直答えはない。
未来は暗い。だがそれが最善である。
ジョン・キーツの言葉を思い出した。
暗いからこそ、考えるし、考えて対話することをやめないのだと思う。

さまざまな感情は思い込みや刷り込みから始まる。歪曲され、一般化され、省略され、それらが感情となり、発露し、嫌悪なのか不快なのか何かしらの名前がつけられる。
心理学を学んだ時、この仕組みを知り自分がいかに思い込みや刷り込みの色付きメガネをたくさん持っているかに気が付いた。すべての行為において、瞬時に眼鏡の色を変えて生きている。それが人間だと諦めて良いのか?それは違うだろう。
その思い込みや刷り込みの芽を摘み、多角的に物事を見ることができるようにさまざまな意見・信条・身分・立場の人々とコミュニケーションを重ね、差別の実態をしり、繊細な精神で思考し続けること必要だ。書くと簡単で、綺麗事のように聞こえるが、相当に過酷だ。ほぼ毎日とるにたらない自尊心や、著者が最後に記している『虚しい誇り』の下に生きている。
そんなどうしようもない自分と向き合うことが、他者との共存や多様性をこの社会にもたらすのだと理解して読了した。

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