ヤンキーとセレブの日本史vol.18 江戸時代その3
いよいよ幕末です。江戸幕府が始まって約250年。強烈な身分制と、武家諸法度ででっちあげられたいつわりのヤンキーらしさに従って生きる時代。幕府が弱くなることで、ようやくヤンキーらしい時代が戻ってきました。
外国とのシノギ
鎖国の目的
昔の学校の歴史の授業では、江戸時代は外国との取引をしない「鎖国」だったと教えられていましたが、最近はそう言わなくなっているようです。
ヨーロッパとはオランダとだけ長崎の出島で貿易をしていましたが、朝鮮や中国とも外交はありました。それに沖縄と北海道はまだ日本ではなかったので、両方の地域との売買は国外との貿易になります。
という細かいことはヤンキーには関係がありません。
ヤンキーにとって外国との貿易は儲かるシノギですが、その一方で自分以外の組にやられるとピンチになりますし、取引先の外国もいつでも信頼できるとは限りません。
カトリックキリスト教の奴らは宗教の布教のふりをしてガンガン外国のシマを支配していっていますから気を許すことができません。だから日本は海外布教をしていないプロテスタントの国のオランダと貿易をしていたのです。
江戸幕府にとって大切なのは、権力を維持するために自分たちだけが都合のいい相手と都合のいい貿易をできるようにすることです。
外国と付き合いをしないことが目的ではなく、本家の力を高めることが目的だったはずです。
ところが組の歴史が長くなり、当初の目的を踏まえてルールを作った人がいなくなると、ルールを守ること自体が目的になってきてしまうこともあります。外国との付き合いもそうでした。
西洋マフィアの外道なシノギ
享保の改革の頃(18世紀)、ヨーロッパはこれまで以上に海外の国を暴力で植民地というシマにして搾り取るシノギを頑張っていました。
日本では三大改革とか言って、米重視の政策を行っているところ、ヨーロッパは暴力&商業のシノギで力を蓄えます。
暴力と商売は元々相性のよいものです。暴力はシノギを大きくしますし、シノギの成長は暴力をどこまでもエスカレートさせます。顧客を満足させるためにあれこれ工夫するよりも、弱いやつを殴って言う事聞かせたほうが手っ取り早く儲かります。
これを自分の国の中でやると社会が大きく混乱します。しかし、外国でやる分には本国には影響ありません。
暴力&商業は社会に悪影響が大きすぎるので、現代のビジネスでは、基本的に暴力を含めた悪いことをして儲けることは禁止されていて、人を喜ばせることでしかお金を稼げないようになっています。
私は「ソーシャルビジネス」という社会課題を解決するビジネスという言葉にとても違和感を持っています。現代のほぼすべてのビジネスは他人の困りごとを解決するか喜ばせることをしないとお金をもらえないので、ほとんどのビジネスはソーシャルビジネスで、ソーシャルビジネスじゃないのはヤクザのシノギや犯罪とかしかないんじゃないかと思うのです。しかし、この時代のビジネスには確かにアンソーシャルビジネス、反社ビジネスは存在していました。
悪いことを取り締まるルールがないなら、奴隷を売買する、弱い人達を無理やりこき使う、麻薬を売りつけるとか暴力をバックにいくらでも稼ぐことができます。西洋マフィアが強くなった理由はこの外道なシノギのせいです。
イギリスでは世界中から弱いものいじめをして集めた金を使い、これまで農業に従事していたパンピーを工場労働者に変え、植民地から安くかってきた材料で布とかのモノをつくり、できたものを高く売りつけるという仁義なきシノギのサイクルを作り超強い組になっていました。
やはり農業よりも暴力&商業の方が儲かるので、財政ピンチのたびに倹約と米作りばかりやっていた日本との国力はものすごい差が出ています。
この時代の幕府は外国との付き合いをしないのは我が国の伝統だからとか言ってヨーロッパの国との付き合いを断り続けます。「外国との付き合いを選ぶこと」は、本家の力を高めるための手段だったのに、「外国と付き合わないこと自体が大切」という目的と手段を間違えた判断がされるようになります。
そんな中で、イギリスが中国(清)に麻薬を売りつけようとして、それをつっぱねた中国をボコボコにして、クスリ漬けにしてしまうという信じられないくらい外道な事件が起きます。
当然その話は日本にも入ってきて幕府はめっちゃビビります。あまりにも理不尽な理由でケンカをふっかけてくる頭のおかしさ、大国だと思っていた中国をボコボコにできる暴力。関わりたくないけど、気分を害したら何されるかわかりません。
ということで幕府は、「うちの船が日本の近くに来たら水と燃料の薪をくれよ」というイギリスの要望をあっさり飲みます。
これまで西洋とは「俺らの昔からのポリシーだから、外国とはゼッテーつきあわねー」とか言ってたのに、ビビって方針転換したことで、幕府がみんなになめられるようになります。
そんな中、今度はアメリカがやってきます。
ヤクザのベンツのようにいかつい黒船と呼ばれた船に乗ってペリーというやつが横須賀の浦賀に来ました。ヤンキーの交渉においてはいかつさは大切です。ペリーはアメリカ組の組長の書簡を持ってきて「俺等にも薪と水くんねーかな。あと貿易もさせろよ。」と言ってきました。
幕府はすぐには決められないと引き伸ばし工作をしますが、結局7ヶ月後にもう一度来たペリーの言うことを飲まされることになりました。伊豆と函館の港を開くことと、水と薪を差し出すことが決まりました(日米和親条約)。
ヤンキーの世界では一度脅しに屈して舐められたらおしまいです。アメリカに芋引いたことは他の国にも伝わって、ロシア、イギリス、オランダも俺らも同じように扱えよと言ってきて、日本はそれを飲まなければなりませんでした。
その後もアメリカからの要求はエスカレートしていきます。「俺らと貿易しろよ、ただし、俺の方が有利な条件な。俺らの組のもんがお前のシマで揉め事起こしても処分はうちの組で決めるし、貿易のときにかける関税も俺等が決めるから。それで文句ね―よな!?」(日米修好通商条約)とか言ってきます。
幕府の中でも西洋マフィアどもの言うことを聞くか、突っぱねるかで意見が分かれ、それぞれの派閥が将軍の跡目を立てて争い出す状況です。まとまらないので、幕府は天皇にも意見を聞いてしまいます。天皇は突っぱねろと言ってきます。
揉めに揉めるのですが、結局突っぱねればそれを口実にカチコミかけられることにびびった幕府のトップ井伊直弼が勝手に条約を結んできてしまいます。
幕府の弱腰に組員たちは怒ります。
下っ端の組員たちも怒り、「尊皇攘夷(天皇を大切にして、外国のマフィアどもを追い出す)だ!」とかイキり始めます。
ヤンキーの視点でよくよく考えてみたいのですが、なぜ下っ端のヤンキーたちが怒っているかと言えば、代紋が舐められたからです。現代人の私達は「攘夷」がなされなかったことは知っていますが、なぜ怒り狂ったヤンキーたちは攘夷のために最後まで戦わなかったのでしょうか。
それはヤンキーの怒りの矛先が、舐めてきた相手ではなく、代紋を守れなかった執行部の方に向くからです。代紋が強く皆がそれを恐れるからシノギができるのです。ヤクザやってれば誰かと揉めるのは当然。揉めたときにきちんとケジメをつけさせられるかどうかが大事で、相手の言うことを大人しく聞き入れ代紋の価値を下げるようなことをしてくるような親分には親分の資格がありません。
それにそもそも下っ端の組員たちは怒りが溜まっていました。
ヤンキーたちは経済政策などの失敗も含めて、あまり暮らし向きもよくないです。武家諸法度で色々と制約を受けながらも忠義とか言って我慢できたのは、最低限の生活の保障があるからで、その約束も守れないような上に付いていく義理はありません。そんな中で、外国のいいなりになるという弱腰の姿勢を見せれば、それを口実にぶっ叩くのはヤンキーの摂理です。
鎌倉時代の元寇の回のときに、なぜ鎌倉幕府は元の使者をシカトしたか現代のヤンキー2人に聞きましたが、その答えは「元の子分になるなんて言ったら下のものに示しがつかないから」、すなわち強くない親分には子分がついてこないからチームが維持できないという示唆をいただきました。
結局のところ、最後はヤンキーたちも「攘夷」は現実的に不可能と理解して諦め、倒幕運動になっていくのですが、ヤンキーにとって代紋を守れない弱い親分は見限るしかないのです。
しかし、外国にビビって芋引いた幕府も身内には強硬姿勢です。
井伊直弼は尊王攘夷とか言ってる奴らをバンバンぶっ殺したりムショにブチこんだりします(安政の大獄)。しかし、井伊直弼は不満を持った茨城のヤンキーに暗殺されてしまいました。もはや地方の組も幕府を本家として敬わなくなってきています。子分がついてこなければ組は維持できません。
ここで幕府は起死回生の一手として、徳川家の息子と天皇家の娘を結婚させることにしました。はねかえりの組員どもが尊皇攘夷って言ってるんだから天皇家と合体したらあいつらも言う事聞くだろうと思って公武合体しました。
しかし、尊皇攘夷って言ってるヤンキーたちはふざけんなよとさらに怒りました。
多分、天皇をそんな道具に使うなという気持ち半分、幕府をぶっ叩きたい気持ちが一番強いから何やっても怒るモードになっているのが半分なのではないかと思います。
薩摩と長州
明治維新の主役になったのは、薩摩組(鹿児島)と長州組(山口)です。
両方とも関ヶ原の戦いで西軍についたせいで江戸時代ずっと冷や飯を食らっていた外様の組です。
幕府が強いうちは良い思いをせず、弱くなってきたらますます苦境に立たされる反面、そのコントロールも弱まるので、それをチャンスに自分たちでシノギをして力をためました。
長州組は紙や蝋など高く売れるものを作ったり、関門海峡を通る船の荷預かりや金貸しなどをして儲けました。
薩摩組は奄美大島の砂糖を売ったり、沖縄を通じて中国と密貿易をしたりして儲けます。
後々、この儲けた金で西洋マフィアから武器を買って軍備も進めます。
こういうことを恐れて江戸幕府は本家がコントロールできる米を中心とした経済にして、各組が勝手にシノギをできないようにしていたのですが、幕府の力が衰えてきたことで、冷や飯を食らっていた組が勝手なことをして力をつけ始めたのです。
薩摩組
シノギを大きくして暴力を持てば、本家の政治に口を出したくなるものです。
薩摩組の中では幕府ぶっ潰す派と、公武合体で幕府を生きながらえさせてそこに入り込む派がわかれます。2つの派閥は揉めて組の内輪で殺し合いをするのですが、幕府を生きながらえさせる派が勝ちます。
そして、今までの江戸時代では考えられないことですが、薩摩組の組長島津久光が天皇に幕府の改革案を持っていきます。そして天皇がそれを幕府に持っていき、久光は幕府の改革を手動するポジションを得たのです。強烈な身分制の江戸時代、九州の端っこの田舎ヤクザが天皇を動かして本家の要職につくなど本来は考えられないことです。それだけ幕府の力は弱くなっていました。
そんな中、薩摩組の組員がイギリス人が前を横切ったというだけでぶっ殺してしまう事件が起きます(生麦事件)。幕府は落とし前として現在の金額で90億円もイギリスに賠償させられました。しかし、麻薬を買わないからと戦争をふっかけるくらい凶暴なイギリスは、薩摩組にも賠償しろやとカチコミをかけてきます。薩摩も市街地を焼かれたのですが、60人のイギリス人を返り討ちにします。
お互いがこいつ強えーなと思いました。イギリスとしても幕府が弱くなってるから、こいつらとも手を結んどいた方がいいし、内戦でも起こしてくれたら介入して日本をぶんどれると踏んで、薩摩組から賠償金を払わせたあとに武器を売ったり軍事技術を教えてやるようになりました。ますます薩摩組の暴力が強まっていきます。
薩摩組としても攘夷と言ってみてもイギリスだけでもマジで強くて現実的には無理ということが身にしみてわかりました。
長州組
各地の組の中では暴力だけではなく、混乱する時代の中で、どんな社会であるべきか議論する私塾もできてきて、そこには下っ端のヤンキーや農民たちも参加するようになっていました。長州組には吉田松陰という人がやってる松下村塾というのがありました。そこで明治政府の主役となる高杉晋作とか久坂玄瑞とか伊藤博文とかが育ちました。
しかし井伊直弼が尊王攘夷派をぶっ殺しまくった安政の大獄で、吉田松陰は処刑されていまいます。弟子たちはこれをきっかけに絶対に幕府潰すと決意をしました。
尊王攘夷を掲げる長州組は京都で暴れまくります。
吉田松陰の弟子たちが幕府側の奴らをぶっ殺しまくりました。現代のヤクザの抗争以上に派手に暴れました。そして、貴族ともコネを作り、天皇に「ワシらが外国のマフィアども追い出しますから命令してつかあさい」とお願いしようとしました。
しかし、セレブの頂点である天皇はあまりにも暴力的で下品な長州組のヤクザを嫌いました。やってることもヤクザすぎるし、そもそもこいつら農民や下級武士みたいな身分の低い奴らもたくさんいますし。天皇は京都から出てけと言います。
出てけと言われて出ていくようではヤクザは務まりません。長州組は京都を燃やしてその混乱の中で天皇を拉致って、ついでに幕府のやつらをぶっ殺そうぜと計画します。
しかし、この計画は幕府の警察部隊の新選組にバレて襲撃され潰されました。
天皇は激オコです。薩摩組を始めとした各組に長州へのヤキ入れを命じてボコボコにします(禁門の変)。そして、長州組はゼッテー薩摩許さね―と強い逆恨みの気持ちを持つのです。
天皇は西洋マフィアを日本から追い出したいと思っています。天皇は幕府に攘夷をしろと命令します(幕府が弱くなって力関係が逆転しています)。しかし、この日までにやれよと言われた期限の日になっても幕府は何もしません。西洋マフィアと直接対峙したことのない天皇は知らないでしょうが、あいつらをよく知ってる幕府からしたらケンカを売ればボコボコにされるのは目に見えているのでできるはずはありません。
何もしない幕府の腰抜けっぷりを見て、イキった長州のヤンキーたちがアメリカの船に大砲をぶち込みます。その結果、アメリカだけではなくイギリス、フランス、オランダも一緒に返しにやってきて長州はボコボコにされました。
長州は幕府に命令されてやったのだから賠償は幕府に請求しろと言います。
長州組のヤンキー高杉晋作は、当初攘夷をしようと思っていましたが、あまりにも西洋マフィアの力が強すぎたので諦めました。でも弱腰の幕府はぶっ潰すと決め、幕府に従う派閥を長州組から追い出しました。
西洋マフィアとの抗争の末に
薩摩組も長州組も西洋マフィアと抗争をして、現実的に攘夷は無理だと悟ります。でも弱腰の幕府には従う気も起きない。
ヤンキーだったらよその奴らにシマを荒らされたくはないし、親分が親の器を持っていないのであれば自分がとって代わるのはあたりまえの思考です。
こうして、現実的に無理な攘夷は諦めて、薩摩と長州のヤンキーたちは幕府を倒して国を取ることを目指します。しかし、いきなり田舎ヤクザが本家の組長になるといっても他の組は従わないので、天皇をかつぐこと「尊王」はそのまま残すことになるのです。
武闘派の双璧薩長が組めば幕府を倒せるかもしれませんが、長州組は薩摩組に禁門の変でボコボコにされた恨みがあります。
その手打ちを仲介したのが武器商人の坂本龍馬です。坂本龍馬はペリーが来たときに沿岸警備部隊に下っ端として参加しており、黒船の凄さを見て戦っても勝てないと諦め、西洋マフィアの力の源泉である商売をしはじめました。
幕府は言うこと聞かない長州組にヤキ入れをしようとして、薩摩組にもカチコミしてこいと命令します。しかし、薩摩組としても長州組がいなくなれば次は自分たちが狙われるとわかっています。
坂本龍馬は長州の欲しかった外国の武器を薩摩の名義で買う代わりに、凶作で米が足りなかった薩摩に長州が米を出すということで間を取り持とうとします。
しかし、ヤンキーの世界では下の者ほどメリットよりも好き嫌いで動きます。恨みがあるやつと手を組むという判断は、返しもできない腰抜けだと思われる可能性もあり、ヤンキーの組織では看過できない問題です。だからこそ大義が大切です。薩摩組と長州組はそれぞれの組のことよりも日本の未来が大切だから今までの敵対関係も水に流すというかっこいい大義を掲げて子分たちを納得させ友好団体になりました。
幕府は長州にヤキ入れに行きますが、なぜか長州が外国の武器を持っていて、薩摩もカチコミに参加しないことで、薩長が手を結んだことに気づきます。
その後さらに幕府には追い打ちになるように将軍と天皇が病気で死んでしまいました。幕府は長州へのカチコミの軍資金として全国の組に米を供出させていたのですが、凶作だったことも重なり米不足になりパンピーたちが「世直し」といって一揆や都市の商人への襲撃が行い、世の中も混乱してきます。
西洋マフィアは内戦が起きるぞとほくそ笑んでいます。フランスは幕府を支援し、イギリスは薩長を支援しています。内戦が起きて日本の力が落ちたところで仲裁に入って掻っ攫おうと狙っています。
西洋マフィアの食い物にされないために
このまま内戦になれば日本は西洋マフィアの食い物にされるというところで、坂本龍馬は地元の土佐藩を通じて幕府に提案をします。「大政奉還」と言って、幕府が自主的に天皇に権力を返し、天皇に権力を集め国をもう一度一つにするという提案です。
日本がラッキーだったのは権威を持ってる天皇という存在がいたことでした。もし天皇がいなければ、たとえ幕府が薩長に降伏しても従わない組がたくさん出てきたでしょう。しかし、薩長の田舎ヤクザではなく、天皇ならば皆従います。坂本龍馬は「船中八策」という西洋の政治の仕組みを取り入れて、外国にシマを荒らされないようにする強い国にする方針も一緒に提出しました。
徳川幕府最後の将軍となった慶喜は、これを受け入れて、日本は天皇を中心とし、西洋マフィアに対抗できる強い国を目指していくようになるのです。
しかし、幕府側にいた人間の中には納得できないやつらもたくさんいます。坂本龍馬はその後暗殺されてしまいました。
それに西洋マフィアとしてもまだまだ揉めてもらわなければ、植民地を取ることができないので困ります。一応は明治になるのですが、まだ混乱は続くのです。
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