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高尾山ノスタルジア No.7:高尾山ケーブルカー復活

高尾駅から高尾山口駅へ京王線に乗ると、トンネルを二つ通ります。

一つ目のトンネルを過ぎてから、進行方向左、金毘羅尾根の斜面をずっと見ていると、コンクリートで蓋をされた、トンネルのようなものが二ヶ所見えてきます(写真①と②)。八王子市最大級の戦争遺跡、浅川地下壕の出入口です。

(写真①)京王線の車窓から見える、浅川地下壕「イ地区」の坑道出入口。コンクリートで塞がれている。
(写真②)こちらも京王線の車窓から見える、浅川地下壕「イ地区」坑道のもう一つの出入口。「イ地区」は三つある区画の中で最大の区画。

高尾登山電鉄株式会社「高尾登山電鉄復活30年史」から引きます(*1)。

「八王子市は、終戦の年の8月1日から2日の未明にかけてB29の大空襲によって市街地の82%が焼失したのである(…)その頃高尾山の前面の山腹には、大本営の大地下壕が完成しつつあったが、戦況が悪化するにつれ、長野県松代に移って行った。」

浅川地下壕は、東の尾根(金毘羅尾根)全域の地下に広がる「イ地区」、現在三和団地として宅地化されている高台直下に広がる「ロ地区」、そしてみころも霊園の背後の山、初沢山の地下に広がる「ハ地区」の三区画からなる、全長10kmにも及ぶ大地下壕。当初は帝国陸軍が航空機エンジンの工場を設置する目的で着工したが、太平洋戦争の戦局悪化に伴い大本営を疎開させるため掘り進められたものの、さらなる戦況の悪化を受け疎開先が長野県松代に変更になったあと、地下軍需工場として使用された(環境劣悪で実際はほとんど機能せず、大半のエンジンは今の高尾山口駅周辺に疎開した工場で作られた)と伝わります(*2)。

京王線から見えるふたつの出入口は、「イ地区」の坑道のものと思われます。戦後、この大地下壕は放棄され(そして恐らく外からみえる痕跡は土砂かなにかで覆い隠され)、人々の記憶からも消え去ってしまったというから驚きです。高尾育ちの私も、周りの誰かから聞いたことはありません。大人になってから、いつも電車からみえるこの不思議な穴の存在に興味が湧いて調べたことで、その事実を知りました。忘れられてしまうには、あまりにも巨大な規模の施設です。

「高尾登山電鉄復活30年史」に戻ります。

「全てを供出して放置されたケーブルカーの洗心洞隧道内には、飛行機のエンジンがびっしりと詰め込まれて両口は板張の扉で閉ざされていた。
 隧道の手前の堤の上にはガソリンの入ったドラム缶が数十本、いずれも米軍の爆撃から守るために避難させていたのである。
 終戦後このエンジンは米軍の手によって隧道内から引きずり出され入口附近で爆破したのである。
 この時の衝撃が現在も隧道両口の壁に亀裂を残しケーブルカー復活後再々修理を施すことになる。
 そしてこれらエンジンの残骸やドラム缶は敗戦によって主もないまま誰の手によるものでもなく、いつのまにか姿を消し去ったのである。(*1)」

終戦前後の混乱ぶりが目に見えるようです。結果、「高尾登山鉄道株式会社に残されていたのは、本社建物とレールが取払われて夏草の生茂った軌道敷だけであった。(*1)」

そして、「敗戦後2年を過ぎた昭和22年頃から旧会社の役員や地元有志の間に高尾山ケーブルカー再興の機運が高まってきた(*1)」ものの、敗戦後の物資不足で軌条、車両、巻き上げ機など営業再開のための設備を全て新設しなければならず、また占領下の日本では連合国総司令部の政策のもと国民生活の安定の回復が最優先とされ、不要不急とみなされたケーブルカー復興への理解と許認可を取り付けるのに艱難辛苦の労苦を味わい、いざ工事が始まってもあまたの困難が立ち塞がり、塗炭の苦労を乗り越えて昭和24年(1949)年10月になんとか完工を迎え、復活を遂げた、と続きます。

高尾山ケーブルカーが戦後復活した際に導入された車両が写る、貴重な一枚(注1)。写真真ん中左端に二軒茶屋が写っていることから、戦後しばらく存在したことがわかる。「高尾登山電鉄復活30年史」に、復活工事の期間、「鹿島建設組員の数十名は、びわ滝の宿坊を飯場代わりに利用していた(*1)」とあり、二軒茶屋のことと思われる。

この復活時に導入された車両ですが、驚くほど記録や資料に乏しく、「高尾登山電鉄復活30年史」も、戦前の初代設備については諸元の記載があるのに、復活時に導入した設備に関しては数枚の写真があるだけで、詳しい説明はありません。そのうちの1枚が車内を写したもので、「ガラス張天井の近代的展望車登場」と高揚感あるキャプションもついているのに、なぜこんなに扱いが寂しいのでしょうか。復活させることだけで目一杯になり、そんな余裕もなかったということなのかも知れません。

こちらも、高尾山ケーブルカーが戦後復活した際に導入された車両が写る貴重な一枚。先頭に「MOMIJI」の文字が確認できるが、ひとつ前の写真とはカラーリングが異なるので塗り替えが実施されたものと思われる。この車両に関する記録や資料はとても少ない。奥に見える対の車両をよく見ると若葉色に塗装されており、現在運行している「わかば号」と「もみじ号」は、この頃からのカラーリングと愛称を継承していることがわかる(注1)。

(*1)
「高尾登山電鉄復活30年史」、高尾登山電鉄株式会社総務部編、1979.10、P. 26、P.31

(*2)
参考資料
浅川地下壕の保存をすすめる会 HP

(注1)
《写真ならびに絵図に関する著作権について》
表示している写真ならびに絵図は、旧著作権法(明治32年法律第39号)及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)に基づき著作権が消滅していると判断し掲載しているものです。
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本稿掲載の著作物の使用ならびに転用の一切を禁じます。 
参考資料:文化庁 著作物等の保護期間の延長に関するQ&A

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