
【映画評】『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』に越してきたジョイスとウルフ
The Room Next Door
スペイン/アメリカ,2024
監督:ペドロ・アルモドバル
公式サイト
https://warnerbros.co.jp/movies/detail.php?title_id=59643&c=1
まえがき
スペインの淫美魔人ことペドロ・アルモドバル監督、初の全編英語による長編映画。かつ、彼のフィルモグラフィの中では意外なほどの静けさが際立つ作品だった。
それでも、開幕から早々に画面を刺す赤!(それを支える緑、黄も)そして官能的な弦楽曲(盟友アルベルト・イグレシアス)に、紛れもなくアルモドバル映画であるなぁと嬉しくなる。
さて、今作は「旧友から尊厳死の《看取り》を頼まれる女性」の話。
デリケートで現代らしい問題を扱いつつ、「奇縁からこそ生まれるシスターフッド」や「母性の探求」、あるいは「教会への懐疑」といった監督過去作で繰り返し語られてきた要素を確かに見つけることができる。そしてそれ以上に、もしかすると最も「やさしい」境地に辿り着いた物語かもしれない。
1.共に苦しむ覚悟としての《共感》
今作には原作となる小説があり、そちらのタイトルは『What Are You Going Through』。和訳すると「あなたは、どのように苦しんでいるのですか?」となる。
これはフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユのテキストの英訳であり、彼女の著作や思想の中でも中核になるようなフレーズ(小説の序文にも引用されている)。
この問いは聖杯伝説と絡めて語られ、真に器を手にする資格があるのは苦しむ人にこのような声を掛けられる人である…という。即ち、相手の痛みを受け入れて共に苦しむ(※1)深い《共感》を前提にしたケアの重要性を指し示しており、映画にも通底する重要なテーマとなっている。
末期癌に侵され自らの余命を計る日々を過ごすマーサ(ティルダ・スウィントン)が、ふとしたことで再会した旧友イングリッド(ジュリアン・ムーア)に望むのもまさに《共感》だった。
このまま肉体と精神を消耗させ尊厳を擦り減らすのではなく、終わりのタイミングを自分の意思で決定したい。ただその瞬間、隣の部屋(the room next door)に誰かがいると確信することで心の平安を得たい…
当然、尊厳死という考え方自体は賛否があるものだし、そもそも実行はがっつり違法であり(そのためマーサは様々な準備や工作をする)、イングリッドも大いに悩み尽くす。しかし今作が描いているのはその価値観の是非ではなく、《共感》の可能性なのだと思う。
《死》とは、点ではなく線で起こる。
病を抱えていようといまいと、誰もが生まれた瞬間から避けようのない《死》に向かって日々毎秒行進している。つまりわたしたちは等しく《死》の途上にあり、更に言うなら本人の心臓が止まる日を経てなお、周囲の人々の中で《死》は余波となって続いて行くのだ(その意味で、人が真に独りで死ぬことはいまや難しい)…
そんな忘れがちな事実を、イングリッドとマーサが過ごすことになる短い共同生活の様子から思い出す。尊厳死という選択に対して法的にこうとか倫理的にどうとか外野が言っている間に、当人や周囲の人々の中で個別具体の《死》は既に始まり、滲み、広がっている。そのとき、救いになれるのは《共感》なのであろう。
初め、マーサはイングリッドに「隣の部屋で眠ってほしい。朝、ドアが閉まっていたらそれがサイン」と告げる。
ところが、実際イングリッドが陣取ったのは隣ではなく下の部屋だったし、途中ではとある(不謹慎ながら笑っちゃうような)「ミス」も起こる。そして、やがて訪れた「そのとき」にイングリッドのいた場所は…
これらの経緯から、マーサの生(死)にとって最終的に重要となったのは必ずしも「死に方」ではなかったことがわかる。勿論それはマーサ自身でも気づいておらず、一人では辿り着けなかった地点だろう。イングリッドも苦悩しながら《共感》を体得し、その時間が平安と誇りをマーサにもたらしたのだ。
そして今作の旨味は、そんなパーソナルな《共感》を越えて広い射程へと届かせようとしている点にある。その解釈を後押ししてくれる存在として、この映画にはある2人の作家への目配せがあると思う。
2.ダブリン、ロンドン、NY
2人の作家とは、ジェイムズ・ジョイスとヴァージニア・ウルフ。
まずジョイスに関しては劇中でダイレクトに作品が引用される。代表的短編集『ダブリナーズ』所収の一篇、『死せるものたち(The Dead)』(※2)だ。
映画の中では小説のラストシーンにあたる箇所の文章が引用されるほか、イングリッドとマーサが映画版(わたしは未見)を一緒に観る場面もある。
眠りに落ちつつ見つめると、ひらひら舞う銀色と黒の雪が、灯火の中を斜めに降り落ちる。(略)雪がかすかに音立てて宇宙の彼方から舞い降り、生けるものと死せるものの上にあまねく、そのすべての最期の降下のごとく、かすかに音立てて降り落ちるのを聞きながら、彼の魂はゆっくりと感覚を失っていった。
幻想的、かつ(本の最後を飾る篇であることも手伝ってか)茫漠な広がりと終末感を強く感じさせる一節だ。加えて特筆すべきは、このまるで悟りのごとき感覚は、ある夜に主人公が妻に対して抱いた親近感や情欲がまるで一方通行だったことに気付いたあとに去来したものだった、ということである。
ここからは《共感》の難しさが見えると同時に、だからこその可能性、尊さが強調されているように思う。
一方のウルフについては、イングリッドとマーサの会話の中で名前が挙がる。彼女らは過去に元カレを共有していて、その関係性をウルフ、リットン・ストレイチー、ドーラ・キャリントン(※3)のそれと重ねるのだ。
ウルフもまた、《共感》の作家であった。
「意識の流れ」と呼ばれる手法を用いて、キャラクター個々人の内面をまるで憑依したかのごとく微細に描写しながら伝染を繰り返すように渡り歩いていき、最終的には個別具体的なはずの思考・人生と誰もが調和し繋がっているような感覚が得られる。
たとえば彼女の代表作『ダロウェイ夫人』においては、上のジョイスの一節と共通するような視点をもった場面がある。
なぜこれほど生を愛し、生を見つめたがるのか、誰も知らない。(略)怒鳴り声と喧騒に、馬車と乗用車とバスと運送車に、踊りながら歩くサンドイッチマンに、ブラスバンドと手回しオルガンに、頭上を飛ぶ飛行機の得意げな爆音と甲高い奇妙な唸りに、わたしの愛するものがある。生と、ロンドンと、この六月の一瞬がある。
これは小説の序盤、爽やかな朝にパーティの準備を始める主人公が全能感に近い感覚に満たされている状態ではあるのだけれど、並べてみると上記のジョイスと対にできるような悟りと、ミクロからマクロへ広がる《共感》のダイナミクスを感じることができる。
映画の中では時折、ジャーナリストであったマーサが経験した戦争の話や、イングリッドの恋人が憂う環境問題の話、といったやけに「マクロな」エピソードが挟み込まれる。マーサの死に寄り添うという「ミクロな」メインストーリーからすれば違和感にもなるような寄り道だけれど、ジョイスやウルフ的な《共感》をもって見ると、二者は自ずと繋がってくるようだ。
イングリッドたちの前には『死せるものたち』と同じに雪が降り(※4)、おのずと視線は窓の外、マクロな彼方へと向かう。「隣の部屋」の誰かの苦しみを気遣いケアすることと、世界の裏側で起こっている苦しみを想像することは、ここにおいて同期できることに気付かされる。
まとめ
思えば、ペドロ・アルモドバル監督は過去作からずっと様々な既成の枠組み(性や血縁など)を超越して繋がる奇妙な縁や連帯の姿を描き続けてきた人だった。
誰かの死を共有することによって新たな縁が生まれ、時には新たな命を守ることに繋がりもする。そんな紡ぎ続けてきた価値観が、どこか老成したような境地に至ったのが今作『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』であったように思える。
物書きであるイングリッドは映画の冒頭で本を出している。彼女いわく「死を理解し、受け入れるために書いた」本らしい。これはおそらくコロナ禍のパンデミックを経た本なのでは?ということが仄めかされ、サイン会に来た客は「もうあんなことは起こらない、と言ってください」と言う。
イングリッドはこれに答えず、その直後に彼女はマーサと言う《死》に直面することになる。そう、目を背けたりいかに自分なりに整理をつけようとも、《死》は常に起こっていて止めることはできない。
しかし、今作を深い《共感》の視点を通して観て、イングリッドがマーサの死後に出会うとある人物のことを思うとき、あえてこう言えるような気もしてくるのだ。
人が死ぬのは、誰かが生きるためである、と。
私はまた足もとの砂を見ましたらその砂粒の中にも黄いろや青や小さな火がちらちらまたたいているのでした。恐らくはそのツェラ高原の過冷却湖畔も天の銀河の一部と思われました。
おまけ
今作でイングリッドを演じたジュリアン・ムーアは、過去に『めぐりあう時間たち』というやはりヴァージニア・ウルフに縁が深い映画に出演していたりもする。こちらはがっつり『ダロウェイ夫人』な作品で、名作!
注なるもの
※1:この点で、「どしたん、話聞こか?」とは似て非なるものである。
※2:映画内字幕での表記は『死者たち』。
※3:ブルームズベリー・グループ。
※4:ピンクの雪は環境問題とも重ねられている。