「小説 名娼明月」 第37話:旅に病む
月日は矢のように流れる。馴れぬ旅とはいえど、一日の五里は積もって、十日の五十里である。
母娘は、筑紫(つくし)の空に一日一日と近づいてゆくを楽しみに、今は人家軒先の袖までも、以前ほどは恥ずかしくもない。鈴振るごとき声に称うるは「巡礼にご報謝」の称語。巡礼姿に隠せし顔は、見目美しきお秋と、品格高き阿津満。路々家々の人が恵みくれる報謝は、母娘を西へ西へと送った。
露は霜とと変わって、晨(あした)の庭に白き十月の中旬、阿津満母娘は、ついに九州路へ踏み込み、豊前大里(ぶぜんだいり)の里に着いて、ここに一夜を過ごした。
阿津満は、この日の昼過ぎより少し風引き心地がするとて、旅籠に着くとすぐに寝たが、翌朝目醒めてみれば、頭が重くて気分が前の日に増して悪い。
しかし阿津満は、強いて愉快気な顔を装って、平日(いつも)の時間に床を離れた。お秋に心配をかけまいと思ったからである。
雪のように白い霜を踏みしだいて、道端の家に立ってはみたが、「報謝」の言葉も軽くは出ぬ。
お秋は、早くもそれと見て、
「ご気分にても勝れたまわぬか?」
と気遣いはしげに訊くを、阿津満は、
「少し風邪(ふうじゃ)の気味はあれど、何でもない」
と、笑いに紛らしてしまった。
そのうちに時雨(しぐれ)が降ってきた。ちょっとの間、路端の軒に避(よ)けてはみたが、歇(や)みそうにもないから、時雨るる中を急いで日のまだ高いうちに小倉に着いた。
阿津満は発熱を覚えて、歩行が苦しいからとて、その日は袖乞いを止めて、城下尽頭(はずれ)のある見すぼらしい旅籠へ泊まった。
感冒(かぜひき)が元となって、阿津満は長途の疲れが一時に出たから、さすがに張り詰めし心の糸が一時に緩んで、枕が上がらなくなった。
二三日寝ているうちに、次第に躰の衰弱が加わってきて、あまりよくない容態となった。
これに心を痛めたのはお秋である。
「やれ九州に入った。これからいよいよ筑前に踏込んで、夫の在所(ありか)を捜そうと喜んでいたときに、母上は病気となられた。旅に馴れたまわぬ年老いし母上を、かかる長途の旅にお伴まいらせ、さまざまの苦労心配をかけしことが、このご病気の起こりであろう。
さすれば、母上の病は、自分でその源を作ったものである。世にこの上の不孝があろうか?
今看護を尽くして、早く回復せしめぬならば、どうしてこの不孝の罪は償われよう?」
とお秋は、夫を想いて急きたつ心を押し鎮め、朝から晩まで、病める母の枕元を離れず、介抱に手を尽くしてはみたが、快方見えぬばかりか、母の病気は、一日一日と勢いを増していった。
薬の効能も丹精の利目(ききめ)も現れぬ。医者よ薬よと夜の目も合わずに心を砕いているうちに、お秋は、豊かなりし頬の肉さえ落ちた。相宿のものや宿の主が、気の毒に思って介抱の手助けはすれど、病勢は依然として衰えぬ。
かくて十日あまりを過ぎて、十一月の上旬となった。
幸いに阿津満の病気は少しずつ快方に向かいかかった。しかし、何というても、老衰の身の阿津満である。まだなかなかに起き出て旅を続けるまでにはならぬ。
今日は快いと言って床の上に坐り暮らすことがあれば、明日よりはまた寝続けるという具合で、少しも捗々(はかばか)しいことがない。
その上、さしづめ困るのは、母娘の宿料と薬代とである。
曩(さき)に芸州玖波の駅(しゅく)を発つおり懐中せしいささかの貯えは、なるべく費やさぬことに極(き)め、路々受ける合力をもって、この小倉までは凌いできたが、阿津満が病の床についてからば、お秋は看病に忙殺されて、袖乞いに出る時がない。