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伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて(自我と幾何学)

この書物の第Ⅰ部「作品」において、詩人ポール・ヴァレリーの視座の高さが垣間見えます。彼は、自我を鏡として使っていたのです。

 ここでヴァレリーは自我を偶像として「崇拝」することと、偶像として「利用」することを区別している。「崇拝」は、ヴァレリーによれば哲学が陥りがちな自我へのアプローチであり、たとえば「時間」や「美」と同じように、言語として名指すことによって「自我」を分析可能なものとして実体化してしまうことである。それに対してヴァレリーは、自我を偶像として「使用」した数少ない詩人として、マラルメとヴァレリー自身を位置づける。つまり自我をそこから表現が取り出されるような「源泉」とみなして探究するのではなく、さまざまな問いに対してひたすら応答を返す、空虚な反射板のようなものとして用いたのである。反射板としての自我は、過去の記憶のような個人的な内実があるとしてもそれを括弧に入れ、完全に一般的・普遍的なものとして振る舞う。それが他のあらゆる偶像を滅ぼす偶像であると言われるのは、すべての偶像は、それを大切なものとみなす個人的な思い入れに端を発するからである。すべての語を可能的にせよ等―差のものとして、駒として対等に扱うことは、自我をこのように抽象化することと相関的なのである。――pp.140-141

・・・ヴァレリーにとって詩作は、「自分の言いたいことを言う」ことではなく、むしろ自我に没頭せず、あらゆる語を等価に扱う「練習」のようなものであった。――p.143

―― 第Ⅰ部「作品」 第二章「装置を作る」

スピリチュアルな気づきが深まると、太陽の見方が変わります。太陽が光を放つのではなく、高次元の光を反射する鏡として太陽を見るのです。

そのように高い視座のヴァレリーには、幾何学が言語に見えています。

 言語の理解が身振りへの変換を伴うということが分かりやすいのは、「幾何学」の場合である。たとえば〈直角三角形の斜辺の中点と直角をむすぶ〉という文があるとする。幾何学において、この文の働きは、〈想像力(ないし鉛筆)によってまず直角三角形を頭の中(ないし紙の上)に描き、その斜辺の中点と直角をむすび、最終的にある一つの図形を得る操作〉を受け手に求めることである。幾何学的な言語は、他ならぬ彼自身の能力を動員してその図形を描くという受け手の内的な行為を通して初めて理解されるのであり、「行為をともなった言語と、その行為によって視覚や触覚に対してもたらされた産物のあいだの、完全に相互的な一致」が確立されている。命題の真偽は行為の産物を通して検証され、それが真であるとは、発信者と受け手が同じ操作をし、その結果同じ産物を得たということを意味する。幾何学は、純粋に操作を交換するための言語である。――pp.112-113

―― 第Ⅰ部「作品」 第二章「装置を作る」

作者の自我に基づいて書かれる散文や小説の、恣意的で表面的な語彙の選択に、ヴァレリーは、窒息するほどの狭さを感じていただろう。

だからといって、散文形態を強制する名詞(認知)や動詞(直感)が発生する前の、形容詞(知覚:幾何学)だけを使い、純粋な詩が書けたとしても、そんな詩は、素人の耳には、何やら有難い念仏でしかない。

以上、言語学的制約から自由になるために。

この書物に触れる記事は六つあります。次の「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて(錯綜体)」という記事が、それらのまとめです。