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環流夢譚 その8――「国家神道」という“戦後の”神話・Cパート
前回までのあらすじ
まず、前回確認できたことを簡単におさらいしておきましょう。「国家神道」というのは、加藤玄智やホルトムによる戦前の言説の流れを受けつつ、戦後の神道指令や左右の政治対立や政教分離裁判などを通じて、新しく創作されていった「物語」でした。そして、この「物語」が創作されていく過程で大きな役割を果たしたのが、村上重良でした。村上説には多くの批判が集中し、多くの問題を抱えていることや、そのままでは成立しないことが明らかになりました。
しかし、村上説にかわる説が定説になったわけでもありません。「近代日本の政教関係の全体像はどのようなものだったのか」という問題に対して、定説たりうるような答えを提示した研究は、現時点では存在しません。「広義の国家神道」論と「狭義の国家神道」論は、今も「折り合えぬままに並立」しています。山口輝臣や新田均のように、そもそも「国家神道」という問題の多いことばを学術用語として用いるべきではないという立場の研究者も出てきました。
このように、前回本稿で扱った問題には定説と呼べるようなものはいまだになく、研究者の意見も一致しない点が多くあります。この状況がすぐに大きく変わることはおそらくないでしょう。ただ、素人の私にも一つだけ言えそうなことがあるとすれば、近年は、従来とはだいぶ毛色が異なる興味深い研究が出てきているということです。これらの研究のなかには、既存の研究とは異なるアプローチをとることで、従来の「国家神道」論と全く異なる景色を切り開いてみせた衝撃的なものもありますので、ここで紹介しておきます。
『「村の鎮守」と戦前日本』――「大正デモクラシー」と社活派神職
畔上説の概要
まず見てみたいのが、畔上直樹(1969-)の研究です。畔上の研究成果は、『「村の鎮守」と戦前日本 「国家神道」の地域社会史』(2009年)という本にまとめられています。畔上は、前回登場していただいた赤澤史朗や磯前順一の影響を受けつつ、地域社会史の視点を積極的に導入して、岡山県神職会の活動や1920年代半ばの神社政策などを分析しました。
畔上は、「『国家神道』を『国家の宗祀』とされた神社体系による国民教化体制にかかわるものと、限定的に理解する立場をとる」と述べています[畔上 2009: p.10]。つまり、強いて分類するのであれば、いわゆる「狭義の国家神道」論に近い立場で論を進めているわけです。
畔上の議論の特徴は、1910年代以降に、いわゆる大正デモクラシーに刺激されて、地方の民社の神職の活動が活発化していったことを重視する点にあります。畔上は、こうした神職たちを「在地神職社会的活動派」(略して社活派)と呼び、この社活派による運動が活発化していったことを背景に、1920年代半ば以降に「国家神道」が「確立」したと論じました。そして、「国家神道」が「確立」してそれまでになかった新たな「構造」が成立した結果として、満州事変以降に神社参拝を事実上拒否できない空気が強まり、抑圧的な状況が成立していったのだという見解を提示したのです。
ここで、満州事変以降に神社参拝が事実上強制されるようになったり、天皇崇敬のイデオロギーが大きな力を持つようになったことを、従来の研究がどのように捉えてきたのかを少しおさらいしてみましょう。まず、村上重良説でいくと、明治初期に悪しき体制がつくられた延長線上に、満州事変以降の状況が成立したことになります(このような見方が成り立たないことは、前回詳しく述べたとおりです)。
次に、村上説を再構築した中島三千男は、満州事変以降に「国家神道」は崩壊していったと論じました。中島は、「国家神道体制」の基本構造を神社神道とそれ以外の諸宗教とのバランスによるものだと捉えました。そして、満州事変以降から終戦に至る時期にそのバランスが崩れ、「国家神道体制」は崩壊していったと捉えたのです。これは、平時の体制に逸脱が生じ、崩壊していったという見方だと言えるでしょう。
また、こういう見方もできるかもしれません。明治30年代以降に内務省神社局が宗教局と神社局に分離され、官国幣社保存金制度が廃止されて官国幣社国庫供進金制度や府県社以下神社神饌幣帛料供進制度が成立した。そして、地方改良運動を通じて神社が地方行政に組み込まれるようになり、神社は「国家の宗祀」であるというタテマエに内実が備わるようになった。かくして、明治の終わりごろに国民を神社を通じて教化する体制が成立し、その延長線上に満州事変以降の状況が生じたのだ、と。
畔上は、これらの見方を斥けています。満州事変以降に神社参拝が事実上強制されるようになったり、天皇崇敬のイデオロギーが大きな力を持つようになったのは、明治初期に悪しき体制がつくられた延長線上に生じた事態ではもちろんない。明治の終わりごろに、神社は「国家の宗祀」であるというタテマエに内実が備わるようになった延長線上に出てきたものでもない。戦時体制が整備されていく特異な状況下で、平時の体制が崩壊していったというわけでもない。そうではなくて、「大正デモクラシー」を背景に活発化した社活派=地方の民社の神職たちの運動を通じて、1920年代半ば以降に「国家神道」が「確立」し、その延長線上に満州事変以降の抑圧的な状況が生じたのだというのです。畔上説でいくと、「大正デモクラシー」の帰結として「国家神道」が「確立」したのだということになります。
従来の「国家神道」論は、お上が国民に対してイデオロギーを“上から”押しつけたというイメージを描いてきました。これに対して畔上は、「大正デモクラシー」を背景にした社活派の“下からの”運動を通じて「国家神道」が「確立」したという像を描きました。満州事変以降に生じた、神社参拝を事実上拒否できない抑圧状況は、地域レベルの“下からの”運動によって「社会内在的」に形成されていった可能性を検討すべきだというわけです。
「煩悶」と新型ナショナリズム
畔上の議論をごく簡潔にまとめると以上のようになります。でもこれだけだと、従来の「国家神道」論と異なる景色を切り開いた研究だと言われても、ピンとこないという方も多いでしょう。そこで、ちょっと回り道をするようではありますが、こんな話から始めてみましょうか。
かつて村上重良は、明治維新から大日本帝国崩壊までの日本には、「国家神道」とやらがずっと君臨し続けていたのだ、「国家神道」は時代が下れば下るほど強力になっていったのだ、右肩上がりで直線的に強くなっていったのだという「物語」を描きました。これは、明治時代前半に悪しき体制がつくられて、その延長線上に満州事変以降の暗い時代が出現したというストーリーです。このような単純極まるストーリーが全く成立しないことは、前回詳しく述べたとおりです。
「政治」と「宗教」の関係の問題に限らず、我々はともすれば何事についても、「明治時代前半に近代の新しいシステムがつくられて、そのシステムが1945年の敗戦まで存続していったんだろう」といったようなイメージを抱きがちです。これは、明治・大正・昭和を一直線に直結させて理解し、明治時代前半と戦時期を一貫する連続性があるとみなす考え方です。
しかし、例えば一口に「戦後」と言っても、敗戦から現在までにはおよそ80年が経過しています。敗戦直後と高度成長期とバブル時代と令和の時代では、状況が全く異なることはご存じのとおりです。それと同様に、一口に近代の日本と言っても、明治維新から大日本帝国崩壊までの期間も80年近くありますし、明治時代前半と満州事変以降ではやはり状況が全く異なるわけです。
この問題について考えるために取り上げてみたいのが、北一輝や大川周明や井上日召などの、国家主義者と呼ばれる人々です。学校の日本史の時間などで覚えさせられた方も多いかもしれませんが、北一輝は『日本改造法案大綱』(1923年)という本を出して国家改造を主張した人物です。昭和初期の国家主義運動に関与した青年将校たちに大きな影響を与えました。大川周明は、北一輝とともに日本改造を目指して猶存社という結社をつくり(後に北一輝と袂を分かつことになるのですが)、国家主義運動に影響を与えていった人物です。井上日召は、昭和7(1932)年に起きた、いわゆる「血盟団事件」(前大蔵大臣の井上準之助と、三井財閥のトップの団琢磨が殺害された連続テロ事件)の首謀者です。
こうした国家主義はどういう背景から出てきたのでしょうか。「明治時代につくられた教育勅語などに基づいた学校教育を通じて、天皇崇拝を身につけた人々が、こういう行動に及んだのだろう」とか「明治期に近代天皇制をはじめとする新たな国家原理が成立して、それがそのまま昭和初期の国家主義につながっていったのだろう」といったイメージをお持ちの方も多いかもしれませんが、そうではありません。
この問題について考えるためには、明治30年代半ば以降に社会問題化していった「煩悶青年」の問題に触れないわけにはいきません。「煩悶青年」とは、明治30年代半ばに「発見」され社会問題化した、(当時のことばで言うと)「心の病」を抱えた若い人々のことです[和崎 2017: pp.213-248]。
明治後期とはどのような時代であったのか。それは、明治国家の体制整備が進み、明治前半期の日本の駆動力であった立身出世主義に陰りが見え始めた時期であった。すなわち、明治二〇年代後半から高等小学校・中学校、三〇年代からは専門学校生徒数が急増。そして、「明治三〇年代から受験という言葉が大量に使用されるようになった」、「高等学校入学試験の競争が厳しくなるのは[明治]三〇年代半ばから」であった。この時期に「立身出世」は中・高等教育機関を経由したものへと限定・整備され、それに伴って「受験地獄」の原型が成立し、多くの落伍者も生ずるところとなっていたのである。
この閉塞・停滞状況に加えて、日清日露戦争の勝利により維新以来の「富国強兵」という国家目標がある程度達成されたと受けとめられたことから一種の「社会的弛緩状態」も現出していた。青年層の関心が「天下国家」的問題から離れ、個人的問題へと移行し始めたのである。それはまた一面では青年層の「柔弱」「奢侈」「享楽的傾向」「官能耽溺」「頽廃」がしきりに指摘されるという状況でもあった。
いわゆる「煩悶青年」は、このような時代背景のもとに「発見」され社会問題化しました。「煩悶青年」として有名なのが、藤村操(1886-1903)です。藤村は第一高等学校生であり、言わば将来を保証されたエリートだったのですが、明治36年に次のような遺書を残して、華厳の滝に身を投げて命を絶ちました。
悠々たる哉天壌。遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て比大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解。」我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観と一致するを。
広大な世界と悠久の歴史にまつわる真理を一身で把握しようとしたが、哲学は役に立たなかった。自らの存在理由を知ることにさいなまれたが、哲学はほかならぬの己の問題を何ら解決してくれなかった。そう語っているようです。藤村がこのような遺書を残して命を絶ったことは、世間に大きな波紋を及ぼしました。たちまち新聞や雑誌に関連記事が掲載されるようになり、社会問題化したのです。
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日本近現代史や歴史社会学を専門とする筒井清忠(1948-)は、大正期を経て昭和になると、国家主義は明治の「伝統的」な国家主義から明らかに変質していると指摘したうえで、次のように述べています(ここには、本稿で次回以降に扱う問題にも絡んでくる極めて重要な指摘が含まれているので、長くなりますが引用します)。
明治末期の、だいたい日露戦争期から大正初期ぐらいにかけて、いわゆる煩悶時代という時代がありまして、修養や教養という観念もその頃出てきたのですが、一九〇三(明治三六)年に藤村操が華厳滝で煩悶の末に自殺したあたりから、大正の初期頃までのこの煩悶青年層たちのなかに、昭和超国家主義の第一世代の人々はほぼ含まれているということです。大川周明、井上日召という人たちは一八八六年生まれで、北一輝が八三年生まれですから、だいたい明治の終わり頃にほとんどの人が青年期を迎えるということになっているわけです。
(中略)
この人たちは、皆、明治末期に煩悶青年時代を過ごした結果、ルートはいろいろあるんですけれども、基本的に何らかの形で個人主義の影響を受けておりまして、その内面に非常に強く個人主義的な問題意識を持っていたのです。
たとえば、北一輝の場合、有名な『日本改造法案大綱』の中で「天皇と国民」というふうに明治の伝統的国家主義ではいわれていたのを、“天皇の国民ではなく国民の天皇だ”というふうに天皇観を読み替えていった。日本は「近代民主国」たるべしとも「国家存立ノ大義ト国民平等ノ人権トニ深甚ナル理解」(傍点引用者)を要するとも言っています。(中略)個人の尊厳を確立したうえで日本の社会を組み立て、その上に天皇が象徴として乗っかる、というふうに議論の構成がなっている。
したがって、昭和の初期の超国家主義的なものの全盛時代には、同じ陣営から北一輝は激しく攻撃されていたわけです。こういうふうに批判されています。
「北氏の日本主義は、近代個人主義と対立しないばかりでなく、むしろ個人主義の上に立つものである。個人の集合体として社会を見、そこから国家が成り立つという考え方は、まったく西洋近代文明流である」
(中略)大川周明も内面的な個人主義的な悩みから社会主義に接したり、あるいはキリスト教に接したり、非常に幅が広いんですけれども、そういう青年時代を送っていた。
それから猶存社という団体を、北・大川と一緒につくった満川亀太郎という人も、この人の回想録をみますと、井上哲次郎の修身教科書は学校で無理やり暗記させられたけれども試験が済むとすぐにごみ箱に捨てた。
(中略)
それから血盟団の井上日召という人も、一見あまりそういう問題と関係ないように見える人なんですけれども、父親が子供の時から青年期にかけて事あるごとに天皇とか、忠君愛国というようなことばかり言うので、非常に反発を感じていた。自分にとっていちばんの悩みだったのは、生とは何か、善悪の基準とは何かということであったから忠君愛国というようなことはぜんぜん理解ができなかったと言っています。そしてやはり、まずキリスト教の教会を訪ね、次にそれでは満足できなくて投身自殺を企てたりして、結局旧満州へ出かけております。
(中略)
ですから、第一世代の人々(引用者注:北一輝・大川周明・井上日召ら)は皆、結局、明治的・伝統的な国家主義に依る形式によって盛り込みきれないような生、あるいは自我の問題を抱えた人々であって、その人たちがさまざまな遍歴を経たあと、大正末期から昭和初期に書物を書くなどして、青年たちのあいだに登場していったわけです。そして、大正末期から昭和初期にかけて日本社会に危機が襲ってきたときに、伝統的な国家主義者達の書いた忠君愛国的な書物は、若い、危機感を抱いた人々にとっては古くさくてまったく受けつけることができなかった。ここに名前をあげたような人々だけが、次の世代のもっている悩みにぴったりくることができたというふうに解釈できるのではないかと思います。
たとえば、菅波三郎という青年将校たちの運動の有力なリーダーの回想記には次のようにあります。陸軍幼年学校に入ったときに『陸軍の五大閥』という書物を読んでみると、非常に理想的に考えていた陸軍の内部に大小さまざまの派閥があり、「長の陸軍」とか「薩の海軍」とかいわれていることがわかった。これではいくら“一死報国”とか“尽忠報国”などといわれてもぜんぜん信用できなくなり、軍隊に非常に失望することとなった。そして陸士予科では次兄が女性問題で悶死したこともあり、結局は「死とは何ぞや生とは何ぞや」という問題に逢着して、「一八歳の私も彼(藤村操)と同じ懐疑に陥って、幾夜か夜更市ヶ谷台上の静寂たる校庭をさまよいつつ、ついに死を思うに至った」。その時、北一輝の『日本改造法案大綱』を読んで、「あたかも乾いた土が水を吸うように私の心境にしみ通った。それは過去六年間、私が捜し求めてきたもの、積日の疑団一時に氷解するの思いがした。かくて、この一書にめぐり会ったことは、私の生涯にとって重大な機縁となった」というのです。
こういうかたちで、北、大川、満川、井上、橘らの影響が青年将校たちや、血盟団員の人々に及んでいったわけです。ですから北らが超国家主義の第一世代、青年将校らが第二世代と言うふうに見ていったらよいのではないかと思います。
そういうわけで、北一輝や大川周明や井上日召らは、こうした「煩悶」の時代に「青年」期を迎えた人々であり、「明治的・伝統的な国家主義に依る形式によって盛り込みきれないような生、あるいは自我の問題を抱え」ていたということになります。「俺の人生って一体何なんだろう」「俺は何のために生まれてきたんだろう」という己の実存や生死をめぐる苦悩を抱えていた人々だったと言えましょう。
歴史学者の成田龍一(1951-)は、戦前の日本の近代化が展開期に入るなかで、「新しいナショナリズム」と言うべき状況があったと指摘しました。成田によれば、第一次大戦後、社会にモダニズム文化が浸透するなかで、従来と質の異なるナショナリズムが形成され、満州事変以降の排外主義の基盤になっていくそうです。そして、このような「新しいナショナリズム」が浸透していく過程においては、マスメディアや「新宗教」などが大きな役割を果たしたというのです。お上が明治期につくった官製のイデオロギーを“上から”国民に広めていったなどという単純な話ではなく、いわゆる大正デモクラシーを背景に、ナショナリズムが“下から”再構築されて質的に変容していく流れもあったというわけです[成田・山野 1985]。
また、政治学者の橋川文三(1922-1983)も、従来とは異なる新しい国家主義が登場してきた背景について論じて、近代の新しい制度のもとで高等教育を受けて自己を形成していった「生半可なインテリ」の内面に着目しました。つまり、「いかに人生を生きるべきか」という問いに「煩悶」する「生半可なインテリ」が増加していくという(明治期の支配層が想定していなかった)状況を背景にして、従来とは異なる新しい国家主義が登場してきたというのです。橋川は、こうした「煩悶」は、「現代に生きる私たち自身のそれとほぼ同じ構造をもち、同じ色どりをおびたもの」だと思われると指摘したうえで、ここに「現代人の孤独」の登場を見い出しています。こうした新しい世代が、「宗教性」を帯びた新しい国家改造運動に乗り出していったのだというのです[橋川 2013][橋川 2022]。
変容する「村の鎮守」と「煩悶」する若き神職たち
さて、話がここまでくれば、畔上説がどのような点で従来の研究が見落としてきた景色を切り開いてみせたのかを述べることができます。皆さんは、全国の津々浦々に見られる、「村の鎮守」とか「氏神」とか「産土神」(生まれた土地の守護神)と呼ばれる神様が祀られた神社についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。こうした村の守護神が祀られた神社は、近代の日本においてどのような状況に置かれていたのでしょうか。
「そうした神社は近代化から取り残されて、化石のように古い文化を保っていたんだろう」とか「近現代の日本では、そうした神社にも表面的な変化は見られたんだろうけど、その『本質』は変化しなかったんじゃないか。なんだかんだで従来の『伝統』を維持していたんだろう」といったイメージをお持ちの方も多いかもしれません。
ところが、畔上の研究はそうしたイメージが誤りであることを明るみに出してみせたのです。
本書がうかびあがらせた戦前期「村の鎮守」は、単に近代化にとりのこされ、地域社会の基層で在地伝統を保持し続けて重層するといった、いわば「タイム・カプセル」のような存在とは対極的なイメージを描くものであった。戦前日本の地域社会は、実態においても想像以上に近代化の進行によって根底からつくりかえられていったのである。そのなかで、従来の地域社会のなかで有機的に機能を果たしてきた「村の鎮守」は、根本的な動揺を経験することになる。
畔上は、このように「村の鎮守」が変容していく過程において大きな役割を果たしたのが「在地神職社会的活動派」(社活派)だったと論じています。そして、社活派を構成していたのは幕末維新期の激動を知らない若手の神職たちであり、世代交代のなかで神社界に新しく登場してきた人々だったというのです。
もうお気づきの方もおられるかもしれません。そう。彼ら社活派は、己の生や実存の問題について切実な危機感を募らせ、「煩悶」する新しい世代の人々だった(!)のです。近代化が進んでいく地域社会において、神社の地位が不安定化し神社界の閉塞感が強まるなかで、己の存在や人生をめぐる問題に危機感を抱いて、その活路を社会的活動に求めていった人々なのです。[畔上 2009: p.155]。
畔上が取り上げている事例を見てみましょう。大正12(1923)年9月に、全国神職会の機関誌である『皇国』に、「二人の青年神職の対話」というタイトルの記事が登場します。これは、関東地方に住む二人の「青年」在地神職の対話を描いたものです。一人は32~33歳ぐらいの神職だという設定で、「紋付」(つまり家紋をつけた「伝統的な」和服)と呼ばれています。もう一人は25~26歳ぐらいの神職という設定で、「洋服」(!)と呼ばれています。
[洋服]『処が君、夫れで生活の安定が図れるんなら敢て悲観も煩悶もしやしないよ。……僕が妻を持ち子供を持ちしちや、とても暮らして行けないからね、学校のほうだつて、代用位ぢや将来昇給の望みもなしさ』
[紋付]『だつて君の親父さんは、畑の方だつて、余りやらずに、夫れでどうにか、おつけて来たんじやないか。
[洋服]『……親父には内職が有つたからだ、知つてるかも知れんが、例の占ひさ、夫れに月並の方がなか〳〵大きかつたんだ、……マサカ僕には、そんな事も出来ずね、月並の方は……親父の時のやうに百何軒と云ふ程は、トテモやれず、……親父の時と今日じや時代が違ふからね、……比較宗教学の一般や、哲学、心理学等の概念位、頭にないと今日の人達とは話が出来ないよ……』
(中略)
[紋付]『……僕も君の説に同感だ、どうしたつて新時代の神職は新らしい学問をせなけりや鱈目さ、仮令、我々が国体講演をするにしてもだ、頭から「抑々神代の初に於て」などゝやり出したんでは、聴衆はフヽン又かと鼻の先で笑ふが、之を、世界興亡の跡を説き、露国の現状を説きなどして聴衆の興味を充分に引き出して置いてから、さて我が国体の優秀無比なる所以を説いたなら、聴衆は、きつと感激裡に講演の要旨を会得するに違ひない。……』
[洋服]『……僕も今度は急に前途を批判しちやつて、いつそ東京あたりへでも行つて終はうかと思ふ事がある位だ、……』
[紋付]『……社会からは自然滅亡を待つて居られるやうな待遇を受けて居る神職と云ふ廃墟に身を投じたが最後、一生生活苦と戦ひながら神の奉仕をせねばらぬ運命の下に身を縛られて終まうんだから、……一番最後迄生き残るのは勿論官国幣社の神職と、経済の豊な民社の神職とだが……』
(中略)
[紋付]『……要するに一般神職の自覚を促すことが肝心だよ、どうだ君、一つ我々が中心となつて民社神職の聯盟でも組織して、大々的活動の烽火でも挙げるかね、ハツハヽヽ』
ここには、地域社会にも近代化の波が押し寄せ、近代的な知識も広まる(「比較宗教学の一般や、哲学、心理学等の概念位、頭にないと今日の人達とは話が出来ないよ」)なかで、従来の神社のままではやっていけなくなり、世の中の流れに適合することができず、引き裂かれ苦しんでいる若き神職の姿が描き出されています。20世紀にもなって、昔ながらの神社の姿をそのまま維持していくことなど到底不可能だという切実な実感が語られているわけです。
父親世代のように、占いを行ったり月次祭を盛大に催したりしていても、もはや人はついてこない。代用教員(戦前に小学校などに存在していた教員資格をもたない教員)をやったくらいでは家族を養えない。「そもそも神代(神武天皇以前の時代)においては(以下略」などと古めかしいお説教をしたところで、鼻で笑われるだけである。官国幣社や金のあるごく一部の諸社は今後も生き残っていくだろうが、我々はこのありさまだ――ここに描かれているのは、社会からとり残され停滞している神社界の将来を悲観し、「生活苦」に直面し、己の人生に絶望している者の姿です(「煩悶」というキーワードも登場している)。
いささか生々しい話ですが、もう一例あげてみましょう。以下は、岡山県真庭郡河内村(現在の真庭市)の社活派神職だった須田福徳(1896-1982)が、大正11(1922)年に、岡山県の神職会機関誌に書いた文章です。
混沌たる現代を救ふの道にも幾多の方法があらうが私は殊に次の三つの如きは見遁すべからざるものなりと思ふ、即ち内治的には速やかに普通選挙を断行すること、国際的には国民的外交の実を挙ぐること、思想的には在来の宗教を改革すること、これである
(中略)
欧洲の戦乱を最後として在来の諸宗教は悉く自殺を遂げたもので、彼等の声明は尽きて戦乱の砲火と共に空しくなつたのである。換言すれば欧洲戦乱を一転機として過去の宗教となつたのである、将来に生命なき形骸となつたのである。「基督教は旧き西の国の宗教である、仏教は旧き東の国の宗教である」との叫はひとり仏教界の新人山川智應氏のみの悲鳴ではない、こゝに於て我等はよろしく過去の形式的概念的宗教より脱して純真なる我れ自らの霊に根ざした、そしてどこまでも真理に生きた宗教を樹立し、こゝに霊肉の再造をはかり社会の浄化に奉仕しなければならぬ。
みすぼらしい身なりの私
貧のどん底生活をして居る私
人間味のうせたやうな私
何と云ふつまらぬ馬鹿者
やくざな人間なんだろう
自分ながらつく〴〵いやになつて来る
けれども、私は泣かない
そは私の罪である
力なき、私の罪なるが故に
神社が国家の宗祀であることも
神職が社会の先覚者たるべきことも
神道が将来の新興的宗教なることも
日本人が世界の指導者たることも
私は皆よくそれを知って居るのだ
けれども、これを如何に顕現すべき
私には何等の力がない杖がない
鞭がないのだ
社会よりとり残されて行く淋しき私
世紀より逆転して居る哀れな私
光明より栄冠より離れ行く悲痛
けれども私は泣かない
そは私の罪である
力なき、私の罪なるが故に
念のために申し上げておくと、社会について語った外向きな前半部分も、内省的に「煩悶」する後半部分も、同じ人物が書いた文章です。畔上は、須田福徳によるこの文章には、社活派の思想構造の特徴が示されており、両者は表裏一体のものとして読まれるべきものだと指摘しています[畔上 2009: p.284]。
ここには、「過去の形式的概念的宗教より脱して純真なる我れ自らの霊に根ざした、そしてどこまでも真理に生きた宗教を樹立」せねばらならぬとか、「神道が将来の新興的宗教なることも」という一節が見られます。須田のこの見解は、戦前の政府見解である「神社非宗教論」とは異なるものです。
また、須田は「『基督教は旧き西の国の宗教である、仏教は旧き東の国の宗教である』との叫はひとり仏教界の新人山川智應氏のみの悲鳴ではない」とも言っています。須田は、山川智応(1879-1956)という人物の主張に共感していたことがわかるわけです。山川智応は田中智学(1861-1939)という人の弟子にあたる人物です。田中智学は、近代の日本で「日蓮主義」と呼ばれる新しい仏教思想を提唱し、近代的な仏教改革運動を実践した人物です。須田はそうした人物の主張に共感していたことになります。
なぜこんなことが起きるのか。こうした須田の主張の背後にどんな文脈があるのかを読み解くために、回り道になるようですが、田中智学の日蓮主義について少し述べておきたいと思います。
「日蓮主義」――終末に見る化城
田中智学は江戸日本橋に生まれ、幼い頃に両親を亡くし、10歳のときに日蓮宗一致派(現在の日蓮宗)で得度しました。しかし、教団の現状に不満を抱いて19歳で還俗し、在家の立場で仏教改革に取り組んでいくようになります。還俗した智学は、明治13(1880)年に蓮華会という在家仏教団体を設立します。蓮華会はその後、明治17(1884)年に立正安国会と改称され、大正3(1914)年には国柱会と改称されます(国柱会は現在も活動を続けています)。その会員はすべて在家で(智学のように還俗した人はいました)、智学は生涯を通じて在家の立場で仏教改革運動に取り組み、従来の「伝統的」な日蓮宗と異なる近代的な新しい仏教思想を提唱しました。
立正安国会は明治20(1887)年に、立正安国会創業大綱領という運動の方針を定めています。大綱領は「総要」「主義」「事業」の3つの章から成っており、第2章の「主義」第1条には、次のような5つの規定が掲げられています。
(第一則)宗教ヲ以テ経国ノ根本事業トスベシ
(第二則)宗教ノ邪正権実ヲ検討シ、専ラ正実ナル宗教法理ヲ奉ズベシ
(第三則)宗教ノ組織ヲ改良スベシ
(第四則)宗教信仰上ノ誤解妄想ヲ矯正スベシ
(第五則)宗教上従来ノ儀式制度ニシテ弊害アル者ヲ破却シ、更ニ宗教ノ実義ト社会ノ実益トヲ比照シテ、完全ナル儀式制度ヲ興立スベシ
ここには、立正安国会の基本的な方向性がよくあらわれています。まず、第三則について。大綱領では、第三則の「改良」の具体的な内容として、「寺檀制度ノ旧習」を否定することや、「葬祭ノ諸式及墓地ノ管理」を専門事業としないことなどを定めています。つまり、いわゆる「葬式仏教」を拒否して、既存の制度に依拠しない在家仏教教団をつくることを目指したのです(ちなみに第五則は、それに伴って独自の新しい「儀式制度」をつくるべきだという趣旨です)。
実際、智学は明治20(1887)年に出した『仏教夫婦論』(1886年の講演をもとにしたものです)のなかで、「死人ヲ相手ニスルヲ止メテ活タ人ヲ相手ニスベシ。葬式教ヲ廃シテ婚礼教トスベシ」と言っています。仏教は死者を相手にするのをやめて、「いまここ」の現世で生きている人を相手にすべきだというのが智学のポリシーでした。智学はこのような思想に基づいて、1880年代半ばに日本で初めて仏前結婚式を行った人でもあります。
智学の主張は、現在に至るまで続けられてきた葬式仏教批判の源流の一つです。「“ほんとうの”仏教は死者ではなく生きている人のためのものだ」とか「葬式は死者ではなく生者のためのものだ」といったような主張をする人を時々見かけますが、これは近代に新しく創作されたイデオロギーなのです。
また、第四則に「宗教信仰上ノ誤解妄想ヲ矯正スベシ」とあるのも見逃せません。これはどういうものかというと、従来の日蓮教団では、釈迦以外の多くの神々に対する帰依が行われていました。例えば三十番神といって、30体の神様が一か月30日間、毎日交代で『法華経』を守護するというものがあります。しかし、そういう神々に対する帰依を「宗教信仰上ノ誤解妄想」だとして排除したのです。また、この第四則については、「濫リニ疾病災禍ヲハラフヲ目的トシテ宗教ノ信仰ヲナスベカラズ」とも定められています。つまり、病気治しのような現世利益を求める実践も排除したのです。
智学は、法華者の肉食妻帯についても肯定しています。智学によれば、部派仏教の律では妻帯などが禁止されているが、末法(仏法が廃れ、その教えは残っていても、正しく修行する者や「覚り」を得る者はいなくなる荒廃した時代)においては律は効力を失うと論じています。末法・無戒の現代においては、「信」こそが「戒行」であり、仏教における肉食妻帯の禁止は「方便」であって、決して「仏法ノ本意」ではないとも述べています。智学は、このように法華者の肉食妻帯を肯定したうえで、「在家の菩薩」(在家信者)こそが、現在の僧侶であると断言しました。世俗生活を大胆に肯定し、在家信者こそが仏教運動を担う主体だという思想を提示したわけです。
さて、智学は日蓮が説いた「立正安国」「王仏冥合」の教えを、近代の日本における「政治」と「宗教」の関係に引き寄せる形で再解釈することで、非常に政治性や社会性が強い国家主義的な仏教思想をつくりあげました。智学は明治34(1901)年に『宗門之維新』という本を出して、日蓮宗を改革するための体系的で具体的なプログラムを提示しました。この本には「妙宗未来年表」という附録がついていて、そのなかで智学は、世界を統一する壮大なヴィジョンを描いています。智学によれば、宗門の改革を達成してから50年間のうちに、日蓮仏教の「国教」化が実現するんだそうです(政教一致)。具体的には、日蓮主義の普及によって国内の「諸宗教」が解散し、帝国議会が日蓮仏教を信奉するようになり、天皇の詔の発布と議会の協賛によって「国教」が憲定され、日本の統合が達成されるんだそうです。
その後、静岡県の三保・清水の周辺が「宗都」と定められ、そこに「本門戒壇」というものが建立されて、「世界ノ霊的統一」が実現するのだそうです。また、宗門の改革を達成してから50年が経てば、世界各地で日蓮仏教の伝道が行われ、「閻提広布世界統一」(世界中への日蓮仏教の布教と世界統一)が近い未来において実現されるのだそうです。
このような世界統一のヴィジョンは、明治37(1904)年から明治43(1910)年にかけて出版された『妙宗式目講義録』(全5巻。1917年に『本化妙宗式目講義』、1925年に『日蓮主義教学大観』に改題)でも述べられています。本書によれば、すべての国家が本門の戒壇に対して帰依すべきであることが世界に宣言されると、「国慾主義の妄念」にとらわれた国が日本や日蓮主義に敵対するようになり、「世界の大戦争」が起こるそうです。そして、最終的に日本に敵対した国が「帰伏」して、日本による世界統一が果たされるのだそうです。
ところで、日清戦争は明治27(1894)年に始まって明治28(1895)年に終わり、日露戦争は明治37(1904)年に始まって明治38(1905)年に終わっています。つまり智学は、日清戦争後の社会状況のなかで『宗門之維新』を出版して「日本による世界統一」という構想を提示し、さらに日露戦争を経ると『妙宗式目講義録』を出版して、「世界の大戦争」による世界統一という終末論的なヴィジョンを提出するに至ったわけです。智学は、大日本帝国の膨張に呼応するようにして、国家主義的な仏教思想をつくりあげていったのです。ちなみに、智学は日露戦争の開戦直後に刊行した『世界統一の天業』という本のなかで、日露戦争を「正義公道」のための戦いとして正当化しています。「正義を護持する為めには大に干伐を要するのである」として武力を肯定し、キリスト教文明や白人主義や帝国主義を批判しています。欧米列強に対抗し、近代日本のナショナリズムや対外進出や戦争を正当化したのです。
陸軍軍人で満州事変の首謀者である石原莞爾(1889-1949)や、先ほど登場してもらった井上日召は、このような田中智学の思想に共鳴した人々です。石原莞爾は智学の日蓮主義に深く心酔し、独自の終末論的な日蓮信仰や戦争史観をつくりあげて、満州事変を起こしました。井上日召も、智学の思想をベースにして自らの思想を築きあげた人物です(ただし日召は、当初は智学の著書を読んで感銘を受け、智学の講演を聞きに行ったりしていたものの、徐々に智学に失望して離れていきました)。このように「日蓮主義」は、「煩悶」する新たな世代の心をとらえていったのです。
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「なんだか、近代のスリランカで仏教改革運動を担ったアナガーリカ・ダルマパーラと似ているな」と思った方もおられるかもしれません。田中智学とダルマパーラの思想や運動には、以下のように共通点が多く見られます。
〇1880年代以降に近代的な仏教改革運動に取り組んだこと
〇在家の生活指針を提示し、在家こそが仏教運動を担う主体なのだという思想を提示したこと
〇神々への帰依や祈祷や習俗を「迷信」と見なして排除する傾向があること
〇特に20世紀に入ってから、仏教ナショナリズムの主張を強めていったこと
〇反西洋・反植民地・反キリスト教の立場を示したこと
本稿のその4ですでに見たように、ダルマパーラは当時の西洋で流行していた「アーリヤ人種」の優越性という観念を取り込み、「シンハラ」と「仏教」と「アーリヤ人種」という概念を結びつけて、民族主義的なイデオロギーをつくりあげました。智学も、『日本書紀』と『法華経』を独自の解釈によって結びつけて、日本による世界統一というヴィジョンを描き出して、国家主義的な主張を展開しました。
なお、ダルマパーラはその一生のあいだに4回来日していて(1889年・1893年・1902年・1913年)、1902年(つまり3回目)の6月には、田中智学と会って議論を交わしています。
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話を戻しましょう。先ほど見たように、社活派神職の須田福徳は、山川智応の主張に共鳴していました。これは一見すると意外に見えますが、これまでに見てきた文脈を踏まえると、むしろ自然なことだと言うべきなのかもしれません。須田もまた、己の実存をめぐる問題に危機感を抱き、その活路を社会的活動に求めていったり、「宗教性」を帯びた新しい国家改造運動を担っていった新たな一群の人々の一人だったわけです。
「大正デモクラシー」の帰結としての抑圧状況
さて、先ほど紹介した「紋付」と「洋服」の対話を描いた大正12(1923)年の記事には、「一番最後迄生き残るのは勿論官国幣社の神職と、経済の豊な民社の神職とだ」「一つ我々が中心となつて民社神職の聯盟でも組織して、大々的活動の烽火でも挙げるかね、ハツハヽヽ」という一節がありました。実際に、地方に住む在地神職層は「大々的活動の烽火」をあげるようになっていきます。地方の若き在地神職たちが、神社界の現状や、官国幣社を優遇する神社行政を批判し始めたのです。「村の鎮守」であっても「国家の宗祀」である以上平等に扱われるべきだ。否、むしろ歴史的に氏子との関係を維持してきた「村の鎮守」こそが優位に扱われるべきだ。そのような主張が台頭してくるようになったのです(見落としてはならないのは、こういった主張は、いわゆる大正デモクラシーの風潮を背景にして台頭してきたということです)。
こうした流れのなかで大正14(1925)年に、在地神職たちによって構成される全国社司社掌会という団体が設立されます。創立当時の会員数はおよそ5,000人。全国の諸社に属する社司および社掌の4割弱(!)を占めていました。この全国社司社掌会に結集した各地の在地神職たちが、大正15(1926)年の全国神職会の財団法人化にともなう内部機構改革を通じて、全国神職会の運営中枢に食い込んでいくことになります。かくして、全国社司社掌会に結集した在地神職たちによって全国神職会の改革・再編が実現し、全国神職会に在地神職の意向が強く反映される状況が生じたのです。この状況は、1930年代に入っても基本的に維持されていくことになります[畔上 2009: pp.124-129]。
畔上が1920年代半ば以降に「国家神道」が「確立」したと論じたのは、以上のような研究成果に基づいてのことです。満州事変以降に、帝国憲法で規定された「信教の自由」を根拠に神社参拝を拒否することができない空気ができあがっていったのは、戦時体制が整備されていく特異な状況下で、平時の体制が崩壊していったということではない。社活派神職たちによる大正デモクラシーを背景にした“民主的な”運動を通じて、1920年代半ば以降に「国家神道」が「確立」し、その新たな社会的状況の延長線上に満州事変以降の抑圧的な状況が生じていったのだというのです。
畔上は、こうした背景を持った「国家神道」は、神道指令によって解体されつくすようなものではないとも指摘しています。確かに、「だが、これが終わりではない/私はいつでも復活する/この世に生あるものと、そして死が存在する限り……」と言ったどこぞのラスボスじゃないけど、近現代の「世俗社会」が「盛り込みきれないような生、あるいは自我の問題を抱え」た人々は今も存在しています。「俺の人生って一体何なんだろう」「俺は何のために生まれてきたんだろう」という己の実存をめぐる問題を抱えてさまよった果てに、「国家」や「天皇」という名の“俗なる聖性”に行き着いた人々と同様の苦悩を抱く者たちは、今も一定数存在している。飛躍した乱暴なもの言いをお許し願えれば、神社崇敬や天皇崇敬という形でなくとも、カイシャや野球や「スピリチュアル」や「エコ」や健康法やマインドフルネス瞑想や「癒し」や陰謀論や自己啓発本やオンラインサロンやサヨク思想やウヨク思想やフェミニズムやアンチフェミやアイドルやインフルエンサーや配信者やvtuberなどなどが紡ぎ出す「物語」や、そこに顕現する“俗なる聖性”によって救われる人々は、現在に至るまで存在し続けている。してみると、こうした問題は決して過去のものではないという見方もできそうです。
『初詣の社会史』――プラクティス・娯楽・ナショナリズム
さて、畔上説についてはこれくらいにしましょう。本稿で最後に見てみたいのは、平山昇(1977-)による研究です。平山の研究は、『鉄道が変えた社寺参詣』(交通新聞社新書、2012年)や『初詣の社会史 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』(東京大学出版会、2015年)にまとめられています。平山の研究も、既存の研究とは異なるアプローチをとることで、従来の「広義の国家神道」論も「狭義の国家神道」論も見落としてきた新たな地平を切り開いてみせたものになっています。
平山はもともと初詣の研究に取り組んでいたのですが、研究を進めるにつれて、大正期以降の初詣の動向を考えるためには、ナショナリズムや天皇制の問題を避けて通れないことがわかってきたと述懐しています[平山 2015: p.311][山口 2018: p.200]。そこで、まず初詣について述べておきたいと思います。
初詣――近代に生まれた新たな参詣スタイル
初詣は、日本で古くから行われてきた「伝統」だと思っている方も多いかもしれませんが、実はそうではありません。結論から言ってしまうと初詣は、明治以降に鉄道と深く関わりながら成立した、近代的な新しい参詣のスタイルです。
これは、明治以前には新しい年の始めにお寺や神社に参詣する習慣がなかったということではありません。江戸時代にも、新年の最初にお寺や神社に参詣するということは行われていました。しかし、江戸時代の参詣は明治以降の初詣と異なり、いつどこにお詣りすべきかについて細かいルールがありました。このルールに従って参詣することで、ご利益を授かることができると考えられていたのです。
一例として、神奈川県川崎市にある川崎大師(平間寺)を見てみましょう。川崎大師は真言宗のお寺で、毎年初めに多くの人々が初詣に訪れることで有名です。大師の縁日(この日に参詣すれば特にご利益があると言われている日)は毎月21日です。よって江戸時代の慣習に従うのであれば、新年に川崎大師に参詣する場合、元日ではなく初縁日である1月21日に参詣するのが順当なスタイルだということになります。
また、江戸時代に行われた正月参詣のスタイルのなかでも、特に盛んに行われたものに恵方詣があります。恵方というのは、歳徳神(その年の福徳をつかさどる神様)がいるとされる方角のことで、「寅卯→申酉→巳午→亥子→巳午」の順で毎年変わります(つまり5年周期)。
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江戸に住んでいる人の場合だと、川崎大師は巳午(おおむね南南東)の方角にありますから、江戸っ子が元旦に川崎大師に恵方詣を行うのであれば、5年に2回だということになります。そういうわけで、江戸時代までの恵方詣では、毎年正月に川崎大師に参詣するということはありませんでした。毎年川崎大師に初詣に行くというのは、従来の恵方詣と異なる新しいスタイルだということになるわけです。
このように、江戸時代の正月参詣には、「いつ」「どこに」お詣りすべきかというルールがありました。これに対して、初詣という新しいスタイルには、そういう「いつ」「どこに」というルールがありません。
「いつ」については、正月三が日に行く人が多いんでしょうけど、1月4日以降におまいりしたら初詣ではないというわけでもありません(実際、仕事始めの日に集団参拝で初詣を行っている企業は存在する)。「どこ」についても、恵方詣のようなルールがあるわけではなく、神社仏閣であればどこにおまいりに行っても初詣だと言えます。江戸時代までの正月参詣と異なり、新年のはじめのあたりで、どこかの神社仏閣におまいりしさえすれば、初詣だと言えるわけです。初詣は、いろいろとルールがあった恵方詣などの明治以前のスタイルと異なり、「いつ」「どこに」というルールがないフリーな参詣スタイルなのです。
この初詣という新しいスタイルが早い時期に定着したのが川崎大師です。郊外に位置する川崎大師では、明治20年代に縁日や恵方にこだわらずに元日に参詣するスタイルがいちはやく定着し、やがてこの新しい慣習が「初詣」と呼ばれるようになりました[平山 2015: p.26]。そして、その背景には鉄道の誕生という事情が大きく絡んでいます。
まず明治5(1872)年6(旧暦5)月に、日本で最初の鉄道路線が假開業(この時点では新橋ー横浜間)し、翌月にはその途中に川崎停留場が設けられて、東京から川崎大師へのアクセスが格段に便利になりました。そのため、恵方にあたる年や、(元日ではなく)初縁日の1月21日は、新橋から汽車を利用して川崎大師に参詣する人でにぎわうようになりました。これだけであれば、江戸時代から行われていた参詣スタイルがいっそう盛んになったというだけの話です。ところが、明治20年代になると川崎大師は、恵方にあたる年もそうでない年も、毎年元日に大勢の参詣客でにぎわうようになりました。
川崎大師でこのような変化が生じた要因を物語る、明治24(1891)年の新聞記事があります。
川崎大師がちよツと汽車にも乗れぶら〳〵歩きも出来のん気にして至極妙なりと参詣に出向きたるも多くありし
つまり、汽車に乗って郊外を訪れ、レクリエーション気分で散策を楽しむ人々が、川崎大師を訪れるようになったというわけです。川崎大師に関する当時の新聞記事をもう一つ見てみましょう。
此日ハ風もなくいと麗らかに大師河原の長堤景色最も好く三四月の頃郊外漫歩の心地しけり
当時の川崎大師周辺は、騒がしく忙しい都会から離れて、「郊外漫歩」を楽しめる場所だったというわけです。
こうした動きの背景を少しだけ説明しておきましょう。現代の日本では、多くの人が通勤や通学に鉄道を利用していますが、当時はまだ広く定着してはいませんでした。現代人にはもはや想像しがたいことかもしれませんが、明治期の多くの人々にとっては、汽車は日常的に乗るものではなく、特別なハレの日にだけ利用できる乗り物でした。「ちよツと汽車にも乗れ」ることは、今で言えば東京ディズニーランドとか、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行けるような、非日常的なことだったわけです。
また、明治20年前後は、元日の川崎大師参詣のための臨時列車が毎年運行されるようになった時期でもあります。その一方で川崎大師の側も、川崎停車場からお寺に至る新道を開通させたり、桜の木を植えて風情を出したりして、参詣の為の環境整備を行うようになりました。
つまり明治20年代は、汽車とかいう非日常的な乗り物に乗って、都市化が進みつつあった東京の喧騒を離れてリフレッシュできるということで、川崎大師の魅力が一気に充実した時期だったのです。非日常的な乗り物と郊外散策を同時に満喫できるという、当時としては他に類を見ない魅力にひきつけられて、従来の初縁日や恵方といったルールを気にすることなく、正月休みに参詣する人が増えていきました。そして、この新しいスタイルが初詣と呼ばれるようになったのです[平山 2015: p.28-31]。
なお、平山の研究は、大阪でも初詣は東京とほぼ同様の過程で成立していったことを示しています。大阪でいちはやく初詣が定着したのは、住吉神社(現在の住吉大社)です。江戸時代においては、新年の最初に住吉神社に参詣する場合、その年の最初の卯の日(十二支が卯にあたる日のことで、12日に1回まわってくる)に参詣するスタイルが主流でした(これを初卯詣と言います)。ところが明治18(1885)年に、関西で初めての私鉄である阪堺鉄道(現在の南海電鉄の前身です)が開業すると、その沿線にある住吉神社に初卯にこだわらずに正月休みに参詣するスタイルが生まれました。そして、それが初詣と呼ばれるようになったというわけです。
そういうわけで、明治20年代の川崎大師では、郊外の寺院に鉄道が通じた結果として、初詣が定着していきました。この時点では、鉄道が積極的に参詣客を呼び込もうとする動きは見られませんでした。しかし、明治30年代になると、東京の市街地から郊外に延びる路線を有する鉄道会社が、沿線の神社仏閣へ参詣客を積極的に呼び込もうとするようになり、郊外の神社仏閣に初詣をする習慣が定着していく流れが決定的になりました[平山 2015: p.31]。
現在の日本で、初詣に訪れる多くの参詣者でにぎわう神社仏閣と言えば、明治神宮(東京)、成田山新勝寺(千葉)、川崎大師(神奈川)、伏見稲荷大社(京都)、住吉大社(大阪)、熱田神宮(愛知)などがあります。これらの神社仏閣には、明治神宮を除けば、共通する歴史があります。それは、複数の鉄道路線がアクセスするようになったがために、鉄道会社のあいだで激しい乗客争奪戦が生じ、乗客=参詣客が激増していったという歴史です。
例えば川崎大師の場合だと、明治37(1904)年に京浜電鉄(現在の京急電鉄)が品川ー川崎ー川崎大師の路線を全通させました。このとき官鉄は、日露戦争のための通行税課税にともなって運賃を値上げしたのですが、京浜電鉄は逆に値下げしました。この値下げについて記した当時の新聞記事にはこうあります。
通行税の賦加あるも尚ほ従前に比して二割近くの低減なれば従て大師穴守参詣者及び近郊遊覧者を誘発し結局会社の利益を増加するに至るべしと云へり
この戦術が当たって、京浜電鉄は明治38(1905)年の新年に、多くの参詣客を誘い出すことに成功しました。京浜電鉄はその後、同年12月には川崎ー神奈川間を開通させました。すると、それに対抗して官鉄は同じ月に「最急行列車」を新たに設置します。これによって、それまで1時間ほどかかっていた新橋ー横浜間が、一気に30分未満に短縮されました。さらに官鉄は、年が明けた元日に、新橋ー横浜間の往復乗車賃を一気に5割引にしました。その結果、新年の川崎大師参詣客が大幅に増加することになりました。その後も京浜電鉄と官鉄は競争を繰り返して、新年の川崎大師参詣をますます盛んにしていったのです[平山 2015: pp.32-34]。
また、千葉県の成田山新勝寺の場合も、参詣客が増加する最大の契機となったのは、大正末期から昭和初期にかけて、京成電鉄と国鉄の熾烈な乗客誘致競争が勃発したことです[平山 2015: pp.32]。興味深いことに成田山の場合、この寺院の関係者や寺院に帰依する人々が、鉄道路線の敷設に計画段階から主体的に関与していたことが明らかになっています[白土 1973][矢嶋 1995]。そもそも成田山新勝寺は、江戸時代のころから江戸に住む人々をターゲットにした積極的な集客宣伝活動を行ってきた寺院であり[原 2007]、そのあたりも深堀りしていくと面白そうなのですが、本稿では割愛いたします。
そういうわけで初詣は、明治以前の細かいルールにとらわれることなく参詣する新しいスタイルでした。特定の神仏や社寺に深く帰依して参詣するというよりむしろ、郊外でのレクリエーションとしての性格を帯びた「庶民の娯楽行事」だったわけです。明治期に新しく誕生した“軽いノリ”の参詣スタイルなのです。そしてその性格は、明治時代後半に鉄道会社のプロモーションによって強められていったというわけです。
比喩的に言えば、初詣は生まれも育ちも郊外であった。そして、その生誕と成長の両方において重要な役割を果たしたのが鉄道であった。
まず、初詣は明治ニ〇年代の川崎大師において定着した。ここで我々が確認したいのは、鉄道と郊外という二つの要素が結びつくことによって、近世以来の参詣規範が弛緩し、細かい縁起にこだわらない新しい行楽的参詣が生まれるという過程であった。(中略)東京に流入しながらも旧来型の都市内地縁共同体に縛られない人々が増えていくなかで、都会の喧騒から逃れて郊外に行楽を求めるついでに現世利益祈願をも兼ねる初詣というスタイルが台頭したと考えられる。
(中略)
なぜ初詣客が郊外の有名社寺に集中しているのかといえば、初詣は鉄道が通じた郊外の社寺で生まれ、その後も鉄道会社の後押しによってやはり郊外の社寺を中心に拡大してきたからなのである。そして、鉄道と郊外といえば近代日本の都市を特徴づける重要な要素である。一見するといかにも古めかしく見える初詣であるが、実は、近代都市の形成とともに生まれ育った参詣行事だったのである。
かくして初詣が成立したわけですが、だからといって従来の恵方詣のようなスタイルがすぐに衰退・消滅したわけではありませんでした。恵方詣も、鉄道の発達を背景にして一時的に盛んになります。しかし、最終的には衰退していくことになります。
恵方詣は、鉄道会社の宣伝文句として大いに利用されたのですが、鉄道会社にとっては必ずしも都合がいいものではありませんでした。というのも、恵方は5年周期で毎年変わってしまうから、宣伝文句として使えるのは、せいぜい5年に1、2回だけです。しかし鉄道会社としては、恵方にあたらないからといって、せっかくの(潜在的な)乗客をみすみす見逃すわけにもいきません。そこで鉄道会社が重宝するようになったのが、「初詣」という宣伝文句だったのです。
例えば、成田鉄道は明治43(1910)年の正月に初めて「成田山 初詣」の広告を新聞に掲載し、それから大正7(1918)年まで、毎年正月に成田山参詣の広告を出しています。京浜電鉄も明治45(1912)年から、毎年正月に川崎大師参詣の広告を出しています。ここで両社は、成田山や川崎大師が恵方にあたる年は「恵方」という宣伝文句を使い、それ以外の年は「初詣」という宣伝文句を使っています。鉄道会社にとって「初詣」というのは、恵方や縁日でなくても参詣を宣伝できる便利なことばだったのです。
もともと「初詣」は近世以来の名称にあてはまらない参詣を指すために使われ始めたいわば“隙間用語”であり、新聞でも大正前期までは毎年必ず使用されるほどではなかった。つまり、鉄道会社は他に先駆けて「初詣」の利用価値を見出し、意図的に常用するようになったのである。
さらに大正時代になると、恵方にあたる年であっても、「初詣 東京より恵方」という具合に、「恵方」と「初詣」を併記した広告も登場します。平山によると、大正10(1921)年以降になると「恵方」と「初詣」の使い分けが崩れ、恵方にあたる年でも初詣を併記する用法が多くなるそうです[平山 2015: p.59]。
かくして、主役はあくまでも初詣であって、恵方は脇役でありちょっとした付加価値にすぎないという話になってしまったわけです。ざっくり言えば、「新年に毎年行うのは初詣だよね。恵方にあたっていればなおいいけど、あたってなくてもいいや」という話になっちゃったわけです。「恵方」ということばは、鉄道会社によって大いに利用されすぎた結果、その価値を下落させていくという逆説的で皮肉な運命をたどったのです。
話がここまできたところで、注意を促しておきたいことが2点ほどあります。まず、「初詣は京浜電鉄(現在の京急電鉄)の営業活動によって誕生した」という俗説があるようですが、これは誤りです。先ほど見たように、川崎大師が明治時代に初詣の発祥の地となったのは事実ですが、それは京浜電鉄の誕生以前のことです。ご注意ください。
また、「初詣は鉄道会社によって“人為的に”つくられた」とか「初詣は鉄道会社の陰謀だ」などといった説も誤りです。これまでに見てきたように、あくまでも「鉄道によって自然発生した」「鉄道会社が普及に貢献した」という話なわけです。ここは誤解されやすいところだと思われますので、重ね重ねご注意ください。
皇室の後には神社あり?
そういうわけで初詣は、言わば「庶民の娯楽行事」として明治時代に新しく誕生しました。一見すると、本稿でこれまでに扱ってきた問題とはあまり関係のない文化現象のように見えます。ところが、元々は「庶民の娯楽行事」だった初詣が、大正時代以降に本稿で述べてきた問題と大きく絡んでくることになるのです。この問題について語るためには、大正時代以降に生じた人々の神社に対するイメージの変化や、神社について語る言説の変化について述べる必要があります。
どういうことなのか、順を追って見ていきましょう。まず、次のテキストを見てください。これは、明治の最後の年となった明治45(1912)年に、『神社協会雑誌』に掲載された記事の一節です(『神社協会雑誌』は、内務省神社局に置かれていた神社協会が発行していた雑誌です。これは言わば、神社局の広報誌のような性格の雑誌でした)。
国家の中心は、勿論皇室である。併し皇室の後には神社有ると云ふ事を忘れてはならぬ。
これを読んで「おや?」と思う方もおられるかもしれません。「皇室と神社のあいだには不可分な結びつきがあるというのは当たり前のことじゃないか。『皇室の後には神社有る』などということは、戦前のような時代であれば説明するまでもなかったはずだ。そんな当たり前のことをなぜあらためて言わねばならないのか」と。
結論から言いましょう。明治時代の終わりの時点では、皇室と神社の結びつきは必ずしも自明のものではなかったからなのです[平山 2021: pp.218-219]。皇室と神社には不可分の結びつきがあるという考え方が「常識」として広く人々のあいだに浸透していくのは、大正時代以降のことにすぎないのです。
もちろん明治期にも、天皇の祖先とされる天照大神を祀った伊勢神宮には特別な敬意が払われていました。初代文部大臣となった森有礼(1847-1889)が、伊勢神宮に参拝した際に「不敬の挙動」をしたといううわさが報道で広まり、暗殺されてしまうという事件も起きています。でも、それ以外の大多数の神社については、皇室と結び付けて崇敬するということは当たり前のことではなかったのです。
「信じられない」「そんな馬鹿なことがあるわけがない」「これはあやしげな珍説や妄想の類ではないか」と思う方もおられるかもしれません。また、先ほど見た『神社協会雑誌』の記事にしても、「これは、皇室の背後には神社が存在しているという『常識』をあらためて強調して、神社関係者に奮起を促したものだともとれるのではないか。これだけを根拠にして、当時は皇室と神社の結びつきは自明のものではなかったなどと言うのは、無理があるのではないか」と思う方もおられるかもしれません。確かに、これだけでは到底納得できないという方も多いでしょうから、ここでその証拠となる史料をいくつか紹介しておきたいと思います。
明治時代の前半から昭和戦前期を生きた上田貞次郎(1879-1940)という経済学者がいます。上田は天皇を深く尊崇した人で、明治32(1899)年には日記にこう記して、明治天皇を称賛しています。
今上陛下は、夙に英明の資を拝して、天下の大位に即かせられ、自ら憲法を欽定し給ひて、万機を公論に決するの誓を実にせられたるは如何にも広き事海の如き御心にして、国民は永く其徳を仰ぎて憲法を擁護せざる可らず。是皇室に対するの忠道なり。
ところが、このように天皇を深く尊崇していた上田は、神社神道に対しては否定的な評価をくだしていた(!)のです。
日本ではすべてのものが小さい、愛国心も小さい。宗教も日本人以外には当てはまらない所の神道などが行はれている。
欧洲人の思想は常に神を中心として、世界人道を本位とすれども、日本人は天皇を中心とし国家を本位とす。而かも人道博愛の精神な[け]れば帝国的膨張は不能なり。大神宮様は台湾人や朝鮮人に取ては決して有難きものにあらざるなり。
神道は台湾人や朝鮮人にとって全くありがたいものではない。大日本帝国が「膨張」していくうえでは、「日本人以外には当てはまらない所の神道」はむしろ邪魔になるというのです。つまり上田は、天皇を深く尊崇し、大日本帝国の発展や膨張を重視する立場をとっていましたが、それは神社崇敬と全く結びついていなかったのです。明治期には、こういうものの見方がはっきりと存在していたわけです。
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もう一例あげましょう。大正期に東京に新しくつくられた明治神宮という神社があります。明治天皇とその皇后の昭憲皇太后が祀られた神社です。明治天皇が崩御した後に、明治神宮を東京につくる運動を主導した人物の一人が、渋沢栄一(1840-1931)です。ご存じのように、昨年(2024年)から一万円札の顔になりました。
ところがその渋沢は、明治天皇は崇敬していましたが、神社は嫌っていました。儒学や西洋思想を学んで育った人物であり、神社仏閣に祈ることを「迷信」だとみなして嫌っていたのです。この点は、渋沢の基本資料である『渋沢栄一伝記資料』を読めば一目瞭然です(こちらで読めます)。
渋沢は、明治天皇が崩御した直後は、天皇陵を東京につくる運動に関与していました。しかし、明治天皇の陵墓は京都につくられることになったため、次善の策として神社創建の道を選ばざるをえなかったのです。実際に、渋沢は明治神宮ができた後も、明治天皇と昭憲皇太后が祀られた明治神宮の内苑には関心を示しておらず、ほとんど参拝していません。
ちなみに、明治神宮がつくられていった大正期には、江戸時代の寛政の改革で有名な松平定信を祀る神社をつくる計画がありました。渋沢は旧幕臣であり、松平定信を尊敬していましたから、関係者は渋沢に協力を求めました。ところがこれに対して渋沢は、神社よりも石碑を建設したらどうかと言って、神社案の見直しを求めています。渋沢にとっては、偉人を称えるために神社をつくるという発想は、何ら自明なものではなかったのです。皮肉なようですが、明治神宮の創建を推進した渋沢は、結局のところ上田貞次郎と同じく、天皇皇室は尊崇するが神社は重視しないという立場だったのです。
もう一例あげましょう。本稿ですでに何度も述べたように、伊藤博文は明治21(1888)年に枢密院で憲法審議を開会するにあたって、皇室を国民の精神的統合の機軸にするしかないと宣言しました。我が国の場合、仏教も神道もよわよわだから、皇室を機軸にするしかないというわけです。
本稿で何度も述べてきたように、明治時代前半の政府による「宗教」政策をざっくり整理すると、
①神道に肩入れして、いわゆる「神仏判然令」などの極端な政策を実行した時代
②教部省・大教院のもとで神仏合同の教化体制がとられ、神道だけでなく仏教も体制に取り込もうとした時代
③「政教分離」や「信教の自由」といった西洋の考え方を受け入れ、仏教からも神道からも距離を置いて、干渉を控える方向に進んだ時代
という流れになります。伊藤博文が、仏教も神道もよわよわだから皇室を機軸にするしかないと宣言したのは、③の時期にあたります(この時期に「神社改正之件」に基づいて官国幣社保存金制度が始まり、伊勢神宮以外のほぼすべての神社を近い将来にジコセキニンでやっていかせる政策がとられるようになったことも、何度も述べたとおりです)。
この時期に政府は「政教分離」に基づいて、仏教や神道を通じて国民教化を行う路線から撤退し、学校教育の場で教化を行おうとする路線をとるようになります。つまり、明治23(1890)年に発布された教育勅語や、学校に配布された御真影(天皇の肖像写真や肖像画)や、歴史教育など、「非宗教的」な回路を通じて教化を行おうとする方向に進んだわけです。
教育勅語については、哲学者の井上哲次郎(1856-1944)が明治24(1891)年に刊行した『勅語衍義』という教育勅語の解説書があります。井上は「体制派」「保守派」の哲学者として近代の日本で活動したと言われている人物で、『勅語衍義』は、もともと文部大臣の芳川顕正(1842-1920)の依頼を受けて書かれたものです。『勅語衍義』はその後、教科書検定制度のもとで、検定済み修身教科書として学校教育で用いられていくことになります。言わば教育勅語の「準公定解説書」として扱われ、広く読まれることになりました。また、井上が『国民道徳概論』(1912年)などで展開した議論は「国民道徳論」と呼ばれて、明治末期以降の教育界に大きな影響を及ぼしていくことになります。
このような立場にあった井上も、日本の機軸となるべきものは皇室であり、神道を「宗教」として国民教育のなかに入れるわけにはいかないと論じていました。井上は、『国民道徳概論』のなかで神道について、「日本の国民性と結付て居ると云ふ点は、決して軽々しく看過してはならぬ。(中略)祖孫相続の精神は日本の古今の歴史を貫いて居ります」と言っています[井上 1912: p.131]。井上は神道を日本の「国民性」や「国体」と深く関係するものだとみなしており、彼の神道に対する評価は決して低いものではありません。
しかし井上は同時に、「宗教的儀式がチヤンと備はつて居り」、「宗教に共通なる性質が神道にもある」から、神道は「宗教」でないと断言できないとも言っています[井上 1912: pp.146-147]。よって、神道を「宗教」として国民教育のなかに入れるわけにはいかないと井上は言っています[井上 1912: pp.147-148]。帝国憲法第28条によって「信教の自由」が一応は保証されている以上は、「宗教」を国民教育のなかに入れるわけにはいかなくなっていたわけです。
また井上は、神道には「淫祠邪教」の要素が混じっていて、「宗教」として仏教やキリスト教と比べるとはるかに(程度が)低く、仏教やキリスト教と(対等に)競い合えるようなものではないとも言っています[井上 1912: pp.99-100]。そこで、神道を改良刷新し、「現代的道徳」へと変化させていくのが望ましいという見方を示しています[井上 1912: pp.142-143]。以上のように、明治時代の中ごろから後半にかけては、神道は皇室と特別な関係に置かれておらず、両者は切断されていたのです[山口 1999: p.150]。
さて、井上哲次郎の弟子に、田中義能(1872-1946)という人がいます。この人は今では一般には忘れ去られていますが、近代神道学という新しい学問の祖と言っていい人物で、戦前を代表する神道研究者の一人です。[磯前 2003: p.193]。田中は國學院大學などで教壇に立ちつつ、東京帝国大学助教授として帝国大学で唯一の神道講座を担当し、教育界にも影響を与えました。
その田中は、昭和5(1930)年に次のように書いています。
私より以前に教育勅語を我が国の道徳として謹解したのは聞いて居り、又見て居りますが、之れを神道として説いたのを聞きませぬ。之れを神道として謹解するのは私が初めてではないかと考へて居るのであります。
これは、現代の我々の感覚からすれば驚くべきテキストです。つまり田中は、「教育勅語を神道的に解釈したのは自分が初めてではないか」と言っているわけです。逆に言えば、教育勅語はそれ以前は神道に結びつけて解釈されてはいなかった(!)というのです。宗教学者の磯前順一は、この田中のことばはほぼ正しいものだと指摘しています。
論文のうえでは、田中が国民道徳論に神道を結びつけたのは明治四一(一九〇八)年頃からであり、田中の自負はほぼ正しいものである。どんなに低く見積もっても、教育勅語の神道的解釈の先駆者のひとりであることは間違いない。
また田中は、昭和7(1932)年には次のように書いています。
世或は神道と皇道とを分ち、神道を以つて不合理的、迷信的の道とし、皇道を以つて合理的、正信的の如くに思ひ、前者は宗教であって、後者は道徳であるかの如くに解するものがある。
現在の我々は、「皇道」と「神道」は漠然と同じようなものだと思っています。しかし、当時は「皇道」と「神道」は一般に異なるものとして理解されていました[磯前 2003: p.203]。そして、「皇道」は「合理的」な「道徳」であるが、「神道」は「迷信的」な「宗教」だと捉える文脈もあったというわけです。
これに対して田中は、儒教や仏教が日本に伝わる以前から、神道は日本国民のすべての行動の根底にある不変の規範であり続けてきたとして、「神道」と「皇道」は同一であると論じました。それまでインテリのあいだで「幼稚」な「迷信」のように扱われていた「神道」を、「国民」の生活を全面的に規定してきた「国民道徳」へと“格上げ”する新しい議論を展開したのです。田中義能が教育勅語を神道的に解釈した最初の人物の一人であるというのは、こういうことを言っているわけです。
以上のように、明治時代の中ごろから後半には、「神道」という概念にマイナスのイメージがつきまとう文脈が存在しており、神道は皇室と特別な関係に置かれておらず、両者は切断されていました。また、天皇や皇室は深く尊崇しつつも、同時に神社仏閣で祈る行為を「迷信」扱いする者や、「日本人以外には当てはまらない所の神道」には否定的な評価をくだす者もいました。教育勅語を「神道」に結びつけて解釈し、「神道」にプラスのイメージを与えるという営為にしても、明治の終わりごろに出てきた新しい流れでした。
そういうわけで、明治時代の終わりごろの時点では、「皇室と神社は不可分であり一体である」という考え方は浸透していませんでしたし、自明なものではありませんでした。だからこそ神社関係者は、明治最後の年である明治45(1912)年に、「皇室の後には神社有ると云ふ事を忘れてはならぬ」と書かざるをえなかったわけです。
明治神宮インパクト――「<皇室+神社>一体視型ナショナリズム」の誕生
さて、それではなぜ大正時代以降に、「皇室と神社は不可分であり一体である」という考え方が人々のあいだに浸透していくようになったのでしょうか。この問題を考えるうえで重要なのが、大正時代に東京に新しくつくられた明治神宮です。先ほど触れたように明治神宮は、明治天皇とその皇后の昭憲皇太后が祀られた神社です。
明治天皇が崩御した際の東京市長で、明治神宮の創建に深く関わった阪谷芳郎(1863-1941)は、昭和5(1930)年にラジオで次のように語っています。明治45(1912)年7月に、明治天皇が危篤であることが公表されると、皇居の二重橋前広場に大勢の人々が集まって、天皇の平癒を祈願した。このような「自然的国民熱情ノ発露ハ古今嘗テ見聞セザル所デ」あった。しかし、明治天皇の陵墓は京都につくられることが内定していたので、せめて「何カ御陵墓ニ代ルベキ最モ近キ方法」をということで、「種々相談ノ上、神宮ヲ東京市ニ造営」することが決定した、と[阪谷 2006: pp.512-514]。
つまり阪谷によれば、明治神宮がつくられたのは、明治天皇が重態であることが発表された際に、多くの人々が皇居の二重橋前に集まってきて天皇の平癒を祈り、「国民熱情」をあらわにしたことに起源があるのだということになります。明治神宮という新しい神社が創建された経緯は、当時から現在に至るまで、繰り返し繰り返しこのように語られ続けてきました。
しかし、このような語り口のもとでは、不可視化され抜け落ちてしまうものがあるのです。まず、次の画像を見てください。
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明治45(1912)年7月20日に、明治天皇の病状が深刻であることが発表されると、各地で明治天皇の平癒祈願が行われ始めました。画像は、その様子を報道した『読売新聞』の7月22日の記事です。
見てのとおり、仏教・キリスト教・神道による平癒祈願の写真が1枚ずつ掲載されています。この時点では、平癒祈願の様子が、特に神社に偏ることなく報道されていました。当時の新聞は、神社だけでなく仏教やキリスト教の平癒祈願もまんべんなくとりあげており、キリスト教徒の平癒祈願にも十分なスペースを割いていたのです。実際に7月22日の『東京朝日新聞』も、21日に東京基督教青年会館に400名を超える有志が集まって祈祷会を行ったことや、あちこちでむせび泣く声が聞こえたことや、最後に君が代を合唱したことを報じています。
また、東京では特定の神社が平癒祈願の中心となるということもありませんでした。東京で平癒祈願の中心地として浮上してきたのは、皇居の二重橋前広場です。当初はこの場所に、天皇の平癒を祈る大群衆が発生するとはほとんど予想されていなかったようです。ところが、二重橋前広場に集まる人々の様子を伝える新聞報道が過熱し、読者の感情を煽るようになると、それに刺激された人々が二重橋前広場におしよせて、天皇の平癒を祈願するようになります。すると、それを伝える報道がさらに過熱して(以下略)というフィードバックループが生じました。かくして、二重橋前広場は平癒祈願の中心地となったのです。
そして、二重橋前広場に集まってきた祈祷者たちは非常に多種多様でした。7月27日の『東京朝日新聞』にはこうあります。
砂利の上に跪き或は数名数十名、神道何々、仏教何々と記せる提灯の下に集まりて大般若経を誦するあり、心経を唱ふるあり、或は天に向ひて黙禱し地に俯して祈願するあり
『東京朝日新聞』は翌28日には、大吉だというおつげがあったから(天皇陛下の病状は)良くなると語る不動明王に帰依する者や、ハンカチで涙をふきながらアーメンと唱える(!)救世軍(プロテスタントの一派です)の者や、山籠もりをして滝に打たれたうえで上京してきたという道了権現の行者などが祈願に加わっていたことを記しています。ここには、天皇を崇敬していれば、誰もが「宗教」や「信条」にかかわらず、思い思いのかたちで天皇の平癒を祈願することが許される空間が存在していました。天皇の平癒を願って「アーメン」と叫ぶことも許されていました。天皇を崇敬する心は一つでも、その形は実に多種多様だったわけです。ここで重要なのは、天皇崇敬は神社を通して行わなければならないなどということはなかったということです。
さて、明治天皇が7月29日夜(公式発表では30日未明)に崩御したのを受けて、渋沢栄一をはじめとする東京の政財官人たちは、東京に天皇陵をつくる運動を始めました。ところが宮内省は8月1日に、天皇陵は京都に内定していると公表しました。すると、天皇陵がだめならせめて神社をつくろうということで、東京に明治天皇を祀る神社を創建する構想が浮上します。ほとんどの新聞がこの構想に同調し、明治神宮の創建を求める熱狂的な世論が短期間のうちに形成されました。
多くの人々が明治神宮の創建に賛成していたのですが、反対する人々もいました。明治天皇を追悼・記念すること自体は幅広い合意があり、反対派もその点には異議を唱えていませんでした。反対派は、明治天皇の追悼・記念を神社と結びつけることに異議を唱えたのです。例えば、当時の東北帝国大学総長だった澤柳政太郎(1865-1927)は、こう言っていました。
日本の神社は偉人を崇敬追慕するものであるが純然たる崇敬追慕の為めの神社としても一面に宗教的意味が混つて来る若し此の意味がないとすれば神社も銅像も形の変つた丈である、其処で神社に宗教的意味が加はつて来ると、異教者からどう思ふであらう
日本には(例えばキリスト教徒のような)「異教者」も存在することを指摘し、その心情に注意を促すことで、追悼・記念を神社という形で行うことを考え直すよう求めたわけです。
また、8月8日の『東京朝日新聞』には、次のような投書が見られます。
神社にはゾツと致します記者様私は何処までも神社論には反対致します(中略)先帝陛下の御為にとならば私共も遠い将来の(こ)とを思ひ千年後にも継続して千年後の子孫一人残らずに今日我等が陛下に対していだき奉ると同様の感を持ち得るに足るべきものでなければなりません、それにはどうしても〳〵宗教といふもの少くとも日本のしかもほんの一部に行はれてゐる神徒教にまかせる事は出来ません、日本人(大和民族の意で)でさへ今日神官のよむノツト[引用者注:祝詞(のりと)か]がわかる者が幾人ありませう、まして此後領土はまし人種のいろいろなのが日本臣民となつた未来に大日本開国の祖は昔(未来より見て)の人間の手で造つた小さな宮で神官が祭文をよむ時でなければ我等の感謝を受けられぬとなつたら随分だと思ひます私は御銅像を安置し奉る記念一大図書館をえらびませう
つまり、神社神道は日本のほんの一部で行われているにすぎない。今後大日本帝国が膨張していき、様々な「宗教」や「人種」の人々が日本臣民となった際に、神社を通すことでしか天皇を崇敬することが許されないということになったら、「子孫一人残らずに今日我等が陛下に対していだき奉ると同様の感を持」つことは不可能になってしまうというのです。先ほど登場してもらった上田貞次郎は、神道は台湾人や朝鮮人にとって全くありがたいものではなく、大日本帝国が「膨張」していくうえでは、「日本人以外には当てはまらない所の神道」はむしろ邪魔になると論じていました。この投書が、上田貞次郎と同様の見解を述べていることに注意してください。
また、日本基督教会に属し、後に日本基督会の創立者として知られることになる尾島真治(1867-1951)は、8月12日にキリスト者の立場から次のような投書を寄せています。
神社建設には宗教的意味が含まれる様だから政府で遣つては宜しくない。国民は神道家計りでなく無宗教家も、基督教信徒も、仏者もあると云ふ事を思はねばならぬ
尾島はこの投書のなかで、明治神宮創建に反対する根拠の一つとして、「皇室将来の御信仰の自由の為め」という理由をあげています(!)。つまり、今後時代の変化によって皇室と神社神道の結びつきが弱まり、皇族に神社神道以外の「信仰」を持つ者が現れるかもしれないから、その「御信仰の自由の為め」に反対するというのです。ここでは、皇室と神社の結びつきは何ら自明なものではなく、それが今後揺らぐことが想定されているのです。
明治の終わりごろの時点では、以上のような意見が少数とはいえ存在していました。当時はまだ、神社と天皇の結びつきは後の時代ほど絶対化されてはいなかったし、両者が不可分であるというのは何ら自明なことではなかったのです。
さて、それではなぜ大正時代以降に、「皇室と神社は不可分であり一体である」という考え方が自明視されるようになっていったのでしょうか。そのような転換が生じた要因の一つとして、明治から大正への天皇の代替わりがあげられます[平山 2015: pp.152-153]。明治45年(1912)年7月に明治天皇が重態であることが公表されると、全国各地の神社で天皇の平癒祈願が行われました。同年9月には、明治天皇の大喪儀(天皇や皇后などの葬儀)が行われます。さらに、大正3(1914)年には昭憲皇太后の大喪礼が行われ、翌年には大正大礼(大正天皇の即位の儀式)が行われました。こうした神道式の儀式は、メディアによって詳細に報道され、神社神道の存在感を高めることになりました。
すでに見たように、明治時代の中ごろから後半にかけては、「神道」という概念にマイナスのイメージがつきまとう文脈も存在していましたし、明治時代のインテリたちには、神社参拝を「迷信」扱いしたり蔑視したりする傾向がありました。ところが大正時代になると、従来は神社に参詣していなかった層から、神社に参詣する人々が出てくるようになります。このような変化が顕著にあらわれたのが伊勢神宮でした。大正時代になると、正月に伊勢神宮を訪れて初詣を行う「名士」たちの姿が、新聞や雑誌でしばしば報じられるようになります。こうした「名士」たちのなかには、関西や中京圏だけでなく、はるばる東京から鉄道を利用して伊勢神宮を訪れる者も少なからずいました[平山 2015: pp.128-130]。神社神道の存在感の高まりとあいまって、それまでインテリに「迷信」扱いされていた神社参詣というプラクティスが、社会の上層や中層にも拡大し始めたのです。
ところで、明治時代に多くの東京の人々が正月参詣の際に訪れていた場所は、川崎大師や成田山や浅草寺などのお寺です。当時の東京には、大阪の住吉神社や名古屋の熱田神社のように、正月参詣で圧倒的な人気を集める神社はまだ存在していませんでした[平山 2015: pp.123-125]。そのため、神社参詣が社会の上中層にも拡大し始めたといっても、当初は経済的に余裕がある一部の人々が、鉄道を利用して伊勢神宮に参詣する程度でした。ところが、大正9(1920)年に明治神宮が創建されたことで、話が全く変わってきます。
先ほど見たように、明治神宮を東京につくることには反対論もありました。ところが、明治神宮がつくられることが確定すると、二重橋前広場で発露した「国民全体の至心至誠の結晶」が明治神宮を誕生させたという「物語」が、繰り返し繰り返し語られるようになっていきました。実際には二重橋前広場には、天皇の平癒を祈って「アーメン」と叫ぶ人もいました。そこには、天皇を崇敬していれば、誰もが「宗教」や「信条」にかかわらず、思い思いのかたちで天皇の平癒を祈願することが許される空間が確かに存在していた。天皇を崇敬する心は一つでも、その形は実に多種多様だったわけです。
ところがその後、実際に明治神宮が創建されると、明治神宮は二重橋前広場の平癒祈願の記憶を再生する場としての役割を果たすようになります。そして、「二重橋前広場→明治神宮」という「物語」が繰り返し繰り返し反復されるようになるなかで、天皇を崇敬する心は一つでもその形は実に多種多様であったことや、「アーメン」と叫ぶ声もあったことは忘れ去られ、皇室と神社との結びつきが絶対化されていったと平山は指摘しています[平山 2015: pp.107-110]。天皇崇敬のあり方が、「形は様々/心は一つ」から「形も心も一つ」へと変容し、「天皇崇敬は神社を通さなければならない、形も心も一つでなければならない」という硬直したあり方へと変質していったというわけです。
大正9(1920)年に誕生した明治神宮は、初詣の姿をも変容させていきます。それまで神社参詣と疎遠だった東京のインテリたちにも初詣が普及していくようになるのです。それまでインテリたちが「迷信」扱いしてきた神社参詣というプラクティスが、天皇崇敬のあらわれとしてむしろ好意的に評価されるようになっていったのです。
例えば、先ほど登場してもらった上田貞次郎は、天皇は深く尊崇していたものの、神社神道には否定的な評価をくだしていました。生活のレベルでも思想のレベルでも、神社参詣という文化から疎遠な場所にいました。ところが明治神宮が創建されると、上田は毎年のように家族を引き連れて明治神宮に初詣を行うようになりました。念のために申し上げておくと、上田は極端な国粋主義や日本主義を嫌っていた人物です。その上田でさえ、明治神宮には自発的に参拝するようになったのです。なお、上田が明治神宮で初めて初詣を行ったのは大正10(1921)年のことなのですが、翌年には家族を連れて川崎大師に参詣したと日記に記しています。明治神宮に参詣したことで、それ以外のお寺や神社へ参詣する心理的なハードルも下がったようです。
また従来は、お寺や神社でお賽銭を投げる行為はインテリによって「迷信」扱いされ、白眼視されたり嘲笑されたりしてきました。ところが、明治神宮が創建されて多くのお賽銭が投げられるようになると、それまでは「迷信」扱いされていたお賽銭が、「国民の赤誠」として語られるようになりました。それまで「迷信」扱いされてきたプラクティスが、天皇を思う感情のあらわれとして語られるようになり、その評価が完全に反転したのです。
筆者は明治神宮参拝の体験を記した様々な史料を収集してみたが、「お賽銭のつぶてに頭を打たれさうで、危険この上もなかつた」などと物理的危険を指摘するものを除けば、明治神宮における賽銭行為を問題視する言説は見出すことができなかった。(中略)明治神宮は、迷信を排除することによってではなく、迷信が「感情美」で読み替えられることによって、上は知識人から下は賽銭を投げる庶民まで、(神社という形式そのものにあくまでも違和感をもち続けるごく一部の人々を除いて)様々な人々が集う「国民」の神社となったのである。
かくして初詣はインテリ層にも波及していきました。もともとは「庶民の娯楽行事」として誕生した初詣が、天皇の代替わりや明治神宮の創建をきっかけとして、「社会のあらゆる階級が同列になって同じことをする」(ように見える)「国民」の行事へと変容したのです。これは、初詣が天皇崇敬やナショナリズムと結びつく扉が新たに開かれたということでもあります。
繰り返しになるようですが、上田貞次郎は、天皇は深く尊崇していたものの、神社神道には否定的な評価をくだしていました。その上田でさえも、明治神宮がつくられると、自発的に参拝するようになった。こうなってくると、神社参拝には違和感を感じるという人は、ごく一部の少数派として孤立していかざるをえなくなるでしょう。
明治時代の終わりまでであれば、「天皇を崇敬しない者」が白い目で見られたり“キャンセル”されることはあっても、天皇崇敬には神社参拝以外のいろんな形がありえた。しかし大正期以降になると、「天皇と神社は不可分だ」という観念が強固なものとなっていくという新たな事態が生じた。「天皇を崇敬しない者」だけでなく、「天皇は崇敬するが、神社には参拝したくない者」までもが排除され“キャンセル”されかねない空気ができてしまったのです。例えば、真宗僧侶・門徒やキリスト教徒のなかには、「天皇は崇敬しているが、神社参拝には違和感を覚える」という人々もいました。そうした人々にとっては非常に息苦しいことになってしまったわけです。
その後、大正15(1926)年に大正天皇が重態となった際にも、全国各地で平癒祈願が行われたのですが、その報道は14年前の明治天皇のそれとは全く異なるものと化していました。平山昇によれば、二重橋前や明治神宮での平癒祈願を報道したものが圧倒的に多く、仏教寺院も一定の存在感を見せてはいるものの、14年前と比べると明らかに割合が低下しているそうです。そしてなにより、キリスト教徒による平癒祈願を報道した記事はほとんど存在しないというのです。実際にはキリスト教徒たちも大正天皇の平癒祈願を行っていたのですが、報道では完全に不可視化されてしまったのです[平山 2015: p.110]。もはやかつてのように、仏教・キリスト教・神道による平癒祈願の写真が1枚ずつ平等に掲載されるということはなかったのです。
さて、明治神宮が創建されると、鉄道を利用して伊勢神宮と明治神宮への初詣をセットで行うスタイルが目立つようになります(このスタイルを実践した事例は、参拝体験記や日記などで多数見られます)。明治神宮が関西圏の「聖地」と鉄道によって結びつけられて、東西の「聖地」をスピード巡礼するという新たなスタイルが誕生したのです[平山 2015: p.144,p.162]。
また、多くの人々が初詣で明治神宮に参詣するようになる一方で、正月参詣で一定の人気があった水天宮や神田明神のような東京の旧市街地の中小寺社の存在感が低下したり、恵方詣の衰退が加速していくことになりました。
というのも、明治天皇を崇敬する人々にとっては、明治神宮はそもそも恵方にあたっているかどうかを気にしながら参拝する神社ではありませんでした。つまり、明治神宮は初詣をする場所ではあっても、恵方詣をする場所だとは認識されなかったのです。そして、明治神宮が初詣で賑わっている様子は、新聞で毎年大きく報道されるようになります。すると、「正月のおまいりと言えば明治神宮の初詣だ」というイメージが広がっていくようになりました。かくして、恵方詣よりも初詣の方が優勢となりました[平山 2015: pp.212-216]。
こうした流れを決定的にしたのが、大正12(1923)年9月の関東大震災です。旧市街地の水天宮や神田明神のような中小寺社が、震災によって容易に復興できないほどのダメージを受けたのに対して、明治神宮や郊外の成田山などの有名な寺社の人気は、右肩上がりで上昇していきました。また、震災後に鉄道網が拡大した結果、明治神宮は、上野・浅草・銀座といった明治期以来の繁華街からも、新宿や渋谷のような新興のターミナル街からも、東京の西部・南西部方面からもアクセスしやすくなりました(明治神宮へのアクセス向上の流れは現在に至るまで続いています)[平山 2015: pp.217-223]。
かくして明治神宮の初詣は、圧倒的な人気行事として定着することになりました。明治神宮の出現によって、初詣は「社会のあらゆる階級が同列になって同じことをする」(ように見える)「国民」の行事へと変容し、それまで神社参拝において存在してきた階級差が解消されていくのです。明治以前から行われてきた恵方詣のようなスタイルも衰退していきました。湊川神社や橿原神宮や平安神宮など、明治以降に新しくつくられた神社はいくつもありますが、明治神宮は、それらの神社とはとても同列に論じられないような大きなインパクトを社会にもたらしたのです。明治神宮の出現というのは、いろんな面で社会に重大な変化をもたらした出来事だったということは強調しておきたいと思います。
ここで注意しなければならないのは、以上のような明治神宮の歩みには、従来の「国家神道」研究で国民教化の主役として描かれてきた、内務省神社局や神社神道関係者や軍隊や小学校や青年団や在郷軍人会などといった勢力がほとんど登場しないということです(もちろんこうした人々も明治神宮に参拝してはいたのですが)。
例えば、明治神宮の創建をめぐっては、こんな事実があります。明治天皇を祀る神社をつくるにあたって、必要な事柄を調査・審議するために設置された神社奉祀調査会という組織があります。明治神宮が東京の代々木につくられることが確定すると、神社奉祀調査会は抜本的に改組され、調査会の内部に特別委員会が設けられました。この特別委員会には、歴史家や建築家や東京帝国大学教授などなど、その道の専門家たちが加わりました。つまり、これ以降は専門家たちが明治神宮の創建を担っていくことになったわけです。
このようにして専門家たちが委員として大規模に補充されたのですが、そこには神職は一人もいませんでした(!)。一応、特別委員会にあわせて設置された事務嘱託には、今井清彦(1860-1922)などの神社関係者の名前は見えるのですが、正規の委員ではなく補助の役割を担っていたにすぎませんでした。全国神職会は、神社奉祀調査会に委員一人送り込むことすらできなかったのです。当時の神職たちの政治力はこの程度でした。明治神宮の創建において、神社神道関係者や神職が果たした役割は、極めて限定されたものにすぎなかったわけです[山口 2005: pp.166-168]。後づけのようですが、葦津珍彦が言う「無気力にして無能」な「国家神道」という評価は、こういうことも含めてのことだと言えるかもしれません。
やや先走って言うと、従来の「国家神道」研究では、内務省神社局や神社神道関係者や軍隊や小学校や青年団や在郷軍人会などといった勢力ばかりが注目されて、人々が娯楽を兼ねて神社参拝の輪に加わり、天皇崇敬や神社崇敬のイデオロギーを自発的かつ身体的に身につけていくという回路を見落としてきたわけです(この問題はこれから述べます)。
鉄道会社の多角的集客戦略――娯楽とナショナリズムの相乗効果
さて、明治期に「庶民の娯楽行事」として誕生した初詣は、天皇の代替わりをきっかけとして、天皇崇敬やナショナリズムと接合していくことになりました。ただし、これは初詣の娯楽性が弱まっていったということではありません。むしろ、ナショナリズムと娯楽という初詣の二つの側面が混在しながら、相乗効果を与えあいつつ増幅していくことになったのです。具体的に言うと、大正期以降に急速に路線網を拡大しつつあった関西の私鉄は、伊勢神宮や桃山御陵や橿原神宮や畝傍御陵といった「聖地」へのアクセスを改善し、参拝を積極的に宣伝しました。国鉄もこれに触発されて、アクセス改善や参拝客の集客に努めました。この鉄道間の競争・協同によって、娯楽とナショナリズムが相乗効果を与えあっていくなかで、「聖地」参拝が活性化していくことになるのです(ちなみに「聖地」という用語は、皇室と関係が深い神社や天皇陵を総称することばとして、特に大正期以降によく用いられるようになります[平山 2015: p.177])。
こうした動きの先駆けになったのが京阪電鉄です。明治天皇が崩御すると、その陵墓(桃山御陵)が京阪電鉄の沿線の伏見桃山に設けられることになり、大正元(1912)年9月18日から11月3日まで一般参拝が許されました。すると約400万人もの参拝者が訪れて、京阪電鉄は思わぬ収益をあげました。これを受けて京阪電鉄は、年の暮れに次のような新聞広告を出しましています。
諒闇中の新年には伏見桃山御陵参拝 新玉の年の始に謹で伏見桃山御陵に参拝せんとするは想ふに国民一般の至情なり 御陵の正面南門の前においてまのあたり御須屋を拝し得るは蓋し国民の本懐とするところなり
鉄道会社が出していた従来の参詣広告は、もっぱら現世利益を宣伝するものばかりでした。「国民一般の至情」だの「国民の本懐」だのといった、ナショナリスティックなキャッチフレーズを掲げる広告は、それまでになかったものだと平山昇は指摘しています[平山 2015: p.180]。京阪電鉄による宣伝や列車の増発の効果もあって、翌年正月にはおびただしい数の人々が桃山御陵へとおしよせました。京阪電鉄と桃山御陵の事例は、皇室ゆかりの「聖地」が鉄道会社の有力な収益資源になりうることを示す先駆けとなったのです。
さて、関西圏の私鉄は大正期以降に急速に路線網を拡大し、関西の「聖地」巡礼ルートを形成していきます。国鉄は国鉄で、関西圏外から「聖地」巡礼にやってくる多くの人々の輸送を手がけることになります。多くの人々が「聖地」巡礼を以前よりもはるかに手軽に行うことができるようになっていったのです。
こうしたなかで、鉄道は娯楽とナショナリズムを織り交ぜた集客戦略を打ち出すようになります。例えば、現在の近鉄の前身である大阪電気軌道(大軌)と、その系列の参宮急行電気鉄道(参急)は、次のような新聞広告を出しています。
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3つめの広告(『大阪朝日新聞』1936年12月26日夕刊)に見られる「アベツク」という文字列が実にほほえましい。快適な「大型ローマンスカー」とやらに乗って、手軽に「聖地」を訪れることができて、いろんなおまけやサービスがあって、運がよければ「白米一俵(四斗入)」のような景品もついてくる。そして、参拝を通じて「国民」として有意義なことをやっている気分になることもできる。「そうだ 京都、行こう」ぐらいのノリで大勢の人がやってくるのも無理もないことです。こうして大勢の参詣客が、各地から鉄道に乗ってやってくるようになったというわけです。
言うまでもないことですが、私鉄資本や国鉄当局は、「国民一般の至情」や「国民の本懐」それ自体を宣伝したり布教したりしたかったわけではありません。目的はあくまでも集客です。「聖地」参拝を宣伝することは、あくまでも多角的な集客戦略のうちの一部にすぎませんでした。
例えば、大軌・参急はこんな新聞広告を出しています。
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ここに見える「花園ラグビー」について簡単に説明しておくと、大軌は昭和4(1929)年に、現在の東大阪市に日本初のラグビー専用競技場である「花園ラグビー運動場」を開設しています。当時は私鉄が鉄道沿線の行楽事業として、スポーツ事業に目を向けた時期でした(わかりやすいところで言うと、阪神電鉄が大正13(1924)年に甲子園球場を開設しています)。大軌にとっては、皇室ゆかりの「聖地」であろうと、アメリカから入ってきたラグビーであろうと、集客のための資源であるという点で全く同列でした。この新聞広告には、そのことがよくあらわれていると言えるでしょう。
これは私鉄に限ったことではなく、国鉄の娯楽戦略でも同様でした。例えば国鉄は、全国の主要神社を網羅した『神まうで』というガイドブックを出しています。このガイドブックは、今でも古本屋でちょくちょく見かけるほど広く普及し、神社界からも盛んに推奨されました。しかしこの『神まうで』は、『お寺まゐり』『温泉案内』『スキー案内』『登山案内』といった国鉄による一連のガイドブックシリーズのなかの一冊にすぎませんでした。つまり、国鉄は特に神社だけを重視していたわけではなく、集客に利用できるものであれば、スキーでも温泉でも何でも利用していたのです。神社はあくまでも、いろんな集客資源のなかの一つにすぎなかったわけです。
そのため、交通・旅行業界の集客戦略は、神社関係者や神道学者の姿勢と齟齬をきたすこともありました。例えば、こんな事例があります。『旅』という旅行雑誌の昭和10(1935)年と昭和11(1936)年の新年号には、前回キーパーソンとして登場してもらったあの加藤玄智が登場し、初詣の意義について述べています。
加藤は昭和10年新年号では、「物見遊山の行楽だと思つたら大間違ひである」「京見物をしに行くのと同様に思つてをつたら、それこそ大変な間違ひである」「物見遊山の旅行で無い事は勿論である」などとして、物見遊山で初詣に行くことを否定しています。昭和11年の新年号でも、「物見遊山と同様に考ふべきものではないのです」「神詣ではお祭り騒ぎではないのです」などとしています。また、夜行列車で睡眠不足の状態で参拝すると、魂の浄化を行ったり、不足しがちな精神教育を補充したりする効果もあがらないと口うるさく言っています。
『旅』は旅行のための情報雑誌であって、神社神道に関する雑誌でもなければ、国粋主義系の雑誌でもありません。加藤は旅行のための情報雑誌で、こんな原理主義的なお説教を上から目線でかましてしまったのです(なお、その後この雑誌に、神社神道の識者が正月や初詣について述べた文章が掲載されることはありませんでした)。
当時の神社神道関係者が正月の過ごし方について語った例をもう一つ見てみましょう。神道学者の佐伯有義(1867-1945)は、昭和11(1936)年に「神国日本の新年」と題して、次のように述べています。
元日は氏神詣の外は家にありて神棚並に祖霊を懇に祀り、屠蘇を飲み雑煮を祝ひて、何事も思はず清くすが〳〵しく、直く正しき心で、一日を暮らすべきである。(中略)元旦だけは日本全国一般に富者も貧者も農民も商工者も悉く休業して、清くすが〳〵しい神代のまゝの心で暮らすやうに致したいものである。
あまりに「牧歌的」だとでも申しましょうか。この先生が考えるような“正しい”正月の過ごし方が、日本に広まることがなかったことは言うまでもありません。彼らは、神社界というタコツボの内部でしか通用しない原理主義的な主張に走り、娯楽や観光を排除した厳粛で“ピュア”な“ほんとうの”神道や、自分なりの“正しい”正月の過ごし方を説くことしかできなかったわけです。
それに対して私鉄資本や国鉄当局は、スキーや温泉やスポーツなどの多角的な集客戦略の一環として、「聖地」参拝も促進していきました。加藤玄智のような人があれこれとクレームをつけてきても相手にせず、その後も神社参拝を盛り上げていったのです。結果的にどちらが広く多くの人々に影響を与えたのかは、言うまでもないでしょう。
「体験至上主義」と排除の言説
ともあれ、多くの人々が「物見遊山」や娯楽を兼ねつつ、“自発的に”明治神宮や伊勢神宮などの「聖地」に参詣するようになりました。そうした人々が記した参拝体験記やエッセイや日記などには、「すがすがしい」「有難い」「荘厳」「神聖」などといった決まり文句が頻繁に登場します。多くの人が、参拝を通じて感じた“心地よさ”をそのようなワードで表現しているわけです。人々が“体験”を通じて得られた“心地よさ”や“気分”をお互いに語りあい、共感しあって共有していく流れもできてきます。
これだけであれば、そうたいしたことではないかもしれませんが、話はこれで終わりではありません。興味深いことに、平山昇によれば、“体験”に基づいて“心地よさ”や“気分”を語るこうした言説のなかにこそ、初詣を語る言説のなかでも最も抑圧的なものが見られるのだというのです[平山 2015: p.258]。
「聖地」を参拝した“体験”を語る言説には、自分の“体験”に関して述べるだけでなく、他の人にも積極的にその“体験”の輪に加わるようすすめる傾向が見られます。そのなかには、「“体験”すればわかる」ぐらいのニュアンスのものもありましたが、もっと踏み込んで、「“体験”しなければわからない」と語る強いニュアンスのものも多くありました。
例えば、昭和6(1931)年に東京市長だった永田秀次郎は、メキシコから日本を訪問した大学生に対して次のような話をしたと語っています。
「真に日本を理解せんとせば、伊勢の大廟、明治神宮、桃山御陵などを参拝しなくてはならない、そして、参拝する時に、必ず不可解な――外国人に取つては解すべからざる一種の刺戟を味ふ事と思ふ。而してその刺戟に依つて日本の国民性の特長を解し得るであらうと思ふ。これは言葉を以つてしては、容易に言ひ現はし得ないものである」
伊勢神宮や明治神宮などに参拝すれば、外国人には理解できない「一種の刺戟」によって、「日本の国民性の特長」を理解できるのだそうです。なんだかよくわからないリクツです。ここで注意しなければならないのは、集客を狙った鉄道会社の広告も、こういった「“体験”しなければわからない」という類のメッセージを発していたということです。例えば、大正15(1926)年の大軌の新聞広告にはこうあります。
「元日や神代のことも思はるゝ」といふのは正しく橿原神宮の延寿祭に参拝して、はじめて体験し得らるゝことである
『旅』をはじめとする旅行関係雑誌には、しばしばこの種の「体験至上主義」的な言説が登場していました。「“体験”しなければわからない」という発想は、「だから現地に行くべきだ」という考えに直結するため、交通・旅行業界にとって極めて利用価値が高かったのです。
そして昭和期には、こうしたところからさらに一歩を踏み出して、「“体験”を通じて得られる荘厳な“気分”がわからない者は、まともな“日本人”ではない」という言説が飛び出すようになっていきます。例えばこんな風に。
神社に参拝をすることをやらない日本人があるとすれば、それは本当の日本人ではなく、壊れた日本人、精神的に片輪の日本人であると云ふ可きであります。
いわゆる「大衆消費社会」の成立や、鉄道を利用した観光の活性化を背景に、楽しみながら自発的に「聖地」に参拝する人々が増加していく。そうした人々が、自分の“体験”を語り、他の人にも積極的にその“体験”の輪に加わるようすすめる言説が社会に流通していく。そして、その言説を目ざとく集客に利用する鉄道業界が、さらに“体験”の輪を広めていく。こうしたなかから、「“体験”を通じて得られる荘厳な“気分”がわからない者は、まともな“日本人”ではない」という、強い排除の色を帯びた言説も飛び出すようになっていくというわけです。
初詣は従来の恵方詣などと異なり、「いつどこに参詣すべきか」という細かいルールがありません。ただ単に「正月にどこかのお寺や神社に参詣する」ぐらいの中身しかないのです。よって初詣は、明治以前の寺社参詣の規範から人々を“自由”にしたと、ひとまずは考えられます。鉄道を利用して初詣に行くことで、人々は明治以前の「伝統的」なルールから“自由”になることができました。
ところが、初詣はその中身のなさのゆえに、大正期以降には天皇崇敬やナショナリズムと容易に結合していくことにもなりました。
「鉄道+郊外」によってもたらされた“自由”は、その延長線上に、ナショナリズムとの親和性が待ち受けていた。「〇〇からの自由」が「△△への従属」へと転じていくというパラドクスである。
新型ナショナリズムと戦前の“キャンセル・カルチャー”
以上のように、平山昇の研究は、従来の「広義の国家神道」論も「狭義の国家神道」論も見落としてきた地平を切り開いてみせました。まず、従来の「国家神道」研究は、「広義の国家神道」論も「狭義の国家神道」論も、「明治期から現在に至るまで皇室と神社は一体不可分だと考えられてきた」という見方をとっていました。
「広義の国家神道」論は、皇室と神社の結びつきが近代の日本に抑圧をもたらした根源であるという見方を提示しました。一方、「狭義の国家神道」論を提示した葦津珍彦や阪本是丸らは神社関係者でした。彼らは皇室と神社を尊崇し、「大昔から皇室と神社は一体不可分であり続けてきた」という見方を自明視する傾向がありました。つまり、「広義の国家神道」論と「狭義の国家神道」論は、立場は正反対ではあるけど、皇室と神社の結びつきを疑わずに自明視する点では、意図せざる協同関係にあったのです。しかし実際には、皇室と神社は一体不可分だという考え方が広く受け入れられるようになっていくのは、大正期以降のことだったというわけです。
また、これまでの「国家神道」研究は、「広義の国家神道」論も「狭義の国家神道」論も、お上が地域の神社を通じて国民を“上から”教化しようとしたというイメージを描いてきました。そこでは、内務省神社局や神社神道関係者や軍隊や小学校や青年団や在郷軍人会などといった勢力が主役として描かれ、ともすればその影響力が過大に評価される傾向もありました。従来の研究では、人々が娯楽を兼ねつつ「物見遊山」で神社参拝の輪に加わって、“上からの”動員や強制によらずに天皇崇敬や神社崇敬のイデオロギーを自発的かつ身体的に身につけていくという回路が想定されておらず、その影響力の大きさを見落としてきたわけです。
むろん、平山が『初詣の社会史』を出版する以前にも、こういう“下から”出てきた動きに着目した研究がなかったわけではありません。畔上直樹は、大正デモクラシーを背景にした社活派神職たちの“下からの”運動を通じて、「国家神道」が「確立」したと論じました。しかし、畔上が着目したのは地域社会の動きであり、都市部ではありませんでした。従来の研究は、地域社会で村の神社を通じて国民教化が行われたというイメージを描いてきたため、都市部が視野に入っておらず、明治神宮の誕生によって生じた大きな変化を見落としてしまったわけです。都市化の進展や地方からの人口流入によって、地域の神社と疎遠な新たな都市住民が増加していくなかで、明治神宮の初詣が大きな人気を集めるようになっていくという流れを見落としてしまっていたのです。
さて、平山は次のように述べています(ここに出てくる①というのは「広義の国家神道」論を指し、②は「狭義の国家神道」論を指します)。
周知の通り、「国家神道」をめぐる①と②の大きな対立点の一つに、「国家神道」の抑圧性の問題がある。抑圧性を強調する①に対して、②は制度史に対象を限定した手堅い実証を根拠として「国家神道」なるものが国民を強力に抑圧・支配した形跡はないとする。だが、戦間期(とくに昭和戦前期)に時期を限定すれば、この二つの見方は全く矛盾しない。たしかに、内務省や神社神道による「国家神道」教化の直接的な影響力は大したものではなかった。しかし、正月行事としての初詣や参拝ツーリズムといった別の回路を通じて、神社参拝に馴染めない人々を抑圧する志向はたしかに生じたのである。
(中略)
②の論者たちが主張するように、「国家神道」という言葉には、対象が広すぎるために結局「近代天皇制」「天皇制ナショナリズム」とほぼ同義になってしまうという難点がある。しかし、「近代天皇制」「天皇制ナショナリズム」を用いると、大正期以降に生じた「皇室+神社」の結びつきの自明化という重要な変化がみえにくくなり、これまた違和感が残ってしまう。私としては、「国家神道」という用語に固執するつもりはとくになく、「皇室+神社」を尊崇することを必須とするナショナリズム、言い換えれば、「天皇を尊崇しない者」だけでなく、「天皇は尊崇するが、神社には参拝したくない」という立場の人までも排除するナショナリズムを的確に表現できる言葉がありさえすれば、是非そちらを使用したいのだが、今のところ見当たらない。そうかといって、「<皇室+神社>一体視型ナショナリズム」などと仰々しい用語を提唱するのも気がひけてしまう。何か妙案はないものだろうか。
戦間期(とくに昭和戦前期)に時期を限定すれば「広義の国家神道」論と「狭義の国家神道」論は全く矛盾しないというのは、重要な指摘のように思われます。
ともあれ、畔上直樹による研究も、平山昇による研究も、大正期以降に新たに登場した「ネオ・ナショナリズム」とでも言うべき動向に注意を促している点では共通していると言えるでしょう。両者は、既存の研究とは異なるアプローチをとることで、従来の「広義の国家神道」論も「狭義の国家神道」論も見落としてきた新たな地平を切り開いてみせたわけです。
前回詳しく述べたように、戦前の神社神道や神社行政の力は、戦後に過大に見積もられてきました。地域の神社を通じて“上から”行われた国民教化は、戦後に言われるような強大なものではなかった。しかし、従来の「国家神道」論が見落としてきた領域では、“上からの”動員や強制によらずに、人々が天皇崇敬や神社崇敬のイデオロギーを“下から”自発的かつ身体的に身につけていく回路が存在していた。そして、そこには天皇と神社をセットで崇敬しない者を“民主的に”排除する風潮も存在していた。天皇と神社をセットで崇敬しない人々が「非国民」扱いされ、今風に言えば“キャンセル”されかねない風潮は、少なくとも神社神道や神社行政の外側には存在していたわけです。してみると、戦後に創作されていった「国家神道」という名の「物語」は、実際のところは神社神道や神社行政による“上からの”抑圧というよりむしろ、戦前の“キャンセル・カルチャー”だったのかもしれません。
「日本は戦前の反省が足りない」というのは、戦後の学校教育やマスコミによって耳にタコができるほど語られ続けてきた決まり文句です。確かにそれはそのとおりかもしれません。いんたあねっとでは今日もどこかで炎上騒ぎが起きており、「俺様が気に入らない特定の個人の居所や職場を特定して、社会的に抹殺しようとする動き」が絶えることなく繰り返され続けているのですから。他人様を“キャンセル”するために用いられる“釘バット”が、天皇から別なイデオロギーに変わっただけで、やっていることは同じようなものなのですから……。
なお、平山昇は次のようにも指摘しています。
教育の普及や参政権の拡大によって一定の“民主化”が進行し、国家や社会を動かす原動力としての「大衆」が台頭する戦間期という時代を考えるとき、知識人の言説に内在する「論理」をトレイスするという思想史研究のオーソドックスな研究手法だけでは、この時代の特質をとらえるには十分ではないと思われる(中略)この時代にある言説が社会に広く影響を与えていく過程について考える際には、言説の中身そのものよりも、むしろ(往々にしてかわり映えのしない)同じ言説が何度も反復されながら影響力を広げていくという「反復がもたらす力」に着目することが有効なのではないかと考えられる。
(往々にしてかわり映えのしない)同じ言説が何度も反復されながら影響力を広げていくという「反復がもたらす力」というのは、我々が現在進行形でSNSなどで目にしている代物かもしれません。
我々はともすれば何事についても、「明治時代前半に近代の新しいシステムがつくられて、そのシステムが現在に至るまで続いている」といったようなイメージを抱きがちです。しかし、畔上や平山による研究は、現代の我々が置かれた状況は、大正期以降に形成されていった部分も大きいという視点をも提供してくれるわけです。
結語
さて、「国家神道」という概念に関する私のクソ長い学習ノートはここまでです。蛇足のようになりますが、最後に私の雑感のごときものを少しだけつけ加えておきます。本稿でキャストとして登場していただいた主な研究者たちの生没年を見てみましょう。
葦津珍彦(1909-1992)
村上重良(1928-1991)
島薗進(1948-)
阪本是丸(1950-2021)
畔上直樹(1969-)
山口輝臣(1970-)
平山昇(1977-)
村上重良は1928年生まれであり、神社参拝を事実上拒否できない空気が日本に蔓延していた時代に育ちました。彼はマルクス主義の強い影響のもとに、明治維新から大日本帝国崩壊までの日本には、「国家神道」というものがずっと君臨し続けており、右肩上がりで強くなっていったという「物語」を描きました。自分が“体験”した満州事変以降の状況が、明治初期から敗戦までずっと存在し続けてきたかのような「物語」を描いてしまったわけです。
これに対して、「神道の弁護士」「神道の社会的防衛者」と呼ばれた葦津珍彦は、村上とは異なる像を提示しました。つまり、国家管理下に置かれた戦前の神社神道は、「無精神な、世俗合理主義で『無気力にして無能』なものであった」というのです。そういうわけで「国家神道」研究は、戦後の政治的なイデオロギー対立をめぐる過程から生まれ出た面が大きく、当初からイデオロギー性を濃厚に有していました。
その後、阪本是丸とその弟子筋神道学者たちが葦津の方向性を受け継いで、緻密な実証研究に基づいて議論をより精緻なものにしていきます。村上説の数多くの問題点を明るみに出して、村上説がそのままでは成り立たないことを明らかにしていったのです。これに対して島薗進は、破綻に瀕していた村上説を「鍛え直」そうとしました(ただし、島薗説は専門家による多くの批判にさらされており、村上説が抱えていた数多くの問題点を解消することに成功したとは認められていない)。葦津の方向性を受け継いだ阪本は1950年生まれで、村上説を「鍛え直」そうとした島薗は1948年生まれ。おおむね、いわゆる「団塊の世代」にあたります。
今回登場していただいた畔上直樹は1969年生まれで、平山昇は1977年生まれです。彼らの研究は、戦後の左右のイデオロギー対立に基づいた議論の枠組みの“磁場”から距離をとったものになっています。畔上直樹や山口輝臣は1970年前後に生まれており、マルクス主義や左派陣営の理念が衰退し、ソ連が崩壊し、戦後のいろんな枠組みが後景に退いていくなかで育ち、そのなかでものを考え、研究を行ってきた新たな研究者だと言えるでしょう。
本稿では取り上げることができませんでしたが、藤田大誠(1974-)や藤本頼生(1974‐)や木村悠之介(1995-)も、従来とは異なる多彩な研究を展開しています。[藤田 2007]は、近代の日本において神道が学問や教育の領域で果たした役割について論じ、[藤本 2009]は、神道が社会事業や福祉の領域で果たした役割について論じています。[青井・畔上・今泉・藤田 2015]は、明治神宮の出現がもたらしたインパクトの大きさを教えてくれます。[木村 2024]は久米邦武舌禍事件を再考し、従来の「国家神道」論では、神社制度と天皇崇敬の中間領域ともいえる祖先祭祀の重要性が見落とされてきたことや、それが一因となって事件への一面的な見方が助長されてきたことを指摘しています。従来の「国家神道」論の死角となってきた領域はまだまだあるのかもしれません。
ともあれ我々は、戦後の“磁場”のなかで創作されていった「国家神道」という「物語」が“リアリティ”を失って自壊していく様子を目撃していると言えるかもしれません。敗戦から現在までにはおよそ80年の月日が流れており、「戦後」と呼ばれる時代区分は、今や明治維新から敗戦までの期間よりも長くなりました。その間に村上重良が属した左派陣営の理念は衰退し、ソ連も崩壊しました。
戦後が長期化するのにともなって、一口に戦後と言っても、敗戦直後と高度成長期とバブル時代と令和の時代では、状況が全く異なることは、誰の目にも明らかになってきます。それと同様に、近代の日本と言っても80年近くあり、明治時代前半と満州事変以降の時期では状況が全く異なることも、今や明らかです。「戦前」とか「戦後」などと一口に言っても、その内実は複雑極まりないものであり、「戦前」や「戦後」を一色に塗りつぶすような単純極まる議論は、もはや成り立たない。そうすると、村上説のような「物語」は力を失っていかざるをえないでしょう。そういうわけで我々は、戦後が生んだ「国家神道」という名の「物語」が、新たな世代の研究者たちによって空じられていくのを目撃しているのかもしれません。
我々は、「宗教」とか「戦前」とか「戦後」とか「昭和」とか「令和」とか「国家神道」といったことばを見ると、それを実体視して、そういったことばに対応する何かが現実に存在すると思い込んだり、「『宗教』の“本質”とは何か」だの「『戦前』の“本質”とは何か」だの「『国家神道』の“本質”とは何か」などと考えたりしてしまいがちです。しかし、「宗教」でも「戦前」でも「戦後」でも「昭和」でも「令和」でも「国家神道」でも何でもいいですが、そうしたことばはあくまでも反省的かつ事後的に、一種の「方便」として、複雑な現象をラフにひとくくりにして“分別”したものにすぎません。そうしたことばを実体視したり、そこに不変の“本質”(svabhāva)を見い出そうとしてしまったりするところに落とし穴があるわけです。
さて、そういうわけで、「国家神道」という概念をめぐっては研究者によって多くの問題点が指摘され、「国家神道」という概念を学術用語として用いるべきでないと主張する研究者や、「国家神道」という概念にとらわれない優れた研究が出てきています。しかしその一方で、「明治維新から敗戦までの日本の政教関係はどのようなものだったのか」という問題に対して、定説たりうるような答えを提示した研究は、現時点では存在しません。「俺たちの戦いはこれからだEND」のようになって申し訳ありませんが、近代に創作された「宗教」という概念に基づいて生成されていったプラパンチャ(ことばの虚構)を空じていく作業は、まだまだこれからだということになるのでしょう。
「宗教」という困った概念にまつわるお話が長くなりました。次回からは、これまでに述べてきたことに基づいて、近代の日本の仏教改革運動に分け入っていきたいと思います……と言いたいところですが、リアル方面が少々忙しくなってきたため、おそらく次回(その9)をここに投稿できるのは、少し先のことになると思われます。まるで本題に入る前に投稿の休止を宣言するかのようで大変申し訳ないのですが、近代の仏教をめぐってはまだまだ紹介したい驚くべき現象が数多くありますので、ウサギを追いかけるカメのようになってでもつづきは投稿したい所存です。
ひとまず今回はこれくらいにします。
(つづく)
参考文献
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藤田大誠『近代国学の研究』弘文堂、2007年
藤本頼生『神道と社会事業の近代史』弘文堂、2009年
矢嶋毅之「成田鉄道と成田山信仰」、『史学研究集録』20、國學院大學大学院史学専攻大学院会、1995年
山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版会、1999年
山口輝臣『明治神宮の出現』吉川弘文館、2005年
山口輝臣編『戦後史のなかの「国家神道」』山川出版社、2018年
和崎光太郎『明治の<青年> 立志・修養・煩悶』ミネルヴァ書房、2017年
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