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この世界には何の意味も価値もない

ジョン・ポール・サルトルの『実存は本質に先立つ(Existence precedes Essence)』という言葉は実存主義哲学の中でも最も有名な言葉の一つであろう。

この言葉の解釈は人それぞれだと思うが、一般的には、人間は他の『もの』と違って何のために生まれてくるのかという本質があって存在するわけではないという認識である。

どういうことかというと、例えば、ボールペンは書くために生まれてきた。

それは『何かを書きたい』と思った人がその何かを書くために作ったものだ。

つまり、ボールペンは『書くもの』という本質があって存在する。

しかし、その一方で、人間は生まれてくるときには『こうなるために生まれてきた』ということはない。

とりあえず先にお腹の中から出てくる。

そして、それから自分がどのような人間かを徐々に定義づけていくのが原因である。

つまり、何のために生まれてきたかは関係なくて、とりあえず生まれてきたものに本質を後からつけていく存在であるということだ。

もちろんその解釈はどのようにつけてもいい。

自分がどのような人間か、どのような人間になるかということは後々自分で決めていけば良い。

実存主義と同じ現象学的な考え方にたつ心理学的理論では基本的にそのような考え方が一般的になっている。

自分のことをどのような人間だと捉えるか、またこの世界をどのように見るかも自分次第であるという考え方だ。

そう入った考え方に立つと、目の前で起きている出来事や、目の前の世界が何の意味も価値もないように思えてくる。

確かに元々何の意味も価値もないものだろう。

ただ、我々人間がそれに勝手に意味をつけているだけである。

例えば、昆虫を見て気持ち悪いと思うのも、自分がそう思っているからであって、そもそも昆虫が気持ち悪いわけではない。

リストラや離婚、借金など、人生におけるネガティブなイベントも自分が辛いと思うから辛いわけであって、その出来事自体には大した意味はないし、それらの出来事が本来から『辛さ』という性質を帯びているわけではない。

ただ、我々がそのように見ているだけに過ぎない。

というように、我々は自分のことも他人のこともこの世界のことも、将来のことも、どのようにだって解釈できるわけだし、それによって我々の世界が形成されていく。

つまり、この世界をどのように作り上げていくか、意味付けしていくかは全て自分次第であり本人の自由なのだが、それには必ず責任が伴う。

今の状況が『辛い』と意味づけたのなら、その辛さを引き受けなければならない。

どうとだって捉えられる現象を『辛い』と捉えたのは自分自身なのだから。

だから、我々の目の前に起きる現象が意味を持って起きていると思うのをやめてみてはどうだろうか?

全ては雨が降るように、風が吹くように、波が立つように、何の意味もないことである。ただ、自然と同じように流れていく現象である。

そして、それにどう意味づけをしていくか、それは自分次第であり、それが我々一人一人が見ている世界なのだ。

この世界には何の意味も価値もない。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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