東京の子たち
小学生の頃、平日の18時からテレビに食い入るように見ていたのは、Eテレの「天才てれびくん」、通称「天てれ」だった。
そこには、標準語を巧みに話す快活な小学生が何人も映っていた。
同世代くらいなのに、学校にいる子たちよりも口調が随分大人びている。
彼らは「てれび戦士」と呼ばれていた。
わたしの中で最初の、「東京の子たち」だった。
だから、彼らのイメージが東京そのものと結びつくのはごく自然なことだった。
都会で暮らす同世代という存在に感化され、「てれび戦士になる方法」を大真面目に調べたことがある。
彼らが「誰かに夢を与える」ために存在しているのなら、まさに自分は夢を与えられた「誰か」だった。
彼らが芸能活動をしている子役で、ただの「東京の子たち」ではないと知ったのはこの時だった。
始まりは、たやすくて浅はかだった。
***
受験期に母を道連れにして東京に来たことがある。
田舎者の娘をいきなり一人で東京にやるのは、流石に無理があるだろうという両親の判断からだった。
人の多さや迷路のような路線図に圧倒され、親子ふたりで大海原に放り出された気分だった。
両親が不安がるのも無理はない。
当時のわたしは電車の乗り方さえもよく分からなかったし、suicaで改札を通ることがカッコいいと思っていたくらい、それとは無縁の生活を送っていた。
どう見ても、今のわたしから見ても、当時のわたしはとても危うかった。
受験会場から昨日とは別のホテルへ向かう帰り道、駅のホームで電車を3本ほど見送ったことを思い出した。
ちょっとした迷子になったのだ。
乗り換えるような大きな駅ではなかったし、そもそも乗ろうとした線以外通っていなかった。
細かいところまでは覚えていないけれど、電光掲示板に書かれた「〇〇行き」の終点までに、ホテルの最寄りが入っているのか分からなかったのだと思う。
その時代は普通にスマホを持っていたはずだけれど、調べ方がわからなかったのかもしれない。
とりあえず乗ってみることもできたはずだ。違ったと思えば、また戻ればいいだけの話。
それができなかった。
当時のわたしは多くのことに対して消極的だった。
「東京を拠点に生きていく」。それくらいしか自ら気持ちが向かうものがなかった。
***
上京して最初に住んだ街は、東京ではなく埼玉だった。
大学の最寄りから3つほど先の駅に1Kの拠点を持たせてもらった。
電車通学というものを初めて経験した。3限終わりに友達とカフェでお茶をするのも、空きコマにぐだぐだしながら時間を潰すのも、わかったような顔をして半分は理解が追いつかない授業も、何もかもが新鮮で胸が高鳴った。
無意識に加工アプリで写真を撮るみたいに、そのどれもにフィルターがかかっていたのだと思う。
埼玉在住民の多くは、池袋を介して都内に出る必要があった。
当時わたしもそのうちの一人で、サークルの飲み会や遊びの予定がある度に電車に乗っていた。
左右どちらの席に座っても、向かいの窓には、空を隠すほど隙間なく立ち並ぶ家々の景色が見えた。東京は、とにかく背丈の高いビルに囲まれたイメージがあった。けれど、実際は全然そんなことはなくて、むしろそういう街は一部だった。
程なくして池袋だと気付くのは、これまでの住宅街の景色が、ある地点から一瞬で途切れる時だ。
視界がパッと開けた先に、あれが池袋の端っこであるかのように周りから浮いた高層ビルがいくつか見える。その数秒後に「まもなく、終点池袋です」というアナウンスが流れた。
あの景色を見ると、毎回ぞわぞわっと鳥肌が立った。過去の自分が叶えた場所に今いるのだという自覚と、何かが始まる期待が同時に押し寄せた。何かに奮い立たされる感覚もあった。
社会人になって再びこの線に乗る機会があったけれど、あの時の感情が湧き出てくることはなかった。
ただの慣れか、あるいは自分の心が凝り固まってしまったのか。
どちらにせよ、なんだか少し寂しかった。
高校の卒業式。最後のホームルームで担任の先生が贈った言葉をなぜか思い出した。
「この時がよかった、この高校時代に戻りたいなんて思わないで。今が一番。そう思える人生を生きてください」
わたしは上京した頃の自分にすがってはいないだろうか。あの頃を超えるエネルギーを見出せない自分を、どこか諦めてはいないだろうか。
テレビの向こう側にいたあの子たちみたいに、わたしは誰かに夢を与えなくてもいいのだけれど、まずはせめて楽しそうに生きている人でありたいと思った。
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