自由意志と環境論は両立しうるのか?
自己コントロールについて考えるにあたって必ずといっていいほど考えなければなrない概念が『自由意志』である。
自由意志とは、自由に自分の行動や思想を決められる意志のことであり、この自由意志を人間がどれほど持っているのかと言う議論は昔からなされている。
なぜ自己コントロールを考えるにあたって自由意志が大事なのかというと、もし自分の行動が自分の意志で決めることができるのであれば(つまり、自由意志が存在するのであれば)、ある行動の責任はその行動をした人にあることになる。
例えば、ダイエットをしているにも関わらず、たまたま前を通りかかったラーメン屋から漂ってくる良い香りに誘惑され、ふらっと入ってしまったとする。
自己コントロールについて考える場合には、これは自己コントロールの失敗に当たる。
ただ、もしこの行動が本人の意志ではなく、まるで磁石のようにラーメンの香りには引き寄せられていくような自然法則を持っているとすれば、その行動はその人の責任ではなくなる。
なぜならそこに自由意志は介在し得ないからだ。
環境論(他には『機械論』や『決定論』と言われたりする)においては、人間の行動は全て何かしら環境の働きかけによって決定されていると考えられている。
自分で決めたと思っていることも実はそうではなくて、何かしらの刺激や強化因子によってその行動が発言していると考えるのが環境論である。
僕の印象だが、より科学的な見方をすれば環境論者になりそうな気もするし、哲学的な(特に実存主義的な)見方をすれば自由意志の存在を信じざるを得なくなるように思う。
なぜなら、自由意志というのはどこまでいっても非科学的なものであり、その存在を証明することも反証することもできない。
再現性がなく、反証し得ない事象に関して科学は興味を示さない。
なので、科学の世界では自由意志が存在するという前提で話を進めようとはしないのだ。
実際のところどうなのかというと、簡単に結論を出すことはできないだろう。
そもそも自由意志というものがどこまでの範囲の話をしているのかにもよる。
環境論的に言えば、人の行動も含めて全てが自然現象であり、それらはすべて物理法則や生物法則に則ることになる。
それ以外に人間の内側から独立して生まれてくる行動因子のようなものは存在しないと考える。
それは脳の働きにおいても一緒である。
『意志』というものを体のどの部分が司っているかと尋ねられると、多くの人は脳だと答える。
少しばかり脳科学に明るい人であれば前頭前皮質だと答えるのではないだろうか。
しかし、その脳の働きすらも自然現象であると考えるとすれば、自由意志が入る余地はないように思える。
我々は環境の産物であり、全てはあらかじめ決められているという、かなりスピリチュアル的な結論に落ち着かざるを得ない。
僕自身がどのように考えるかというと、最近は非常に難しくなってきている。
なぜかというと、行動科学の観点から見れば決定論的な考え方の方が理にかなっているように思える。
あまり非科学的なものは好きではない。
その一方で、実存主義哲学的な見方をすれば、サルトルの『実存は本質に先立つ』のように、我々の本質たるものは自分自身で決めることができるわけだ。
では、この本質を決めているものを意志と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうかと考えている。
皆さんはどう思うだろうか?
自由意志と環境論は両立しうるのか?
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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