【意識】意識は二つの別々なものへと分けられ得るのか。
僕たちが普段から当たり前のように使う『意識』という言葉、当然のように使っているけど、いざそれが何かと聞かれると難しいよね。
もしみんなが『意識ってなに?』って聞かれたら何と答えるかな?
ちなみに僕は今のところ『外的世界に対する反応を引き起こすもの』とでも言うのかな。それが正しいかどうかはわからないんだけどね。
意識の反対語とされている『無意識』もみんなよく使うよね。
『無意識でやっちゃった』とかってのは、塾講師をしてれば中高生から嫌というほど聞くよ。
『お前らはそんなに頻繁に意識がなくなるのか』と思うんだけどね。
けど、『無意識でやってしまった』ってどういう状態なのかな。『無意識』ってどういう状態なんだろうね。
有名だから知ってる人も多いかもだけど、『無意識』という概念を初めて提唱したのは神経学者のジークムント・フロイトだよね。
彼は、ヒステリー患者の治療の中から無意識という存在を仮定し、提唱したんだ。
その当時は批判されまくりだったらしいけど、今では受け入れられてきているよね。
どうして『無意識』が受け入れられづらかったかというと、おそらくそれは『意識的に体験する』ことができなかったからだと思うんだよ。
例えば、僕もみんなも無意識でやったことには気づかないだろ?
寝ている間、意識はないから寝ている間にしたことや、寝ている間に目の前で起きていたことなんて気づかないだろ?
つまり、主観的・意識的に体験できないものがどうして存在すると言えるんだってのが当時の言い分だったんだよね。
まぁ、てな感じで無意識の始まりはそんな感じだったんだけど、じゃあ『意識』って誰が最初に確立したか知ってる?
実はジョン・ロックって哲学者なんだよね。1690年代だったかな。
それから『意識』って言葉が浸透していくんだけど、この『意識』って存在は不思議じゃないか?
だって、まずそもそもの前提なんだけど、『意識』が生まれる場所が脳だってことは大体みんなが賛同できるところだよね?
けどさ、脳ってのは本来電気的反応や科学的反応の集合体なんだ。
電気活動が起こったり、化学物質が細胞同士を移動したりして僕たちの脳は活動しているんだ。
そこからどうやって『意識』という、なんとも主観的で曖昧なものが生まれるんだと思う?
これを『意識のハードプロブレム』って言われていて、現代の科学ではこの問題について研究が進められているんだって。
てな感じで、『意識』ってのはとても不思議なんだけど、ここまでの科学的研究を見てみるとどうやら『意識を司っているのは大脳皮質だ』って考えがかなり有力だったんだって。
ほとんどの科学者がそう信じていたみたい。
けど、最近読んだ本に面白い事例が載ってたんだよね。
マーク・ソームズっていう南アフリカの神経心理学者で精神分析家という面白い経歴の人の本なんだけど、その中に水無脳症という病気の子供たちの事例が紹介されていたんだ。
水無脳症ってのは、頭蓋内に脳脊髄液が溜まってしまうことで脳の大部分がほぼ完全に欠損してしまう病気で、脳画像処理をすると脳幹より上が真っ黒になるんだよね。
つまり、意識を司っていると考えられている大脳皮質は全く機能しないんだ。
そんな水無脳症の子供達の親の自助グループがあるらしいんだけど、そこに参加したある神経学者が、水無脳症の子供達を連れてディズニーランドに行ったんだって。
すると、水無脳症の子たちは楽しそうに笑ったらしいんだ。
ただ笑うだけじゃない、アトラクションなど怖い時には泣き出す子もいたらしい。
つまり、外の世界に対して反応して感情を表出するという、意識の働きをきちんと持っていたんだよね。
もし、従来の『意識を司っているのは大脳皮質だ』っていう仮説が正しいとすれば、彼らは植物状態みたいな状態になって、なんの反応も示さないはずだろ?
けど、そうはならなかったんだよ。
しかも、それとは別で大脳皮質を除去したラットの行動を観察しても『意識』がないとは言えないような結果になったんだって。
ということは、大脳皮質以外にも『意識』に関わる部位があるのかな?
それはまだ分からない。
けど、実は外部から入った刺激を受け取り処理して、反応する過程は意識的な過程と無意識的な過程の両方があると言われているんだ。
その証拠に、盲目の人によく見られる『ブラインドサイト』という現象がある。
盲目だから物を『見る』ことはできないんだけど、視覚刺激に反応することはできるんだよ。
だから、盲目の人が家の中の障害物を見事に避けて歩くことができたりするんだ。
しかし、彼は『何かを避けたつもりはない』と言う。つまり、視覚刺激を受け取り反応するというプロセスが意識に上っていないということだね。
けど、そうなると『意識を司るのは大脳皮質だ』という仮説には疑問が残るよね。
だって意識がなくとも反応できるんだから。意識してなくても気づくことはできるんだから。
その矛盾を解決するために神経学者のアダム・ゼマンという人が『目覚めている状態としての意識』と『経験としての意識』という二つの意識に分けたんだ。
そして『経験としての意識』を司るのが大脳皮質だということにしたんだよね。
つまり、水無脳症の子たちは『目覚めている状態としての意識』は持っているが『経験としての意識』は持っていないということらしい。
外の世界やそこから受ける刺激にに反応することはできても、現象学的な意味での『意識』を持ち、自由意志によって行動することができないということだ。
そして、そうである以上、この子達は『大脳皮質が司っている意識』は持っていないということらしい。
この説明はどうだろう。僕はなんか腑に落ちない。
どちらも同じな感じがしちゃうんだよね。マーク・ソームズも同じように思っているらしい。
というか、先にソームズの本を読んでるから今これを書いてるから、後知恵バイアスが働いてるのかもしれないけどね。
まぁ、どちらにしろみんなはどう思う?
最後にこれだけは伝えておくが、『意識』については人類がまだ理解しきれていない分野であり、わかっていないことの方が多い。
だから、僕も分からない。みんなも分からないだろう。
けど、それでもいいんだ。みんなにとっての『意識』を教えてほしい。
意識は二つの別々なものへと分けられ得るのか。
最後まで読んでいただきありがとうございました。