【1000字書評】中島京子『やさしい猫』いつか「きみ」が手を伸ばすその日へ向けて
2022年5月の書評講座の課題は、中島京子『やさしい猫』でした。
入管制度とは?
『やさしい猫』は、ここ数年にわたり社会問題となっている入管制度を題材にしている。2021年3月、スリランカ国籍のウィシュマさんが名古屋の入管施設で亡くなった事件は、みなさんの記憶に新しいのではないでしょうか。
ちょうどいま(2022年11月)検索したところ、下のニュースが出てきた。
と言いつつ、私もウィシュマさんのニュースを耳にしたことがあるといった程度の認識しかなく、入管制度がいかに非道で理不尽なものであるか、この本を読んではじめて知ることができた。この本の内容はどういうものかというと……
1000字書評
「きみに、話してあげたいことがある」
とはじまる『やさしい猫』は、一貫して「きみ」への語りかけという形式で物語が綴られている。
語り手の「わたし」は幼いころに父親を病気で亡くし、母親である保育士のミユキさんと暮らしている。ミユキさんは東日本大震災のボランティアをきっかけとして、スリランカ人のクマさんと出会う。ミユキさんはクマさんと付き合うようになり、「わたし」たち三人の共同生活がはじまる。
ところが、婚姻届を提出してようやく正式に家族になれたと思った矢先に、クマさんが警察に捕まってしまう。在留カードの期限が切れていたのだ。
クマさんは自らオーバーステイを報告しようと入国管理局に向かっていたにもかかわらず、問答無用で収容される。
諸外国と異なる無期限の収容制度、収容所の粗末な食事、病気を訴えても詐病と疑われるなどといった過酷な仕打ちや、日本において難民申請が認められる割合はわずか0.3%という入管の実態が克明に記されている。
しかし、こういった問題点を提示しながらも、不正を糾弾し告発する論調ではなく、「わたし」が「きみ」へやさしく語りかける口調を採用したところが、この小説の大きな特徴である。
この語り口によって、日本で生活している人から家族や生活基盤を奪う入管制度の理不尽さや非人道性が浮き彫りになり、心にすっと入ってくる。
一方、入管側も語りかけの口調を採用しているが、その目的は糾弾と告発である。
「早めに手を打とう、結婚しておこうと、あなた、思ったんじゃない?」
「あなた、オーバーステイも、そんなに悪いことだと思っていなかったんじゃないですか?」
と、入管審理官や検事はひたすら追及する。
語り口というのは、相手をどう捉えているかを映す鏡である。
入管の語り口は、外国人をすべて犯罪者予備軍と見做す「入管マインド」を如実に映し出している。
「わたし」と入管の語り口のちがいは、それぞれの視点の反映でもある。未来に目を向けているのか、過去に固着しているのか。
入管が問い質すのはオーバーステイや未報告といった過去のあやまちだ。
「わたし」が語りかける「きみ」の正体は、これから生まれてくる弟、つまり未来を担う存在である。
「わたし」は未来へ向けてその小さな手を伸ばす「きみ」に語りかけ、家族の話を書き留めている。私たちが未来へ進んでいくためには、どちらの視点と語り口を採用すべきなのか、答えは自明である。
『やさしい猫』から連想した2冊
文字数の関係で書評には入れられなかったが、入管審理官がクマさんを追及する場面を読んだとき、ブレイディみかこの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルーに』書かれていたエピソード――日本人と英国人を親に持つ息子が日本に滞在していたとき、中年男に「Youは何しに日本へ?」と執拗に聞かれる――を思い出した。
問いかけの暴力性。
問いかけという形であらわれる、自分とは異なる他者を排斥する心理。
さらに、この本を読む少し前に読んだ、日本で活動する韓国人ラッパーMoment Joonの『日本移民日記』にも、日本で〝外国人〟として生きていく困難さが書かれていて、この『やさしい猫』に通じるものがあった。
書評の締めの箇所やタイトルに「手」と入れたのは、Moment Joonの「TENO HIRA」という楽曲が心に残ったからだ。
ちなみに、この「TENO HIRA」には、在日コリアンの詩人である金時鐘が書いた「夢みたいなこと」が引用されている。
金時鐘がこの詩を書いたのは1950年、日本で暮らしはじめて1年目のときだったらしい。
だから「夢みたいなものを ほんきで夢みよう」としたのだろうか?
この詩が書かれた1950年から70年以上の年月が過ぎたいま、「夢みたいなものを ほんきで夢」みることは可能なのだろうか?
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