ナイン・ストーリーズ J.D.サリンジャー
訳者 柴田元幸
サリンジャーの本を読むのは、これが三冊めだ。
私は、サリンジャー文学にはとっつきづらい印象を持っている。だが読みづらいぶん、腹にストンと落ちる箇所が際立って、よく心に刺さるのだ。要するに、抑揚が効いている。サリンジャー文学のそんな魅力に取り込まれ、私はこの本を手に取った。
暗闇のなか、両目を手で塞がれた私が、サリンジャーの手に引かれて、行き先も知らずに導かれて行く。手探りで、覚束ない足取りで。そんな風にして、短編が九本収められた『ナイン・ストーリーズ』を読み終えた。
結論、私はこの短編集が好きだ。
気がついたのは、この本の短編は、おおよそ感情の機微に関しての記述が少ないという事だ。少なくとも、直接的に登場人物が「喜び」「悲しみ」「怒る」という表現はない——ただ、私たち読者が、サリンジャーの独特な細部にわたる筆致を追いながら感情を乗せていくしかない。この「感覚的」な部分が、サリンジャー文学の難しさであり、また楽しさでもある。
この短編集は、結構不気味だ。特に、バナナフィッシュ日和(バナナフィッシュの得体の知らなさが怖い)、コネチカットのアンクル・ウィギリー(母娘の歪んだ関係と壊れた娘)、笑い男(作り込まれた作り話の得体の知らなさ)。
私的に、好みの順を挙げると、
テディ、ド・ドーミエ=スミス、華麗なる口もと、エズメに、コネチカット、バナナフィッシュ、エスキモー、ディンギーで、笑い男
こうして好みを挙げると、なるほど、短編の並び順が妥当なのがよくわかる。ここからは、各ストーリーに対する私の感想と、個人的なメモだ。ネタバレが含まれるので、未読の方はここまでにしてもらいたい。
バナナフィッシュ日和
グラース家の話じゃないか、と『フラニーとズーイ』を先に読んでいた私は喜んで物語を読んだ。ところがまあ、この話が難解なのである。バナナフィッシュって?残念ながら、私はその正体を掴むことはできなかった。実は、サリンジャーの来歴についてよく知らないのです。図書館でサリンジャー戦記なる本を見つけたので、その内こちらを読んで、彼に対する理解を深めて、バナナフィッシュについて考えたい。
コネチカットのアンクル・ウィギリー
エロイーズとメアリ・ジェーンは、かつて大学でルームメートだった人間同士にしかありえない話し方で話していた。エロイーズは旦那以外の男の話で頭がいっぱい、全く余裕のない様子で黒人メードとも険悪な関係のようだ。さらに、娘ラモーナの妄想癖(架空の恋人ジミー・ジマリーノは車に轢かれて死ぬ、なんとも不気味である)も加わり、なんとも絶望的な雰囲気をまとったままこの短い物語は閉じられる。
エスキモーとの戦争前夜
ジニー・マノックスは、ミス・ベースホア校の同級生セリーナ・グラフにテニスの帰りのタクシー代を支払わせられることへの不満から、お金を払ってもらうため彼女の家(また黒人のメード、セリーナとは口を聞かない関係らしい)にまで行く。そこでセリーナの兄フランクリンと(姿勢の悪い男で、チキンサンドを押し付けるなどなかなかの愚図。「知るかよ、」という癖が印象的。ジニーの姉を「自分の思ってる半分も美人だったら」と言う)紹介もない男との愚痴を聞くなど世間話をして、疲れて金も貰わずうちは帰るという。
笑い男
こわい。
ディンギーで
掴みどころない。
エズメにーー愛と悲惨を込めて
戦争に向かう直前、雨の中何となく行き着いたずぶ濡れになった一角で、教会で行われる児童聖歌隊の練習を除く。一際目立つ歌声の、美しく、大人びた様子の少女に目を引かれる。赤十字の娯楽室を避け(彼は人付き合いに長けていない集団のひとりだ)、民間人向けのティールームへ入る。すると、先ほどのあの”若き淑女“が、弟と、住み込み家庭教師と入ってくる。知的な会話をして、別れる。少女のもとに「きのうばんぜん」で戻ってくる、というのは、なんとも悲惨な愛だな、と感じた。
可憐なる口もと 緑なる君が瞳
すれ違っていたリー夫婦が、愛情や絆という点で優っていた。電話で愚痴を聞いて「とにかく心配するな、そこにいろ」と冷静に助言しているような姿勢をとってきた銀髪の男(電話越しでアーサーと呼ばれる、文中ではこの表記)は、傍にいる若い女が「ああ、あたしほんとに犬みたいな気分!」だのと話しかけてくるなか、その事に気付いて、苛立ちなのか悲しさなのか悔しさなのか、頭痛だと言って電話を切り、女の口も封じさせた。
ド・ドーミエ=スミスの青の時代
繊細で反抗的な青年像。挟まれる手紙、異常性、これぞサリンジャー。好き
テディ
老成した天才少年。オレンジの皮。10時には日課の日記を書きつける、今日か(死期を悟っている)。お気に入りの箇所↓
p298
「結構。じゃ君はどういう意味でその言葉を使いたい?」
テディはじっくり考えた。「『親和(アフィニティ)』って言葉の意味わかります?」と彼はニコルソンの方を向いて訊いた。
「大まかには」とニコルソンはそっけなく言った。
「僕は両親に対してすごく強い親和性を持っているんです。二人とも僕の親なんだし、僕たちはみんな互いのハーモニーの一部なんだし」とテディは言った。「生きている間は二人に楽しい時を過ごしてほしいですね…楽しく過ごすのが好きな人たちですから。でも二人とも、僕とブーパーーーって僕の妹ですけど——をそういう風には愛していません。つまり、僕たちをありのままには愛せないみたいなんです。僕たちを愛するのとほとんど同じくらい、自分たちが僕たちを愛する理由を愛していて、たいていの時はむしろそっちをより愛してるんです。そういう愛し方、あんまりよくないですよえ」。彼はまたニコルソンの方を向いて、わずかに身を乗り出した。「いま何時かわかります?十時半に水泳のレッスンがあるんで」
p304
「聖書に載ってる、アダムがエデンの園で食べたリンゴは知ってます?」と彼は言った。「あのリンゴに何が入っていたかわかります?論理です。論理とか、知性とか。入っていたのはそれだけです。だから——ここからが肝腎なんです——ものをありのままに見ようと思うならそれを吐き出さないといけないんです。吐き出してしまえば、孟起の塊がどうとか悩んだりしません。ものがつねに終わっているように見えることもなくなります。そして腕というものが真に何なのかがわかるんです、知りたいという気さえあれば。僕の言うことわかりますか?僕の話について来てます?」
「ついて来てるよ」とニコルソンは、だいぶぶっきらぼうに言った。
「問題は、たいていの人はものをありのままに見たがっていないということです。しじゅう生まれたり死んだりするのをやめたいとさえ思わないんです。いつも新しい肉体を欲しがるばかりで、神の許にとどまろうと思わないんです、そっちの方がずっといいのに」。テディはしばし考えた。「こんなリンゴ食いたちの集団、見たことないですよ」と彼は言った。そして首を横に振った。
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