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高尾山ノスタルジア No.16:高尾山薬王院(1/2)

一礼し、四天王門をくぐるといよいよ薬王院の境内へと足を踏み入れます。

(資料①)安政2年(1855)の髙松勘四郎による「武州髙尾山畧繪圖」。山門を過ぎたところに五重塔が描かれている。(*1)
(資料②)「八王子名勝志」にも、五重塔が描かれている。(注1)

安政2年(1855)の髙松勘四郎による「武州髙尾山畧繪圖」(資料①)ならびに「八王子名勝志」に描かれた当時の伽藍の絵図(資料②)をよくみると、山門を過ぎて進んだところ左手に、五重塔が描かれています。以下、「八王子名勝志」にある説明(資料③)を引きます。

(表示できない文字は現代文字に置き換え)
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宝篋ほうけふ五重印塔ごぢゃうのいんとふ

空輪くりんまで二丈四方高欄附四隅に四天王の立像あり文化九年東都赤坂住人清八の寄進なり
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(資料③)「八王子名勝志」の五重塔の説明箇所。(注1)

一丈は約3mですので、この五重塔は6mほどの高さだったことになります。なのでそもそも建物ではないのですが、伽藍では目立つ存在だったようで、絵葉書にもその写真が残っています(資料④)。東京赤坂在住の清八なる人物の寄進とされていますが、外山徹「高尾山歴史の散歩道」によれば(*2)、当時江戸の場末赤坂の裏店に住む足袋屋を名乗る人物だが、実は只者ではなく、かつては紀伊徳川家に出仕。八王子の追分や小名路追分、蛇滝道そして琵琶滝道に残る道標の寄進者としてその名が随所に残るとのこと。この塔はそもそも元亀元年(1560)北条氏康が寄進したが、その後の台風で倒壊し、寛政年中(1789 - 1801)久留米藩主有馬頼貴が再建の助成を行った際に清八が合力を志願したとのよし。

(資料④)昭和初期に発行されたと推定される絵葉書に残る、五重塔の写真。(注2)

その後五重塔は関東大震災で倒壊したとのことですが、そののち再建されたとのことで、昭和2年(1927)の高尾山ケーブルカー開業まもない頃に発行されたと推定される絵葉書に残る絵図(資料⑤)には、場所が山門の横に移っているもののその姿が描かれています(ただし、これが当時の伽藍の姿を正確に描いたものかは不明)。しかし、昭和9年(1934)の室戸台風で再び倒壊し、その後再建はかなわず、太平洋戦争末期、金属類回収令により供出され失われてしまったのだそうです。ありし日の姿は写真などから偲ぶしかありませんが、その土台は四天王門の脇に現存し、いまでもお目にかかることができます。ぜひ探してみてください。

(資料⑤)昭和初期に発行されたと推定される、今でも高尾山山頂にて蕎麦屋を構える曙亭が発行した絵葉書に残る、五重塔の写真。絵図に残る、飯盛杉から今の6号路にくだる大山道は現在廃道。(注2)

四天王門から境内を奥に進むと左手に御護摩受付所の建物がみえてきます。その手前、御護摩受付所裏のトイレへと続く小道の脇に、小さな石柱が三本立っています。そのうちのひとつが、享和3年(1803)の銘がある「是よりびわのたきみち」と刻まれた道標、「めざめ石」です。この石柱、平成13年(2002)に四天王門の脇にあった杉の木を処理した際幹の中から発見されたというすごいエピソードがあります。どうやら、かつて四天王門から琵琶滝へとくだる道があったらしいのです。今はなんの痕跡もありません。いつの間にか道は跡形もなく失われて、石柱も成長した杉の木に飲み込まれてしまったということなのでしょうか。

この石柱、平成13年(2002)に四天王門の脇にあった杉の木を処理した際幹の中から発見されたという、「是よりびわのたきみち」と刻まれた道標、「めざめ石」。
めざめ石のすぐ横に立つ、その発見の経緯を記したお札。

この小道を進んでトイレまで来ると、鉄柵に門のようなものがあります。薬王院石楠花しゃくなげ園の入り口です。ここはシャクナゲの季節(4月下旬から5月上旬)限定で一般開放され、高尾山中最大、樹齢500年と言われる杉の巨木、飯盛めしもり杉の足元まで行くことができます。かつて、石楠花園から斜面をくだって3号路を横切り6号路までおり、そこからさらに南に稲荷山の尾根を越えていく道、通称「大山道」があったのですが、現在は廃道になっていて自然の植生回復中です。ネットで「高尾山バリエーションルート」などと謳ってこの大山道を実際に辿った記録などを公開しているひとがいますが、心無い行為です。

本因坊前に建つ黒門。横の立て看板に、「この門は僧侶専用 一般の方の通り抜けは固くお断りいたします」とあるのでご注意を。
昭和初期に発行されたと推定される絵葉書に残る、本因坊の写真。現在も建つ黒門の向こう、現在書院が建つところには、今の書院とは違う立派な建物が建っている。本因坊の建物は、昭和4年(1929)に本因坊一帯を焼失した火災により一度失われたとのことで、この建物はその後に再建されたものと思われる。現在の書院とは明らかに意匠が違うが、この建物のその後の経緯は不明。(注2)
右手が現在の書院。左手に方丈院、そしてさらに奥の方が有喜閣。

御護摩受付所に戻ってそれを過ぎると右手に階段があり、その上には仁王門があります。その先が御本堂ですが、ここは階段をあがらずにそのまま歩みを進めます。しばらく歩くと「黒門」と呼ばれる門があり、その先は「本因坊」と呼ばれる領域です。ここには客殿、宿坊がある有喜閣ならびに書院など、薬王院の迎賓機能ならびに執務機能があり、有名な精進料理もここで供されます。江戸期においては、この本因坊が薬王院の境内でした。「八王子名勝志」の挿絵(資料⑥)を見ると、現在書院が建つ場所には「藥王閣」があり、これがかつての御本堂であったとのよし。そして「白雲閣」とあるのが書院すなわち執務室、そして「向屋敷」が宿坊であったとのことです。

(資料⑥)「八王子名勝志」の挿絵に残る現在の本因坊、旧薬王院境内の絵図。(注1)

そして、旧薬王院境内を抜けると「裏門」があり、その先には道が続いていて旅人らしき人物が描かれています。この道は今も存在し、「富士道」と呼ばれています。現在は薬王院の境内を奥ノ院まであがって引き続き1号路で山頂に向かうのがメインルートになっていますが、いにしえの時代は、これが山頂へと向かう道でした。「富士道」の名称は、富士講が富士山を目指して実際に辿ったコースである所以ですが、現在富士道は自動車で山頂にあがる道路の一部として拡張されていて、人通りはまばらです。あまり知られていない道なのですが、実はここ、知る人ぞ知る花の名所なのです。シーズンになると、お花目当ての登山者はこちらのルートで山頂に向かいます。(続く)


(*1)
《東京都立中央図書館「画像の使用について」に基づく表示》

東京都立図書館蔵 髙松勘四郎 武州髙尾山畧繪圖 安政二年(1855)

(*2)
参考資料
外山徹、「高尾山歴史の散歩道」、大本山高尾山薬王院、2021、P.115、P.157

(注1)
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参考資料:文化庁 著作物等の保護期間の延長に関するQ&A


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