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「小説 名娼明月」 第39話:進退谷(きわ)まる(前)

 商人は醉いの廻るにつれて、だんだん言葉使いや様子が無遠慮になり、相間相間に変なめつきをして、底気味悪く笑ってみせた。

 「当家の主婦(おかみ)よりの話は、委細承知したれば安心せよ」

 と云いながら、お秋の手を握って、ぐいと引き寄せ熟柿(じゅくし)のような息を吐いた。この瞬間、お秋は、

 「何をなさるの?!」

 と言って、飛び退いた。思うさま商人を恥ずかしめてやろうとは思ったが、主人(あるじ)夫婦へ対する義理を考えて、思い止まり、ふいと起って行った。
 お秋は商人より受けし侮辱に腹を立て、母の部屋に帰りかけた。心配なのは、宿の主婦である。主婦は後から追い縋(すが)り来たって、お秋を別室(べつま)に連れ込み、

 「何がお気に障りしかは知らねど、大概のことは我慢してくださらねば金になりませぬ! ことに一生連れ添うわけでもなし、欲と二人連れの添い寝ではござりませぬか!」

 と気色ばみて語るを、お秋は聞くさえ穢らわしいと思った。

 「なるほど、母の病気の薬代や宿泊料(やどりょう)に困るゆえ、何か金が手に入るようの仕事をと、ご相談せしことはあるも、操(みさお)を売って人の玩弄物(おもちゃ)になってもよいとは申せし覚え、さらになし! 殊(こと)に、私は少し故ありて良人(おっと)の行方を探(たず)ぬる身の上。たとい母娘飢えて死すればとて、この事ばかりは、平にお断りまする!」
 
 と言われて、主婦は大当惑である。

 「私の早合点せしも良くないことながら、あなたのお話ぶりも何となく曖昧にて意味ありげなりしため、なるほど明らさまに口には言い難かるべしと、さっそく早呑込みをなして、今朝から方々を駈けずり廻り、ようやく今、連れ来たりし商人に話を纏(まと)め、金のことまで取り極めたるところでありまする。早呑込みは私の落ち度ながら、このままでは私があの商人に対する顔が立ちませぬ。後のところは、私の身に引受けて、どうともいたすべきほどに、今夜一夜の辛抱を、私に免じて、してくださらぬか? ことに、私の家には、あの商人から、かねて借りいる金もあり、昨今さしあたりて返さねばならぬこともなりおれば、今あの商人の気を損じては、私ら夫婦が苦しくなりまする…」

 と主婦は涙湛(たた)えて説きすかした。


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