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モーテン・H・クリスチャンセン/ニック・チェイター『言語はこうして生まれる』にて(ウィトゲンシュタイン)

今回の記事は、過去の記事「モーテン・H・クリスチャンセン/ニック・チェイター『言語はこうして生まれる』にて」の追記です。この著者二人は、哲学者ウィトゲンシュタインの影響を深く受けています。

二十世紀の最も重要な――と言っていいであろう――哲学者ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインは、コミュニケーションゲームにおける言葉の使い方から意味は発生するのだと考えていた。たとえば誰かが「ハンマー!」と叫んだ場合、それはハンマー作業を始めろという指示だとも、ハンマーを渡せという指示だとも解釈できる。あるいは近くの屋根からハンマーが落ちてくるという警告なのかもしれないし、忘れずにハンマーを買ってこい、持ってこいという念のための注意なのかもしれない。想像がつくかぎり、可能性はいくらでもある。何がハンマーと見なされるのかも、そのときたまたまやっている「言語ゲーム」しだいだ。テントを設営しているときであれば、ハンマーとは小槌か手ごろな石のことだろう。家を取り壊しているときなら大型ハンマーが適切な答えとなるが、貴金属の宝飾品を丁寧に細工したいときなら、求めているのは繊細な彫金用ハンマーだ。ウィトゲンシュタインからすると、「ハンマー」が何を意味するかをただ問うのはナンセンスで、この質問にはつねに、ある特定のコミュニケーションゲームにおけるハンマーの用途がかかわっている。ある単語の意味は、その単語が会話のなかでどう使われているかから生じるのである。

――pp.11-12 序章「世界を変えた偶然の発明」

「言語ゲーム」という用語の意図は、言葉を話すことがある活動の一部、ある生活のかたちの一部であるという事実を目立たせることにある。
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン、『哲学探究』(一九五三年)

――p.17 第1章「言語はジェスチャーゲーム」

たとえば「ゲーム」と呼ばれる一連の活動を考えてみよう。ボードゲーム、カードゲーム、ボールゲーム、オリンピックゲーム、そのほかいろいろあるだろう。では、これらすべてに共通するものとは何か。……考えるな、見よ!……この吟味の結果は、次のとおりだ。そこに見えるのは、重複し、交差する、類似性の複雑なネットワークである。全体が類似していることもあれば、細部が類似していることもある。……これらの類似性を特徴づける表現として、「家族的類似」という言葉ほど適切なものは思いつかない。
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン、『哲学探究』(一九五三年)
――p.83

家族というものは、そのうちの何人かは特徴的なあごを共有し、別の何人かは体格や歩き方が共通していて、また別の何人かは鼻のかたちが似ており……とさまざまな組み合わせでのくくりができる。家族に何か共通の本質があって、そこから各自が多少ずれているのではない。あるのは複雑に交差した類似性のパターンだけだ。――p.86

ウィトゲンシュタインの見方では、特定の状況でのコミュニケーションこそが言語の出発点であり、コミュニケーションゲームを上手にやってその場の目的を果たすことがそこでの目標である。言語を学習するのに辞書をまるごと暗記する必要はない。すでに見たように、「生命」のような科学的な用語の項目でさえ、辞書の説明は驚くほど貧弱なのだ。辞書を引けば手がかりや用例は得られるが、あとはすべてこちらの独創的な想像力と経験と、そのときどきの実地のコミュニケーションにゆだねられている。――p.99

第3章「意味の耐えられない軽さ」

ウィトゲンシュタインは、以前、論理的な言語観に囚われており、「語りうるものは明確に語ることができるのであって、語りえぬものについては沈黙せねばならない」(p.112)と記述していました。しかし、彼は、後に、上記のような言語観に改めて、思考の可能性を開いています。

以上、言語学的制約から自由になるために。