見出し画像

『なぜ美術は教えることができないのか』【基礎教養部】

はじめに

 今回扱う本のAmazonリンクを貼りつけておきます:


この本を手に取った理由

 前回「経済学の思考軸」を扱ったときには、採りあげられていた具体例自体が面白かったので最後まで通読こそしたものの、もともと経済学に興味があったわけではありませんでした。当初は「経済学の真の姿を専門家でない人にわかりやすく伝えよう」という試み自体に興味を持ち、言葉の選び方・議題の取り上げ方・自我のバランスなどなどを参考にできればと考えていたのです。

 今回表題の書を選んだのも、教育について考える上でのヒントになればと思ってのことです。「教える」ことが話題の中心になっているぶん、前回よりは直接的に問題意識へ接続していますし、本書は美術および美術教育に関する具体的な技術論ではなく、美術を教えるということにまつわる哲学・思想的な部分を掘っています。

 さて、なぜ美術に関心のない僕が「美術」を冠する本書を読むのかについて、まずはその理由を言語化しておきたいと思います。以下に挙げる2つの疑問は、教育業界において触れてはいけない気がするんですが、世論ではここに疑問を持つ人たちの声が大きくなってきているように感じます。この記事に目を通してくださっている方にも一緒に考えてほしいと思います。


①結局は「素質のある子」ができるようになるだけなのか?

 世の中には優秀な進学実績を誇る教育機関がたくさんありますが、その内実は、叩き上げて多くの優秀な人材を輩出しているのではなく、元から賢い子を多く囲いこんでいるだけではないでしょうか。僕自身が学部4回生までで塾講師をやめた理由もここにあります。

 「そんなことはない、誰でも努力次第で結果を出せるようになるんだ」と信じたい気持ちもわかりますし、実際に、勉強は努力が比較的報われやすいと一般的には考えられていると思います。ここで「比較的」と書いたのは、言わずもがなスポーツや芸術を念頭に置いてのことです。これらが勉強に負けず劣らず才能がモノをいう分野であることについては議論の余地がないでしょう。好きこそものの上手なれという言葉があるように、スポーツや芸術においても平凡な才能の持ち主が努力によって上達することは十分にあり得ると思いますが、その土台となる「努力できる環境」にありつけるためのハードルが、勉強のそれよりも明らかに高いと思います。親の経済力や文化資本に恵まれることは当たり前ではないし、そもそもそういった文化に触れられる環境があるかどうかさえも運に左右されます。たとえば僕は「男が家で本なんか読むな、外で遊べ!!!」という父のもとに生まれたのですが、仮にピアノを習いたいと言っても聞いてもらえなかったでしょうね。それに比べて勉強は9年間の義務教育が保証されているぶん、僕も芸術等に比べればまだマシだと思います。

 もちろん、努力すれば誰にでも数学が理解できて問題が解けるようになるとは言いませんし、全員が東大に合格できる素質を持っているとも思いません。でもだからといって、自分には能力や才能がないと思って数学に挫折する(≒理系進学を諦める)子が山ほど出てきていいとも思えません。理数系の学力が落ち続けていることは数十年前から提唱されていますし、ますますこれから数学の重要性が増していくことが明らかな中、何か自分にできることはないだろうかと模索し続けています。

 さて、そんななか、一般的には類稀なる才能が必要だとされている芸術を教える学校およびそこの教師たちは「才能」というものをどう考えているのかについて興味を持ちました。弱肉強食を地で行く競争社会の様相を呈しているのか、意欲さえあれば(教授たちから見て)そこそこ程度の才能しかない学生にも何とか施しを与えてくれるのか。あるいは、明らかに才能がある学生に対して余計な施しはしないのか、ある程度の画一性を仕込もうとはするのか。面白そうなテーマです。


⓶動機がない人や優秀とは言えない人にどこまで勉強の支援ができるのか?

 ①では才能とか東大とかいう話をしましたが、大多数の人はそこまでの能力に恵まれないのであって、それでも身につけてほしいと願うことをちゃんと彼らに仕込むのが、教育に期待される最も重要な役割です。というかそもそもやってみないことには才能があるかどうかわからないわけで、可能なかぎり広い物事に触れられる環境が整備されるのはいいことだと思います。

 ただ、必要なことをちゃんと仕込むためにはある程度の苦労が必要になります。もちろん余計な苦労は避けるべきですが、どうしても避けて通れない苦しみというのもあります。そこをいかにくじけないように支えるかが大事なのであって、レクリエーション的な楽しい授業を受けたり、受験勉強的な要点だけを効率よく抑えるタイプの勉強をしたりするだけではダメだと思うのです:

これはジェイラボメンバーが投稿している動画ですが、その中でも今僕が述べていることと似た話が展開されています。基本的に僕も同じ意見を持っています。ただ、今はコスパが重視されるので、必要以上の努力をさせたりある程度の苦痛を与えたりすることが非難されるような気がして、先生にとっては難しい時代になったなとも思います。

 さて、たとえば学習指導に関して先生が果たすべき役割とは何なのでしょうか。簡単に思いつくものを見てみましょう:

  • やはり自分の専門分野についてわかりやすく手取り足取り教えられることでしょうか。当然その能力は一定程度求められますね。でも授業を成立させることが必要十分だと言えるでしょうか。授業外での生徒の学習についてなにかできることはあるでしょうか。あるいはそこまで責任を持つ必要はないでしょうか。

  • 最も無難に多くの生徒に効果的な方法は「大量に課題を与える」こととされているようです。陳腐な言い方をすれば「質より量」というやつで、才能が足りない部分を物量作戦でカバーしよう、というアイデアだと思います。結果として膨大な勉強量が必要になるケースが多いことは否定しませんが、必要以上に生徒の負担を増やすだけなら先生は要りません。最初から生徒に才能がないと決めつけるようなやり方も好ましくないと思います。

  • では質を担保する(余計な回り道をさせない)ために「学習状況や取り組む教材を徹底的に管理する」ことが重要でしょうか。コスパよく必要な力を身につけられると言えば聞こえはいいですが、このやり方は知識や技術以外の面を何も成長させません。しばらくして勉強した内容を忘れてしまえばスッカラカンになります。試験さえ突破できればいいというのは教育ではなくサービス業であると思います。

 これは完全に個人的な理想論ですが、口で言うのは簡単だけど極めて難しい仕事であることを承知のうえでいうならば、教育の役割とは「自分で自分の世話をできる人に育てる」ことだと思います。美術に関していえば「個性・社会性あふれる作品を創作・鑑賞するための腕や目を養う」こと、勉強に関していえば「自分で自分のやるべきことを把握して進捗を管理できる」こと、子育てに関していえば「自立した社会人に育てる」こと、あるいは「必要に応じて助けを求められるようにする」ことではないでしょうか。資本主義社会で生きていく以上、どうしても成果主義的な要素を意識せざるを得ないのが残念なところですが、そうではない在り方や、競争社会とうまく折り合いをつけて生きていくための心持ちについて伝えるのが、重要な教育の役割であるとも思います。

 ただ、これは教育が目指す最低限に結構近いラインであると思っていて、これを達成できたら万々歳だと思うのと同時に、自分がこれまでの人生で培ったものをなるべく多く次世代に還元したいという気持ちもあります。プラスアルファとして自分には何ができるのか、過保護と懇切丁寧のちょうど間のラインを探るために気を付けるべきことはなにか。このことについても考え続けたいと思います。


最後に

 9~11月の基礎教養部の活動では、前回に「経済学の思考軸」を扱ったときとは違うグループで活動します。今回のグループには、いわゆる教育困難校で教員として働いているメンバーがいるので、僕がこの記事で書いた問題意識についてどんな意見があるか聞いてみたいと思っています。

 また、来月に僕が選んだ本が課題図書に選ばれるかどうかまだわかりませんが、選ばれるにしろ選ばれないにしろ、2週間に1回ぐらいのペースで1章ずつ深掘り記事を出していけたらと思っています。もともと美術に興味がないところから出発したものの、4400円+税という高いお金を払ってでも買って何度も読み返す意義のある本に出会えた気がします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?