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ヤンキーとセレブの日本史 Vol.8 鎌倉時代その2

ゲーム「龍が如く7」の主人公は春日一番という元極道です。
一番は風俗店で生み落とされ、親の顔も知らずにグレて育ちました。
若い頃ヤクザに拉致られ、助かりたい一心で自分は有名な組の組員だと嘘をつきました。呼び出された組長は見ず知らずの若者を助けるために、落とし前として自分のエンコを詰めました。そこから一番は組長のところにしつこく通い詰め、子分にしてもらい、組長の息子の世話係を任されるようになりました。

一方でその組長の息子は自分がヤクザの息子であることを心から嫌がっていました。
組長のことを心から慕っている一番と、組長である父親に反発する息子との間で、龍が如く7のストーリーは進んでいきます。

SEGAが出している「龍が如く7」
龍が如くシリーズの登場人物は皆、世間で褒められるような道を歩めなかった人ばかりだけど、
どんな生まれでも、どんな人生を歩んでも自分が掴んだものに納得できれば幸せになれるという
力強いメッセージを感じさせてくれる素晴らしい作品


極道の家に生まれて、それを受け入れられない子どもはいます。
鎌倉幕府もそうでした。


実家の稼業が好きになれない

鎌倉幕府は京都から遠く離れた地にあり、京都のセレブたちの影響を受けずにすむ土地です。平氏のようにセレブからの評判を気にせずに、ヤンキーがヤンキーらしく誇りをもって政権を手にした組です。

しかし、1199年。鎌倉の組を開いた初代の組長(将軍)源頼朝は死にます。
鎌倉幕府は二代目、三代目と跡目を選んでいくのですが、頼朝の息子たちはヤンキー文化が嫌いでした。

二代目組長になった頼家は、小さな頃からチヤホヤされて育っており、ヤンキーの文化やしきたりを大事にしようとしませんでした。ヤンキーにとって何よりも大切な土地でもめていた子分たちの仲裁も適当にやったりして、子分たちはブチ切れて、頼朝の妻で頼家の母の政子に詰め寄ります。
そこで、政子は13人の有力組長(御家人)たちを集めて合議制で決めることにしました。そして、将軍を補佐する実務の最高責任者という立場に政子の父親の北条時政が就きます。

御家人とはヤクザで例えると鎌倉組に直接盃をもらった二次団体の組長たちのことです。
今更の解説で恐縮ですが、ヤクザは本家(一次団体)の組長がいて、その組長と親子の盃を直接交わした人が組長になっている組織二次団体があります。二次団体の組長も子分を持ち、それが三次団体、四次団体と続いていきます。組長の子分も組長で、その組長も子分の組長を持つので、組長という役職がたくさんでてきます。
鎌倉幕府の御家人たちも自分の子分を抱えており、地元の組の組長として影響力を持っています。

二代目組長の頼家は反発しますが、頼家派の組長たちも粛清され、頼家自身も島流しにされたあと殺されます。
しかし、時政はあまりに乱暴者だったので、息子の義時に追い出され、以降は義時が組を仕切るようになります。

三代目は頼家の弟、実朝が就きました。
実朝はセレブの文化が大好き。和歌を詠んだり、都に出かけて貴族や朝廷と仲良くします。暴力団の組長という自覚がまったくありません。後鳥羽上皇とも仲良くなって右大臣にまでなってきますし、金槐和歌集という和歌集まで出版する始末です。

ホストが作った歌集「ホスト万葉集」

「楽しいな パリピピリピリ ピッピリピ 昨日の記憶一切ねぇわ」
この句はホストクラブの夜の熱狂とその後の虚しさが伝わるこの歌集を代表する名歌。
現代ではホストも和歌を詠むが、これは鎌倉時代から武士も辞世の句を詠む習慣が出来てきたことの延長かもしれない。

頼朝の弟、義経は平家との戦争で多大な武功をあげてきましたが、セレブの盃をもらったことで頼朝の怒りを買います。同様に3代将軍実朝がセレブびいきにすることに子分たちは強い怒りを感じます。そして、実朝は暗殺されました。

日本統一

これで組長の血筋が絶えてしまいます。しかし、鎌倉幕府はここで終わりません。
頼朝の妻の政子の実家、北条氏による組の乗っ取りが本格的に始まりました。
「頼朝の親っさんの意思を継いで」ということで、今後は北条家が組長代行の「執権」という役職について組を仕切ることになります。(その後将軍は貴族皇族などからお飾りになる人を呼び寄せて形式上置いておきました。)

言うことを聞いていた実朝が殺されたことで朝廷(後鳥羽上皇)は怒り、鎌倉幕府をぶっ潰そうとします。鎌倉組の勢力はまだ東日本の方だけで、西日本にはまだ鎌倉幕府の支配下になっていないヤンキーも多くいます。朝廷はそのヤンキーたちと寺のヤクザたちを動員して抗争を仕掛けようとします。
鎌倉のヤンキーたちは、天皇と抗争するなんてとビビります。組長代行の義時はもっとビビっています。しかし、初代組長頼朝の妻である政子姐さんがヤンキーたちを一喝します。

「セレブにずっとなめられてたヤンキーが堂々とヤンキーらしく生きられるようにしてくれた頼朝の親っさんの恩を忘れたのか!この中に朝廷にひよってる奴いる?いねーよなぁ‼?」

政子姐さんの一喝もこんな感じで行われたのではないだろうか(東京卍リベンジャーズより)

姐さんに一喝されヤンキーたちは戦う決意をします。関東中から19万の軍勢が集まります。
まさかヤンキーたちが朝廷の威光を恐れずに歯向かうと思っていなかった朝廷側は慌てふためきます。抗争は鎌倉組の勝利。上皇は「悪い部下に騙されました」と言い訳しましたが、許してもらえず島流しに。
上皇についた奴らのシマは全部召し上げられ、鎌倉組のヤンキーたちに配られました。鎌倉組のヤンキーたちは新しくぶんどったシマに親類を派遣して統治していきます。
前回守護地頭の話で書きましたが、地頭は他人の持っている土地に入って行ってみかじめ料をとっていく役職です。当然ふざけんなと反発する土地のオーナーもいますが、この抗争を通じて、反発の強かった西日本にもしっかり守護地頭を置けるようになりました。
これで鎌倉組は西日本も含めて日本統一をすることができました。

また、京都にはセレブたちがまた反乱しないように見張る「六波羅探題」という監視所を設けました。鎌倉組は誰が天皇になるかにも口を出すようになります。

この抗争を承久の乱と言い、これにより鎌倉ヤンキーの勢力が全国に拡大し、ヤンキーが朝廷にも強い影響を与える立場に変わりました。いよいよ本格的にヤンキーの時代が始まります。

ヤンキーらしい統治を目指した御成敗式目

鎌倉幕府は京都から離れた土地に本拠地を構えています。
平清盛はセレブがたくさんいた京都で権力を握ろうとしたため、セレブの目を気にしてセレブのような振る舞いをしましたが、鎌倉にはヤンキーしかいません。

これまではセレブが仕切ることを前提に国の仕組みも整えられていましたが、鎌倉時代になりヤンキーが主役になったことで、ヤンキーらしい統治方法が必要になります。
そこで新たに作られたのが御成敗式目です。
御成敗式目はヤンキーの目線で出来た法律で、ヤンキーの中の掟です(天皇・貴族などのセレブの社会には適用されない)。

セレブの法は中央集権、ヤンキーの法は地方分権

これまでの律令と呼ばれる法律はセレブが統治するために作った仕組みです。
基本的に貴族は貴族仲間を地方に派遣して統治するという仕組みで、最終的に中央に権力が集まることを目的にしているので、律令では行政の手続きに関する事柄、役人としての役割などが事細かに記載されています。
本社の決めた手順にしたがって事務をやって、ちゃんと本社にあがりをもってこいよというルールです。

これに対してヤンキーは地元のことは地元の親分衆に任せるという統治を好みます。手続き的な面倒な話はヤンキーは好きじゃありません。
御成敗式目は御家人と呼ばれる地元の組長たちが地元を支配する前提で、大雑把にその役割とやってはいけないことが記載されているスタイルです。

土地と裁判

ヤンキーが頼朝の親っさんを慕っていた一番の理由はシマを守ってくれたことです。
繰り返しますが、鎌倉時代のヤンキーにとってシマ(土地)はなによりも大切なものです。

ということでシマに関する揉め事は多いですし、それを守ってやるためには、ルールと裁判がとても重要になります。放っておくと暴力で解決しようとしてしまいますから。
そこで御成敗式目には土地に関する決め事がたくさん書かれています。
鎌倉組の統治では地方のことは地元の親分衆に任せますが、裁判だけは公平なものだと信じてもらう必要があるので、本家直轄にしており、裁判機能は鎌倉に置かれます(途中で軍隊を置いているので裁判のために組長を離れさせることができない京都、福岡にも増えますが北条家の人間が裁きます)。

ヤンキーにもわかる書き方

セレブは皆教養があるので、「律令」は漢文です。漢文なのでそのまま口に出しても意味がわかりません。
御成敗式目は文字が読めるかも怪しいヤンキー武士にも分かるものにしなければならないので、日本語で書かれています。

また、刑法も具体的に書かれています。
律令では、罪リスト「謀反(むへん 天皇殺害)・謀大逆(ぼうたいぎゃく 天皇陵の破壊)・謀叛(むほん 国家への反乱)・悪逆(あくぎゃく 尊属殺人)・・」みたいにざっくりと書かれています。
それに対して御成敗式目は鎌倉時代の道徳にあわせてやってはいけないことが具体的に書かれています。
「言い争いや酔った勢いでのケンカであっても相手を殺してしまったら殺人罪であり、犯罪者は死刑か流罪とし財産を没収する」、「争いの元である悪口はこれを禁止する」というようなことがわかりやすく書かれています

律令は古代中国から輸入されたもの、現代の法律も明治時代にヨーロッパから輸入されたものがベースになっています。それに対して、御成敗式目は日本のマジョリティであるヤンキーがヤンキーの価値観に沿って作ったものです。
この法律はどう統治するのかという手続きよりも、社会でどんなことを大切にしているのかという道徳に基づいて、やってはいけないことや、保護すべきことが書かれています。
意外なのは、女性の地位を保護しようとしていることや、相続は長男だけがするのではなく、兄弟姉妹皆で分割して相続するなどがあります。御成敗式目を読むとこの時代のヤンキーが大切にしていたことを想像することができます。
御成敗式目は室町時代にも使われ、江戸時代にも失効されず、明治になるまで続く法律となりました。

鎌倉のヤンキー文化

鎌倉時代の主役はヤンキー。セレブの様なきらびやかではない文化が生まれます。

ヤンキー文化の特徴は、ゴージャスで派手に大きいものを好むのですが、鎌倉時代の文化は「質実剛健」と言われており、あまりヤンキーっぽくないです。
というのも、ヤンキーがゴージャスで過度に装飾的な文化を楽しめるのは抗争がないという場合がほとんどです。
暴走族が族車を改造できるのも、現代が平和な世の中だからです。

暴力のプロが抗争に使う実用的なバイク(北斗の拳より)

鎌倉時代のヤンキーはプロ戦士ですので、土地を守ったり、鎌倉組の本家に呼び出されたら抗争に行かなければならないので武芸の鍛錬に励むなど抗争の準備をしなければなりません。派手な改造などを楽しんだりしている余裕はないのです。

しかし、戦国時代は抗争真っ只中ですが、族車のような兜の全盛期です。
私は個人的には、実質の権力者である北条家が武士の世を作った頼朝の親っさんの意志を継いだ組長代行という立場であったことも影響していると思っています。
執権という組長代行はヤンキーたちと御恩と奉公の関係を直接持たないので初代組長の意志に含まれていないものを勝手に作ることがやりにくかったと考えています。
現代社会でも官僚は政策の執行に強い権限を持ちますが、勝手に自分の考えで国のビジョンを作れません。それができるのは選挙で主権者である国民の代表となった政治家だけです。国の形を示すには被支配者が納得できる権威が必要であり、執権にはその正統性が足りません
執権の立場では親っさんの残した質実剛健な武士らしさを重視せざるを得なかったというのがヤンキー全開になりきれなかった理由の一つではないでしょうか。

仏教

これまで仏教はセレブが仕切っていました。
セレブは倫理観を誇るので信仰心のアピールや、天皇に気に入ってもらうために寺を寄進したりすることで、仏教に投資をしてきました。
また、セレブは自分たちが特別な存在であることを重視しているので、分かりやすく誰でも理解できるものよりも、教養のある自分たちだけが分かるものを好みます。

ということで、仏教の教えは庶民には仏が救ってくれるという程度のことしかわからない難解なものになっていました。

鎌倉時代の初期は抗争も絶えず、またヤンキーが地元を支配するので中には乱暴な奴らもいて庶民は大変な生活を送っていました。セレブも権力の担い手が武士に移行しつつあった平安末期に仏の力が衰えた「末法の世」だと嘆いたように、庶民もこんなに世の中が大変なのは末法の世だからだと嘆くようになりました。

救いが欲しいのに今までの仏教は何もしてくれない、難解でわからないという市場のニーズが高まっている中で様々なスタートアップ仏教が生まれてきます。

スタートアップ仏教の顧客は庶民なので、その顧客のニーズにあわせて「わかりやすさ」を重視していることが特徴です。最初に出来たのが「南無阿弥陀仏」と繰り返し唱えれば救われるという「浄土宗」。
そこから救いのわかりやすさで差別化した様々な宗派が生まれていきます。何度も念仏を唱えなくともいけると言う「浄土真宗」、「南無阿弥陀仏」ではなく「南妙法蓮華経」の方が効くという日蓮宗。念仏とダンスを組み合わせた「時宗」。
お手軽さよりも、座禅をいれて少しのストイックさを演出したことで武士に人気になったのが「禅宗(臨済宗・曹洞宗)」です。

仏教はヤンキーにとっても大切なものです。平安時代の最初、桓武天皇が奈良の寺からのちょっかいを嫌がって、自分の言うことを聞く新しい仏教を作るために比叡山と金剛峯寺を作ったように(その後、その寺の脅しへの対策としてヤンキーを雇ったら最後にはヤンキーに権力を持っていかれたのは皮肉ですが)、鎌倉組も自分たちの息のかかかった仏教を立ち上げるために禅宗を保護しました。中国からも僧侶を招き、そこから水墨画などの芸術も広がっていきました。
次第にわかりやすさ系のスタートアップ仏教は冷遇され、北陸の方などに島流しにあいますが、そこで農民の支持を得て自治組織を作り、後の世のヤンキーたちと対峙していくようになるのです。

これまでの奈良京都の仏教も顧客を奪われるということで改革をしていきます。東大寺は平家のヤンキーに焼かれていましたが、民衆からもお金を集めて再建することに成功しました。

文学

鎌倉時代は文学も発展します。
暴走族の全盛期だった1980~90年代には「ビー・バップ・ハイスクール」、「疾風伝説 特攻の拓(かぜでんせつ ぶっこみのたく)」、「湘南純愛組!」などの様々なヤンキー漫画が生まれました。

現代の軍記物 暴走族の青春を描いた「湘南純愛組!」
後に主人公の鬼塚永吉が教師になった物語「GTO」が描かれるが、
鬼塚先生のヤンキー時代の漫画が先にあったことを知らない若い人も多い。

同じようにこの時代はヤンキーが主役の時代なので、平家物語などのヤンキーの抗争を題材にした軍記物などが人気を博します。文字が読めない庶民向けに琵琶法師の弾き語りや絵巻物が流行りました。

セレブは、ヤンキーの奴らと自分たちは違うんだということを確認するためにセレブらしい文化に力を入れ「新古今和歌集」などの歌集や、平安時代の文学の写本づくりに勤しみました。

他にもスタートアップにより仏教が活性化したことで「方丈記」「徒然草」などの僧侶によるエッセイなども書かれるようになりました。


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