少しの安心
子どものころ
こうしなければ正解じゃない
これができなければ認められない
結果が全てではないと言いつつ
点数は存在することで
無意識に
無自覚に
自分はダメなんだという刷り込みや
他者や社会からの評価による自分
そんなことのオンパレードだった
世界にできあがった
完璧なものを見ては
私とは違う世界と
他者を上にみて
自分を下げてしまう
無意識の自己卑下があった
そしてその完璧な世界に触れてしまうと
弱い自分を守らないといけないと
自己防衛の意識を強め
さらに無意識の緊張状態が起こってしまい
信頼と離れてしまう
そこから
自分を大切にすることの
大切さに気づいたときに
それを自分が自分に
やり続けているけれど
本音と建前ではなく
心と言動をなるべく一致させること
つまりそれは自己一致であり
ありのまま存在すること
それは
弱さを隠さないことであるし
失敗も受け入れることであるし
ただ どんな自分もそれで良いと
どんな自分も自分が認め受け入れること
当たり前かもしれないけれど
弱さを隠して強く見せたり
弱さを隠して過剰にいい人風になったり
それをしてしまうと
同じように苦しい境地の人がいるとしたら
他者の表面的に良く見せてる部分をみて
「あの人はいいな。
強くて楽しそう。
自分はこんなに心が弱くて苦しい。
生きることがしんどい。」
無意識か自覚的かは人それぞれだけれど
けっこう、こうなってしまうと感じる。
だから
弱さを認めて、
でも、過剰に出すでもなく
ただその在り方で存在する人がいるだけで
「あぁ、自分だけじゃないんだ。
あぁ、少し安心できたかもしれない。」
そうおもえる人もいるかもしれない。
無自覚の自己防衛がゆるみ
他者信頼がほんの少し上がるかもしれない。
ゆるむことを許せた自分に
自己信頼も少し増すかもしれない。
ただ弱さも隠さず
失敗も受け入れて
どんな自分も自分が否定せず
受け入れていくだけで
ただそれだけで
おもっているより
世界は癒されているのかもしれない
おもっているよりも
何かの役に立っているのだろうな
気づかないところで
誰かの少しの安心になれることがあるのだろう
そんな少しの安心が
実は計り知れない尊いものだとおもう
それがあるかないかで
全く違う人生になり得るくらいに
それを書いてみたかった