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口紅

「調子、どう?」

「(全然良くない。今日だって、ずっとベッドに横たわりながら天井を見ていた。頭のなかがうるさいんだ。メタルバンドのライブ会場で、スピーカーに耳を押し当てているくらい。君とこうして会話できていること自体、奇跡だ)それなりかなあ」

「良かった。……まあ、私といても良くならないしね」

「君のせいじゃないよ。誰かと一緒にいて鬱が良くなったという経験がない(悪化したことは多いけど)」

「自分のことしか信用できないからじゃない? 私は『この人といると安心するな』って思うから、会おうとするけど」

「(矛盾している。自分のことを信用できる人というのは、まさに君のような人を言うんだ。その『安心する』という感情は、精神のフィルターを通して濾過した結果フラスコに沈殿した偶然性の高い不安定な物質のことであって、君が、君自身をほとんど無条件に信用できていることの証左じゃないか。僕は、僕のフィルターをまるで信用できないからこそ、どんな感情の溶液をも、そもそもフラスコに注がないという選択をとっているんだ。━━もちろん、鬱病や本能によって脳がバグり、まるで乖離しているみたいに、あるいは意思とは無関係にドバドバと注がれることも多々あるが。━━だから、君が簡単そうに『好き』とか『愛してる』とか言った時も、僕はずっと不思議だった。君のフラスコのなかで、つい先週まで抱きしめていたであろう、ディープキスをしていたであろう、勃起したペニスを膣に挿入させていたであろう元彼に対する感情がブクブクと気化していく音が聞こえたから)そっか」

「カラオケ行きたいな」

「(僕は、僕以外の何かによってしか機能しないとも言える。信用? 辛うじて信用できるのは、実際的なものだけ。普遍的で、時代や個々人の判断に左右されず、常に正しい、例えば、化学と歴史だ。実際に存在している何か、実際に起こった何か、それらを注意深く観察してみると、次に僕がとるべき行動が、夜の真っ黒な海面に間違って現れたクラゲみたく、半透明の青白さを保ちながら、ごく薄っすらと浮かび上がってくる。この電話を切るべきだとか、君と縁を切るべきだとか)履歴書買いに行かなくちゃ。イオンのキャンドゥ、二十二時に閉まるんだ(まあ、コンビニにも売っているけど)」

「私もお風呂入る」

「うん。じゃあ」

「またね」

「(また、があるだろうか。僕は明日の自分はもちろん、明日そのものを信用していない)おやすみ」

「またね?」

「……あ、またね」

 ━━プツ。

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