コンサルティング会社に転職してから小説が読めなくなり、辞めてから再度読めるようになった話(エッセイ#5)
私は、小さいころから物語やストーリーは嫌いではなかった。むしろ好きだった。話の展開に胸を躍らせ、いろいろな事に思いを巡らせながら、時に想像しながら、ページを捲る興奮をおぼえている。具体的な作品の多くを思い出せるわけではないが、作品名をあげられるものもある。はだしのゲンや、シャーロック・ホームズの探偵物語などだ。
学生時代(特定の時期というよりも、いわゆる学生と呼べる十数年の長い時期だ)も、物語から長く遠ざかったことはなかった。振り返ると、テキストを読む力で、随分と助けられてきたとさえ思う。時に退屈に思えるような文章も、それが意味を持った記号として連綿と続いていることで、自分の思考を喚起して、整理して、現実社会を生きるためのアイディアに変換していたと思う。
社会人になってからも、機会こそは減ったものの、物語を見たり小説を読んだりすることはあった。少なくとも、嫌いになったことはなかった。
最初の会社は、世の中に対して商品・サービスを提供している、一般的な会社であった。社会人としての礼儀や作法、厳しさを学びながら、時に打ちひしがれながらも、基本的な性格は変わっていなかったように思う。大学も文系であった。”ーメールや、上司への説明は結論から書きなさいー”そんな指導を受けながらも、その一連の出来事を「起承転結」の枠組みでとらえていたことを覚えている。
最初の会社に勤めて数年たって、私はコンサルティング会社に転職した。転職の理由を、あえて統合してひとことで言えば、それが多くの転職者の理由と同じように、総合的なものであった。あまりに卑近で書くのがためわられるが、”給与があがるから、スキルアップが出来るから、より社会的意義の高い仕事が出来るから、ステータスがあがるから”。そのようなことを直線的に考えていた。
何よりも、コンサルティング会社で働くことのプロフェッショナリティに強くあこがれがあった。それはその時に、何にも代えがたい煌めきを持って心の中で揺れていた。私は、ほぼ迷いがない形で、転職活動をし、準備をし、転職をした。
私は、それまでの人生で(これからも、あるいは)自身が持つ論理的思考力に自信を持っていた。両親からの言葉、同窓からの言葉がその自信を支えてくれていた。よりオープンな社会に入ったあと、大学や社会人初頭においてもそれは同様だった。"ー自分の強みを最大限に生かして活躍したいー"という想いが次第に大きくなっていった。
ただ、転職した社会では、「論理的思考力」は当たり前のものであった。他者との相対観における強みではなく、当たり前に備えるべきコモディディであった。強みであるどころか、反面、「論理的じゃない」という指摘の矢が私には日常的に向けられた。結論から話せ、その結論はなぜそう言えるのか。なぜその順番なのか。
ー"なぜ、なぜ、なぜ"ー
簡単には、答えられない言葉が常に降りかかっていた。私は、自分の論理的思考力が十分に通用しない世界に動揺しながらも、克服を試みた。周囲のように、より簡潔に、洗練されたロジカルを身につけなければならない。その思いが常に思考を支配して心拍をたたいた。
書店では、多くのビジネスマンが推薦している思考法や、自己啓発に関わる本を買いあさった。まだ読めていない、反芻できていない、それどころか購入後に手に触れてさえいない本がある状態で、あらたな本を手に取った。とにかく、自身には言い訳が効かないほど、時間がないと焦っていた。例え、本に書いてあることが読めていなくても、読む体力や気力が無かったとしても、本を買うという行動にこそ、一抹の努力が伴っており、それが成果に繋がり得ると言い聞かせていた。
結果として、実際、多くの本を読むことは出来た。同僚のアドバイスもあって、なるべく古典・原典といえるような本(たとえばバーバラ・ミントといえば知っている方もいらっしゃるだろう)に段々と収斂されていった。理論を頭の引き出しのあるべきところに整理して保存し、それを実際の仕事で活用して具体的な血肉に変換していった。
仕事では「結論」を意識し、なぜその結論が言い切れるのかという疑問に十分に回答しうる根拠を準備していた。それは今まで感覚的に、非言語的になぞってきた自身の思考回路を、体系化された理論に下支えされながら補強し、改築する作業だった。そうすることで、徐々に自信は回復された(ただ、心の安らぎやプライベートの安息は逆回復されていくわけであったが)。
そうしたとき、ふと気が付いた。私は小説が読めなくなっていた。小説を読まなくなっていた、というのがフェアな表現なのかもしれないが、ただ、「小説を読もうとしたときに読めなくなっていた」。心のリフレッシュや、厳しい社会生活からの逃避に、小説を読むことが有効な休息になることは体が覚えていた。しばらく遠ざかっていたが、何か小説を読んでみよう。そう思って、本棚で埃をかぶっていた文庫に手を取ってページを捲ってみる。
読み始めた途端、すぐに違和感を感じた。初めに結論が書かれていないということにだ。至極、当たり前のことだ。ストーリーの技巧上の都合を除いて、多くの場合、小説には冒頭に結論(少なくとも筆者が伝えたい物語の”コア”が、という意味に狭義させていただく)は書かれていない。
それでも、体中に張り巡らされた、論理的思考の回路が、冒頭に結論を求めた。
結論がわからないのであれば、全体像を掴むために、物語の構成を理解すれば良い。そう考えて、次に、目次(章立て)を参照する。パート1、パート2、パート3。そこには便宜上の区切りと、最低限のタイトルは書かれていたが、各パートで述べられている事の中心像は読み取れない(繰り返しになるが、当然だ)。
その時点で私は、自分が小説が読めなくなっていることに気が付いた。結論が冒頭にない。もし結論があったとして、支える論拠も、膨大な文章の海の中に散りばめられており、読み手が自分で考えて見つける必要がある。それを楽しみとして見いだせずに、効率が悪く、報酬が少ない苦行のように思えてならなかった。
その時、ショックを感じなかったといえば嘘になるかも知れないが、少なくとも当時の私はそのショックは、むしろ自分が成長した印として、心の奥に閉じ込めたように記憶している。私は、論理的思考力という言葉の、そしてそれがもたらす効果に取りつかれ、すべてを支配されていたと思う。
時は流れて、私はコンサルティング企業(そこでの多くの経験は割愛させていただく)を辞めて、(相対的にということだけれども)いわゆる一般会社の世界に戻った。
その頃には、私は、論理的思考力を「自由に出し入れできる武器」だと考えるようになっていた。私生活や常日頃の考え事、すべてに至るまで私に亘り、一貫するものではなく、あくまで自分が使う事のできる「ひとつの」スキル、と考えるようになった。
そして先日、小説を読んだ。とある映画を見た際に、その原作に興味が沸き、小説文庫を手に取った。その事自体が、数年ぶりの経験だった。小説が読めない自分に気が付いたあの日以来だった。私は、自然と、何事もなかったかのように小説を読むことが出来た。
その時に、私は、再び小説が読めた自分に自覚して、率直に喜んだ。自分の心臓に、通ってなかった血液の部分が仮にあったとして、その部分に温かい血流が生じ、全体的な鼓動をまたはじめたように感じた。
映画を見た後だから、あらかじめ結論が頭に入っていたのではないか。だから小説が読めたのではないかという指摘もあろうと思う。ただ、私が見た映画の原作はいわゆる”オムニバス”で、映画で描かれていない多くのエピソードも内包するものだった。フィルム外のストーリーも、苦痛(この表現は最も、小説に対して礼儀にかけたものであると思うが)を感じる事なく、むしろ好奇心や興味という気持ちが、指先に伝わって先のページを次々にめくらせるように、自然な営みで読むことが出来た。
この投稿自体が、タイトルで、冒頭に結論を提示していることは事実だが、記事としてのタイトル付けという意味でご容赦いただきたい。今回、小説がまた読めるようになったという、極めて個人的な喜びを、結論を本文冒頭で提示することなく、自分の気持ちが赴くままに、書き記しておきたかった。自身の、今日いま、いろいろな事を考えながら生きている日々のページの中の、一つの栞(しおり)として。
自分のこの先の人生、どんな物語のテキストに出会えるだろう。それを、どんなコンテキストで読んでいるだろう。どんなことを思うだろうか。そんな楽しみを胸に抱えている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?