古典はいるのか?
こんにちは。
″高等遊民″です。
前回の記事は「『学習指導要領』から学ぶ国語教育」について書いたため、本日は国語教育をもう少し深掘りしていこうと思います。
良ければ前回の記事もご覧くださいませ↓
前回の記事で少しだけ「古典はいるのか?」について触れてみました。
今回は、その「古典はいるのか?」という疑問を中心に、大雑把に大学教育について語っていこうと思います。
この疑問は良い着眼点で、さらなる国語教育理解に繋がるはずです。
古典について興味がある高校生をターゲットに書いているため、大学の用語(″履修″″シラバス″など)は丁寧に解説しております。
ただ、どの年齢層の方が読んでもある程度楽しめる内容と自負しています。
もし、疑問点などありましたらお気軽にコメントくださいませ。
1.大学教育とは?
まずは大学教育の全身となる義務教育からお話ししましょう。
別の記事で義務教育について話していますのでそちらも併せてご覧くださると幸いです。より理解も深まると思います。
①義務教育
義務教育とは、文部科学省が決めた『学習指導要領』という「全ての学校と教員が同じクオリティを保って授業できるための″マニュアル″」に沿って授業が行われます。
また、主に最低限の社会生活がおくれるように、科目などが設定され、目標も緻密に計算されています。
これは文部科学省にも文言として提示されています。
②高等教育
高等教育は少し複雑です。
確かに文部科学省には高等学校版の『学習指導要領』が存在しています。基本的には義務教育と理念は同じです。
ただし、今までの「最低限の社会生活の保証」とは違い、大学教育を見据えた文言も見受けられます。
ここは今回のテーマで非常に重要なポイントとなります。
③大学教育
大学にも文部科学省が決めた「学問(或いは技能)の習得状況を一定化する″マニュアル″」が確かに存在します。
『学習指導要領』は主語が″先生″でありましたが、主語が逆転し″学生″になっています。つまり学生側が適切に学問(技術)を納めるための指数、習得しているかの指数として用いられています。
但し、文部科学省のホームページでは「大学・大学院、専門教育」としてまとめられています。
全部は取り上げられないので、よって今回は主に国立大学を中心に、公立大学と私立大学も参考にしつつ、大学教育についてどのような国の方針かを提示します。
主に、大学のルールは文部科学省が『大学設置基準』より定めています。
他にも細かなルールがあるのですが、大学には「単位」という制度があり、こちらが大学の要です。
一見は義務教育の授業と同じですが微妙にルールが異なります。
要約すると、授業を受けて(=大学では″履修″と呼びます)一定以上の成績を修めると、学校から与えられます。
基本的にはひとつの授業2単位が多いです。多くの大学の卒業の条件は128単位前後の取得が義務です。つまり4年間で64授業を受ける(履修)こととなります。
※ちなみにですが、1年間で取得できる単位にも、4年間で取得できる単位にも限界があり、一定数を超えると単位が貰えないと規定があります。もし、単位をオーバーしてしまいそうだが受けたい授業がある場合は必ず大学に相談してください。
この基準をもとに大学で授業をする先生(教授や准教授の方など)が″シラバス″を作成します。
シラバスとは、授業の指数です。
義務教育との大きな違いは、義務教育では「どの先生も一定基準の教育をする」ことが義務でした。そうでないと社会性を身につけられないからです。しかし、大学は研究機関なので、先生の研究によって授業が左右されます。しかし、あまりにも教授によって授業がバラバラだと、生徒側の習熟度が測れないためある程度シラバスにもルールがあります。
シラバスに関しては『中央教育審議会大学分科会 教学マネジメント特別委員会(第4回) 委員御提出資料』も参考になるのでぜひご覧ください。
なお、「教学マネジメント指針」とは文部科学省が主催の大学の授業に関してマネジメント研修です。各大学が集まり議論を行います。年一度開催されています。
④義務教育と大学教育の違い
長くなってしまったので、義務教育と大学教育を整理しましょう。
・義務教育
義務教育は、社会生活を生徒が不自由なくおくるために教員がマニュアルをもとに教育するシステムです。ただし、高等学校になると加えて大学教育も見据えた授業も加わります。
・大学教授
大学教授は研究機関です。指導者は研究者で、指導者ベースで未来の研究者を育成します。なので授業のカリキュラムは研究者ベースです。ただし研究者ベースだと成績の付け方が不安定になるため、指数として″単位″があります。またどういう研究を主目的としているか、何をしたら単位を取れるのかの指数が書かれているものが″シラバス″です。
主語が生徒から、先生にスライドしていくイメージを持つと良いと思います。
2.日本文学・国文学とは
大学についてはわかっていただけたと思います。
次に、″古典″についての定義をおさらいしましょう。
その上で、高等学校で古典は必要かを考えます。
①古典はどこに属すのか?
まず、高校生になると文系・理系で分離される場合がほとんどです。
古典は文系科目に属するため、理系を選んだ生徒は接しないまま卒業する場合も多々あります。
文系の中でも色々な種類があるのですが、大学では「文学部」というジャンルの「国文学」に属します。
ただし、「日本文学科」と記載されている場合もあります。
それほど違いはありませんが、国文学科と記載のある大学は「てふてふ」を「ちょうちょ」と読んだり着物を着て短歌を歌った時代を研究している学者が多くいるほか、設立の古い大学、宗教上の理由で設立された大学のどれかに当てはまる確率が高いです。
②古典という単語は幅広い?
古典。
そう聞くとどういう印象をイメージされますか?
iPhoneで古典と打つと、絵文字として「👘」が表示されます。
古典は「文学史」という歴史の一部分という認識を持つとわかりやすいです。
文学史は、義務教育で習った平安時代といった歴史より大雑把に区切られています。
教科書、他書籍他、あまりにも信用性がないですが、一応ウィキペディアでも確認できます。
『古事記』や『日本書紀』が最初の文学
=まだ名前のない時代〜飛鳥時代・奈良時代
→上代文学
⇩
・紫式部の書いた『源氏物語』という小説
・あるいは清少納言の『枕草子』というエッセイ
=平安時代
→中古文学
⇩
軍記の多かった時代で、武田信玄の風林火山などが有名。軍記なので漢文も多数あり。
=鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代
→中世文学
⇩
『奥の細道』『東海道中膝栗毛』『南総里見八犬伝』など日記と図鑑が多い時代
=江戸時代
→近世文学
⇩
夏目漱石や太宰治が有名作家
=明治時代・大正時代・昭和初期時代
→近代文学
⇩
小林秀雄といった巨匠や、芥川賞や直木賞などといった現代の小説
=昭和後期時代・平成時代・令和時代
→現代文学
さて、上記2個を用いて古典を表現すると、大体は、上代文学、中古文学、中世文学、近世文学の4つを示します。
共通点は文字に由来し、書いてある文字と音が合っているか否かで古典か現代かをわけます。
これを「言文一致」と言います。
余談ですが、無論時代の選別には諸説あります。
例えば、安土桃山時代を近世文学とセットとする人もいるでしょう。江戸文学は完成度が高いのであまりいないとは思いますが。
また、例えば太宰なんかは現代文学に数えても良かったかもしれません。
昭和初期というのは戦争の集結までのことを指します。
太宰は昭和の後期にも生きていた人なので区分が難しいです。
3.古典は必要か?
さて、大詰めです。
古典は必要か?について話します。
まず、結論から述べると「必要」です。
当然ですが、必要だから学ぶわけです。
ただし、どこの視点から見るかによって、必要の中身が変わってくると思います。
どういう視点があるのかひとつずつ見ていきましょう。
①義務教育での必要性
正直言って義務教育ではほぼ古典には触れないと思います。歴史を覚える上で文学史を少し触るのでそこで聞いたことあるくらいでしょうか。
なので必要か否かを決めることは難しいですが、以下の文は有名なので覚えている人も多いと思います。
『竹取物語』「今は昔、竹取の翁と言うものありけり」
『枕草子』「春は曙…」
『源氏物語』「いづれの御時にか…」
『平家物語』「祇園精舎の鐘の音」
『徒然草』「徒然草なるままに」
このあたりは知っておくと、日常の小ネタとしても話せるので、社会が有意義という点では勉強しておく価値があると思います。
なので必要と言えば必要でしょう。
②高校の勉強
一番議論が活発なラインが高校での古典勉強についてだと思います。
結論から先に言いますと、私は必要だと思っています。
必要ないと思っている人に一点お伝えしたいのが、″虚学″という点で「必要ない」と言うことは間違っていと思ってます。
要するに日常で使う勉学の「実学」と違い、日常での使用頻度が低い学問や概念を扱う学問は「虚学」と呼ばれたりします。
ただし、この論理ですと矛盾が生じてしまいます。
何故ならば、高等学校は「大学への準備として勉強すること」が『学習指導要領』に「古典探求」として加えられているからです。
全ての人間が大学には進みませんし、全ての人間が古典を学びませんが、逆に言えば大学で古典を学ぶ生徒がいる以上は学んでおかなければいけないということです。
それは数学などにも当てはまります。
③大学でのケース1:国文学を勉強する場合
当然、古典の知識は高等学校で学んでいればいるほど有利です。
歴史なども日常であまり活用されない学問のひとつ「虚学」として用いられていますが、案外国文学の勉強は歴史も多用します。
なので、やはり高等学校で行う勉学は、大学への準備という前提を持つと全て必要ということになってしまいます。
④大学でのケース2:史学科や哲学科に進んだ場合
当然、古典は重要です。
むしろ史学科や哲学科の方が古典を使うかもしれません。
国文学科は作者の成り立ちなども勉強するので、歴史の流れを知るところからスタートします。
一方、史学科も哲学科も原文のままを読める方が圧倒的に学問の質が上がるので、むしろこの学科の方が古典の価値が上がります。
また、哲学科の中でソクラテスやプラトンなどの時代を選んだ場合、数学も多少は出てくるでしょうから高校数学からも逃れられません。
やはり大学単位で見た場合は無駄な学問は存在しないと思います。
⑤大学でのケース3:日本文学科に進んだ場合
私は日本文学科に所属し、近代文学を勉強していました。
なので近代文学や現代文学、他絵本文学などなといったものをまとめ、勉強した場合もちろん古典を使います…と、思うじゃないですか。
実はあまり古典知識使わないんですよね。
私は近代文学を勉強していたので代表して近代文学メインで話しますが、近代文学の勉強は4つのパターンになっています。
海外の思想をいち早く取り入れて書かれた文学が評価されていた時代
「言文一致」の関係で古典文法が淘汰された
政治事情も関係深かったため古典よりも優先して学ぶことが多い
テキスト論の普及
※テクスト論とは、時代背景や作者のバックボーンなどを無視し、書かれていた文章のみで物語を読み取る技法です。
→興味ある人はロラン・バルトなどで調べてください
この4パターンに沿う勉強をするならば以下の通りになります。
100年前の英米文学を学ぶ
言文一致論を学ぶ
政治学を学ぶ
テクスト論を学ぶ
その中でも、古典を使わない理由は「2. 言文一致」に原因があります。
高等学校の国語の教科書の中に「何故これが入っているのか?」疑問に思った事はないでしょうか。
その理由は面白いからではありません。
何か大きな功績を残した小説だから読むのです。
例えば、漱石の『こころ』の場合、教科書に載っていない箇所では親戚との金銭関係トラブルに巻き込まれます。また登場人物の″先生″は最後には遺書を残して自殺します。教科書に載っている範囲で言うと、″先生″は″K″という親友を恋愛トラブルで自殺に追い込んでしまいます。
このような教育的にやばい内容を何故教科書に載せ続けるのか。それは文学的な功績が大きいからです。
言文一致は『浮雲』からはじまり、漱石の『こころ』が完成形と呼ぶ学者が多いです。
パイオニアなので教科書に載っているだけであり、別に面白いから載っているわけではありません。
『こころ』は私の卒論でした。
卒論で難しいと感じた部分は、古典でも英文学でもなく、当時の歴史背景です。
先ず、言文一致を目的とした小説なので、読む分には古典は意識しませんでしたし、ほぼ考えないまま終わりました。
次に、漱石は英文学と漢文学の影響を強く受けているため両者の知識がないとしんどい部分があります。私は奇跡的に元々英文学科に所属し、日本史、世界史、政治経済を全て勉強した経験があるので漢文もなんとかなりました。
また、当時の政治背景も政治経済を勉強していたのでさほど苦労しなかった印象です。
一番困ったことは、当時の流行思想です。
思想の勉強はかなり難しいです。
哲学と違い体系化されていないので、文系の知識全てを導入し理解する必要があります。私には無理だったので、テクスト論で誤魔化しました。
近代文学で卒論を書く学生はテクスト論に頼ることが多いでしょう。
結論では「古典は不要」になってしまうのですが、他学科のことを考えると必要とは言い難いのが本音です。
また、結局角川などから出ている近代文学はある程度現代化されてはいるので、当時の言葉で読める方が強いのは間違いないです。
そして、虚学と言われる哲学、英米文学、漢文学、史学、政治学が必要であった以上、他の虚学を否定することはできません。
4.まとめ
大学の話になりますが、今の日本文学科、国文学科の生徒は、
「古典は文学の基礎」と、古典文学ばかり勉強させられ変体仮字(ゑのような昔の文字)まで覚えさせられます。
実際は変体仮名は近代文学および現代文学を勉強する場合はあまり使いません。
私は英米文学も嗜んだ過去があるので断言しますが、近代文学に関してはむしろ英米文学と政治学を学んだ方が理解が早いです。
ぶっちゃけ、文系なんてほぼ4年で就職しますから、文学の楽しいところを学ばないと損だと思います。
マニアックな要素は、修士へ進む一部の優秀な変態(褒めています)が進むべき道です。
学問はひとが教えることが常ですし、それは変わらない気もしますが、好き嫌いの境目は教えられる人に寄ると思うのです。
そして、
近現代と古典の関係性については、本当は古典の先生も困っているのではなかろうかとも思います。
とはいえ、古典に触れないといけない、読まないといけないという事実は変わりません。
以下、いままでのまとめを箇条書きにします。
義務教育ではほぼ古典を扱わない
高等学校は大学の準備機関の側面があるため学ぶべき
大学では取捨選択できるため学ばなくても良いが学ぶに越した事はない
文部科学省が決めてるからもう勉強するしかない
文学という大枠に興味がなければ文学の勉強は苦痛かもしれません。
古典、海外文学、近代文学、現代文学…
どれを取っても苦痛でしょう。
文学は柔軟性があります。
漱石の勉強には心理学が使えます。シンプルな文学の勉強は、液体のように行雲流水し、猫のように自由気ままな形で、様々な知識をもたらしてくれます。
自分の感覚で、
日本の文学ではないと感じたら、海外文学への興味の移動は素敵だと思います。
近現代文学ではないと感じたら、古典文学への移動はロマンチックです。
古典、面白いですよ。
勉強していきましょう…を結びとします。
5.おまけ
YouTube更新予定です。
クリスマスバージョンでお届けします。
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