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#116 さあ、何を信じて生きようか

30代はよく「人生に迷う時期」と言われる。
仕事が安定してきて、人によっては結婚したり、子どもを産んだりして、ある程度のライフイベントを終える。
そして、「人生このままでいいのか」と思うのである。

実際に30代になって思った。
結局のところ、人生の迷いに年齢も時期も関係はない。

僕は34年間の人生の大半は、迷いながら生きてきた。
そして、今だって迷いながら生きている。

大々的に「図書館司書」というアイデンティティを掲げているものの、果たして本当にこのまま司書として生きたいのだろうか。
noteの中で自由に書いているけれど、本当はテーマを一本化した方がいいのではないだろうか。

毎日毎日、僕は揺れている。

そう。
「サラバ!」を読んで、僕は「揺れている」ことに気づいたのだった。
そして、揺れているときは、自分にあるものを信じられていないということに気づかされたのだった。

「サラバ!」はこんな話

著者である西加奈子さんの半生を、あゆむという男の人生に乗せて綴られた壮大な大河小説。

歩は小さな頃から「いい子」だった。
両親の言うことは素直に聞いていたし、周りに何か反論することもしない。
その理由は家族にあった。
姉は自己顕示欲の塊で、周りと常に軋轢を持っていた。
母とも衝突し、家出することもあり、そんな破天荒な姉の貴子たかこが近くにいたから、歩は「いい子」にならざるを得なかったのである。

だが、父の仕事の都合で小学校時代の一部を過ごしたエジプトでは、「いい子」から解き放たれた時間もあった。
言葉は通じないが、大親友のヤコブという少年と会っている時間だけは。
嫌なことがあっても、辛いことがあっても、彼らだけの呪文を唱えれば気持ちが楽になる。
それが「サラバ」という呪文だった。
しかし、それも時を経て、歩の人生から消え失せていってしまう。

「いい子」を装うことは、受け身の姿勢を育てることにもなった。
両親の都合で日本に帰国した彼は、その端正な見た目によって、人間関係に困ることはなかった。周りが話しかけてきてくれるから。
彼女が途切れることはなかったし、社会人になり仕事もフリーライターとして細々と続けられてもいた。

しかし、家族の崩壊と共に、彼の人生も徐々に崩れていくことになる。
残酷なまでに、時間が彼の光を奪っていく。
その先に待ち受けるのは残酷な未来か、あるいは――

「信じるものを見つけないといけない」

前半は、歩の人生が輝いている時期を描いている。
そして、後半はその輝きが失せ始め、徐々に崩れていく様を描いている。

が、これはあくまで歩の視点から言えること。
この物語のもう一人の主人公は、彼の姉である貴子だと思っている。

貴子の視点から見ると、前半は母親や周りとの関係もうまくいかず、自宅に引きこもる暗黒時代。
一方で、後半は人が変わったかのように、人生を楽しむ彼女の姿が描かれている。

この2人の大きな違いは2つある。
1つ目は人生において、能動的かどうか。
歩はその見た目と「いい子」を演じることによって、極めて受け身に。
それが後々仇となり、徐々に人生が落ちていく。
一方で貴子は自己顕示欲の強さゆえに能動的に自己表現をしている。
それが実を結ぶことは長らくなかったけれど、最終的には、その能動的な姿勢によって彼女の人生が花開くこととなる。
やはり人生において、「自分から動く」ことが何より大切なのだろう。

2つ目は、信じるものがあるかどうか。
貴子は紆余曲折を経て、信じるものを見つけ、人が変わったかのように人生を楽しむようになっていた。
一方で歩は何も信じることができず、ただただ信じるものを待つだけの人生になっていた。

物語後半は、そんな歩の鬱屈した感情で読むのも苦しいくらいである。
しかし、人の変わった貴子が歩にこう語り掛ける。

「歩、あなたは、信じるものを見つけないといけない。

「サラバ! 下」(小学館)p.246より引用

かつて自分勝手な行動ばかり繰り返した姉のその言葉。
歩は鼻で笑うが、めげずに姉は愛する弟に語り掛ける。

「あなたも、信じるものを見つけなさい。あなただけが信じられるものを。他の誰かと比べてはだめ。もちろん私とも、家族とも、友達ともよ。あなたはあなたなの。あなたは、あなたでしかないのよ。

「サラバ! 下」(小学館)p.250より引用

それでも歩は相手にしない。
それでも貴子はひるまず、こう語る。

あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。

「サラバ! 下」(小学館)p.250より引用

その後、歩はどうなったのか。
是非、物語を読んで、その目で確かめてほしい。
人生に迷っている人ほど、心打たれることを約束する。

信じるものは、自分で決める

人生に迷うということは、今あるものを完全に信じられていないということでもあるのではないだろうか。

例えば、仕事。
自分の能力や在籍している会社を信じられなければ、「このままでいいのか」と揺れるのは至極当然のことである。

例えば、学校。
先生も周りの友達も、そして学校にいる自分にも信じられる要素がないのなら、「行きたくない」と思うことはとても自然なことだと思う。

人間関係だってなんだって、信じていなかったら揺れるのは当たり前だ。
それだけ、人生において「信じる」ことは大切なことで、人生の支柱にもなりうることなのだろう。

僕も振り返れば、迷っているとき、揺れているときは仕事も、会社も、学校も信じられなくなっているときだと気が付いた。
今も自分が在籍している会社を信じられていない。だから揺れている。

noteにだって迷いはある。
だけど、それは前向きな迷いでもある。
何よりこうして続けられている理由は、ようやく「自分の書く文章」と「執筆への愛情」を信じることができたからだと確信している。

だからこれからも自分の文章と、執筆への愛情を信じることにする。
だから、これからも書く人間として生きていく。

あともう一つは、自分の直感も信じている。
6月に浮かんだnoteを始めた方がいいという直感は当たっていた。
「サラバ!」を34歳最初に読むべきだと思った直感も当たっていた。

そんなの、自分の気分次第じゃないかって?
その通りだ。

貴子の言う通り、他人の尺度で自分の信じるものは測れない。
自分の信じるものは、自分で決めることなのだ。

これ以外にも信じるものは出てくるかもしれない。
一度きりの人生を楽しむために、何を信じて生きていこう。
それを一つでも多く見つけていきたい。




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