怒りに我を忘れるなって言うけどさ

Don’t look back in anger, I heard to say.

Twitter上で僕はいつも怒っている、と言われている。

まず僕はADHDだから、急な予定変更がダメである。今、この国は急な予定変更しかないのだ。イライラする。誰のせいでもないが、イライラする。職場では何ということはないという顔をしているが、親しい先生からは
「あー今イライラしてるでしょー」
と言われる。ええ、イライラしてますとも。この休校はいつまで続くんですかねえ。急に休んだり急に始めたり始めようとしてやっぱりやめたりするの、やめてもらえませんかね。

無能な政治であったり、無体なことを言う人であったり、他人の権利を意識的もしくは無意識的に侵害する人だったり、レイシストだったりレイシストだったりレイシストだったりああもう本当にレイシストは勘弁してほしいのだけれども、そういう人の姿を見ては怒っている。

最近、「怒りはエンタメだよね」という人が現れて少し炎上していたが、怒りは確かにカタルシスの要素を含んでいる。不思議なことだが怒った後少し機嫌が良かったりする。え、何言ってるの俺。

怒りの感情は、大切なものを傷つけられたときに起こる、のだそうである。自分が大切にしているものなんてほとんどないし、それを傷つけられることはそうはない、はずだ。Twitterなんだから。実生活に侵入してくることはそうないだろう。

Twitterでの怒りの源となるのは、大概義憤である。このままこの国が悪い方に行くのは、見てられない、という気持ちである。

しかし、そんなこと知ったこっちゃない、という人にはどうでもいいことだ。「誰かを批判しないから犬や猫はいいよねえ」と言いたくなる気持ちもわからなくはない。

だが、本当に辛い気持ちを抱えている人にとって、適切な時に怒りを表明することはとても大事なことだ、と思う。適切に怒れないと、怒りが不適切な形で爆発するか、怒りを発することなく消えていくことになる。困っている人にしか困っていることはわからないのだから、困っていることを表明するのは大切である。政治がそれを救うかは別として、である。

だが、怒りは最も難しい表現である。悲しみは誰かに寄り添ってもらうことができる。怒りに寄り添うのは難しい。怒りの姿を見て気分がいい人はあまりいない。誰かが怒っているのを見たら、とりあえず距離を置くのが生活の知恵だろうと思う。政治や思想的な怒りはなおさらだ。みんなが同じ感情を抱いているわけではないからだ。

前は「おかしい」と思っていても同じことで怒っている人は少なかった。いろんな人から「なんであんなにいつも怒ってるの?」と言われていた。

最近は、自分の怒りがTwitter上でもいろんな人の怒りにシンクロすることが多くなってきた。それだけ世の中がキツくなってるのかもしれない。だが、そうすると怖いのは、自分が正義の側にいる、と思うことだ。

正義はたちが悪いのだ。自分が正義だと思ってる人間は傲慢になる。自分の行動にためらいがなくなる。最近怒って少しすっとするのは、自分が正義の側にいるという気分が生まれているからだ。そういうことを忘れないようにしなくちゃなと思うのだ。

アンパンマンの作者のやなせたかしさんは言っている。

本当の正義は1人でなされなければならない。正義は孤独でなければならない。(「わたしが正義について語るなら」)

自分が正しいと思っている人間はタチが悪い。

怒りに我を忘れそうになったら、少しそんなことを考えてみたりもする。

もちろん少しも遠慮などしないのだけれど。



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