遠藤周作の『海と毒薬』を読んで
冬休み中にサラッと読めるものを探した結果、以前友達に勧めてもらった『海と毒薬』を読むことにした。遠藤周作については当初『沈黙』のイメージが強く、比較的知名度の低い本作に対する期待値は正直高くはなかったが、読み終えた今は非常に面白かったと感じている。
物語は、ある男とその妻が東京郊外の小さな町に越してくるところから始まる。気胸を患っている男は、定期的に必要な肺に空気を入れる治療をしてもらうために近所の医院を訪ねる。
医院を営んでいるのは勝呂という医師で、ひどく老けこみ愛想もなく、医院は常に雨戸を締め切り窓はカーテンで覆われている。
治療のために何度か勝呂医師のもとに通っていた男だったが、ある時偶然に、戦時中に起こった医局員たちが外国人捕虜を医学上の実験材料にした事件に勝呂医師が関わっていたことを知る。
男が勝呂医師に、自分が事件のことを知った事を匂わせると、物語の視点が勝呂医師に移り、事件に関わってしまった経緯が回想として語られていくという内容だ。
本作のテーマは『日本人の罪の意識』だ。勝呂医師の回想部分には多くの人が登場するが、私が特に重要だと感じた3人を紹介し、比較したい。1人目は病院医師の妻でドイツ人のヒルデ、2人目は勝呂医師の同僚の戸田、3人目が勝呂医師だ。
ヒルデが登場するのは勝呂医師の回想部分から少し脱線した、病院で働く看護師の手記の中だ。そのため登場や発言の回数は他の登場人物に比べてかなり少ない。しかし、なぜ本作にドイツ人の登場人物が必要だったのかがはっきりとわかるセリフがある。
容態が急変した患者を、もう助からないだろうと麻酔薬を打って安楽死させようとした看護師に向かってヒルダが言った『死ぬことがきまっても、殺す権利は誰もありませんよ。神様が怖くないのですか。あなたは神様の罰を信じないのですか』という一言だ。
キリスト教は罪や裁きと深く結びついている。人は生まれた時から原罪を背負っており、それに加えて神の律法を守らなければそれも罪とされ、審判で神による裁きを受ける。キリスト教徒はその罪から救われるために祈り、また神や罪や罰については日本人とは異なり統一された具体的なイメージを持っている。
つまりヒルダの考え方は、外国人捕虜を医学的実験の材料にすることは殺人に値し、神に裁きを受ける罪だとするものだと言える。
それに対して戸田は、ヒルダと正反対の精神性を持っている。
戸田は自身の手記で『(自分は)他人の苦痛や死に対して平気』とはっきり書いている。人のものを盗んでも、妊娠させてしまった女中を自分で堕胎させても、多少の不安と自己嫌悪を感じるだけで、それによって苦しむこともなく、また自分のしたことが明るみに出ないとわかるとすぐにその気持ちも消えてしまう。戸田が恐れているのは他人の目と社会的な罰なのだ。
彼の中には、自分の罪を裁く神がいない。自分のしたことが悪いことでいつか自分には罰が降るだろうと考えてはいても、その罰を下すのは誰で、どんな罰なのかが具体的に思い浮かばないのだ。
だから戸田は捕虜を使った実験に参加した後も『あの捕虜のおかげで何千人の結核患者の治療法がわかるとすれば、あれは殺したんやないぜ、生かしたんや』とまで言ってしまう。
戸田の考え方は、それが殺人であったとしても、世間の目に触れなければ問題ないと言えるものだ。
そして勝呂はヒルダの『殺すなかれ』の考え方と戸田の『医学のためなら問題ない』の考え方との間で終始苦しむ。
最終的に実験に加担してしまった勝呂は罪悪感に苛まれ、以前好き好んでいたものが楽しめなくなってしまうほどの人格的変容を遂げる。
物語冒頭の医院が雨戸を締め切り、窓をカーテンで覆っているのは、自分が犯した罪を隠したい、見つかりたくないという気持ちの表れではないかと個人的に感じた。
日本にも『お天道様が見ている』などの言葉があるが、これは『悪いことをしているところは必ず見られている』ということで、あとで罰を受けるという意味は含まれていない。さらに『何が悪いことなのか』が明記されていないので、キリスト教世界の人と比べると日本人の『悪いこと』の基準の個人差は大きいだろう。日本人はその時代の為政者や風潮に流されてしまう危険性がキリスト教社会よりも高いのかもしれない。
全体的に暗い内容だったが、日本人の罪の意識に焦点を当てて考える機会はなかったので、かなり新鮮な気持ちで読むことができた。
後半部分では、勝呂医師だけでなく戸田や看護師視点から事件までの経緯が書かれていて、多角的に戦時中という時代や事件関係者の考えを知ることがでた。
事件とは関係ないが、看護師の手記内の大連での生活部分が面白かった。大通りの名前を日露戦争で活躍した軍人の名前にしていたり、建物内にペチカが設備されていたりという部分はおそらく事実だろう。
遠藤周作の小説は本作が初めてなので、他の作品も読んでみたいと思った。
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