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【連載】C-POPの歴史 第19回 台湾の2000年代-1 蔡依林(ジョリン・ツァイ)、S.H.E.から陳綺貞(チア・チェン)まで

中国、香港、台湾などで主に制作される中国語(広東語等含む)のポップスをC-POPと呼んでいて(要するにJ-POP、K-POPに対するC-POPです)、その歴史を、1920年代から最新の音楽まで100年の歴史を時代別に紹介する当連載。前回は、移民の中国人を代表する音楽家であり、アジア系で初めて米国の大手レーベルと契約した歴史的であり現役のラッパー、MC Jinを取り上げました。

今回から数回かけて、台湾の’00年代(2000〜2009年)の音楽を振り返ってみたいと思います。まずは、女性ソロと、女性グループに絞って、'00年代を振り返ります。この時代の女性ヴォーカリストといえば、何はなくても蔡依林(ジョリン・ツァイ)でした。この項目ではジョリンの魅力も余すことなく紹介します!


台北はC-POPの新しい首都となった!

C-POPに首都という概念はありませんが、中心地として、1920年代から第二次世界大戦までは上海、戦後から1997年(香港返還前)までが香港、そして21世紀以降は台北が中心地、すなわち首都であると私はこの連載で(勝手に決めて)説明しております。ちなみに現代は北京が首都の座を狙って追い上げてますが、まだまだ台北には届かないというのが私の見立てです。なぜそう言えるんでしょうか。それは中華系、華人、華僑として多くの地域に散らばったC-POPアーティストが、21世紀に入って以降は台北に活動拠点を置くようになったからです。たとえばマレーシアのフィッシュ・リョン、シンガポールのタニア・チュアなど。この項目では触れませんが、中国本土遼寧省出身のナー・イン、香港出身のココ・リーなども台湾を活動拠点に据えました。このように世界中から才能が集まる場所こそ、中心地、首都に違いありません。J-POPの首都は東京、K-POPの首都はソウルとガチガチに決まっていて動きませんが、C-POPは時代によって流れが変わり移ろっていくというのも面白いポイントと言えるかもしれません。

そんな、C-POP中心地、ゼロ年代の台湾にはどんなアーティストがいたのでしょうか。まずは女性グループから振り返ってみましょう。

ガールズグループ→とにかくS.H.E.の時代!

台湾音楽界は、C-POPの主要地域の中で、最も日本の影響を受けている地域と言えるかもしれません。ですので、日本では00年代から再燃するアイドルグループ文化もいち早く取り入れていきます。様々なガールズグループが登場しましたが、この時代、最も成功したのはS.H.E.でしょう。S.H.E.は世紀が変わった2001年にデビュー。まさに、21世紀初頭に新時代の幕開けのような存在としてデビューでした。それではデビュー曲を聴いてください。

戀人未滿(Not Yet Lovers)/S.H.E.(2001年)

Selina(セリナ)と、Hebe(ヒビ)と、Ella(エラ)。三人合わせてS.H.E.が彼女たちの呼び名。デビュー曲はあのDestiny's Child(デスティニーズ・チャイルド)のBlue eyesのカバー。S.H.E.は東洋のDestiny's Childを目指したのでしょうか。正直にいえば歌唱力だけで比較するならDestiny's Childとはちょっと劣るかもしれませんが、アイドルだと思って聴くとかなり歌唱力が高いグループです。アイドルのデビュー曲といえばダンサブルでノリのいい曲が選ばれがちだと思いますが、この抑制の効いた曲を選んだことから、プロデューサーは彼女たちを本格派アーティストにしたかったのでしょう。その企みは成功し、現在まで台湾女性グループの中では圧倒的存在感を誇るグループだと思います。

五分熟/Yummy(2005年)

この連載は、誰もが納得のいく、その時代を代表するアーティストを取り上げつつ、あまり知られてないけど自分が今の耳で聞いてもいいと思えるアーティストをみなさんに紹介するということの両面をモットーとしているのですが、こちらは私が好きな女性グループ、Yummyから「五分熟」という曲。こちらはドイツのSweetboxという音楽ユニットのDon't Push meという曲。

Destiny's Childのような大ネタじゃなくて、ドイツのユニットのキャッチーな曲を引っ張ってくるところなど、個人的にはなかなかセンスのいいガールズグループだったのではないかと思います。レストランを舞台にしたMVや、ダンスの決まり具合も素敵です。残念ながら彼女たちは一枚のアルバムを発表後解散してしまいました。4人のメンバーのうち2人、徐淑薇王樂妍は今も芸能界に生き残って活動しています。

中國話/S.H.E.(2007年)

この時代のガールズグループといえばやっぱりS.H.E.をおいて他にいないのでもう一曲紹介させてください。S.H.E.ではEllaが低音とラップパートを担当することが多いのですが、Ellaのかっこいい低音とラップを余すことなく堪能できるのがこの曲です。ちなみに、S.H.E.は何回かの活動休止を経つつも、現在もオリジナルメンバーの3人で活動を続けています。メンバーチェンジを繰り返すことの多い日本の女性アイドルグループとの大きな違いと言えるかもしれません。人気が落ちることなく息の長い活動が可能だったのは、Ellaの低音とラップがあったからじゃないかな、と個人的には思います。おそらくSelina(誰もが好きな明るい女性って感じ)とHebe(少しミステリアスな雰囲気があっていかにもアイドルっぽい!)の方が女子力が高く人気があるんだと思いますが、Ellaのクールな魅力は同性人気を支え、そのことが活動の安定感に繋がっているんじゃないかと個人的には推測します。つまり、いいバランスの3人ってこと!

私は遊びで、このグループは日本でいえば誰に当たるのか、ってことを考えるのが好きです。台湾にはこの後もさまざまなガールズグループが登場しますが、総合的に見て最も成功したグループはS.H.E.だと思います。活動期間が長く続いているという意味でPerfumeともいえますし、誰も人気で越えられなかった国民的存在という意味で、彼女たちはキャンディーズみたいな存在かもしれません。

女性ソロは群雄割拠

勇氣/梁静茹(Fish Leong)(2001年)

アジアのポップスの中でもとにかく台湾のポップスは歌い上げる歌ものが大好きなイメージがあります。ですのでこの時代も多くの歌い上げ系女性シンガーが生まれました。なかでも抜群の人気を誇ったのは、梁静茹(Fish Leong/フィッシュ・リョン)だと思います。彼女はマレーシアの華人ですが、デビューは台湾で、以降台湾をメインで活躍します。そんな彼女の中でも、代表曲といえばこの曲になるのではないでしょうか。原曲は光良(マイケル・ウォン)という、台湾では90年代から活動しているシンガーソングライターです。

ちなみに、そんな逸材フィッシュ・リョンをマレーシアから台湾に連れて来たのは、すでに当連載では何度か名前が出ている王力宏(Wang LeeHom/ワン・リーホン)だったそうです。マレーシアのヌグリ・スンビラン州のバハウ(ここ!)という、そこそこ田舎出身だった彼女は、1996年に地元マレーシアの民謡創作コンテストで3位を獲得し、まずはマレーシアで、たくさんの歌手が収録されたコンピレーションアルバムの一曲としてCDデビューします(曲名は「期待」)。このCDを制作したのは、台湾のロックレコードという大手レコードグループのマレーシア支社でした。その後、ロックレコードマレーシアのオーナーはこのCDを含むいくつかの華人系マレーシア人歌手の曲をワン・リーホンに聴かせます。オーナーが推薦した歌手は他にいたそうですが、リーホンはフィッシュ・リョンに興味を持ち、彼女をオーディションに招待します。オーディション会場でリーホンはフィッシュ・リョンを絶賛。同じ会場にいた台湾の有名プロデューサー、李宗盛(ジョナサン・リー)は彼女と契約することを決定、フィッシュ・リョンの台湾デビューが決定しました。元々広東語を話していたフィッシュ・リョンは中国語の歌唱を勉強するのに大変苦労し、一度はマレーシアに帰国してしまいますが、99年、決意を新たにした彼女は再び台湾にやってきて、デビューアルバムを発表しました。リーホンはMC Jinとそうそうにコラボしたりと(第18回参考)、目利きの力がありますね。

さてこの曲は、彼女の二枚目のアルバムの代表曲であり、この曲が台湾で大きな成功を掴むきっかけとなりました。この曲は恋愛の曲で、以降彼女はラブソングを多数歌ったことから「ラブソングの女王」などと呼ばれるようになりますが、彼女のこれまでの経緯を考えると、ひょっとして「歌の神様」に愛を誓った曲なのかな、と思わなくもありません。

なお、Fishという謎の英語名は、彼女の名前の茹(ru)が、魚(yu)と発音が似ていたからだと言われています!

曖昧/楊丞琳(Rainie Yang)(2005年)

楊丞琳(Rainie Yang/レイニー・ヤン)も、00年代を代表する女性シンガーです。彼女は「4 in Love」という4人組のアイドルグループのメンバーでしたが、その後ソロになってからの方が売れました。「流星花園」など大人気ドラマに出たりと、芸能活動全般が評価されて知名度を得たように思いますが、こうやって楽曲を聴き返してみると歌唱力も非常に高いですよね。彼女が時代を代表する歌い手の1人になったのは必然だったんだなと思わせてくれます。「曖昧」は日本語と同じ意味であるだけでなく、中国語で「アイメイ」と発音するらしく、発音が日本語と似ているのですっと意味が入ってきます。曖昧な関係の2人を鼓舞する歌ですね。愛は多様で、2人にしかわからない世界が必ずあります。わかる。わかるぞレイニー(何が?)

なお、なぜRainie(雨)という英語名になったかというと、4 in Love時代に4人のメンバーにSunny(晴), Windy(風), Cloudy(曇り)と天候にまつわる名前を付けられたからだそうです!

台湾には、女性の作曲家が圧倒的に少ない!

ところで、21世紀C-POPの中心地、台湾の音楽界を支えたのは、豊富な作曲家たちです。歴史的にカバー曲が多かった香港に比べて、自作曲を多く作っていたことで台湾は地位逆転を実現したことを以前に紹介しました。'00年代の作曲家といえばのちに紹介する、周杰倫(ジェイ・チョウ)、王力宏(ワン・リーホン)、そして90年代台湾(第10回)でも紹介した陶喆(デヴィッド・タオ)、林子良(ジョニー・リン)、林俊傑(JJ)などなど。ところでこの人たち、よく考えると全員男性なのです。台湾のシンガーの男女比はそれほどばらつきはないですが、作曲家となると思いつく人物はほぼすべて男性。1980年代に遡ってかろうじて黃韻玲(カイ・ハン/第7回)がシンガーソングライター、つまり自分で作曲もする女流作曲家と呼べます。この時代を代表する女性歌手といえば、ジョリン・ツァイ、A-mei(アーメイ)、ココ・リー、ナー・インなどがいますが、提供された曲を歌うアーティストばかりなのです。これは男女平等の世の中に反します!というわけで、ここからはこの時代では少数派である、自作曲を歌うシンガーソングライターを取り上げることにします。

陌生人(Stranger)/蔡健雅(Tanya Chua)(2003年)

そんな女性シンガーソングライター不足の時代で、この時代で目立った存在といえばまずは蔡健雅(Tanya Chua/タニア・チュア)ではないでしょうか。彼女はシンガポール生まれで、シンガポール生まれらしく最初は英語のアルバムを発表したりしていましたが、台湾に活動地域を移してからは、中国語の歌をたくさん歌いヒットをたくさん飛ばしました。

タニア・チュアという才能を最初に発見したのは、意外にも日本のテレビ番組「アジア・バグース」(フジテレビ系)でした。当番組の出演をきっかけにまずはシンガポールでカバー曲を演奏するバンドにヴォーカリストとして迎え入れられますが、オリジナルを演奏したかった彼女は、97年に地元シンガポールで英語詞のアルバムを発売します。このアルバムの収録曲「Ashes」を聴いた台湾のシンガー、許茹芸(ヴァレン・スー)は「Ending」というタイトルでカバー。こうしてタニア・チュアの名前は台湾にも伝わり、さらに音楽的才能を高めようとアメリカに留学したあと、本格的に中国語のアルバム、つまりC-POPアルバムの制作を始め、台湾でデビューします。神に選ばれて台湾に来たような存在がフィッシュ・リョンなら、自分で運命をたぐりよせたのがタニア・チュアでしょう。

この曲ももちろん自身で作曲した曲で、作詞は本人ではないものの、直接的な表現の多いC-POPの中で、文学的とも言えるようなラブソングに仕上がっているように思います。一言でいえば大人向け。

紅色高跟鞋/蔡健雅(Tanya Chua)(2009年)

タニア・チュアからもう一曲。この曲はぜひ歌詞を感じてほしいです。和訳されてる方のリンクを貼っておきます。作詞も作曲もタニア・チュア。恋人のことを布団に例えたり、風になったり香水になったりお気に入りのハイヒールになったり。この比喩の上品さに惹かれます。

この曲なんか、なかなか雰囲気あって好きなんですがどうですか、みなさん。この詩的で上品で教養がありそうな表現と、ややスモーキーな声が重なる感じ。彼女は中華圏のシェリル・クロウなんじゃないかと勝手に思ってます。声がとても似てる気がするんですよね。

旅行的意義/陳綺貞(Cheer Chen)(2005年)

陳綺貞(Cheer Chen/チア・チェン)も、ゼロ年代にはまだめずらしい女性シンガーソングライターの1人です。歌声も本人もかわいらしく、とても華がある人だと思いますが、MVなど見てもらってもわかると思いますが、本人の魅力よりも、あくまで楽曲の魅力を伝えたいというイメージが伝わってきます(本人の顔が多く出てこない)。

おそらく彼女、あるいは彼女サイドの人間は、単なる歌手として消費されるのを防ぎたかったのかもしれません。ファーストアルバムをひっさげたツアーでは、台湾全土の誠品書店(台湾のおしゃれ本屋。蔦屋書店のような存在)を会場に選ぶなど、単純な動員よりもブランディングに力を入れているように感じます。その後も写真集(被写体ではなく、本人が撮影した写真)を出版するなど、その活動はとてもクリエイティブなものでした。さらに、2007年には台湾一のバンド、五月天(メイデイ)とコラボし、その人気を不動のものにしました。

こうして数は限られていますが、女性のシンガーソングライターもじわじわと増えてきました。

C-POPクイーンの1人、蔡依林(Jolin Tsai/ジョリン・ツァイ)について

ということでお待たせしました。ここから、ゼロ年代のトップシンガーといえばこの人、ということで、蔡依林(Jolin Tsai/ジョリン・ツァイ)の魅力的な楽曲を紹介します。ジョリンは、これまでのCDの売り上げは2500万枚以上で、台湾最高、いや、C-POP界最強のアワードである金曲奨を7回受賞したという記録を持っています。いわば、Queen of C-POP。そんなジョリンが駆け抜けた時代を見ていきましょう。

Don't Stop/蔡依林(Jolin Tsai)(2000年)

こちらはセカンドアルバム「Don't Stop」より表題曲。原曲はイギリスのS Club 7というグループのBring it all backという曲のカバー。1枚目ではスローなR&B路線でしたが、こちら2枚目では元気なシンガーというイメージです。ジョリンは1枚目から数十万枚レベルのヒットを飛ばしていて、最初から売れていたといえますが、まだこの段階では流行の歌手の中の1人というイメージでしょう。

その後、所属のレコード会社を、古巣のユニバーサルからソニーに移したあたりから、彼女の真価が垣間見れます。

騎士精神(The Spirit of Knight)/蔡依林(Jolin Tsai)(2003年)

ソニー移籍一発目のシングル。この曲はジョリン本人が作詞を担当してます。移籍一発目、かつ本人作詞ということで、「騎士精神」とは彼女の決意表明のようなイメージの楽曲なんじゃないかなと思います。先ほどの「Don't Stop」に顕著ですが、それまでのジョリンは比較的恋だの愛だのの曲が多かったように思うのですが、ここで彼女は、自分らしさのようなものを高らかに宣言しているように思います。そしてそれはジョリンを含むゼロ年代以降の女性歌手に求められる、「女の自立」というイメージを含んだものだと思います。

歌詞も注目するところですが、曲もなかなかユニークな出来だと思います。実は、この曲を作ったのは台湾一のシンガーソングライター、ジェイ・チョウです。ジェイ・チョウは早くからラップを曲に取り入れてきたシンガーの1人ですが、この曲でもラップをフューチャーしています。この時期、まだ女性のラッパーというのは少なかったのですが、ジョリンのラップは新鮮です。

そしてこの曲で最も重要なのは、東洋的、オリエンタルなムードを醸しているところです。台湾で大成功を収めていたジョリンは、徐々にリスナーを台湾の外、外国へと広げていきますが、海外での評価を考えた時に、このようなオリエンタルな曲が果たした役割は大きいと思います。また、MVはタイの古都、アユタヤで撮影され、このこともこの曲のオリエンタルイメージに大きく影響を与えてると思います。

この曲あたりからジョリンは楽曲を与えられる歌手というイメージからアーティストへと脱皮したように思い、その脱皮を手伝ったのがジェイ・チョウという感じでしょう。というわけで、1人目のスター、ジェイ・チョウが果たした役割は脱皮かもしれません。

看我72變/蔡依林(Jolin Tsai)(2003年)

同じアルバムに収録された「看我72變」は、彼女の代表曲の一つです。こちらは、台湾の名プロデューサー王治平によって企画され、編曲も彼が担当しています。特にアレンジ面でかなり大胆な工夫が施されていて、冒頭部で流れる、中国独自の楽器、三弦のイントロ。大胆なエレクトロを入れてくるところもあって、一言でいえばそれまでのC-POPっぽくありません。垢抜けてると思います。この曲といい、先ほどの「騎士精神」と言い、彼女はこの時期、それまでのジョリン・ツァイ、それまでのC-POPの歌姫のイメージを崩そうとしたのではないかと思っています。その目論みは成功していると思います。この、アーティストとしての新しさと、彼女自身の親しみやすさの両面が、彼女をトップスターへと導いていったんだと思います。

獨佔神話(Exclusive Myth)/蔡依林(Jolin Tsai)(2005年)

2005年、もはやトップスターの座をほしいままにしていたジョリンですが、また新しい男に出会ってしまいます。

彼の名前はこの連載では何度も登場する王力宏(ワン・リーホン)。この時期のC-POP界のキーパーソンの1人です。この頃のリーホンは、中国らしさ、中国の意匠をどう表現するかにこだわっていた時期であると思え、この曲も二胡やおそらく古筝などをフューチャーしたエキゾチックな楽曲に仕上がってます。私はジョリンの曲の中でも、あるいはワン・リーホンが誰かに提供した楽曲の中でも、特に好きな曲かもしれません。

この楽曲ではオリエンタリズムを推したジェイ・チョウよりさらにより中国らしさを直接的に表現している曲です。MVのチャイニーズ・ビューティ感もたまらないですよね。どちらかといえば親しみやすい印象のあったジョリンですが、この頃にはひょっとすると近づきがたいようなオーラを手に入れたかもしれません。

というわけで、ジョリンとすれ違った2人目のスター、彼の名はワン・リーホン。彼が彼女に与えたのはアーティストの格のようなものかもしれません。

馬德里不思議/蔡依林(Jolin Tsai)(2006年)

とにかく波に乗るジョリンとC-POP業界を象徴するようなオールスペインロケ。しかもすごいのがこの曲、シングル曲とかでもないんですよね。でも海外ロケ。いやー、予算が潤沢にあります。でもシングル曲でもないですがメロディとかアレンジとかなかなか面白いので取り上げました。それにしても、この曲のMVのなかのジョリン、普段着っぽさも含めてめちゃくちゃ可愛いんですけど! 惚れちゃうよ!笑。 私は旅が趣味なんですが、ジョリンと一緒にスペイン旅行に出かけたい! こんなふうにストリートで軽くステップ踏んだりしながら! なんて素敵な旅になるんでしょうか。

この曲、特に彼女のキャリア上すごく目立った曲でもないんですが、よく聴くとなかなかいい曲です。クレジットを見ると、作曲は陳俊達、製作は李偉菘とこの2人はシンガポール人。この時期、台湾音楽界には、マレーシアやシンガポールなど東南アジア系の才能が集まっていたことが垣間見れます。

今天妳要嫁給我/陶喆(David Tao), 蔡依林(Jolin Tsai)(2006年)

今回も記事制作にあたり、ジョリン・ツァイが00年代に発表した曲をくまなくチェックしましたが、私が最も好きな曲はこの曲かもしれません。それほど凝ったこと、気をてらったようなことはしていませんが、そこはかとなくいい曲。往年の名曲というムードをまとっていて、とてもいいです。デュエットのお相手はこの連載中で、台湾の音楽を90年代にかっこよくさせた男、として紹介した(第10回参考)デヴィッド・タオ(陶喆)。これは選者としてあるまじきかもしれませんが、やっぱり個人的にデヴィッド・タオの音楽が好きなのかもしれません。ジョリンとすれ違った3人目のスター、それがデヴィッド・タオでした。

さて、ジェイ・チョウが作った「騎士精神」、ワン・リーホンの「獨佔神話」、そしてデヴィッド・タオによる「今天妳要嫁給我」の3曲は、ダンサブルではない「聴かせる系の音楽」で、「中国/東洋っぽい楽器やアレンジやメロディを取り入れた曲」で、かつ3人とも当代きってのシンガーソングライターであり他人に楽曲を提供する男という共通点がありまして、この3曲を聴き比べるのもなかなか面白いです。あなたは、誰にプロデュースされたジョリンがお好き? これだけ多くの才能に愛されたジョリンこそ、C-POPの女王という称号が相応しいでしょう。

まとめ

さてこの項目では、豊作のゼロ年代台湾音楽のうち、女性ソロ、あるいは女性グループに絞って取り上げさせていただきました。やはり、何はなくても女性ではジョリンの活躍がぶっちぎりだった時代だったと思います。

自分で曲を書かないジョリンが何を成し遂げたのか。歌もダンスもうまいし、インパクトのあるファッションも堂々と着こなし、私らしくかっこよく生きる姿を見せる。古くはマドンナ、そして現在ならレディ・ガガあたりまで繋がる、トータルコンセプトで表現する世界規模の女性シンガーというイメージにC-POP界で最初に追いついたアーティスト、と言えるかもしれません。C-POPの、特に女性シンガーの歴史は、ジョリン以前とジョリン以降に別れるような気がします。

ジョリンは安室奈美恵と比較されることが多いのですが、確かに2人の立ち位置は、そういった意味でとても似てると思います。安室は引退しましたが、ジョリンは現役。Queen of C-POP、ジョリンの旅はまだ終わりません。

バックナンバー

1927年から2025年まで、約100年のC-POPの歴史を紹介する連載。過去記事は以下で読めます。






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