おもてなしと余白と当たり前を疑ってみる…
高校生の時の部活はブラスバンド部に入っていてトランペットを吹いていました。
当時のその高校のブラスバンドは県大会に行っていてかなり部活の練習に力を入れていました。
とはいえ学校が力を入れていたのではなくOBが指揮者兼指導者としてボランティアで来てくださっていました。
その方は現在神奈川県の高校や中学の教頭先生をしていて今考えるとやっぱり当時から教育者だったんだな…と思います。
その素晴らしい指導者と部員がまた真面目でかなり真剣に青春をしながら毎日練習に励んでいて、私も学校の授業にはでなくても部活には行くという生活を3年間送りました(笑)
お守り作り
自分でも今思い返すとなんでだろう?と思うのですが、その部活の県大会が年1回ありまして、私は1年生から3年生まで大会に出たのですが、その大会の多分2年の時から出場者全員分多分50人近くのお守りを作ってあげていました。
多分フェルトで作って名前かメッセージを刺繍して、中にもひとりひとりメッセージを書いていました。
それを2年生と3年生のときに作って渡していたので、部活の練習は放課後毎日で終わったあと塾にも行っていたのでいつ作っていたんだろう?と思うのですが全員分大会の日か前日にお渡してしました。
おもてなしの気持ち?
これってなんだろうか?どんな気持ちでなんのためにしていたのだろうか?ある意味おもてなしみたいな感じだったのかな?と思ったんです。
今でも生徒さんにお花を上げたくなったり、みんなが集まるときは何かをあげたりしてあげたりパーティーを開催したりなんらかをしてあげたいと思ってしまうんです。
ただ余裕がないとできないので、今日ちょっとそうしてあげたいな…と思ったのですがその余裕がなく、おもてなしって余裕がないと出来ないんだなぁと思ってこの記事を書くことになったのですが…
おもてなしとは
そこでおもてなしについて調べてみて、こんな記事を見つけました。
この記事↑に書いてあったおもてなしは…
もとは茶の湯から始まったんですね。
こう考えると例えば季節のものをつくろい静かな空間を味わいながらお点前を目の前で見てそれを頂くとか…
とても豊かな時間かつゆとりのある時間の使い方何だと思います。
相考えるとやっぱり余裕がないと出来ないことなのではないか?と思います。
わたしみたいにみんなのことを思いながら作ったものを差し上げるというのがおもてなしに入るのかどうかわかりませんが、おもてなしの定義にある「モノを持って成し遂げる」と「表裏なし」という点で共通しているなと思いました。
いずれにしても余裕がないと出来ないことです。
日本の四季を楽しむ
そして最近良く思うのですがせっかく美しい四季のある日本でもあり、いつどこに地震が起きてもおかしくない日本を選んで住み続けているというのであれば、四季を楽しむ余裕が欲しいな…と思うのです。
それがお花見だったり今日みたいな桃の節句だったり、露天風呂だったり四季の料理だったりするのだと思うのですが、それも余裕がないと楽しむゆとりが持てないですよね…
ゆとりある日常
じゃあどうしたらよいのかな?と考えてみて、自分であえてそれを予定に組んでしまい、それありきでする。そのゆとりある状態を自分の日常の常識にしてしまう。
そうすると必然と不要な行動や不要な時間の使い方が見えてくるのではないか?と思います。
例えばSNSを見ている時間とかテレビが付いていてつい見ちゃう時間とか、自分がやらなくてもいいような家事とかそもそも家事を減らすためにものを減らすとか、探しものをする時間とか、しまうところがなくて取り出したりしまったりするのに苦労したり…
物を減らすことで掃除機で避ける時間が減るとかそういう意味です。
不要な物・行動・時間の見直し
自戒の意味を込めて書いているのですが、本当に不要な物事が多い気がします。
最近当たり前の見直しをしているのですが、ここにこれがあるのは当たり前?ここにこれ必要?そもそもこれいる?
という見直しを1つ1つしています。
そうすることによって季節を楽しんだり、おもてなしをするゆとりができるのではないか?と思うのです。
今年はきっとそんな年なのではないか?と思います。
今ある当たり前を疑ってみて本当に今の自分にとって必要が不要か考えてみる。
自分を律する感じです。
2024年は自分を律する年?
時間の使い方や、常識、自分のイメージとかルーティンとか食べているものとか身体の反応や動き方、脂肪や筋肉、骨のつき方とか全部に対してこれが自分の常識でそれで良いのか?だめならどう変えたいか?そのために何をして何をやめるか…などを考える年!
そして自分を心地良いい状態に整えていき、ワクワクに従って動いてみる…
2024年はそんな年なのではないか?と思っています。
どんな当たり前を疑いますか?
どうありたいですか?