環流夢譚 その6――「宗教」概念という近代の神話
はじめに
さて、前回の最後のあたりで、浄土真宗本願寺派僧侶の島地黙雷という人物が登場しました。今回は、この人がどういう人物で、どういうことを主張したのかという問題にかなりの字数を割くことになるかと思います。まずは、一見すると回り道になるようですが、こんな話から始めてみましょう。
周知のように、岩倉具視や木戸孝允や伊藤博文や大久保利通などの新政府の中心人物たちは、明治4(1871)年から明治6(1873)年にかけて、ヨーロッパやアメリカを見て回りました。いわゆる岩倉使節団です。西洋文明の視察や、幕末に幕府が結んだ不平等条約を改正することなどを目的としていたことをご存知の方も多いでしょう。
この岩倉使節団の一員として欧米を見て回った人物に、久米邦武(1839-1931)という人がいます。使節団の記録係として、自分たちが見て回った欧米の様子を記した『特命全権大使米欧回覧実記』(1878年)という本を書きあげ、歴史学者として活躍した人です。今回皆さんにまず読んでいただきたいのは、その久米が明治41(1908)年になってから当時を回想して記した文章です。久米によれば、岩倉使節団の一行はアメリカへと向かう船のなかで、次のような問題について悩んでいたというのです。
ここに述べられていることは、21世紀になった現在でも(形を変えながら)語られ続けられている問題であり、非常に興味深いものがあります。彼らは困っていました。自分の「宗教」が何なのかがわからなかったのです。現代でも、例えばキリスト教徒の外国人から、あなたの「宗教」は何ですかと聞かれたら、返答に困るという人は多いのではないでしょうか。「海外で『無宗教』だと名乗ると警戒されるという話を聞いたことがあるぞ。とりあえず仏教徒だと答えておくという手もあるんだろうけど、自分は特に仏教に対する『信仰』があるわけでもないし……」などと考えてしまうということは、今でも起こりうる話です。
もう一例あげましょう。明治期から大正期にかけて活躍した釈宗演という臨済宗僧侶がいます。その4で述べたように、明治26(1893)年のシカゴ万国宗教会議に日本の僧侶として参加した人で、「禅」を“ZEN”として西洋に広めるうえで大きな役割を果たした鈴木大拙の師匠にあたる人です。釈宗演は明治20(1887)年から22(1889)年までスリランカに留学しているのですが、宗演もまた、現地の人からある質問を受けて、それに答えることができずに困っていました。彼は、1887(明治20)年8月10日の日記で次のように記しています。
釈宗演は、天皇の「宗教」が何なのかわからなかったのだというのです。「無宗教」というのは“おさまりが悪い”から「神道」だと答えてはいるが、どうやら「神道」は世間では「宗教」ではないことになっているらしく、「宗教」とみなすのは「穏当ではない」ように思われる……。
なぜこのような混乱が生じるのか。なぜ岩倉使節団の人々は、自分の「宗教」が何であるのかがわからなかったのか。結論から申し上げましょう。「宗教」という概念は、人類が時代や地域を超えて抱く普遍的な概念ではないからです。「宗教」という概念は、いかにも大昔からずっと存在してきたような顔をしていますが、そうではありません。「宗教」というのは、近代に創作されたできたてほやほやの新しい概念なのです。近現代の世界にはいろんな「宗教語り」があふれていますが、そうした「宗教語り」の多くは概念上の混乱を含んでいます。その元凶の一つは、「宗教」が近代に創作された問題の多い概念であるということに無自覚なまま、乱暴にものごとを語っているからだというのが、本稿で私が申し上げたいことです。
翻訳語として誕生した「宗教」概念
「宗教」というのは、近代に新しく創作されたできたてほやほやの概念だと聞いて、そんなバカなと思った方もおられるかもしれません。もちろんアジアの各地には、昔から仏や菩薩を信仰する人々や、「覚り」を求めて修行する人々が存在し続けてきたわけで、仏道とか仏法と呼ばれるものはありました。西洋や中東に、現在我々がキリスト教と呼んでいるものや、イスラームが存在し続けてきたこともご存じのとおりです。しかし、「宗教」という概念はありませんでした。仏道やキリスト教やイスラームなどは、すべて「宗教」というカテゴリーに属するものだという考え方はなかったのです。仏道やキリスト教やイスラームなどを一括りにするジャンル概念はなかったわけです。
我々は、「仏教という宗教は、約2500年前にインドで生まれた」とか「キリスト教という宗教は、約2000年前に生まれた」などと書いたりします。もちろん、それが直ちに間違いだというわけではありません。しかしこうした記述は、近代に新しく生まれた「宗教」という概念を、古代にさかのぼってあてはめたものなのです。当時の人々が、仏教は「宗教」であるとか、キリスト教は「宗教」であるなどと考えていたわけではありません。
日本の場合だと、「宗教」という語の用例をたどっていくと、明治維新あたりで途絶えてしまいます。確かに、明治以前であっても、仏教文献には「宗教」という文字列は登場します。しかし、その意味は明治以降の「宗教」という語の意味とは全く異なっていました。
このように、「宗教」という文字列は明治以前からあったものの、仏道やキリスト教やイスラームなどを一括りにするジャンル概念では全くなかったのです。
では、なぜ「宗教」という新しい概念が明治維新前後に湧いて出てきたのか。もうお気づきの方も多いでしょう。「宗教」というのは、religionやreligieといった西洋のことばの訳語として、新しくつくられたことばなのです。「宗教」という概念は、日本が「開国」によって西洋諸国と本格的に接触していくようになるなかで生み出され、使われるようになった新しい概念だったわけです。
「でも、江戸時代にも宗門人別帳とか宗旨改というものはあったよね。『宗門』や『宗旨』といった概念であれば、religionと同じではないにせよ、それに近い概念だと言っていいんじゃないの」と思う方もおられるかもしれません。確かに、「宗門」や「宗旨」といった概念は、religionと無関係だとは言えません。しかし、「宗旨」や「宗門」という概念は、あくまでも公権力によって支えられた行政用語でした。
例えば、江戸幕府が出したおふれ(法令)をまとめた『御触書集成』の「宗旨之部」を見てみると、近現代人が考えるような個人の「信仰」を問題にしているのではなく、家が所属する宗派やその治安取締りを焦点にしたものであることは明らかです。また『御触書集成』には、「宗旨之部」のほかに、「寺社之部」「祭礼之部」という箇所もあります。もしreligionと「宗旨」が同じであれば、これらはひとまとめになっていないとおかしいのですが、そういう切り分け方は全くなされていないし、意識もされていないのです。
さらに言えば、「宗門」や「宗旨」という概念には、仏法の諸宗派や「きりしたん」は含まれていましたが、儒教や武士道や村の神社などは含まれていませんでした。これらは、個々の家が檀家として属する宗派ではないし、寺檀制度によって行政的に統制されるものとは異なるからです。当時は儒教は「学問」と呼ばれていたし、村の神社やそこで行われる祭りも、家の「宗旨」とは別のなにかだったわけです。
もっと言えば、明治時代前半の日本では、religionという概念をどうにかこうにか理解したり、日本語に訳そうとしたりしたのですが、このことばは最初から「宗教」と訳されていたわけではありませんでした。religionは当初は、「宗門」「宗旨」「教法」「聖道」「教門」「法教」「教法」「奉教」「神道」などなど、様々に訳されていました。「宗教」という訳語はそのなかの一つにすぎず、いろんな対抗馬が存在していたのです。「宗教」という語がそれらの対抗馬をしりぞけて、最終的にreligionの訳語として確立するのは、明治10年代になってからだというのがほぼ定説になっています(この説が妥当なものであることは、近年の研究である[長沼 2017]によっても確認されています)。
もし、religionと明治以前の「宗旨」や「宗門」がほぼ同じなのであれば、dogを「犬」と訳したりcatを「猫」と訳すようにして、「宗門」とか「宗旨」と訳せば、それで話は終わっていたはずです。しかし、実際にはそうならなかった。明治10年代までいろんな試行錯誤が続いていくことになるわけです。このような経緯は、当時の日本の人々にとって、religionという概念が未知の新しいモダンな概念であったことを物語って余りあります。
「仏法」「仏道」から「仏教」へ
ついでに言うと、「仏教」ということばが現在のような意味で用いられるようになるのも、明治以降のことです。どういうことかというと、「仏道」「仏法」「仏教」ということばは、どれも大昔からありました。しかし、最も普通に用いられていたのは「仏法」や「仏道」の方であり、「仏教」は限定的な用い方をされていました。
「仏法」は仏や菩薩や教義や修行や祈祷や儀礼や僧侶や寺院などなど、仏に関するすべてを包み込むことばとして広くもちいられていました。「仏法」や「仏道」が実践に重心を置いた語であるのに対して、「仏教」ということばは仏典に書かれているような文字化された教えに重心を置いた語でした[島薗・鶴岡 2004: pp.192-193][クラウタウ 2012: p.109]。
それでは、もともと「仏法」よりも使用頻度が低く、意味の範囲も狭かった「仏教」ということばが、なぜ現在のような形で広く用いられるようになったのか。ここには、19世紀の世界に生じた変化が大きく影響しています。19世紀以前の「人類」は、「インドやネパールやスリランカやチベットや東南アジアや中国や朝鮮半島や日本などのアジアの広大な地域には、“Buddhism”という『同じ一つの宗教』が広がっている」という認識を持っていませんでした。
19世紀以前にも、ヨーロッパの探検家や航海者や商人などが、ビルマの“Godama”とか、シャムの“Sommona Codom”とか、バリ島の“Khodom”などについて記してはいます。16世紀のポルトガルの冒険家のフェルナン・メンデス・ピントなんかは、中国と日本ではXaca(釈迦)・Amida(阿弥陀)・Gizom(地蔵)・Canom(観音)という四体のfatoqui(仏)と呼ばれるdeus(神)をbonzo(坊主)が崇拝しているなどと記しています。しかしそこには、アジアの広大な地域には、“Buddhism”という「同じ一つの宗教」が広がっているという認識はありませんでした[クラウタウ 2012: pp.18-21]。
日本ではどうだったのかというと、明治以前にも、仏法は「天竺」(今で言うインド)という場所に起源があり、「震旦」(今で言う中国)を経て「本朝」(今で言う日本)に伝わったという認識はありました。「本朝」の仏法や、「本朝」の高僧について語る書物が大昔から書かれてきたことも事実です。しかし、アジアの広大な地域には、“Buddhism”という「同じ一つの宗教」が広がっているという認識は、やはりありませんでした(そもそも明治以前は「宗教」という概念自体がなかった)。
19世紀にはそうした認識が新しく生まれ、“Buddhism”というカテゴリー概念が新しく生まれ、“Buddhism”は「世界宗教」だという認識(この認識も新しいものです)も生まれます。そして、この“Buddhism”の訳語として「仏教」という語が用いられることになります。そうすると、日本で行われているのも“Buddhism”=「仏教」の一種なのだということになりました。かくして、明治以前に狭い意味で用いられていた「仏教」という語とは異なる、新たな意味あいを帯びた「仏教」という概念が広く用いられていくことにもなったわけです。
このようにして「仏教」という新しい概念が成立すると、アジアの広い地域で見られる「仏教」というものの「本質」は何なのか、などといった議論もなされるようになっていきます。言わば、「仏教」という新しい概念を前提に、その「本質」や理想像を求める試みがなされるようになったのです。「日本仏教は“本来の”仏教ではない。仏教のあるべき姿から逸脱した堕落した仏教だ」などと言われることがあります。こうした主張は、以上のような近代的な言語空間が新しく創作されて初めて成立したものです。それまでにない新たな意味あいを帯びた「仏教」という概念が成立し、その「本質」や理想像が追求されるようになったことで、初めて可能になった主張なわけです。できたてほやほやの新しい「仏教語り」なのです。
ついでに言うと、我々は何の疑問も覚えることなく「日本仏教」という概念を用いていますが、近代日本仏教史を専門とするオリオン・クラウタウ(1980-)は、「日本仏教」ということばは近代的な国民国家を指す「日本」という語と、「仏教」という近代的なカテゴリー概念の組み合わせによって成立しており、近代の独特な文脈において創作された観念であると指摘しています。明治以前の「本朝」という漠然とした枠に基づいた「本朝仏法」とは異なるというわけです。「日本仏教はガラパゴス化し堕落した仏教だ」とか、「いや、日本仏教はガラパゴス化しているからこそすばらしいのだ」といったような「仏教語り」は、以上のような近代的な土俵の再編を経て初めて生まれるわけです。
religioという概念の来歴
さて、話を戻しましょう。明治以前の日本には「宗教」という概念はなかったわけですが、西洋ではどうだったのでしょうか。religionとかreligieといった概念であれば、西洋に大昔から存在してきたのかのでしょうか。結論から言うと、そうでもありません(以下のreligio概念の来歴の整理については、[スミス 2021: pp.35-79][深澤 2006: pp.1-30][深澤 2010: pp.198-203]を参照した)。
確かに、religionやreligieの語源にあたるreligioというラテン語のことばは古代からありました。しかしそのreligioも、現在のreligionのように仏教やキリスト教などを一括りにするジャンル概念ではありませんでした。その意味は現在のreligionよりもはるかに狭く、使用頻度も低いことばだったのです。
まず、古代ローマにおけるreligioの用例を見てみると、「(主に公的な場面で)神に向けて儀礼を規則どおりに執行すること」という意味で使われているのが確認できます。現代の我々は“religion”とか「宗教」ということばを聞くと、「信仰」を連想したりしますが、元々religioは「信仰」などといった要素を含んだ概念ではなかったのです。またreligioには、「慎重な行政的執行」という意味もありました。現代の英語でも、religiouslyという副詞が「規則正しく」「定期的に」「忠実に」「慎重に」といった意味で使われることがあるのは、その名残りです。いずれにせよ、仏教やキリスト教やイスラームなどを一括りにするジャンル概念などではなく、外面的で儀礼的な行為の執行を意味する非常に限定的な概念であり、その使用頻度も低かったわけです。
その後キリスト教が広まってからも、religioは主としてローマの儀礼を意味する語として用いられました。そのなかでキリスト教徒によって、「私たちのレリギオー」(nostra religio)という言い回しや、「あなたがたのレリギオー」(vestra religio)とかその複数形の「あなたがたのレリギオーネス」(vestrae religiones)といった言い回しや、「真のレリギオー」(vera religio)と「偽のレリギオー」(falsa religio)といった言い回しが用いられるようになります。
しかし、宗教学者のキャントウェル・スミス(1916-2000)は、こうしたreligioは、「儀礼の実践」や「礼拝の仕方」と訳すのが適切であると指摘しています[スミス 2021: pp.49-51]。ここでもreligioは現在の我々が用いているような「宗教」という概念とは異なり、「儀礼の遵守」という意味で使用されるにとどまっていたというわけです。
さて、このreligioという語はその後、カトリックが支配する中世においては、わずかしか用いられなくなります[スミス 2021: p.55]。ただ、時代ごとに新たなニュアンスが加わっていくようになります。例えば、キリスト教の修道院生活のあり方がreligioと呼ばれたり、スコラ哲学で人間の義しさがreligioと呼ばれたりしました(ただし、この「religio=人間の義しさ」は、religioよりも上位の美徳である「信」や「愛」などには及ばないものだとも解釈されました)。しかし、中世になっても使用頻度は低く、古代でも中世でもfides(信仰)やlex(法)やsecta(宗派)といった語の方が、はるかに高い頻度で使われていました。
「大航海時代」と宗教改革を通じたキリスト教の非自明化
ところがその後、このreligioという語の内実が大きく変容し、その使用頻度も増加していくことになります。lexが使われなくなったり、sectaもプロテスタントの分派を意味する論争的で限定された語彙になっていったりします。つまりreligionというのは、lexやsectaなどと入れかわるようにして、新しく浮上してきた概念だということになります。こうしたreligioおよびreligionの変容は、宗教改革の時代を経て16世紀後半になると、より目立ってきます。なぜこのような変容が生じたのかを説明するのは簡単なことではありません。ただし、religioという概念の内実が大きく変わり、使用頻度も増加していくきっかけとなった事柄をいくつか指摘することはできます。
一つは、いわゆる「大航海時代」の到来です。「大航海時代」に西洋の人々が世界各地に出ていくようになると、それまで西洋の人々が知らなかった儀礼の実践が各地で「発見」され報告されるようになります。すると、それらの儀礼の実践がreligioやreligionと呼ばれる事例が飛躍的に増えていったのです。そうした報告や断片的知識が次第に増えてくると、17世紀には「世界の諸宗教」などといったような言い回しが一般化し、そうしたタイトルがついた本もヨーロッパ諸国で出版されるようになります。かくして、この世界にはいろんな種類のreligonというものが存在しているのだという認識が、新たにヨーロッパで生まれて広まっていったのです。
一方で、「大航海時代」以降のヨーロッパでは、宗教改革を通じてプロテスタントが登場し、その後のいわゆる政教分離を経て、キリスト教は社会全体を覆うことをやめて、公的領域から徐々に撤退していくことになります。本稿のその2でも述べましたが、中世においてキリスト教は、教会や修道院などの組織を通じて社会の基盤として機能し、葬儀を通じて人間の生死に意味を与えていました。しかし近代においては、そういった機能は役所や裁判所や法人や会社といった世俗の組織によって肩代わりされることになりました。人々の生死も、教会が管理していた教会簿ではなく、近代国家による身分登録簿や住民票によって記録され管理されるようになりました。政治によって公的領域が独占され、キリスト教は徐々に公的領域から撤退していくことを余儀なくされるようになったのです。キリスト教はもはや社会の基盤として公的領域の中心に位置することはできず、私的な領域へと押し込められるようになったわけです。
これは、キリスト教が相対化されて、その非自明化が進行していくプロセスだと言えます。というのも、プロテスタントがまだ存在せず、世界にはキリスト教と異なる多種多様な儀礼の実践が存在するという認識もなかった時代であれば、世界にはローマ・カトリック教会の代わりになるようなものがあるという意識が人々に広がることはありませんでした。しかし、キリスト教がカトリックとプロテスタントに分裂すると、カトリックだけがすべてではないということになってきます。さらに、世界各地にキリスト教と異なるいろんな文化的実践が存在することが徐々にわかってくると、世界にはキリスト教以外の道もあるのだ、それ以外の選択肢もあるのだという認識がどうしても生じざるをえません。キリスト教が相対化されて、非自明化が進行していくというのはそういうことです。
そしてそのキリスト教は、政教分離を通じて、社会の基盤として公的領域の中心に位置することはできなくなり、私的な領域へと撤退していきます。キリスト教が社会全体を覆うことをやめて、「政治」とか「経済」などの領域とは別の一領域を占めるにすぎなくなるわけです。そうやってキリスト教が押し込まれた(「政治」や「経済」などとは異なる)領域が、新たにreligioとかreligionと呼ばれるようになってもいきます。
まとめるとこうなります。西洋の人々が世界各地にキリスト教と異なる多様な儀礼の実践が存在することを認識するようになったり、キリスト教が社会全体を覆うことをやめて公的領域から撤退していったりして、キリスト教が非自明化していくなかで、religioやreligionといった概念はその内実を大きく変容させていきました。すなわち、世界各地で見られる文化的な実践を一括りにするジャンル概念と化していく流れが生じたのです。そういうわけで、ジャンル概念としてのreligionは西洋に古代からあったものではなく、意外と新しい概念だということになります。我々が用いている「宗教」という概念は元をたどると、以上のように西洋で新しく形成されていった概念の流れを汲んだものなのです。
以上のように、西洋におけるキリスト教の非自明化という事態を背景に、「宗教」という概念が新たに創作されていきます。そしてこれは、単にジャンル概念が一個増えたというだけの話ではありませんでした。そんな無害な話ではなかったのです。「宗教」という概念は、その後西洋から世界各地へ輸出されていき、世界中に様々な悲喜劇や軋轢や混乱をもたらしていくことになるのです。まず指摘しておきたいのは、こうやって新しく形成されていった「宗教」という概念は、決して中立的で客観的なジャンル概念ではなかったということです。これは非常に重要なことなので、どういうことなのか詳しく述べてみたいと思います。
プラクティスとビリーフをめぐる迷宮
「プラクティス/ビリーフ」という区分について
まず、西洋で“religion”という概念について語る際に用いられているのが、「プラクティスとビリーフ」という区分です。これはどういうものかというと、例えば社会学者のエミール・デュルケーム(1858-1917)は、『宗教生活の基本形態』(1912年)という著作のなかで、「宗教」という概念を次のように定義しています。
ここに出てくる「信念と実践」(フランス語でcroyances et pratiques)というのが、それぞれビリーフとプラクティスにあたります。また、イギリスの人類学者のジェイムズ・フレイザー(1854-1941)は、誰もが満足するような「宗教」の定義は不可能だと断ったうえで、次のように述べています。
ここに出てくる「信仰と実践」は、原文ではbelief and practiceです。つまり、デュルケームもフレイザーも「宗教」の「本質」はプラクティスとビリーフにあると考えているわけです(フレイザーに至っては、この二つなしに「宗教」はありえないとまで言っています)。デュルケームやフレイザーは19世紀から20世紀にかけて生きた人ですが、「宗教」というのは要するにプラクティスとビリーフのことだという見方は、現在でも英語圏やフランス語圏でごく一般的に見られるものです。
では、プラクティスとビリーフというのは何かというと、一言で言えばプラクティスは「行うこと」「実践すること」で、ビリーフは「信じること」です。プラクティスは人間の身体的な領域の話であり、ビリーフは個人の内面の領域の話だということが一応は言えます。でも、これだけだと説明としてあまりに不十分だし誤解を招きかねないので、もう少し解像度を上げてみましょう。
まずビリーフというのは「信じること」だと申し上げましたが、日本語の「信」には多様な含みがあり、「信」というコトバに引きずられると誤解する危険があるので注意が必要です。ここでいうビリーフというのは例えば、理由を考えずに当たり前のこととして神様を信じるとか、ご先祖様に手をあわせるといったことではありません。そうではなく、「言語によって命題化され体系化された事柄や説明を信じること」です。「個人が内面的に保持している言語化された価値体系」と言い換えることもできます。キリスト教でいうと、父と子と聖霊の三位が本来的に一体であるという三位一体説や、イエスは完全なる神であると同時に完全なる人間であるという両性説などの教義を信じることです。言語化された教義や価値体系を信じることだと言っていいでしょう。
それに対してプラクティスというのは、「生活世界に埋め込まれた慣習的行為の総体」です。と言ってもわかりにくいと思うので、いくつか例をあげましょう。アメリカの人類学者のジェイムズ・ピーコック(1937-)は、インドネシアでの調査中に起きた次のようなエピソードを報告しています。ピーコックがインドネシアの友人に「君は精霊を信じるのか」とたずねたところ、その友人は少しためらって「それは精霊が私に話しかけてきたときに、その精霊が言うことを信ずるかどうかという意味なのか」と聞き返したそうです(ピーコックはそこから、インドネシア語で「信じる」というコトバが持つ意味内容の問題へと議論を進めていくのですが、ここでは割愛します)。ピーコックは、次のように指摘しています。そもそも彼らにとって精霊というのは、存在するかしないのかを問う対象などではなく、ごく当たり前の事柄に属する。我々の生活世界にはそういう自明な領域があり、それについては問う必要がないわけです[ピーコック 1993]。
こういうのは、何らインドネシアに限った話ではありません。21世紀の日本でも同じことです。例えば、こういう例を考えてみましょう。あなたがお盆やお彼岸にお墓参りをしているとしましょう。西洋からやってきたキリスト教徒や学者がそれを見て、「あなたは死霊や祖先の霊を『信仰』しているのか?」とたずねてきたら、どうでしょうか。ピーコックの友人のインドネシア人のように面食らうのではないでしょうか。そもそも質問自体がどこかおかしいと思うのではないでしょうか。
もう一例あげましょう。日本では現在も、家にある仏壇に手をあわせるという行為を日常的に行っている人々がいます。ですが、彼らのほとんどは、四諦八正道や十二支縁起といった仏教の教義に共鳴して手をあわせているわけではない。「仏教は無我説を説いており、アートマンを否定している。よって、仏教では霊魂の存在を認めない」などといった教理に共感して仏壇に手をあわせているわけではない。ごく当たり前の行為としてそうしている。ビリーフと自分の行為が一致しているなどという(先ほどのフレイザーが言うような)理由で手をあわせているわけではない。我々の生活には、お墓や仏壇の前で手をあわせるとか、神社でお賽銭を投げて受験に合格することを祈るといった具合に、何らかの言語化された教理や価値体系=ビリーフに共鳴して行うのではなくて、ごく当たり前に行われる行為がある。「慣習」とか「習俗」などといって、自明のこととして行為するという領域がある。これがプラクティスです。
我々は、ピーコックがとりあげているインドネシアの事例を、「精霊信仰」とか「民間信仰」などと呼んだりします。また、お盆やお彼岸にお墓に手をあわせることを「祖先信仰」などと言ったりします。しかし以上の事を踏まえると、こういった「慣習」とか「習俗」と呼ばれる領域を、「信仰」と呼んでしまうのが果たして適切なのかは大いに疑問だという話になってきます。やや先走って言うと、このような奇妙なコトバの混乱が生じる理由の一端に迫ることが、本稿の目的の一つです。
プロテスタンティズムのビリーフ中心主義と「宗教」概念の精神
ともあれ、「宗教」というのはプラクティスとビリーフのことだという見方は現在に至るまでよく見られるものです。しかし、ここにはいろんな問題が含まれていました。まず、「宗教」という概念は「プラクティスかビリーフか」という不均等な二分法を含むことになりました。どういうことかというと、ビリーフの方がプラクティスよりも重要であるというイデオロギーが「宗教」という概念にまとわりつくことになったのです。
というのも、西洋で新しく生まれた「宗教」という概念の内実は、キリスト教を背景につくりあげられていきました。そのキリスト教は言語化された教理体系=ビリーフをそなえていたうえに、宗教改革以降の西洋で力を持つようになったプロテスタントは、儀式のような要素を排するビリーフ中心主義をとっていました[磯前 2003: p.37]。本稿のその2でも述べましたが、宗教改革を担ったルターは、「教会の外に救済はない」というカトリック教会の主張を全面的に否定しました。ルターは、人が神によって「義とされる」(義ただしい人間であると認められる)のは、ただ内面的な信仰だけによるのであり、善い行いやサクラメントの儀式によるのではないと主張したのです(これを信仰義認説と言います)。「聖書のみ」というスローガンを掲げ、聖書こそが最高の権威だとして、教会の権威ではなく聖書のみを信仰の中心にせよと主張しました。ローマ・カトリック教会によって独占されてきた聖書を解釈する権利は、全キリスト教徒に与えられるべきだと言ったのです。神と人のあいだに教会が介在することを否定したのです。
プロテスタントは、救済に必要なのは信仰のみであると主張し、カトリックの儀礼を「呪術」だとして批判しました。これは、言語化された明確な教義のかたちをとったビリーフこそが重要であり、非言語的なプラクティスは二の次三の次であり副次的なものにすぎないという新しいイデオロギーです。このビリーフ中心主義という新たなイデオロギーは、いわゆる「大航海時代」以降に、世界各地にキリスト教と異なるいろんな文化的実践が存在することが徐々に知られるようになると、そうした世界各地の文化に対して刃を向けました。つまり、「非西洋世界の“多神教徒”たちは儀礼ばかり行っている。あいつらは偶像崇拝を行う“迷信”になずんでいる“野蛮人”だ」と攻撃したのです。
「宗教」という概念は、このようなプロテスタンティズムを背景に新しく創作されていきました。そのため、言語化された教理体系=ビリーフをもたない非西洋世界の各地のプラクティスは、「宗教」ではなく「迷信」だとみなされたり、「宗教」だとみなされたとしてもキリスト教よりも“劣等”な「宗教」だと決めつけられたりしたのです。
このようなイデオロギーは、西洋による植民地支配とも結びついていきました。植民地支配を通じて、非西洋世界の人々が行っているプラクティスが、西洋の人々によって「迷信」扱いされるようになります。そして、そういう考え方を押しつけられた現地の人々もまた、自分たちのプラクティスを“劣等”なものとみなし、西洋的な教義体系をそなえるものへとみずから改変していくということが世界のあちこちで起こりました。「宗教」という概念は、非西洋世界の文化を暴力的に改変していき、植民地支配をイデオロギー的に補強する役割をも担ったわけです。
宗教学者の磯前順一(1961-)は、次のように述べています。
また、人類学者のジャック・グッディ(1919-2015)は次のように指摘しています。
「まず観察者の頭のなかに、つづいて行為者の頭のなかに」というのはおそろしい指摘です。「宗教」という西洋中心主義的な新しい概念が、現地の人々の文化を組みかえ再構築していったということです。現地の人々も、西洋から持ち込まれた新しいイデオロギーを受け入れ、自分たちの文化を再構築していったことも物語っています。世界のあちこちでこういうことが進行していったのです。ともあれここで確認しておきたいことは、「宗教」というのは中立的で客観的なジャンル概念では全くなく、西洋中心主義的なイデオロギーや暴力性を含んだ概念であるということです。
「呪術」というハコにぶちこまれるプラクティス
イギリスの東洋学者のウィリアム・ロバートソン・スミス(1846-1894)は、早くも19世紀の終わり頃に、以下のような非常に鋭い指摘をしています。
ここで注目してみたいのは、「宗教を慣習の方面から見るよりも、むしろ信仰の方面から見ようとするのが、現代のわれわれの傾向である」「キリスト教国の各方面は、儀典というものは、ただ単にその解釈に関してのみ重要である、というに一致していた」という箇所です。これは、「宗教」におけるプラクティスはビリーフに基づいて成り立っており、プラクティスが行われる意味はビリーフによって説明可能だという考え方です。「宗教」におけるプラクティスの意味は、どのようなものであれ言語化したり解釈したりすることが可能だというイデオロギーだとも言えます。
このようなイデオロギーの色眼鏡を通して世界各地で行われているプラクティスを眺めると、その意味を解釈できないプラクティスも当然でてきます。そうすると、そうした解釈や意味づけができないプラクティスは「宗教」ではないということになってしまうのです(先ほど見たようにジェイムズ・フレイザーが、ビリーフを伴わないプラクティスは「宗教」ではなく、プラクティスとビリーフの二つなしに「宗教」はありえないと断言していたことを思い出してください。こうしたもの言いは、これまでに見てきたように、近代が生んだ新しいイデオロギーに基づいたものであり、偏向を含んでいるのです)。
文化人類学を基盤にした宗教研究者の関一敏(1949-)は、そういうビリーフによる解釈や意味づけが不能なプラクティスを、近代西洋は「呪術」(magic)と名づけて「宗教」の枠外にはじき出したのだと指摘しています。端的に言えば、「呪術」はビリーフがなく、プラクティスのみからできていることになります[関 2012]。「呪術」という概念には、世界各地で見られるビリーフなきプラクティスを「宗教」ではない“劣等”な文化だと見なすイデオロギーが含まれているとも言えます。
これは、1970年代に行われた、人類学者のヒルドレッド・ギアツ(1927-2022)と歴史学者のキース・トマス(1933-)との論争においても指摘されていた問題です。この論争では、16~17世紀のイギリスで「呪術」が衰退したのではなく、むしろこの時代に「呪術」(magic)という概念が浮上してきたのだという問題が論じられました[Geertz 1975][Thomas 1975]。「宗教/呪術」という恣意的な“分別”によって世界を見ようとするイデオロギーは、西洋世界で新たにつくられていったものだということになります。
この「宗教/呪術」という恣意的な分別に関連して、「未開宗教」(primitive religion)ということばもありました。これは、「呪術」と呼ぶには体系的だけど、(キリスト教などと比べると)日常生活や地域集団と密着していて「宗教」と呼ぶのもためらわれるような文化を指します[関 2012: p.85]。西洋中心主義的なイデオロギーや、「宗教/呪術」という恣意的な“分別”に基づく色眼鏡で通して非西洋世界を見て、ごくごく限られた語彙で表現しようとした結果、このような問題のある概念を立てることになってしまったわけです。
ビリーフ中心主義によるキリスト教世界の変容
さて、以上のような事態は一見すると、世界各地の文化がキリスト教に似たものへと暴力的に変容させられていく過程のように見えます。ただしここで注意しなければならないのは、その一方で、キリスト教を含めた西洋の文化も、ビリーフ中心主義のイデオロギーによって変容を余儀なくされていったということです。キース・トマス(1933-)は、次のように指摘しています。
この問題に関連することですが、文化人類学を基盤にした宗教研究者のタラル・アサド(1933-)は、次のように指摘しています。元々ritualということばは、現在のように儀礼や儀式を意味する語ではなく、キリスト教において、儀式や礼拝を行う際に従うべき規定や作法を指示する台本を意味していました。そして、ritualの指示に従って行われる儀礼や作法は、言語化された教義体系=ビリーフに比べれば副次的で二の次三の次のものだと考えられていたわけでは決してありません。ritualにのっとって行われる儀礼や作法は、キリスト教の徳を身につけ身体化するために必須の実践だったのです。
例えば、5世紀後半から6世紀前半頃を生きたヌルシアのヴェネディクトゥスが記した『戒律』という書物があります。この書物はその後、修道生活の規範としてキリスト教世界に大きな影響を与えていくことになります。『戒律』で規定された実践は、「神に仕える」ための徳を身につけることを目指すものでした。それは決して「形式的」なものなどではなく、キリスト教の徳を身体化するために必須の実践だったのです。キリスト教の徳は、聖人の模範に従って行動する能力を育てることによって形成されるものであり、規範に従った生活を実践することを通じて、定められた徳のモデルに近づいていくようにしなればなりません。そこに定められた規定は、キリスト教の徳を身につけるプロセスにおいて、必須の場所を占めていたわけです。そこでは、外面における行動と内面における動機のあいだに、いかなる食い違いもありませんでした。両者は、規範に従った生活を実践することを通じて結合していたのです。
ところが近代になると、ritualは儀礼や礼拝などの行為を規定する台本ではなく、儀礼それ自体を意味するようになります。そして、その儀礼は何かを象徴的に示しているのだ、その儀礼は何らかの意味を持っているのだと考えられるようになっていったというのです。これは、儀礼の背後には言語化可能なビリーフがあるのだ、儀礼はビリーフに基づいて成り立っているのだという発想です。儀礼というのは何らかのビリーフを象徴的に表現したものだと考えられるようになったとも言い換えられます。つまり、かつてはキリスト教の徳を身体化するためのプラクティスだった儀礼は、ビリーフ中心主義によって浸食され、再構築されてしまったということです。非西洋世界だけでなく、西洋世界もビリーフ中心主義によって変容を余儀なくされていったのです。
また、儀礼の背後には読みとられるべき何らかの意味がある、何らかのビリーフがあるという発想がひとたび生まれると、それは非西洋世界で行われているプラクティスにも適用されていきました。つまり、現地の人々は「未開」であるから、自分たちが行っているプラクティスの意味を読み解いて言語化することができない。だが、「文明人」である西洋の権威ある学者サマは、非西洋世界の人々の儀礼が何を象徴しているのかを読み解き、その意味体系を言語化することができる。そのような発想が生まれ、文化的な支配関係が新たに構築されていくことにもなったのです[アサド 2004: pp.61-72]。
なお、以上のようなビリーフ中心主義は、イスラームにもうまくあてはまらないものでした。イスラーム研究者で宗教学者のキャントウェル・スミス(1916-2000)は、次のように指摘しています。
いずれにせよ、「宗教」というのはプラクティスとビリーフのことであり、プラクティスはビリーフを前提に成り立っており、プラクティスが行われる意義はビリーフによって説明可能だというビリーフ中心主義は、非西洋世界の文化現象にはあてはまりません。このようなイデオロギーでもって現地の複雑な現象を説明することは不可能です。
もっと言えば、このようなイデオロギーは、西洋世界の生活世界のプラクティスを説明することもできません。先ほどキース・トマスが述べていたように、中世の民衆カトリシズムにおいては、人々にとって重要だったのはドグマのセット(=ビリーフ)などではなく、人生の重要な節目と結びついた儀礼的な生活様式(=プラクティス)だったからです。中世の修道生活においては、プラクティスを実践することはキリスト教の徳を身につけるために必須のものだととらえられていたからです。それにもかかわらず、こうしたイデオロギーを背景にした「宗教」という概念が、世界中に普及してしまった。それは植民地支配と結びついて、各地の文化を暴力的に改変していってしまったのです。
無自性に縁起する「宗教」「人種」「民族」
ここで紹介しておきたいのが、人類学者のデボラ・トゥッカーが、タイの少数民族であるAkha(アカ族)を調査した際の二つのエピソードです。
まず一つ目は、とあるアカ族の若いカップルが双子を生んだ際のエピソードです。アカ族には、双子は厄災をもたらすという考え方があり、双子はこの考え方に従って殺されてしまいます。カップルの二人はその後、アカ族のしきたりに従って村を離れ、一時的に森に住むことになりました。というのも、双子の誕生という厄災は家族にも村にも大いなる不浄や危険をもたらすものだとされるからです。二人が再び村に入るためには、動物供儀をともなう浄化儀礼を受ける必要があったのですが、そのための資金も動物も不足していました。そこで二人は、キリスト教のセツルメント(社会福祉施設)に駆け込み、キリスト教に<改宗>しました。ところがその後、裕福な親戚が資金や動物の提供を申し出たため、Akha Zang(アカ族の<宗教>)に<再改宗>して、村に帰ることができたのだというのです。
二つ目のエピソードも見てみましょう。トゥッカーによれば、アカ族の血統には、làqbýqguと呼ばれるものがあるのだそうです。làqbýqというのは「中国人」、guは「血統」を意味する接尾辞です。làqbýqguについてトゥッカーに語ったアカ族の男性は、次のように述べたそうです。何世代か前に、中国人の男とその家族が、アカに<なる>決断をした。彼らは、アカの村に移住し、アカ式の家を建て、アカ式の祖霊社を祀って、アカ式の系譜をつくり、アカ語を話し、アカの服を着て、アカに<なった>。彼の先祖もまた、アカである、と[Tooker 1992]。
さて、どうでしょうか。我々は「宗教」とか「人種」とか「民族」といった概念を当たり前のように使って物を語っています。しかし、こうしたエピソードは、「宗教」や「人種」や「民族」などといった概念をあざ笑うかのようです。「宗教」や「人種」や「民族」といったことばがあるからには、それに対応する「もの」も現実に確固として存在するのだという考えをあざ笑うかのようです。
まず双子を生んだカップルの<改宗>(改宗ということばを用いるのはおそらく不適切だと思われますが、ほかにことばが思いつかないのでひとまずヤマカッコをつけて<改宗>としておきます)について。彼らの<改宗>は、キリスト教徒が考えるような「信仰」のあり方とは異なり、<改宗>にともなう「信仰」の変化は見られないようだ。そうすると彼らは、(一時的であれ)キリスト教徒になったと言えるのだろうか。この問題についてトゥッカーは、そもそもAkha Zangを「アカの宗教」と翻訳してしまうことに落とし穴があるのではないかと論じています。
次に第二のエピソードについて。我々は通常、「民族」とか「人種」といったモノはいずれも生まれつきのものであり、それらを変えることがもし可能であったとしても、非常に困難を伴うだろうと考えています。しかし、第二のエピソードは、そうした「常識」を嘲笑するかのようです。
二つのエピソードをあわせて考えてみると、「アカであること」と「中国人であること」と「キリスト教徒であること」は可変的で入れかわりが可能であり、西洋語の「宗教」や「人種」や「民族」といったカテゴリー概念が通用しないことがわかります。西洋語の「宗教」や「人種」や「民族」といった概念は、人類が時代や地域を超えて普遍的に抱くものではありません。そうした“偏り”を含んだ西洋発の概念では全く説明できない現象が、世界にはいっぱいあるわけです。
先ほど登場してもらった宗教学者のキャントウェル・スミスは、英語のreligionという語が「信仰の一体系」(a system of beliefs)という意味を持つようになったのは18世紀以降である(!)と指摘しています[スミス 2021]。トゥッカーはこのスミスの議論を引用しつつ、西洋で近代に創作された「宗教」という概念がビリーフ主体の「内的」イディオムであるのに対して、アカのZangはプラクティスに重心を置いた「外的イディオム」であると指摘しています。つまり、「アカであること」と「アカのZangを実践すること」はイコールであり、あえて訳すならZangは「ものごとの仕方」=習俗慣習というほかないというのです。
なお、アカ語の「信」にあたるdjang-aということばは、「人の言うことを信じる」という文脈で用いられる語で、Zangにも精霊にも適用されないそうです。「Zang」を信じるのではなく、「Zangを背負う」という言い方をするのだというのです(先ほど見たように、人類学者のピーコックがインドネシアの友人に「君は精霊を信じるのか」とたずねたところ、その友人は少しためらって「それは精霊が私に話しかけてきたときに、その精霊が言うことを信ずるかどうかという意味なのか」と聞き返したというエピソードを思い出してください。また、あなたがお盆やお彼岸にお墓参りをしている際に、異国の人が「あなたは死霊や祖先の霊を“信じている”のか?」とたずねてきたら面食らうだろうという話も思い出してください)。
繰り返しになるようですが、「宗教」という概念は客観的で中立的なジャンル概念では全くありません。また、世界各地で見られるプラクティスに対して、「宗教」や「信仰」といった概念を無理やりあてはめて理解しようとすることにそもそも無理があるということも、これまでに見てきたとおりです。現在の日本でも、何の神が祀られているのかもよく知らずに神社でご利益を願ったり、祭りを行ったりしているのは“不純”であるとか、「“ほんとうの”宗教」ではないとか、「“本来の”宗教」ではないなどと言う人がいます。そういうことを言う人は、「宗教」という概念がキリスト教を背景に西洋で新しく創作されたものであることや、この概念が孕んでいる西洋中心主義的な性格や、この概念が植民地支配と結びついた暗い歴史を知らないのでしょう。
「領域分離」と「同一性」
さて、「宗教」という概念は、19世紀になるとさらなる変容を経験することになります。「宗教」と「科学」の衝突を通じて、現在我々が行っているような「宗教」理解が新たに形づくられていくのです。もちろん、近代科学と呼ばれる現象や、唯物論的な世界観は、19世紀以前から存在していました。しかし19世紀には、近代科学と「宗教」との関係が、それまでにない新しいものになっていくのです。
ドイツの宗教学者のミハイル・ベルグンダー(1966-)は次のように指摘しています。19世紀の宗教家や宗教思想家たちは、従来の「宗教」が説いてきた世界観を揺るがしていた近代科学を、もはや無視できませんでした。近代科学を無視したり否定したりするだけの神学は説得力を失っていったのです。こうした背景のもとに、近代科学を否定せずに、「宗教」と近代科学の両立を主張する語り口が登場してくることになります。
ベルグンダーは、「宗教」と近代科学の両立性を主張する場合、領域分離(separation of domains)と同一性(identity)という二つの異なる選択肢が存在したと指摘しています。領域分離というのは、「宗教」と「科学」はそれぞれ異なる真理を持っており、異なる領域を担当しているというものです。どういうことかというと、キリスト者たちは、自然界の物理的な現象の説明については近代科学にゆだねることを認めつつ、「宗教」という領域にはそれとは別の真理が存在すると主張したのです。つまり、精神や霊魂といった、近代科学では把握できない人間の「こころ」の問題については「宗教」の領域だと主張したわけです。これは、物質的な現象について説明することを放棄して、「宗教」を個人の「こころ」のなかに位置づけたということです。自分たちの「伝統」を近代科学による攻撃から隔離して、個人の内面へと撤退する戦略をとったわけです。
例えばキリスト教では、宇宙の生成について説明できるのは、聖書に基づいた教えではなく天文物理学だと認める流れが生じるようになります。こうした流れは19世紀にプロテスタント教会(の一部)で生じ、やや遅れて20世紀にはカトリックも同じ道をたどるようになりました。
日本の仏教においても、例えば明治以降の浄土真宗では、近代科学と真宗信仰のすみわけによる両立を目指した僧侶たちが登場します。個人が「こころ」のなかで阿弥陀仏の他力による救済を信じながら、現世では近代科学の世界観にしたがって生きるという方向性が出てくるわけです。例えば、浄土真宗本願寺派僧侶の島地黙雷は、物質的な外界の説明は近代科学にまかせて、「宗教」は精神的な内面の世界で人々を導けばよいという立場を提示しました(黙雷についてはまた後ほど述べます)。以上のような領域分離の方向性は、本稿のその4で紹介した、スワーミ―・ヴィヴェーカーナンダをはじめとする近代インドのヒンドゥー教改革運動にも見られたものです。
先ほど登場してもらったルターにも、「信仰のみ」(sola fide)という思想はありましたし、「信仰」のみという思想は、少なくとも16世紀の宗教改革以降、プロテスタントの最も重要な主張の一つであり続けてきました。よって、キリスト教の核心を個人の内面的な信仰に求めるイデオロギーは、19世紀以前にも存在していました。しかし、個人の内面的な信仰を、キリスト教内部の教学や神学の問題として理解するのではなく、近代科学と鋭く対立する人間の営為として理解するのが一般的になるのは、唯物論的な自然科学の世界観が一般的になった19世紀のことです。19世紀に至って、もはや近代科学を全面的に否定したり無視したりすることが困難になるなかで、科学とは区別される個人の内面的な信仰こそが「宗教」の「本質」であるというプロテスタント的なイデオロギーが力を得て、広がっていくことになったのです。
さて、以上のような「領域分離」の立場に対して、もう一つの立場である「同一性」(identity)は、近代科学によって精神や霊魂などの問題を解明していくことができると主張します。「領域分離」のように、「科学」と「宗教」を切り離さずに、両者を調和させようとするわけです。このような方向性を選んだ個人や団体や思想や運動も19世紀(の特に後半)に登場します。その代表例としては、本稿で何度も登場してもらった神智学協会があげられます。
本稿のその2でも述べたように、神智学協会を結成したブラヴァツキーは、ヒンドゥー教や仏教から業や輪廻の思想を取り込んで、19世紀の最先端の科学だった進化論と合体させた新たな思想を提示しました。当時の西洋では、新たに登場した進化論がキリスト教を根本から脅かし、キリスト教と科学のあいだに深刻な亀裂をもたらしていました。
そこでブラヴァツキーは、インドの業や輪廻の思想と進化の概念をがっちゃんこして、人間は輪廻を繰り返すなかで自己の業(行為)を自己の努力によって改善させることで、自己の霊魂を無限に進化させて「神人」に近づいていくことができるのだという世界観を提示しました。神智学協会は、近代科学によって人間の精神や霊魂に関する現象を解明していくことができるという立場をとったわけです。ほかにも、心霊主義者が、降霊会などで起こる現象を物理学や化学の法則を用いて説明しようとしたりするのも、この同一性の道をとったものだと言えます。
また、本稿のその4で登場してもらったアメリカ人のポール・ケーラスや、ケーラスが経営する出版社に勤めながら仏教を西洋に発信した鈴木大拙も、同一性の方向性を示した例だと言っていいでしょう。ケーラスは「合理主義的」な仏教観をとって、仏教は科学や理性と矛盾しない理想的な「宗教」だと考えていました。仏教が説く業の教えは自然法則と同じであり、近代科学の理論とも一致するとも考えていました。
大拙も、例えば『新宗教論』(1896年、貝葉書院)という本のなかで、「吾人は科学を以て宗教の塵垢を洗滌し宗教の審美を発揚するものとなす」としており[鈴木 1896: p. ]、「宗教」と科学は基本的に不可分であり、同じ真理を追究していると主張していました。今でも、「釈迦が説いた“本来の”教えは近代科学と矛盾しない“合理的な”ものだった」とか「仏教の華厳思想は量子力学と一致する」とか「引き寄せの法則は量子力学と一致する」といったような主張はありますが、こうした語り口も同一性の流れを汲んだものだと言えます。
ところで、この領域分離と同一性いう二つの方向性の登場は、「宗教」と「非宗教」の線引きにも影響を与えました。どういうことかというと、領域分離の道を選んだ団体や思想は「宗教」だとみなされ、同一性の道を選んだ団体や思想は「宗教」ではないとみなされる傾向が生じたのです。つまり、神智学協会や心霊主義などは、「宗教」ではなく「オカルト」とか「エソテリシズム」とか「メタフィジカル」とか、最近だと「精神世界」とか「スピリチュアル」などといったフォルダに放り込まれる傾向が生じたということです。ともあれ領域分離と同一性という二つの方向性は、「宗教/非宗教」の線引きにも影響を与えたのです。
“外圧”として誕生した「日本人無宗教説」
さて、以上のことを踏まえたうえで、話を日本に戻しましょう。これまでに述べてきたことからも明らかなように、幕末に「開国」を余儀なくされた日本の人々にとって、religionというのは全く新しい未知の概念でした。「宗教」という概念が創作され受容されていったということは、単に日本語の単語が一つ増えたというだけの話ではありませんでした。この「宗教」という新しい概念が、様々な混乱や悲喜劇をもたらすことになっていくのです。本稿で述べてみたいのは、まさにこの問題です。
まず最初にとりあげてみたいのは、幕末から明治初期に日本を訪れた西洋の人々が、日本の“religion”についてどのように語ったのかという問題です。
幕末の日本にやってきた、タウンセント・ハリス(1804-1878)というアメリカの外交官がいます。ご存じの方も多いかもしれませんが、日米修好通商条約を結んだ人です(学校で歴史の時間に覚えさせられたりしますね)。ハリスは安政3(1856)年に来日しているのですが、安政4(1857)年の日記で次のように記しています。
もう一例あげましょう。イギリスの外交官のラザフォード・オールコック(1809-1897、1859年来日)は、『大君の都』という著作のなかで、「キリスト教徒の考えるような宗教」を「文明だとすれば、日本人は文明をもっていない」と断言しました。
さらにもう一例あげましょう。1878(明治11)年に来日したイギリス人女性旅行家で、『日本奥地紀行』という旅行記を残したイザベラ・バード(1831-1904)という人がいます。バードは『日本奥地紀行』のなかで、「私がこれまでに会ってきた国民のうちで日本人ほど信仰心を欠く国民はいない」と述べています[バード 2013: p.26]。さらに彼女は、神道とキリスト教を比較して、「私たちからすると宗教というものの本質をなすものを神道が全く欠いている」とも述べています[バード 2013: p.223]。
この考え方でいくと、「義務を強いることも、犠牲を求めることもないし、『来るべき裁き』の恐怖をいだかせることもない」ものは「宗教」ではなく、神道は「義務」や「犠牲」や「裁き」などの要素がないから「宗教」ではないということになります。キリスト教が備えている「義務」や「犠牲」や「裁き」こそが「宗教」の「本質」であり、それらを欠いた神道は「宗教」ではないし、日本人は「無宗教」だというのです。
ここで、以上の事例によって確認できたことをまとめてみましょう。
①「日本人は『無宗教』だ」という主張は、「宗教」という概念が日本において新しく創作されて定着していく以前に、すでに存在していた。というのも、幕末に来日して日本を観察した西洋の人々が、早い段階から「日本人には“religion”がない」などという「宗教語り」をしていたのである。
②オールコックやバードの例に見られるように、来日した外国人は、キリスト教を強固な基準にした「宗教語り」を行っていた。その結果、バードのような形で、神道は「宗教」ではないという「宗教語り」がなされた。キリスト教をものさしにした「宗教語り」は、神道は「非宗教」だという主張につながった。
21世紀になった現在でも、「日本人は『無宗教』である」という主張は存在しますが、その起源はここにあります。ここにあるのは、「日本人はreligionに無関心であり、『文明』を持っていない」という、キリスト教を強固な基準とした「宗教語り」です。なんだかミもフタもないようですが、「日本人は『無宗教』である」という言説は、言わば“外圧”として誕生したのです。
キリスト教と「文明開化」
さて、今見たようにオールコックは、「キリスト教徒の考えるような宗教」を「文明だとすれば、日本人は文明をもっていない」と断言しました。これは、キリスト教のような「宗教」と「文明」は不可分であるというものの見方です。これは、明治初期の日本にとっては難儀な問題でした。
というのも、ご存じのとおり明治初期の日本は、近代化を進めていわゆる「文明国」の仲間入りを果たすことを目指していました。そこで浮上してきたのが、キリスト教とどのように向き合うかという問題です。というのも当時の西洋列強では、どの国を見てもキリスト教が根づいていましたし、伊藤博文たちが憲法を制定するうえで参考にした西洋の憲法のほぼすべてが、国教に言及していました。例えば、大日本帝国憲法に影響を与えたプロイセン憲法の場合、第12条と第14条に次のようにあります。
このように、当時は「文明国」とされる国々の憲法には国教に関する規定が含まれており、それが「政教分離」に反するとみなされていなかったのです。確かに、アメリカ合衆国憲法のように、国教を置くことを明確に否定していた(修正第1条)例もありました。しかし、岩倉使節団がアメリカを見て回ると、キリスト教の「信仰」に篤い人々が多いことがわかってきます。
このような西洋の事情が知られるようになると日本では、「文明開化」を果たすためには、キリスト教を受け入れることが必須であるという考え方が力を持つようになります。明治初期の日本において、この考え方に反論するのは非常に困難でした。当時の日本が目標にした「文明国」ではキリスト教が根づいており、憲法でキリスト教が国教として扱われている。この状況を前にして、近代化とキリスト教には何の関係もないと主張するのは非常に苦しいものがありました。キリスト教を日本の国教にして日本のキリスト教化を進め、それを通じて「文明国」の仲間入りを果たそうとする考え方が出てくるのは、ごく自然な成り行きだったわけです。
いくつか例をあげましょう。幕末にオランダに留学した学者で政治家の津田真道(1829-1903)は、1874年に『明六雑誌』という雑誌で、神仏しか持っていない日本の人々は愚かな「半開化」の民であり、キリスト教によって「開化」を進めるべきだと論じています。また、サミュエル・スマイルズの自己啓発書である“Self-Help”を日本語に訳して、『西国立志編』というタイトルで世に送り出して明治初期のベストセラーにした中村正直も、「文明」を得るためには、国をあげてキリスト教を推進する必要があると論じました。単にキリスト教を解禁するだけでは不十分であり、我々はキリスト教徒になる必要がある。よって、まず明治天皇が率先して洗礼を受けるべきだ。中村は大真面目にそのように主張したのです(中村自身もその後洗礼を受けています)。
こうした例は数多くあげることができます。少し前まで一万円札に印刷されてきた福沢諭吉(1835-1901)も、明治17(1884)年に『時事新報』という新聞で、「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」と発言しています。のちに首相となる外交官の原敬(1856-1921)も、伊藤博文あての明治19(1886)年の手紙のなかで、日本のキリスト教化をまず社会の上流から始めるのがよいという考えを示しています。日本にやってきた西洋の人々も、「文明開化」を果たすためにはキリスト教を受け入れなければならないと説いていました。例えば、幕末に来日した宣教師のグイド・フルベッキ(1830-1898)は、キリスト教は真の「文明開化」の重要な根本だと説いて、キリスト教を布教しました[小倉・山口 2018: pp.205-209]。
ともあれ、当時は「文明開化」を進めることは絶対的に正しいとされる時代であり、「文明」とキリスト教は不可分だという主張には説得力がありましたから、キリスト教徒が自分たちは正しいと主張することは容易でした。例えば、明治13(1880)年に創刊された『六合雑誌』というキリスト教雑誌があります。これをひもとくと、「文明」とキリスト教が不可分であると考えられていた時代に、キリスト教徒がどのような「宗教語り」を行っていたのかをうかがうことができます。
そこでは、仏教や神道は「宗教」ではないと論じられていたりします。「宗教」と「非宗教」とのあいだには区別が厳然として存在しており、「宗教」であるためには一定の要件をそなえていなければならず、仏教や神道はその要件をそなえていないというのです。その要件としては、「神の存在」や「来世の存在」など、論者によって様々なものがあげられました。いずれにせよ、先ほども触れたように、当時の「宗教語り」はキリスト教を強固な基準として行われていました。ですので、「宗教」だと認められるために必要な要件を、キリスト教を中心にしてキリスト教に有利なように組み立てれば、キリスト教は正しい「宗教」だと主張するのは容易でした。
一方で『六合雑誌』には、こうした「宗教語り」とは異なる語り口も見られます。この世界には「無宗教」の民は存在せず、「宗教」は人類に遍在しているのだと主張する語り口です。そのように主張したうえで、例えば、「宗教」を「天啓宗教/自然宗教」とか「一神教/多神教/汎神教/拝仏教」といった具合に分類して、「天啓宗教」や「一神教」こそが「“ほんとうの”宗教」だと主張するのです。キリスト教を「天啓宗教」や「一神教」といったハコに入れて、神道を「自然宗教」や「多神教」のハコにぶちこみ、仏教を「汎神教」というハコに放り込んで、キリスト教こそが「“ほんとうの”宗教」だとするわけです。このような語り口においては、当時の欧米で最先端の科学だった進化論を背景に、「宗教」は「自然宗教」から「天啓宗教」に進化していくものであり、「自然宗教」は「天啓宗教」に至るための準備段階にすぎないなどという主張がなされることもありました。この主張でいくと、仏教や神道はキリスト教よりも劣っているとはいえ、「宗教」というジャンルに含まれるということになります。
つまり、当時のキリスト者には、次のような二つの異なる「宗教語り」が見られたことになります。
①仏教や神道は「宗教」ではない。「宗教」であるための要件をそなえていないからだ。
②この世界には「無宗教」の民は存在せず、「宗教」は人類に遍在している。一神教のキリスト教が最も「“優れた”宗教」であり、多神教や汎神教や拝物教は「“劣った”宗教」である。
『六合雑誌』を読んでみると、①と②を一人の論者が同じテキストのなかで主張していることもあります。①と②は論理的に言って矛盾しているように見えます。しかし、そこに「進化」という観念を持ち込み、「宗教」は仏教や神道のような“劣った”ものから、キリスト教のような「“ほんとうの”宗教」へと「進化」してきたなどと論じることで、一つのテキストのなかで①と②が同居することもあったのです[山口 1999: pp.31-40]。
「無宗教」の方がいいのだという「宗教語り」
さて、以上のように「文明」とキリスト教は不可分だから、日本はキリスト教を受け入れるべきだという主張が数多く存在していた一方で、キリスト教を受け入れなくても問題はないという主張も存在していました。
例えば、明治11(1878)年3月19日および20日の郵便報知新聞は、「宗教新論」というタイトルの社説で、キリスト教徒の主張する「宗教」と「文明」の結びつきに必然性はないと論じています。この社説は、日本の「文明」は「無宗教」の人物と社会状況がつくったものであり、日本にキリスト教が入ってくると将来の「開明」を邪魔し、「宗教軋轢」も生んでしまうと主張しています。郵便報知新聞は、同年9月6日の「耶蘇信徒ノ不所存」という社説でも、日本人にはすでに西洋人以上の「道徳」があり、「無宗教」でも充分に幸福を得ることができると論じています。これらの社説は、日本は「無宗教」であるという前提にたったうえで、「無宗教」でも「文明開化」に支障はないのだ、むしろ「無宗教」の方がいいのだという立場を示しています。
そういうわけで当時の日本には、
①キリスト教と「文明」は不可分である。だが、日本人は「無宗教」であり「文明」をもっていない。よって、日本はキリスト教を受け入れて「文明開化」を進めるべきだ。
②日本人は「無宗教」であるが、「宗教」と「文明」の結びつきに必然性はない。むしろ、「無宗教」だからこそ「文明国」たりうるのだ。
という異なる見解が存在していたことがわかります。ここで注意しておきたいのは、①と②は一見すると対立しているように見えますが、近代に新しく創作された「宗教」という概念を疑うことなく受け入れてモノをしゃべっているという点や、日本人は「無宗教」だという考えを前提にモノをしゃべっている点では同じだということです。この問題についてはまた後ほど述べることにします。
島地黙雷――「宗教」概念の創作と受容
ともあれ、明治初期の「宗教語り」は、キリスト教を強固な基準にしたものになりがちでした。キリスト教こそが「“ほんとうの”宗教」であってそれ以外は「宗教」ではないとされたり、「宗教」だとされたとしても「“劣った”宗教」だとされたりしたわけです。キリスト教こそが「文明」を体現しているとされるようになる一方で、こうした新しい価値観にそぐわないものは「淫祠邪教」とか「迷信」などといったレッテルを貼られて、排除され抑圧されていくことになります(この点については、またのちほど述べます)。
以上のようなわけで、明治初期の仏教は危機的な状況に置かれていました。廃仏毀釈にさらされ、上知令や寺請制度の解体といった仏教圧迫策をくらい、キリスト教の宣教師も公然と布教活動を始めるなかで、仏教の消滅すらささやかれたのです。こうしたなかで、仏教に大きな転機をもたらすことになった一人の僧侶が現れます。浄土真宗本願寺派僧侶の島地黙雷です。彼は、「国家と宗教」の関係に関する新しい設計図を描いて、卓越した政治力によってそれを実現し、近代の日本において仏教が占める領域を確保するうえで大きな役割を果たしました。
僧侶を評価するのに「政治力」ということばを用いることに違和感を覚える方もおられるかもしれません。「政治」と「宗教」は別のものであって、宗教家が政治に積極的に関与するのはよくない。宗教家の評価は政治力によって決まるものではないし、宗教家の政治力についてとやかく言うのは変だ。そのように考える方もおられるでしょう。
しかし、そもそもこうしたものの見方は、「政治」と「宗教」は別物だという思想を前提に据えることではじめて生まれるものです。これまでに何度も述べてきたように、「宗教」というのは明治以降に新しく創作された概念ですから、「政治」と「宗教」は別物だという考え方も、明治以前の日本にはなかったものです。島地黙雷は、religionという西洋の未知の概念を受け入れたうえで、「政治」と「宗教」は別な領域だという考え方を明確に主張して、それを人々に認めさせました。黙雷は、日本において「宗教」という概念が新たに創作され、「政治」と区別された「宗教」という新たな領域がつくられてゆくプロセスの渦中で、大きな役割を果たした人物なのです。
前回までのあらすじ
ここで、島地黙雷について述べる前に、前回のおさらいをしておきましょう。明治維新直後の日本では、西洋列強に対抗して独立を維持するために、「国民」としての一体感や、「国家」との一体感や、「国家」への忠誠心を人々が抱くようになることが急務であると考えられました。そのため、「国民」意識を形成するための教化運動が政府の主導で展開されていくことになります。
最初期の明治政府は、その教化運動を神道によって行おうとしました。「祭政一致」を掲げて神祇官を復興し、いわゆる「神仏判然令」を発するなど、神道に肩入れした政策を実行しました。明治2(1869)年には宣教使という官庁および職員を設置し、翌明治3(1870)年に大教宣布の詔を発しました。この詔は、宣教使が「惟神之大道」(神の御心のままの道)を布教することを命じました。開国後の日本では、キリスト教が西洋から流入・浸透し、人々が異国の教えになびいてしまうのではないかという懸念が存在していました。そこで、宣教使に「惟神之大道」を布教させて人々を教化し、それを通じて人々を「国民」として統合してキリスト教が流入するのを防ごうとしたのです。
しかし、「惟神之大道」を説くといっても、そもそも一体何を教えたらいいのか不明確だったうえに、人に教えを説くことを得意とする神職も不足していました。明治以前から人々に教えを説いてきた説法のプロである僧侶たちに比べると、神職たちは能力も経験も不足してたのです。特に地方では十分な教化体制が整えられず、あちこちで戸惑いや混乱の声があがりました。宣教使に「惟神之大道」を布教させる政策は成果をあげることができず、失敗に終わったのです。
結局、明治政府は政策を転換します。明治4(1871)年に神祇官は神祇省に改組され、翌明治5(1872)年3月にはその神祇省と宣教使が廃止されて、代わりに教部省という官庁と教導職という役職が設置されました。この教導職には神職だけではなく僧侶なども就任することになり、神職と僧侶が合同で人々を教化することになりました。つまり、神道に肩入れした政策から、神道だけでなく仏教も取り込んだ政策へと転換したわけです(政策転換後は、いわゆる「神仏判然令」のような極端な政策も見られなくなります)。明治6(1873)年に教部省は、東京の芝にある増上寺というお寺のなかに大教院(教導職を育成したり、人々を教化する活動を行ったりすることを目的として設けられた機関)を設置し、神仏合同の強化体制を整備していきました。
しかし、この体制においても教部省の方針が徐々に神道偏重へと傾いていき、神道が仏教よりも優位な状況になってしまいました。また、大教院の主な任務だった教導職の育成も、資金不足などの要因でうまく進みませんでした。肝心の教化活動についても、仏教側と神道側で教化の内容や方法などで足並みがそろわず、教化を行う側もそれを聞く側も混乱していました。
そういうわけで、政府内外から教部省および大教院に対する強い反対運動が巻き起こりました。反対運動の主な担い手となったのが、木戸孝允や伊藤博文などの長州出身の政治家と、彼らと親密な関係にあった島地黙雷です。黙雷は、長州閥の政治家たちとのあいだに太いパイプがありました。黙雷などの真宗関係者たちは、真宗を大教院から分離させる運動を展開し、さらに教部省および大教院の解体を訴えました。その後いろんなすったもんだの末に、明治8(1875)年に大教院は解散することになり、明治10(1877)年には教部省も廃止となりました(教部省の業務は内務省の社寺局という部署に引き継がれます)。
本願寺派の命運を託される黙雷
以上のことを踏まえたうえで、話を島地黙雷に戻しましょう。黙雷は、天保9(1838)年に周防国(現在の山口県東部)佐波郡の真宗本願寺派寺院である専照寺に生まれました。時代の転換期のなかで、仏教を改革する必要があると考え、明治以降に同じ本願寺派の僧侶の大洲鉄然(1834-1902)や赤松連城(1841-1919)とともに、西本願寺の改革を試みました。
周防国に生まれたことは、黙雷の生涯を大きく左右することになりました。というのも、当時の周防国は長州藩領であり、黙雷は明治以降に木戸孝允をはじめとする同郷の長州閥の政治家たちとのあいだに太いパイプを築き、政治力を発揮していくことになるからです(ちなみに、同じ長州出身の山県有朋も、黙雷の数か月後に生まれています。彼らが生きた時代がどのようなものであったか多少はイメージが湧くでしょうか)。
明治3(1870)年に、本願寺法主の大谷光沢(1798-1871)は、当時の真宗が直面していた4つの問題について、教団の指導的地位にあった人々に意見を求めました。4つの問題というのは、
①宗門改の廃止
②寺院の廃合
③神葬祭の問題
④布教
です。これに対して黙雷は、大洲鉄然とともに「建言 四ヶ条御垂問二奉答」という意見書をまとめました。結論から言うと黙雷は、①~③は緊急の問題のように見えるがそうではなく、④こそが仏教が生きるか死ぬかを決定する火急の問題だと主張しました。
まず、前回触れた①の宗門改については、元はといえばキリスト教が広まるのを防ぐために江戸時代に設けられた制度であり、仏教に特有のものではないから、キリスト教さえ防げれば必要ないと論じました。②の寺院廃合の問題についても、廃寺になるお寺にはそれ相応の理由があり、淘汰されてもやむをえないと断言しました。
③の神葬祭というのは、廃仏毀釈が激しい地域では、藩単位で葬儀を仏式から神式に切り換えようとするところも出てきたという問題を指します。黙雷は、この葬儀の問題についても、江戸時代に宗門改の制度によって寺院と葬儀が不可分に見えただけのことであり、必ずしも固執する必要はないと論じました。黙雷は、仏教にとって葬式は周辺的な問題にすぎないという見方を示したのです。宗門改どころか、葬式すらも江戸時代の一時的なものにすぎず、いざとなったらなくなってもかまわないという見方を示したわけです。仏教寺院が葬式を全く行わなくなった状態を想像してみれば、これは極めて大胆な主張だと言えます。ともあれ、葬儀はいざとなったら仏教になくてもかまわないものだという主張が明治3(1870)年の時点で早くも出現しているという事実は注目に値します。
このように、①~③は緊急の問題ではなく周辺的な問題だとされるのですが、④の布教については違うというのです。布教こそが仏教の存亡を決めるものだから、布教を存分に実践できる環境をつくるために、政府に対して寺院を管轄する官庁をつくるようはたらきかけるべきだ。そう主張したのです。これは、自由な布教ができれば、仏教が置かれた苦しい状況から挽回できるはずだという発想です。教えを説くという行為に仏教の核を見い出したことになります。
ここで指摘しておきたいのは、黙雷は布教を喫緊の問題として捉え、教え=「教」を核とする仏教観を発展させていく一方で、宗門改の廃止や寺院数の減少や葬儀といった、制度的な問題や儀礼の問題はいざとなったら捨て置いてもよく、仏教にとって二の次三の次の問題であるという見方を示しているということです。「教」を仏教のメインとなる核だと捉える一方で、制度的なものや儀礼はサブだとする傾向は、その後の黙雷の主張にも見られ続けるものです(このような見方がどういう問題を含んでいたのかということは、これから少しずつ述べます)。
ともあれ、黙雷と鉄然が提案した改革案は西本願寺の指導者たちにも支持され、二人は上京して、寺院を管轄する官庁を設けるよう政府に訴えることになりました。改革案が評価されたということもありますが、彼らが長州出身だということで、その人脈を見込んでの抜擢でもありました。かくして黙雷と鉄然は、宗派の命運を賭けて上京し、政府に対して運動を行うことになったのです。
黙雷と「教」の問題
黙雷と鉄然は長州閥の木戸孝允の信頼を得て、木戸の配下のようなポジションにあった伊藤博文や井上馨や山県有朋たちとも関係を密にしつつ、運動を続けました。すでに述べたように、最初期の明治政府は神道に肩入れした政策をとっていました。神職が宣教使になって「惟神之大道」(神の御心のままの道)を布教する体制がとられており、仏教は非常に苦しい立場に置かれていました。そうしたなかで黙雷たちは、仏教の立場を守るための活動を展開していったのです。ここで取り上げてみたいのは、明治4年9月に黙雷が提出した「教部省開設請願書」と呼ばれる建白書です。この建白書で黙雷は、ざっくり言うと次のように述べています。
キリスト教の勢いは日に日に盛んになっており、国家にとってこれ以上の害はない。だが、キリスト教の浸透を法律や刑罰で抑える政策をこれ以上続けることは、内外の状況が許さないばかりか、そもそも効果がない。「教」が人々の心に入り込むのを暴力で防ぐことはできないからだ。よって、キリスト教に対抗するには「教」をもってするしかない。布教によって対抗するしかない。だが、宣教使による国民教化は効果をあげていないから、仏教を採用して教化を行うべきだ。儒教・仏教・神道は、共通の敵であるキリスト教の浸透を防ぐために共同すべきである。よって、政府は儒教・仏教・神道を管轄する官庁を設けて、そのもとで三者がそれぞれ布教を行うことでキリスト教に対抗すべきだ。そのように主張したのです(黙雷は、新しい時代の仏教の役割をキリスト教を打倒することに見い出し、生涯にわたってキリスト教を敵視し続けました)。
この建白書で注目すべきことを二つ指摘しておきたいと思います。一つ目は、黙雷がこの建白書で、神道について次のように言っているということです(本稿では、これからいわゆる近代文語文の史料を見ていきますが、難しくてわからないという方は、読み飛ばして私が書いた本文だけを読んでも、話の筋はわかるようにしたつもりではいます。難しいという方はいったん読み飛ばして、気になった箇所だけを読むという形でもひとまずはいいかと思います)。
つまり、神道は、死後の世界やこの世のすべてを含んだものだが、国民教化を行ううえでは十分でない。なぜなら、神道は言語化された教義を備えておらず、「道」ではあるが「教」を欠いているからだ。神道は、人として守るべきことを諭し、因果の道理によって人々を導く「教」を欠いている。そのように言うのです。キリスト教という「教」の浸透を防ぐためには、「教」を欠いた神道だけでは不十分であり、「教」を備えた仏教と儒教の力も必要だという立場が見てとれます。
二つ目は、黙雷がこの建白書で次のように述べていることです。
ここに出てくる「政教ノ相離ルベカラザル、固リ輪翼ノ如シ」という一節は有名です。「政」と「教」は不可分な両輪のようなものだというわけです。さらに、多くの僧侶や寺院を改革するためには、「一大権力」を用いなければ不可能だとも言っています。ゆえに、儒教・仏教・神道を監督する官庁を設けて、仏教の改革を促す必要があるという話になるわけです。黙雷が構想した官庁は、仏教に介入して、仏教の変革を促すこともできるような、強大な権力をもったものだったのです。
つまり、黙雷はこの時点では、「政」が「教」に干渉することを否定していませんでした。「政」と「教」の分離を主張していなかったのです。両者は不可分だと主張しているのです(黙雷はこの時点では、現在の我々が言うところの「信教の自由」も主張してもいません。黙雷のなかには、そんな概念はまだ存在していませんでした)。
いずれにせよ、黙雷はこの時点では、神道・仏教・儒教の三者が一体となって日本をキリスト教の脅威から守らなければならないという立場をとっていたことになります。神道は「教」を備えていないから、神道だけでは日本を守るうえでは不十分だとは言っているものの、この時点では神道それ自体に対して否定的なことは言っていません。
黙雷のヨーロッパ体験――「宗教」概念の受容
黙雷によるこの提案は、木戸孝允や江藤新平に支持され、先ほど述べた明治5(1872)年3月の神祇省の廃止および教部省の設置へと、結果的につながっていくことになります。もっとも、教部省設置が実現した頃には、木戸孝允も黙雷もすでに日本にはいませんでした。というのも彼らはその後、西洋を視察するために海を渡ったからです。木戸孝允は、明治4(1871)年11月に日本を離れて、岩倉使節団の一員としてアメリカに向かいました。黙雷や鉄然たちも、その約二ヵ月後の明治5(1872)年1月に日本を離れて、西回りでヨーロッパへと向かいました。黙雷は、西洋を訪れた最初の日本人僧侶の一人となったのです。
ヨーロッパに到着した黙雷は、キリスト教の教会を見学したり、現地の学者に通訳を介して教えを受けたりしました(例えば、現地の学者にユダヤ教とキリスト教の違いであるとか、ギリシャ正教とカトリックの違いなどを質問したりしています)。岩倉使節団に加わっていた外交官の林董(1850-1913)に、イスラームを創始したムハンマドの伝記を翻訳してもらったりもしています。また、キリスト教各派の教会を実際に訪れて儀式に出席し、キリスト教を目の当たりにしました。黙雷は、キリスト教を現地で自分の目で目の当たりにした最初の日本人僧侶の一人になったのです。
本題はここからです。黙雷は、キリスト教のいろんな宗派の知識を得ただけではありませんでした。それらを説明する新たな枠組みを受け入れたのです。そう。黙雷はヨーロッパで、近代以前の日本になかった“religion”という新たな概念を受け入れていったのです。その結果黙雷は、先ほど見た明治4(1871)年の「教部省開設請願書」で示した立場を変えることになります。黙雷が、明治5(1872)年7月にロンドンでまとめた「教法ノ原」と「欧州政教見聞」という二つのテキストがあります。これらのテキストからは、黙雷の立場の変化が見てとれますので、後ほど見てみたいと思います。
黙雷がヨーロッパに滞在していた頃の日本の状況も見てみましょう。先ほど申し上げたように、黙雷がヨーロッパに渡る前に提示した「教部省開設請願書」は、教部省の設置につながりました。教部省とともに教導職が設置され、神職や僧侶などが教導職に任命されて、合同で人々を教化する役割を担うことになりました。さらに増上寺に大教院が設置されて、神仏合同の強化体制が整備されることになりました。
ところが、この体制においても神道が仏教よりも優位な状況になってしまいました。まず、教導職が人々に布教することを許された教えには厳しい制限があり、三条教則を布教しなければなりませんでした。三条教則というのは、政府が発布した新たな布教理念で、
〇敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
〇天理人道ヲ明ニスヘキ事
〇皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
の三条です。要は神道や愛国や天皇に関する教えを説けということで、僧侶にはなじみが薄い内容でした。また、増上寺の大教院では、神職と僧侶が合同で儀式を営むことになったのですが、それは非常に神道色が濃いものでした。増上寺にあった大教院の本殿には神道の注連縄が飾られ、中央に四神(天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照大神)が祀られ、神職も僧侶も一緒にそれを礼拝して祝詞を唱えるということが行われたのです。
ヨーロッパに滞在していた黙雷は、こうした教部省設置後の日本の現状を知って、不満をつのらせました。黙雷が「教部省開設請願書」を提出して、儒教・仏教・神道を一元的に管轄する官庁を設ける運動を行った目的は、キリスト教に対抗するために、僧侶が自由に布教を行うことができる環境をつくることでした。ところが、その目的は全く実現していない。これではキリスト教に対抗することなど到底できない。
そこで黙雷は、教部省政策を批判する活動を開始します。まずヨーロッパ滞在中に、三条教則を批判した「三条教則批判建白書」と呼ばれる文書を起草しました。その後、明治6(1873)年7月に日本に帰国すると、10月に「大教院分離建白書」を提出して、教部省および大教院を批判しました。こうして黙雷は、教部省および大教院を中心とした体制から浄土真宗を切り離して、独立させることを目指した運動(「大教院分離運動」と呼ばれています)の中心人物となり、やがて教部省および大教院の解体を主張するに至りました。黙雷は、この運動のなかで明治7(1874)年5月には、教部省と大教院による体制を根本からひっくり返そうとする構想を盛り込んだ「教部改正建議」という建白書も提出しています。
この運動の結果、いろんなすったもんだの末に1875(明治8)年に大教院は解散することになり、1877(明治10)年には教部省も廃止となりました(教部省の業務は内務省の社寺局というところに引き継がれます)。
そういうわけで、黙雷が起草したテキストを時系列に沿って並べると、以下のようになります(①と②はヨーロッパ滞在中に書かれ、③と④は帰国後に書かれた)。
①「教法ノ原」「欧州政教見聞」(明治5(1872)年7月起草)
②「三条教則批判建白書」
③「大教院分離建白書」(明治6(1873)年10月提出)
④「教部改正建議」(明治7(1874)年5月提出)
そういうわけで、本稿ではこうしたテキストに即して、黙雷がヨーロッパ体験を通じて立場をどのように変えたのかを見てみたいと思います。
敵でもありモデルでもあったプロテスタント
先ほど申し上げたように、黙雷はヨーロッパで、「宗教」という新たな概念を受容していきました。本稿をここまで読んでくださった方はもうお気づきかもしれませんが、その「宗教」という概念は、決して「客観的」で「中立的」で「無色透明」なジャンル概念ではありませんでした。黙雷がヨーロッパ滞在中にまとめた「教法ノ原」にはこうあります。
当時の西洋には、最先端の科学だった進化論を「宗教」にもあてはめて、「宗教」の歴史にも「進化」を見い出そうとする「宗教進化論」と呼ばれる「宗教語り」がありました。黙雷はこの「宗教進化論」をもとに、大昔の人々は知識に乏しく、山や川や草や木をすべて神だと見る多神教を信じていたが、そこから「文化」が開けて神の数が少なくなっていき、一神教が成立したというのです。つまり、「宗教」は多神教のような“遅れた”ものからキリスト教のような一神教へと「進化」してきたのだというのです。ここには、多神教は「“劣等”な宗教」であり、一神教の方が“優れている”という(現在の目から見れば問題のある)発想があります(なお、黙雷はヨーロッパ滞在中にダーウィンの進化論に触れています。黙雷は、進化論がキリスト教を攻撃するための強力な“釘バット”になりうることに気づいた日本最初の僧侶の一人でもあります)。
また黙雷は、仏教とキリスト教を比較したうえで、キリスト教が説く神による宇宙創造を否定し、「神が人を造ったのではなく、人が神を造ったのだ」(非神造人而人造神)と言っています。因果の法理を説く仏教の方が、キリスト教よりも優れているとも言っています[福嶋・二葉 1973: pp.189-191]。「仏教は、因果の道理を説く『合理的』な教えです。全知全能の神を立てる非合理的な『迷信』であるキリスト教よりも、仏教の方が優れているのです」などといった「仏教語り」は現在でも見られるものですが、ここにはそうした「仏教語り」の原型が見られます。
この問題の背景を少し述べると、黙雷はヨーロッパ滞在中に、フランスの宗教史家のエルンスト・ルナン(1823-1892)によるキリスト教研究を読んで、その影響を受けていました。ルナンは、近代科学によって証明できる事実のみが研究の対象になりうるという理由で、イエスの生涯を「実証的」かつ「合理的」に解釈し、聖書に描かれた奇跡を否定した人物です。1863年に『イエス伝』という本を出して、イエスを神の子としてではなく人間として描き、その神性を否定して物議をかもしました。
黙雷はヨーロッパでルナンが書いたものを(翻訳で)読んで、聖典を歴史的かつ文献学的に研究する姿勢を受容しました。そうやって、「宗教」の“正しさ”を「科学」や「合理性」というものさしによって計る新しい思考を身につけていったのです。
さらに黙雷は、カトリックとプロテスタントを比較し、プロテスタントは時代の情勢に適応している点でカトリックよりも優れているとしたうえで、(黙雷が属する)浄土真宗は日本のプロテスタントだと論じました。
真宗以外の仏教宗派は、いろんな仏や菩薩を拝み、占いや祈祷を行うことを許している。だが真宗は、占いや祈祷を禁じて阿弥陀仏という一仏に帰依するという点で、キリスト教が唯一の神を立てるのとほとんど同じだというのです。このようないくつかの共通点を並べたうえで、黙雷はこう言っています。
真宗は日本のプロテスタントであり、日本の「宗教」で進化の頂点に立つのは真宗である。日本が「文明開化」を進めるうえで最も適した「宗教」は真宗だと断言しているわけです。黙雷は、ヨーロッパ滞在中に書いた別の書簡のなかでも、次のように言っています。
日本に「宗教」らしいものは真宗以外になく、一神教でなければ世界では認められないが、幸いにも真宗は一仏を信仰するものであるというのです。
黙雷のこのようなものの見方は、明らかに西洋のキリスト教(のうわずみ)をものさしにしたものです。本稿のその3で扱った近代スリランカの仏教改革運動でも同じような光景を見た気がしますが、黙雷にとってキリスト教は、敵であると同時にモデルでもあったのです。ミもフタもないようですが、黙雷の論理は、仏教(特に真宗)はキリスト教(特にプロテスタント)に似ているから「宗教」であるという構造をしていたのです。「宗教」という未知の新しい概念を受け入れるというのは、西洋のキリスト教をものさしとしたイデオロギーを受け入れることでもあったのです。ここには、敵であると同時にモデルでもあるキリスト教を強固な基準として、キリスト教への近さをものさしにする思考法があります(真宗に都合のいいリクツになっているという点にも注意してください)。
「宗教」という概念の暴力性
裏を返せば、こうしたものの見方のもとでは、キリスト教に似ていないものは「宗教」ではないと“される”ことになります。つまり、神道や儒教などはキリスト教に似ていないから「宗教」ではないと“される”ことになるのです。実際に黙雷は、帰国後の「教部改正建議」で、神道は「宗教」ではないと明確に主張しています。
黙雷は「三条教則批判建白書」で、神道をボロクソにけなして、日本の神々を三条教則の「敬神」の対象とすることを強く批判しています。
「宗教」には開祖がいるものだが、神道にはそれが存在しない。八百万の神に帰依する神道は、ヨーロッパでは子供にすら笑われるような「未開」なものであり、「文明」の名に値するものとは到底言えない。そのように言うのです。黙雷は「教法ノ原」では、多神教は「“劣等”な宗教」だと言ってはいますが、神道に関しては直接的にはまだ何も述べていませんでした。その後に書いた「三条教則批判建白書」で、多神教は「“劣等”な宗教」であるという見方を、神道にあてはめたわけです。
「三条教則批判建白書」は、密教についても次のように極めて低い評価しか与えていません。
密教は、インドの卑しく程度が低い俗習と仏教を混ぜたものであり、「文明開化」の時代には禁止するのがいいとまで言っているのです。呪術や占いのような、人心をむしばんで惑わすものはぜんぶ「掃除」しちゃってかまわないとすら言っているのです。現在の目から見れば、これは恐ろしいことです。ここには、仏教を「合理」や「実証」によって歴史的に捉えて、仏教に古くからある“オリジナル”の要素と、後世の人々がつけ加えた要素を切り分けるべきだというものの見方が早くも見られます。このようなものの見方は、黙雷がヨーロッパでルナンを読んで身につけたものです。いずれにせよ、近現代の知識人によって繰り返し繰り返し語られ続けてきた、「密教は堕落した仏教である」という語り口が早くも出現していることは注目に値します。
このように、日本で「宗教」という新しい概念が創作されていく過程は、「客観的」で「中立的」なジャンル概念が一個増えたというだけの話では決してありませんでした。それは、キリスト教を強固なものさしとして、キリスト教(特にプロテスタント)に近いと“された”ものが「文明」の「宗教」だと“される”一方で、そこから外れたものが「野蛮」だと“されて”いくプロセスだったのです。キリスト教(特にプロテスタント)をモデルにして、「宗教」と「非宗教」が暴力的に切り分けられていく過程だったのです。キリスト教に近いものが「文明」の名に値する「宗教」だとされる一方で、キリスト教から遠いものは「非宗教」であり「野蛮」であるから「掃除」し排除してもかまわないとされたのです。
ヨーロッパ体験を通じた「政教相依」の変容
さて、黙雷が「宗教」という概念を受容することでもたらされたものを、別な角度からも見てみましょう。黙雷は、「三条教則批判建白書」の冒頭部で次のように言っています。
「政治」と「宗教」を混淆してはならない。「政治」は人の領域に属する事柄であり、(目に見える)「形」のあるものをコントロールする営為であり、一国の範囲に限定されたものであり、自分の利益になるよう努めることである。「宗教」は神の領域に属する事柄であり、「心」をコントロールする営為であり、国を超えた普遍性があり、利己的ではなく、他者の利益をはかろうとするものだ。そのように言っています。「政治」と「宗教」は別の領域であり、守備範囲が異なるというわけです。
黙雷はこの建白書で、教導職が説くべきだとされる三条教則では、「宗教」と「政治」が区別されていないと指摘しています。まず、三条教則の第一条の「敬神愛国」について言えば、「敬神」は「宗教」だが「愛国」は「政治」である。「敬神」は政府が新たに一つの「宗教」をつくって、人々に強いるものだ。第二条の「天理人道」も直ちに「宗教」だとは言えない。第三条の「皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守」するというのも「宗教」ではなく「政治」の領域に属する。「政治」と「宗教」は別の領域であるが、三条教則では「宗教」と「政治」が区別されていない。これでは、教導職が宗教家の仕事だけでなく、政治家の仕事まで請け負っているようなものだ。これでは「宗教」に本領を発揮しろといっても無理がある。よって、「宗教」のことは「宗教」にまかせる制度へと転換すべきである。黙雷はそのように主張したのです。
そういうこともあって黙雷は、ヨーロッパを視察する前は「政教一致」の立場をとっていたが、ヨーロッパ体験を通じて「政教分離」の立場へと転換したのだと言われることがあります。しかし、黙雷の政教論に関する研究が蓄積されていくと、そうした見方には問題があることが指摘されるようになってきました(例えば、[福嶋 1964]、[新田 1997]、[戸浪 2020]など)。というのも、ヨーロッパ体験後の黙雷は、「政治」と「宗教」は異なる領域であり、両者の守備範囲は異なると主張してはいるのですが、「政治」と「宗教」が国のためにお互いに協力しあうことは全く否定していないのです。むしろ、「政治」と「宗教」が助け合うことを積極的に肯定しています。実際、「三条教則批判建白書」にもこうあります。
ここには、「政治」と「宗教」がお互いに助け合うことで国は初めて国となり、人は初めて人となることができ、おのずと「文明国」になることができるという見方がはっきり表明されています。
また、黙雷は明治44(1911)年に亡くなっているのですが、その前年の明治43(1910)年にも次のように言っています。
このように黙雷は、「政治」と「宗教」は両輪のようなものであり、お互いに助け合うべきだという立場を生涯にわたって維持し続けたわけです。
先ほど少し触れましたが、当時は西欧諸国の憲法の多くに国教に関する言及があり、それが「政教分離」に反すると考えられていませんでした。当時の西欧諸国の多くでは、国教という次元が設定されていました。ですので、それを見てきた黙雷が以上のような発想に至ることは、必ずしも不自然なことではないわけです。
それでは、「政治」と「宗教」の関係に関する黙雷の立場は、ヨーロッパを訪れる前も後も全く同じなのかというと、もちろんそうではありません。先ほど述べたように、ヨーロッパを訪れる以前の黙雷は「教部省開設請願書」で、多くの僧侶や寺院を改革するためには、「一大権力」を用いなければ不可能だと言っていました。儒教・仏教・神道を監督する強大な権力をもった官庁が、仏教に介入して仏教の変革を促すという構想を持っていたわけです。つまりヨーロッパに渡る以前の黙雷は、「政」が「教」に干渉することを否定していませんでした。しかしヨーロッパ体験後の黙雷は、「政治」と「宗教」がそれぞれの役割の違いを承認しあって、相互に「不干渉」であることを前提に、お互いに協力すべきだという立場に変化したわけです。「政治」と「宗教」はお互いに助け合うべきだという発想は、ヨーロッパを訪れる前も後も変わらなかったし、もっと言えば一生変わらなかった。でも、そこに「不干渉」という新たな視点が加えられた。この点はヨーロッパ体験を通じた立場の変化だと言えそうです。
ともあれ、多くの研究者が指摘してきたことですが、黙雷の主張は、現在の我々が考えるような「政教分離」や「信教の自由」とは異なっていました。例えば黙雷は、キリスト教と仏教が日本で仲良く共存できるとは全く思っていませんでした。両者は水と油であり、片方が生きればもう片方は死ぬ。そのように考えていたのです。「政治」は「宗教」に介入すべきでなく、「宗教」のことは「宗教」にまかせるべきだという黙雷の提言も、キリスト教の浸透を防ぐという仏教の任務を遂行しやすい環境を整備するためのものでした。「宗教」は「政治」と別の領域であり、「政治」によって法律や刑罰でキリスト教を防ごうとしても不可能である。「宗教」には「宗教」で対抗するしかない。ゆえに、仏教がキリスト教の浸透を防ぐために立ち上がって、自由に布教を行う。そうやってキリスト教をやっつけて、人々を善良にする。そういう形で「宗教」と「政治」がお互いに助けあい協力しあうのだ。そういう論理なのです。
内面化される仏教
さて、黙雷のものの味方について、また別な角度から見てみましょう。先ほど見たように、黙雷は「三条教則批判建白書」のなかで、「政治」は「形」のあるものをコントロールする営為だが、「宗教」は「心」をコントロールする営為だと述べています。
これは、「宗教」を心の問題として定義したものです。「政治」は法律や制度などの外面的なことを担当し、「宗教」は良心や倫理などの内面的なことを担当するという切り分けを主張しているわけです。ここで重要なのは、黙雷にとって「宗教」というのは、個人の内面の問題に関するものだったということです。例えば、「三条教則批判建白書」にはこうあります。
「大教院分離建白書」では、端的にこう言っています。
「宗教」のキモは心を制御し正しいものにして、生死の問題について人を安らかにさせることである。「宗教」はそれ以上のものではないというのです。黙雷にとって「宗教」というのは、個人の「こころ」の問題に限定されたものなのです。先ほど見たように黙雷は、ヨーロッパを訪れる以前にまとめた「建言 四ヶ条御垂問二奉答」で、宗門改の廃止や寺院数の減少や葬儀といった制度的な問題や儀礼の問題はいざとなったら切り捨ててもよく、仏教にとって二の次三の次の問題であるという見方を示していました。制度的なものや儀礼は仏教にとって副次的なものにすぎないと考えて軽視する傾向は、西洋体験以前からあったと言えそうです。
黙雷は、「十七論題修斉通書」というテキストのなかで、「宗教」と「学問」の関係についても次のように言っています。
つまり、「学問」の対象は「事物」であるが、「宗教」の対象は(生前や死後や霊魂の問題のような)知りたいと思っても知ることができない領域であり、「信」を根拠とするものだというわけです。「学問」と「宗教」を混同してはならないというのです。
物質的な「文明開化」は、「学問」によって知識を磨くことに根ざしてなされる。精神的な「文明開化」は、「宗教」によって心を忠実にすることに根ざしてなされる。「宗教」による教化の任務は主に人々の心を善良にすることにある。そして、たとえ「宗教」であっても、「実理」に相反することを主張したり、「学問」を妨げることを主張してはならないというのです。
このように黙雷は、物質的な世界や外的な世界の説明は学問に任せて、「宗教」は精神的な世界や内面的な世界で人々を導けばよいという立場を示したのです。先ほど登場していただいたミハイル・ベルグンダーが言うように、19世紀には、自然界の物理的な現象の説明については近代科学にゆだねることを認めつつ、「宗教」という領域にはそれとは別の真理が存在すると主張するキリスト者たちが登場しました(領域分離)。これは、物質的な現象を説明することから手を引いて、「宗教」を個人の「こころ」のなかに位置づけたということです。近代科学による攻撃から「宗教」を隔離して、個人の内面へと撤退する戦略をとったわけです。黙雷の立場は、まさに19世紀の領域分離の流れの一コマだと言えます。
以上のような問題と関連することですが、黙雷は明治政府による神仏判然策を支持していました。例えば、「三条教則批判建白書」や「大教院分離建白書」にはこうあります。
先ほどから申し上げているように、黙雷は「宗教」というのは個人の内面の問題だという立場です。この立場でいくと、一人の人間が「こころ」のなかで信仰することができる「宗教」は一つしかなく、同時に二つ以上の「宗教」を信仰するのはおかしいという話になってしまうのです。カミとホトケが混淆していた明治以前の日本のあり方はおかしいという話になってしまうのです。実際に黙雷は、「三条弁疑」というテキストで次のように言っています。
このような見方は現在の目から見れば、イデオロギー的な偏りを含んだ問題のあるものだったと言わざるをえません。それによって切り捨てられたり隠蔽されたりしているものがあるからです。
前回述べたように、江戸時代の寺院は、葬儀や法事を担って人々の生死にかかわり、寺請によって檀家の身分を証明する「役所」であると同時に、今で言う「教育」や「福祉」や「商業」や「娯楽」などの非常に幅広い領域に浸透し、総合的な文化センターのような役割を担っていました。人々の精神的ケアを行う「よろず相談所」でもあり、縁切寺という形で困窮した女性が駆け込むシェルターとしても機能していました。寺院は、人々の生活の隅々にまでかかわる「公共施設」だったのです。仏法は、個人の「こころ」の問題だけでなく、葬式や法事や「教育」や「福祉」や「商業」や「娯楽」などの、外面的な「形」に属する領域に幅広くかかわっていたわけです。それは個人の「こころ」や内面的な信仰の問題というよりも、家や地域の問題だったわけです。亡くなった人を弔い、お墓を管理し、追善供養を行う。これは現在に至るまで、各地で見られる仏法の土台となる実践であり続けています。
ところが黙雷の立場でいくと、そうした外面的な「形」に属する多様な要素がすべて切り捨てられてしまうのです。葬儀をはじめとする儀礼のような要素は、黙雷が定義する「宗教」の範囲から排除されてしまうことになります。仏法を支えている土台となる実践が切り捨てられ、隠蔽されてしまうのです。内面的な「信仰」こそが仏教の「本質」であり、葬儀をはじめとする儀礼は「非本質的」なものとして軽視されることになってしまうのです。
これまでに述べてきたように、黙雷が提示した「宗教」という概念は、キリスト教(特にプロテスタント)を強固な基準として創作されたものでした。しかし、プロテスタンティズムを背景に創作された「宗教」というものさしは、多くのカミやホトケが混淆する日本の状況を理解するうえで不適切なものだったのです。近現代の日本では、実に様々な種類の「宗教語り」がなされてきましたが、そうした「宗教語り」が混乱しがちである一因は、近代に生まれた「宗教」という西洋中心主義的なものさしを疑うことなく、“自明の前提”として用いていることにあります。
令和の時代になっても、神道や儒教は「宗教」なのかそうでないのか、などといったことが問題になることがあります。このような前提からしておかしい問いが今でも問題になるのは、以上のような明治期の「宗教」という概念の受容の歴史が影を落としているわけです。「宗教」というキリスト教を背景に西洋で成立した概念をものさしにして、無理やり非西洋地域にあてはめようとするから、話がおかしくなってしまうのです。「〇〇は『宗教』なのかそうでないのか」という問い自体がそもそもおかしいわけです(こうした問題については、また後ほど述べます)。
黙雷の神道観について
さて、先ほど見たように、黙雷は「三条教則批判建白書」のなかで、八百万の神に帰依する「神道」は「未開」であると言ってボロクソにけなしていました。ただし、黙雷は「神道」と呼ばれるものを全否定したのかというと、そうでもありません。ここでは、黙雷の神道観について少し見ておきたいと思います。まず、黙雷が明治7(1874)年5月に提出した「教部改正建議」という建言にはこうあります。
また、同年9月の「教導職ノ治教宗教混同改正ニツキ」という建言には、次のようにあります。
これらのテキストで、黙雷は「治教」という概念を持ちだして、「治教」と「宗教」は異なるものだから、区別をはっきりさせるべきだと論じています。黙雷によれば、「神道」は「天皇による良い政治」や「朝廷の制度や法令」のことであり、「宗教」ではない。ところが神道家たちは、独自の説を立てて「神道」を「宗教」のように称している。「神道」を政治という領域の外に求めて、それを「宗教」だと誤認するのは、神道家の独自の説にすぎない。ましてや、それを「宗教」として「信仰」するよう強いることは、皇室に大きな災いをもたらすものである。黙雷はそのように言うのです。
さらに、「神道」=「治教」=「王政」=「開明の大道」という図式を立てて、他の国から良い制度や法律を採り入れたり、「電機気車艦」のような「文明」の利器を採り入れることも「神道」=「治教」の一部であると論じています。そして、この「神道」=「治教」=「王政」=「開明の大道」は、「宗教」ではないと言うのです。ここで「神道」=「治教」と「宗教」を切り分ける基準になっているのは、「幽明門戸ノ説」を説くかどうかです。つまり、生前や死後の世界について説くものは「宗教」であり、「神道」=「治教」ではないと言っているわけです。
かくして、「教部改正建議」で黙雷はこう主張します。教部省はまず「宗教」から撤退し、「宗教」のことは「宗教」にまかせるようにせよ。すると教部省には「治教」という仕事が残ることになるが、「治教」による国民教化は文部省の仕事である。よって、もはや教部省など不要である、と。このように黙雷は、教部省廃止に理論的な根拠を与えようとしたわけです。
黙雷の立場でいくと、「神道」=「治教」というのは、天照大神の神勅を奉じて、その子孫である天皇が良い政治を行ったり、良い制度や法律を整えたり、「文明」を採り入れたりすることだということになります。ぶっちゃけて言えば、その中身は「文明開化」とほとんど変わらないことになります。
また、黙雷の論理でいくと、生前や死後の世界について説く神道家や国学者は、「宗教」というフォルダに放り込まれて、政治の領域からシャットアウトされることになるという点も重要です。例えば、江戸時代後期の国学者・神道家の平田篤胤(1776-1843)は、死後の霊魂のゆくえについても思索を深め、当時は禁書だったキリスト教文献も読んでキリスト教の要素も取り込み(!)、新たな来世観を提示しました。こうしたものは、政治や「治教」の領域から締め出されることになります。黙雷の論理は、そういう神道家たちを構造的にシャットアウトするものになっているという点で、画期的なものでした。
黙雷が「神道」をどのように論じたのかをまとめてみましょう。
①「治教」=「天皇による良い政治」や「朝廷の制度や法令」=「文明開化」
②神道家たちの説
③神社や村の氏神に対する帰依
黙雷によれば、②は本居宣長とか平田篤胤とかその流れを汲んだ民間人などが勝手に立てた独自の説にすぎず、①とは関係がないことになります。③も「文明開化」の時代にふさわしくない「迷信」であり、①とは無縁だということになります。そうやって①と②③を切断したわけです。そして、①は「非宗教」であり、②を主張する輩が①を「宗教」と混同しているのはおかしいというわけです。
こうした黙雷の論理は、「文明開化」を進めて不平等条約を改正したいと考えていた明治政府にとっては、非常に受け入れやすいものだったと言えます。条約改正のテーブルにつけるような「文明国」を目指すとなると、どうしても「政教分離」や「信教の自由」の保障の問題も出てくるからです。黙雷の論理は、天皇の問題と「文明開化」を調和させるものとして、受け入れられやすかったわけです。
なお、以上のような黙雷の神道観は、「宗門教義上ニ相戻候大意」という文書にも見られるものです。この文書は、大教院分離運動が大詰めを迎えていた明治8(1875)年3月に、黙雷が起草して、浄土真宗本願寺派法主の大谷光尊の名義で三条実美に提出したものです。そこには次のようにあります。
天照大神は天皇の祖先であるから、どんな「宗教」を信じていようともそれを敬うのは日本が始まって以来のことであり、「国体」に基づくものである。真宗もこれを敬う。これは魂とか来世の救済といった話ではなく、「宗教」ではない。でも、神道家たちが『古事記』に基づいて造化三神(天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)を敬い、「宗教」みたいなことをやっているのは「国体」とは関係のないことだというのです。
伊勢神宮や天照大神に対する崇敬は日本の「国体」に基づくものであり「非宗教」であるから真宗としても崇敬するが、造化三神への崇敬は「宗教」であるとして、「宗教」と「非宗教」を“分別”しているわけです。繰り返しになりますが、これは浄土真宗本願寺派法主の大谷光尊の名義で提出された文書です。そのため、この「宗門教義上ニ相戻候大意」という文書は、真宗が初めて「神道非宗教論」を“公式に”表明したものだと言われることもあります。
小さな小さな「こころ」教
以上のように黙雷は、「宗教」という近代に創作された全く新しい概念が日本で受容されていく過程のなかで、大きな役割を果たしました。黙雷は、「宗教」というのは個人の「こころ」の問題に限定されたものだという新しいイデオロギーを提示したのです。物質的な世界や外的な世界の説明は学問に任せて、「宗教」は精神的な世界や内面的な世界で人々を導けばよいという立場を示したのです(ベルグンダーが言うところの領域分離)。そして「宗教」というのは、「治教」=「天皇による良い政治」「朝廷の制度や法令」=「文明開化」とは別な領域であり、両者は相互不干渉を前提にしたうえでお互いに助けあうべきだと言ったわけです。
これはある意味では、非常にものわかりがよく、羊のようにおとなしいものの見方だと言えます。というのも、黙雷が描いた設計図でいくのなら、近現代の日本において「宗教」が占める領域は、明治以前の仏法が占めていた領域と比べると、はるかに小さなものになるからです。「宗教」は個人の「こころ」の問題だということで、学問からも政治からもシャットアウトするというのであれば、葬式や法事を通じて人々の人生や生死にかかわり、「教育」や「福祉」や「商業」や「娯楽」などの外面的な領域に幅広くかかわっていた明治以前の仏法の姿は望むべくもないでしょう。
また黙雷は、「政治」と「宗教」は両輪のようなものであり、お互いに助けあうべきだという立場を生涯にわたって維持し続けました。「政治」と「宗教」は鋭く対立することもあるという視点は希薄なのです。言うまでもないことですが、実際には「政治」が「宗教」を弾圧することはあるし、それこそオウム真理教事件のように、「宗教」が「政治」に牙をむくことだってある。黙雷の立場は、「宗教」を「政治」に従属させかねない要素を孕んでおり、その後の近代仏教の歩みを見ると、それは現実のものになってしまったという見方もできそうです。
なお、明治期に活躍した僧侶のなかには、黙雷と正反対の立場をとった人もいます。例えば、黙雷より10歳ぐらい年上の真言宗僧侶で、本稿のその4でも登場してもらった釈雲照(1827-1909)は、「政教分離」を真っ向から否定しました。「日本の歴史を無視し、外国の「宗教」と日本の仏教を同一視してはならない。そもそも日本の仏教は、皇室の帰依によって成立したものである」というのです。雲照は、皇族や政府高官のなかに支持者を獲得し、明治初期に廃された皇室の仏教儀礼を復興するなどの成果をあげていきます。
そういうわけで黙雷は、「宗教」が社会のすべての領域に浸透していなければならないという「原理主義的」なものの見方からは程遠いところにいました。ゆえに政治的にも受け入れられた。それによって、近代の日本における仏教の存在感が小さいものになった面は否めません。でも、それは裏から言えば、政治や学問などの領域から区別された、「宗教」としての「仏教」という領域を(小さいながらも)安定的に確保し得たということでもあります。
井上円了の登場
ともあれ黙雷は、仏教もキリスト教と同じく立派な「宗教」であり、(「宗教」ではない神道や儒教と違って)キリスト教と同じ土俵のうえで戦える日本で唯一の存在だという議論をつくりあげました。ところで、先ほど述べたように明治初期の日本では、「文明」とキリスト教は不可分であり、「文明開化」を進めるためにはキリスト教を受け入れなければならないという主張が説得力を持っていました。黙雷の立場でいくと、このような主張に反論するのは少々厳しいものがあります。というのも、黙雷の議論はキリスト教をモデルとしたものであり、仏教はキリスト教と似ているから仏教も立派な「宗教」だという構造をしていたからです。これでは、せいぜい仏教はキリスト教と対等だと主張するのが関の山で、仏教はキリスト教より優れていると主張したり、「文明」を得るためにはキリスト教が必須だという主張に反論するのはちょっと苦しいと言わざるをえません。
しかしその後、この問題を「解決」する語り口を生み出した仏教者が現れます。彼は、非科学的な空想上の「宗教」であるキリスト教と異なり、仏教は科学の道理と矛盾しない学問的な「宗教」であり、「文明化」をすすめるうえで有用だと論じました。そうやって、新しい時代における仏教の立場を正当化してみせたのです。彼の名は井上円了(1858-1919)。彼の思想はその後、明治後期の近代的な仏教改革運動にも大きな影響を与えていくことになります。
井上円了は、寺に生まれ、寺に育ち、寺から離れ、そして仏教に「回帰」した人物でした。円了は幕末の安政5(1858)年、長岡藩西組浦村(現在の新潟県長岡市浦)で、浄土真宗大谷派の慈光寺というお寺に長男として生まれました。円了は寺の跡継ぎとして育てられ、真宗の「伝統的」な教育を受けました(結果的に円了はこのお寺を継ぐことはなく、弟が住職になったのですが)。
明治10(1877)年に、真宗大谷派が教団の未来を担う人材を育成するために行っていた英才教育の対象として選ばれ、京都に移りました。その翌年、教団の指令で東京へ留学するよう命じられました。そこで、開設されたばかりの日本最初の大学である東京大学の予備門を受験し、合格します。予備門での競争に勝ち抜き、明治14(1881)年には東京大学の文学部哲学科に進学しました。教団の期待を一身に背負いながら、エリートコースを歩んでいったのです。
東京大学で円了は西洋の様々な学問を学び、西洋の哲学書を中心に読書と思索を重ねました。その結果、彼が求めていた真理は、仏教にも儒教にもキリスト教にもないと考えるようになります。つまり、仏教は真理ではないとして、一度は仏教を捨てたのです(これは後に本人が『仏教活論序説』という著書のなかで語っていることです)。ところがその後、さらに西洋の哲学を学んでいるうちに、円了は仏教を再評価するようになっていきます。彼が真理の学問だと信じた西洋哲学を基準にして従来の「宗教」を見直したところ、仏教だけが哲学にも引けをとらない真理を含んでいると考えるようになっていったのです。西洋で探求されてきた真理は、数千年前の東洋にすでに存在していた(どこかで見たような語り口ですね)。自分は小さい頃にその真理に触れていながら、学識がなくそれに気づくことができなかった。しかし今、仏教が真理であることを発見した。これからは仏教をさらに改良して、「文明」の時代にふさわしい「宗教」にしていかなければならない。そのように考えるに至ったのです。
哲学化される仏教
円了は、明治19(1886)年から20(1887)年にかけて、『真理金針』と『仏教活論序論』という本を刊行しました。この二つの書物は、キリスト教を批判し、仏教はキリスト教よりも優れていると主張して、仏教を再生する計画を提示したものです。いずれもベストセラーになり、当時の革新的な仏教者の間で広く読まれました。円了はその後、『仏教活論序論』の主張を発展させた『仏教活論本論』という本も出しています。
ここでは、円了がこの時期に展開した議論について、今回扱っている問題に絡んでくるポイントに絞って、ごく簡単に記しておきたいと思います。円了は、『仏教活論序論』のしょっぱなで、次のように言っています。
仏教はヨーロッパの学問と一致することを発見したのだというのです(仏教と学問は一致すると論証することは、『仏教活論序論』のメインテーマの一つになっています)。その一方で円了は、『真理金針』のなかで、キリスト教が説く神による世界創造説を様々な観点から批判し非合理的であるとしたうえで、「文明の元素は耶蘇教自体中には寸分も」存在しないと言っています。キリスト教と「文明」との関係を切断したわけです。
円了によれば「宗教」は、昔の人の言うことをなるべく守り、疑いを捨てて安心を得ることに徹するものであり、「信」を本領とするのだそうです。それに対して哲学は、昔の人の言うことをそのまま受け入れず、疑いを起こして、新しい知や発見を求め続けるものなのだそうです。
円了は「哲学」と「宗教」をこのように区別したうえで、「宗教」には「哲学上の宗教」と「一般の宗教」という二種類があるとしています。「哲学上の宗教」は、合理的な思考によって自説の正しさを証明しようとする「宗教」のことであり、仏教の一部はこれに該当するそうです。それは、学問的な「理信」に基づいており、それを信じるべき理由を明らかにしたうえで信じられていく「宗教」です。一方、合理的な思考に基づかない愚か者たちの「宗教」は「妄信」に基づいているのだそうです。例えば、神が世界を創造したと聞いて、その原因を究明しないで信じ込んでしまうキリスト教のような「宗教」は、これに該当するのだそうです。
また円了は、仏教の哲学的な側面について論じる際に、仏教は「知力」と「情感」の両方を備えた「宗教」であるとも主張しています。例えば、華厳や天台や唯識や禅などの「聖道門」と呼ばれる宗派は、「知力の宗教」だそうです。これらの宗派では、自分で仏教の真理を学び、それを体得するための修行を行うことが求められます。一方、浄土宗や真宗のような「浄土門」と呼ばれる宗派は、「情感の宗教」だそうです。こちらは、自力で修行することができない者たちのために、阿弥陀仏の他力による救済がすすめられます。
これでいくと、仏教を「哲学上の宗教」たらしめているのは、「聖道門」であり「知力の宗教」だということになります。ただし円了は、この知力と情感の問題について、仏教は総体として知力と情感の両方にまたがる「宗教」として成り立っているとも指摘しています。知力と情感のバランスのとれた「宗教」である仏教は、情感だけの「宗教」であるキリスト教よりも優れているというのです。
円了によれば、「文明」がいくら進歩しても賢くならない人間は賢くならないから、「知力の宗教」のみを求めて「情感の宗教」を欠いてしまうのは好ましくない。「知力の宗教」には、必ず「情感の宗教」が伴っていなければならない。情感だけのキリスト教と違って、仏教は知力も備えているから、情感の側面を知力によって改善していくこともできる。最初は浄土門にしか入れなかった情感派の人でも、「知力の宗教」に近づいていくことは可能である。浄土門にも、あらかじめ知力の種が含まれている。こうしたところも、知力と情感を兼ね備えた仏教の優れた点である。
しかし、円了が語った知力と情感の両方を備えた仏教(理想)と、実際に当時の日本に存在していた仏教(現実)とのあいだには、ギャップがありました。そこで円了は、仏教を「文明開化」にふさわしいものに改良していくべきだと主張します。この仏教改良は、僧侶だけが担うべきものではない。日本で学問や教育に携わる者であれば、この任務を担うべきである。というのも、今の僧侶たちの多くは無知であり、時代状況を理解できておらず、自分たちだけで仏教改良のプランを立てることはできない。そこで、学のある者たちと僧侶が協力して、日本の仏教を守り、その心理を将来に伝えていく方法を模索していくべきである。そのように言うのです。
鏡像としてのキリスト教批判
以上のような円了の議論は、現在の視点から見れば、明らかに公平性を欠いたものだと言わざるをえません。実際にはキリスト教にも、哲学の理論を応用した神学の「伝統」はあるからです。キリスト教にも仏教と同様に、円了が言うところの「知力」を重視する流れがあることは明らかです。そういう点で、円了の議論は時代的な制約を抱えていました。
とはいえ円了はともかくも、西洋哲学を学びその枠組みを用いて、明快でロンリテキなことばでキリスト教批判を展開してみせました。キリスト教と「文明」は不可分だという主張が説得力を持っていた時代に、学問や哲学や「文明」などの領域とキリスト教を切り離して、そうした領域と合致するのはキリスト教ではなく仏教だという議論を構築してみせたのです。その点で円了は、キリスト教に対して感情的に反発することしかできなかった仏教者たちとは異なっていました。このような言論を展開した円了の姿は、海の向こうから「西洋文明」と“セット売り”で上陸してきたキリスト教に反感を抱いていた仏教者たちにとって、輝かしく映ったことでしょう。
「仏教は、全知全能の神を立てるキリスト教のような非合理的な迷信とは違います。仏教は因果の道理を説く合理的なものであり、科学とも矛盾せず、キリスト教よりも優れているのです」などといったような「仏教語り」は、今でも本屋や図書館やいんたあねっとなどでよく見かけるものです。井上円了は、「“本来の”仏教は、『合理的』で『科学的』で『哲学的』なものである」といったような、今でも本屋や図書館やいんたあねっとで見かける「テンプレ仏教語り」を創作し、日本にもたらした最初の人物の一人なのです。ちなみに円了は、仏教が説く因果の法則は物理学のエネルギー保存則とよく似ており、仏教と科学は同じ原理を別の形で表現しているとも言っています。これも今でもよく見かける語り口です。
“分別”されゆく「宗教」と「非宗教」
ともあれこれで仏教者たちは、キリスト教に引け目を感じることなく、仏教も立派な「宗教」であると主張することが一応可能になりました。キリスト教と仏教は、いずれも「宗教」というジャンルに含まれるという考え方が成立していったわけです。現在では、キリスト教と仏教はどちらも「宗教」であると聞いても、「当たり前のことじゃないか」としか思わない人が多いでしょう。しかし、これまでに述べてきた経緯から明らかなように、元々は当たり前のことでは決してなかったわけです。
「宗教」という概念はキリスト教(特にプロテスタント)を背景に新しく創作された概念であり、キリスト教を強固な基準とした概念でした。キリスト教というものさしを基準にして、仏教は「宗教」ではないと主張する西洋人やキリスト者もいたことは、すでに見たとおりです。事態の推移によっては、仏教が「宗教」ではないと“される”方向に進むということも、当時であればありえないことではなかった。黙雷や円了のような浄土真宗関係者の言論もあって、仏教は「宗教」だと“される”方向に進んだのです。
いずれにせよ、キリスト教と仏教は「宗教」だと“される”ことになりました。そうすると、「宗教」というのは何なのかというと、つまるところキリスト教や仏教のようなもののことだという話になってきます。そこから、キリスト教と仏教に共通する要素を備えているものが「宗教」だという考え方が成立していきます。つまり、「(キリスト教や仏教のように)教義や教団組織があって、生前や死後の問題について語り、布教や葬儀などを行うもの」が「宗教」だと“される”ようになったわけです。逆に言えば、こうした要素を備えておらず、例えば神道や神社のように教義も教団組織もはっきりしないように見えるものは、「宗教」ではないと“される”ようになったということでもあります。明治期の日本は、神道や神社を「非宗教」として扱う方向に進んだのです。
「宗教」概念の創作と表裏一体で創作される「神社非宗教論」
現在では、神道や神社は「宗教」ではないと言われると、違和感を覚える人の方がおそらく多いでしょう。「当時を生きた誰かが、神道や神社は『宗教』ではないという変な詭弁を創作したのではないか」と思う方もおられるかもしれません。しかし、当時の感覚ではおかしなことではありませんでした。何度も申し上げているように、そもそも「宗教」という概念自体が、当時の人々にとっては未知の新しいものであり、「宗教」の範囲も流動的であやふやでした(現在でも流動的であやふやですが)。
当時の人々が、キリスト教を強固な基準にしたこの未知の概念を受容するために試行錯誤を重ねていった結果、「(キリスト教や仏教のように)教義や教団組織があって、生前や死後の問題について語り、布教や葬儀などを行うもの」が「宗教」だと“される”ようになっていきました。そして、神道や神社はこの条件にあてはまらないということで、「非宗教」だと“された”のです。我々の「常識的」な感覚と、当時の人々のそれが同じだと思ってはいけません。そもそも当時は「宗教」という概念のイメージが、現在とはだいぶ異なっていたわけです。
明治期に、神社は「宗教」ではないと論じた人物を列挙すると、井上毅、伊藤博文、元田永孚、佐々木高行、久米邦武、福沢諭吉、陸羯南、島地黙雷などがいます。念のために申し上げておくと、彼らは政治的な立場も「宗教」的な立場も全く異なる人々です。例えば、元田永孚や佐々木高行は神祇官の再再興を主張した人々です。久米邦武は、明治25年の「神道は祭天の古俗」という論文を神道家たちに非難され(今風に言うと「炎上」して)、帝国大学教授の地位を追われた人物です。少し前まで1万円札に印刷されていた福沢諭吉は、仏教からも神道からも距離を置いていた人です。島地黙雷は真宗僧侶であり、近代の日本において仏教が占める立場を確保すべく活動した人です。もっと言えば、キリスト教徒や、幕末以降に日本を訪れた西洋の人々も、神道は「宗教」ではないと主張していたことは、すでに見たとおりです。
このように、神社は「宗教」ではないという見解は、立場の違いを超えていろんな人々に共有されていました。誰かが「神社非宗教論」という詭弁を創作して、こうした立場も背景も全く異なる人々すべてに対して広めて洗脳していったのだ、などという「陰謀論」のようなストーリーは当然ながら成立しません。我々の「常識的」な感覚と、当時の人々のそれが同じだと思うと、誤った結論に至ってしまうわけです。
ひょっとしたら、以上のような説明では「いまいち納得できない」という方もおられるかもしれません。この問題はまた次回詳しく扱いますので、納得できないという方がおられましたらもう少しお待ちください。
布教と葬儀――教導職をめぐって
ともあれ、「宗教」と「非宗教」を“分別”するものさしとして浮上してきたのが布教と葬儀です。布教や葬儀に関与するものは「宗教」で、関与しないものは「非宗教」だと“される”方向に向かったわけです。以上のような背景のもあって、政府は神社を行政上「非宗教」として扱う方向に進むことになります。井上円了の時代から少し時計の針を戻して、話が布教と葬儀の問題に収斂していく流れを見てみましょう。
島地黙雷を中心にした真宗による大教院分離運動もあって、すったもんだの末に明治8(1875)年5月に大教院は解散します。神仏が合同で国民を教化する体制は、わずか3年ほどで終わったのです。同年11月には、以下のような「信教の自由保証の口達」が出されました。
「行政上ノ裨益」(行政を助けること)とか、「朝旨ノ所在ヲ認メ」るとか、「人民ヲ善誘」するとか、政治を「翼賛」するといった条件をつけたうえでの「信教ノ自由」を認めるというのです。これは現代の我々が考えるような「信教の自由」とは異なりますが、政府はその後、各宗派の教義や布教に直接関与することは控えるようになっていきます。明治10(1877)年には教部省も廃止となり、教部省の業務は内務省の社寺局という部署に引き継がれました。
かくして、神仏合同の教化体制は終わり、仏教と神道は別々に布教を行うことができるようになりました。ただ、大教院や教部省はなくなりましたが、三条教則の教化に従事する教導職は(形骸化しながらも)存続することになりました。神職も僧侶も、教導職に就いて教化を行う点には変わりはありませんでした。
ここで、当時の神職や僧侶がどのような立場に置かれていたのかを少し確認してみましょう。かつて教部省は、明治7(1874)年4月に説教者を教導職補以上に限るという通達を出していました(教部省達書乙第9号)。また、同年7月には、寺院の住職は教導職試補以上に限るという通達も出していました(教部省達書第31号)。これらの措置によって、僧侶の実質的な任免権は政府によって掌握されることになりました。
つまり、大教院や教部省がなくなっても教導職は存続していたし、その任免権は政府が握っていた。それを通じて政府は、布教が許される僧侶やお寺の住職の実質的な任免権を握っていた。これは運用次第では、仏教各宗派の自治や人事を脅かすことになりかねません。そこで浄土真宗はその後、教団の自治権を獲得するために、教導職の制度を改革するよう求める運動を行っていくことになります。
また、教部省が解体された明治10(1877)年の時点では、僧侶も神職も葬儀を行うことが認められていました。この点について説明するために少し時計の針を戻すと、僧侶や神職に依頼せずに自分で葬式を行うことは、明治5(1872)年に禁止されていました(いわゆる自葬の禁止)。逆に言えば、神職は神葬祭を行うことが許されたということです(その後明治7年には、僧侶や神職でなくても、教導職であれば葬儀を行うことができるようになりました)。よって、この時点では神職は、神社に属して祭祀に携わると同時に、教導職に就いて布教活動を行う立場にあり、葬儀を行うことも許されていました。以上のような状況を踏まえたうえで、その後の展開を見ていきましょう。
祭神論争に揺らぐ神道界
大教院が解体されて神仏合同の教化体制の時代は終わりました。教導職の制度は維持されたままでしたが、仏教と神道は別々に布教を行うことができるようになりました。その後の仏教教団は基本的には、各宗派がそれぞれ独自の路線で活動していくことになります。神職たちは、神道事務局という新たな組織を設立して、布教活動を行うことになりました。
ところが、神道事務局にあった神殿に、どのような神様を祀るかという議論が発端となって、祭神論争と呼ばれる論争が起こりました。神道事務局には造化三神(『古事記』で高天原に出現し、万物を生み出す根源になったとされる天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の三体の神様)が祀られていたのですが、死後の世界を司る大国主神もあわせて祀るべきだとする出雲派と、それに反対する伊勢派が争い、神道界を二分する大論争に発展したのです。
この論争は明治13(1880)年ごろにクライマックスに達し、明治14(1881)年のはじめに神道大会議というイベントが開催されて議論が行われたものの、収拾がつきませんでした。神道界の内部だけでは問題を解決することができずに、紛争の裁定が政府へと持ち込まれて、同年2月に明治天皇の裁定をあおぐ形で一応は収束しました。
神職たちがそれぞれ独自の教義を主張し、それを布教して対立抗争するようになるということは、神社が「宗派」へと分裂していくことを意味します。そこで、祭神論争の過程で、神道家に自由な布教を許し、「宗教」(だと“される”)活動に従事のを許しているとまずいのではないかという声や、このままでは天照大神の権威すら傷つきかねないという声が各所から上がり始めるようになります。
先ほど述べたように、現状では、神職は神社に属して祭祀に携わる一方で、教導職として布教や葬儀といった「宗教」(だと“される”)活動も行っている。このまま「宗教」(だと“される”)活動を許しているとまずいのではないか。よって、神職が教導職に就任するのを禁止して、布教や葬儀に携わるのをやめさせる必要があるという話になってくるわけです。
神道家による「神道非宗教論」――祭政教の一致
ここで、話が布教や葬儀の問題に収斂してくる過程を少しのぞいてみましょう。祭神論争の過程で、神道家のなかから「もはや布教を神道家だけにゆだねているわけにはいかない」という主張が台頭してきます。例えば、神道家の本居豊穎(1834-1913)や戸田忠友(1847-1924)などの6人が連署して上申した「神道之儀ニ付上申」という明治13(1880)年12月の建白書があります。この建白書は、ざっくり次のように主張しています。神道は「国体」の命脈であり、神道家がそれぞれの教義や持論を主張し、四分五裂の状態に陥った現在の神道事務局の状態のままではまずい。そこで、神道を「篤志者」や「有識者」にだけ任せるのはやめて、祭祀大権・政治大権・教義大権を一つにまとめて、天皇みずからその大権を執行すべきだというのです。つまり、祭政教の一致を主張したのです。
この建白書は、明治5(1872)年に神祇省が廃止されて教導職が置かれたことで、神道は「宗教」に陥ってしまったとも言っています。また、神道のことを「神道大教」とも呼んでいます。神道は本来は「宗教」ではなく「大教」であり、「宗教」よりも優れたものだというのです。よって、この建白書が主張している「祭政教の一致」というのは、祭祀と政治と「宗教」の一致ではなく、祭祀と政治と「大教」の一致だということになります。
このような主張の流れに連なる「大教官設置建言書」という建白書があります。この建白書は、丸山作楽(1840-1899)が立案し、千家尊福(1845-1918)と田中頼庸(1836-1897)が署名して、明治14(1881)年2月に政府に提出したものです。千家は出雲派のリーダー的存在で、田中は伊勢派のリーダー的存在で、丸山は祭神論争の仲裁に関与した神道家です。この建白書には次のようにあります。
神道は、人知によって捏造された「宗教」と同一視できないことは明らかだというのです。つまり、神道は「宗教」ではなく、「宗教」よりも優れたものだと言っているわけです。これは、先ほどの「神道之儀ニ付上申」と同様の立場です。実際、この「大教官設置建白書」でも、神道は「宗教」ではなく「大教」と呼ばれています。つまり、この建白書によれば、神道=「大教」=「非宗教」だということになります。
そしてこの建白書は、天皇が「大教」を行うために、「大教官」という機関を新たに設置することを提案しています(これを「大教官構想」と言います)。この建白書も「神道之儀ニ付上申」と同様に、天皇のもとで祭政教の一致を確立する構想を提示したものなのです。
また、丸山作楽が起草したとされる「大教官組織大目」には、「教導職ニ補セサル者ハ、神官ニ任セス」とあります[藤井 1971: p.4]。神職は教導職でなければならないというのです。当時の神道家たちは、神職と教導職を切り離すべきではないと考えていたのです(この点は重要なので、念頭に置いておいてください)。神道思想史を専門とする佐々木聖使(1954-)は、「神道之儀ニ付上申」と「大教官設置建白書」に言及し、明治15年以前の神道人のほとんどは、祭政教の一致を主張していたと指摘しています[佐々木 1985: pp.89-97]。
真宗関係者による「神道非宗教論」――政教分離・祭教分離と葬儀という「利権」
さて、この問題について政府に提言を行ったのは、神道家だけではありませんでした。真宗勢力も、祭神論争による神道界の混乱を眺めたうえで、この問題について政府に建白運動を展開していったのです。明治14(1881)年3月に、真宗大谷派僧侶の渥美契縁(1840-1906)と鈴木慧淳が出した建白書があります。この建白書は、島地黙雷の「神道非宗教論」と同様の見解が見られるうえに、その後の政策に影響を与えていますので、少し見てみましょう。そこには次のようにあります。
神道は国家の儀礼であって、(天皇による)祭祀や施政以外のものではないというのです。そのうえでこの建白書は、明治維新以降に神道が祭祀や施政の枠を踏みこえて、「宗教」のようになってしまったと言っています。
明治維新以降、神職も僧侶も教導職に就くことになった。神職が講社を結成して布教を行ったり、葬儀を行うようになったりして、来世の問題に関与するようになり、「非宗教」である祭祀や施政の枠を踏みこえて「宗教」のようになってしまった。そう言うのです。建白書はこうした事態について、次のように言っています。
「信教の自由」がある以上、どんな「宗教」を「信仰」するかは各自に任せるしかない。よって、神道が「宗教」だということになったら、それを信仰せずに「国体」を見下すのも各自の自由だということになってしまう。よって、神道を「宗教」のような状態のまま放置しておくと、(天皇や「国体」の権威が傷ついて)大変なことになるぞ、というわけです。やや脅迫めいた、圧をかけるような言い回しです。
この建白書では、先ほど見た島地黙雷の「神道非宗教論」と同様の見解がとられています。
①「治教」=「天皇による良い政治」や「朝廷の制度や法令」=「文明開化」
②神道家たちの説
③神社や村の氏神に対する帰依
黙雷は、②は本居宣長とか平田篤胤とかその流れを汲んだ民間人などが勝手に立てた独自の説にすぎず、③も「文明開化」の時代にふさわしくない「迷信」だとして、①と②③を切断しました。そして、①は「非宗教」であり、②を主張する輩が生前や死後の世界について説いているのは「宗教」であるとして、両者を混同するなと主張しました。黙雷の論理でいくと、生前や死後の世界について説く神道家や国学者は、「宗教」というフォルダに放り込まれて、政治の領域からシャットアウトされることになります。渥美契縁と鈴木慧淳による建白書には、このような黙雷の主張と同様の方向性をとっていると言えます。
かくして、この建白書は次のように提案します。
教導職を廃止して、神道から「宗教」的な要素をすべて取り除き、主に祭祀のみを行わせて、仏教には布教に従事させろ。「非宗教」と「宗教」の“分別”を明確にしろというわけです。
真宗関係者がこのような主張を行った背景には、葬儀の問題も絡んでいました。もともと江戸時代においては、仏教寺院は寺檀制度のもとで葬儀をほぼ独占していました。葬儀を行うのはほとんど僧侶の専売特許だったわけです。ところが、先ほど触れたように明治5(1872)年には神職も葬儀を行えるようになり、僧侶の経済的な基盤を脅かし始めていました。地域によっては、村単位で仏式から神葬祭に変わった例もありました。
真宗関係者が「神道非宗教論」を主張した背景には、葬儀という江戸時代以来の既得権益を守るために、神職を葬儀から締め出そうとする意図もあったのです。ミもフタもないようですが、真宗関係者が唱えた「神道非宗教論」は、「神道家や神職がワシらのシマを食い荒らすのは許さん」というポジショントークとしての側面をも孕んだものだったのです[佐々木 1985: pp.102-104]。
さて、以上のように神道家や真宗関係者は、祭神論争の過程で「神道非宗教論」を主張しました。ここで注意しなければならないのは、神道家の「神道非宗教論」と真宗関係者のそれは全く異なっていたということです。
神道家たちの唱えた「神道非宗教論」は、神道は「宗教」ではなく「大教」であり、「宗教」よりも優れたものであるとしたうえで、祭政教一致を主張したものでした(ここで言う「教」というのは、「宗教」ではなく「大教」)。また先ほど述べたように、当時の神道家たちは、神職と教導職を切り離すべきではないと考えていました。
これに対して真宗関係者が唱えた「神道非宗教論」は、政教分離・祭教分離の立場でした。神道は「非宗教」であるから、神職は布教や葬儀に関与すべきではない。「宗教」と「非宗教」の“分別”をはっきりさせろ。教導職を廃止して神職を布教や葬儀から切り離すべきだ。そのように主張するものでした。二つの「神道非宗教論」は、いずれも神道は「宗教」ではないと主張していることだけは共通していますが、その中身は全く異なっていたのです。
「神道非宗教論」から「神社非宗教論」へ――神官教導職分離
結論から言うと、二つの「神道非宗教論」に直面した政府は、おおむね真宗関係者の主張を受け入れる方向に進みました。祭政教一致ではなく、政教分離・祭教分離の立場で、神職と教導職を切り離す方向へ進んだのです。明治14(1881)年10月に内務卿に就任した山田顕義(1844-1892)は、同年12月に神職と教導職の分離を太政大臣の三条実美に上申しました(国立公文書館蔵『公文録』2A-10-公3231「神官教導職区分ノ件」)。この上申によれば、
〇明治5年から神官はすべて教導職を兼ねてきたが、「司祭ノ職分」である神官と、「宗教者ニ付スルノ職名」である教導職はもともと性質が異なる。神官が教導職を兼務する措置は、もはや当を得たものではない。
〇祭典と教務を混同させたままでは、再び祭神論争のような「宗教忿争」を引き起こしかねない。その災いが祭神に及ぶ危険性がある。
〇教導職には徴兵免除の特権もあり、多くの神官が教導職を兼務した状態は、兵制の面から見て得策ではない。
よって、神職と教導職を分離すべきだというわけです。この上申は太政官で審議され、明治15(1881)年に神職による教導職の兼務が禁止され、官国幣社の神職が布教や葬儀を行うことが禁止されました(「官国幣社」ということばについては、次回説明します)。これは神社を「宗教」という枠の外に置こうとする措置でした。「祭」祀と宗「教」を分離する方向へと進むことになったのです(祭教分離)。こうして神道事務局の指導者の神道家たちは、
①「非宗教」だと“された”祭祀に従事する
②「宗教」活動だと“された”布教や葬儀に従事して「宗教家」として生きていく
の二択を迫られることになりました。布教や葬儀に従事することを望んで②を選んだ人々は、神道事務局から独立して、独自に教団を組織して「宗教」としてやっていくことになります。例えば、同年5月には神道神宮派・神道大社派・扶桑派・実行派・神習派が、神道事務局から独立しています。彼らは後に教派神道と呼ばれ、およそ13の教団が公認されていくことになりました。これに対して①の方向性は、神社神道と呼ばれました。かくして、神道界は「宗教」だと“された”教派神道と、「非宗教」だと“された”神社神道に分化していくことになったのです。
ただしこのとき、諸社(次回説明します。とりあえず、大多数の神社はこの諸社にあたると思っていただいて大丈夫です)の神職については「当分従前之通」とされました。つまり、当面は布教や葬儀を行っても大目に見るということです。諸社は「非宗教」だと“されて”いるにもかかわらず、「宗教」活動だと“される”布教や葬儀を行っても大目に見られるという状態になりました。これまでに見てきたリクツでいくと、これは矛盾だとしか言いようがないのですが、この状態が続いていくことになります。
さて、その後仏教各宗派が教導職の廃止を求めたことも功を奏して、明治17(1884)年には教導職も廃止され、自葬も解禁されます。先ほど述べたように、教導職の任免権は政府にあったので、僧侶の実質的な任免権は政府が握っていました。でも、その教導職もついに廃止されたわけです。これ以降は、仏教各宗派と教派神道各派の人事権は、国家が管理するのではなく、各派の管長に委任されることになりました。そして、各派が定める教規や宗制や寺法と呼ばれる教団法と、それに基づいた教団を政府が公認することとなりました。かくして、仏教各宗派および教派神道各派は、管長権と教団法を制定する権限を認められ、自治的な教団運営を進めていくことになったのです(これを管長制と言います)。
歴史学者の山口輝臣(1970-)は、次のように指摘しています。
「宗教」という概念自体が当時の人々にとっては未知の新しいものだった。神社は「宗教」ではないと“された”と聞くと現代人は違和感を覚えるが、未知の概念を試行錯誤を通じて受容していった当時の人々の感覚ではおかしなことでもなかった。「宗教」という未知の新しい概念を受容していく過程のなかで、「神道非宗教論」や「神社非宗教論」も生まれた、といったことは先ほど述べたとおりです。
本願寺の分裂抗争
さて、祭神論争で神道界が大きく揺れていたのとほぼ同じころに、島地黙雷が属する真宗本願寺派も揺れていました。先ほど見たように黙雷は、イエスの生涯を「実証的」かつ「合理的」に解釈したエルンスト・ルナンの研究に接触し、たとえ「宗教」であっても、「実理」に相反することを主張したり、「学問」を妨げることを主張してはならないと論じていました。新しい時代に対応するためには、教義に新しい解釈をほどこすのは当然だという立場も示していました。
黙雷は、宗派内の一部から異安心ではないかという疑いをかけられることになります(異安心というのは、ざっくり言うと真宗における「異端」のことです)。この背景には、長州出身の僧侶たちが西本願寺の要職を占めていることに対する反発もありました。かくして黙雷は、明治11(1878)年に京都の西本願寺で尋問を受けることになります。しかし、審判を担当したのが大洲鉄然や赤松蓮城といった黙雷に近い人々だったこともあり、異安心ではないとされました。このことは、長州系僧侶に対する反発をますます強めました。
こうした反発に、真宗本願寺派法主の大谷光尊も合流します。光尊は、それまで法主の専権事項だと思われていた異安心の判定まで制約されるなど、法主の権限が制限される状況に不満を抱いていました。そのため同年8月に黙雷は議事局主事の役職を解任され、東京での布教活動も中止するよう命じられました。
翌明治12(1879)年になると、光尊は東京の築地本願寺におもむきました。そのうえで、そこに改正事務所を設置して本願寺派僧侶の北畠道龍(1820-1907)をその総轄に任命し、京都の西本願寺の議事局と行事局は廃止して役員はすべて解職すると宣言しました。これに対して西本願寺の役員たちは、法主から直接話を聞くまでは職務を続けるとして、命令を事実上無視しました。こうして西本願寺は、東京と京都に分裂して抗争を繰り広げることになったのです。
抗争の過程で、東京と京都の両派が新聞で投書合戦を行い、黙雷のプライベートな事情まで世間に暴露されたりしました。また、両派とも自分たちと親しい政治家を味方につけて、相手をやっつけようとしました。内ゲバが泥沼の様相を呈するようになったのです。最終的には、大谷光尊が岩倉具視の説得を受け入れる形で京都に戻り、分裂は収束します。結果的に、長州系僧侶は打撃を受けることになりました。
「木戸孝允と比べ、その後継者ともいうべき伊藤博文は、宗教に期待するところが明らかに小さい」という点については、後ほど述べることとも絡んできますので、頭のスミにでも置いておいてください。
明六社の人々による「宗教語り」
さて、これまでに見てきたのは、主にキリスト教関係者や仏教関係者や神道関係者などによる「宗教語り」です。それ以外のインテリによる「宗教語り」も少し見てみましょう。ご存じの方も多いかもしれませんが、森有礼(1847-1889)という人の呼びかけによって、明治6(1873)年に組織された明六社という学術団体があります。西洋の学問や知識や思想を紹介し、「文明開化」の風潮をリードした団体だと言われています。少し前まで1万円札に印刷されていた福沢諭吉とか、先ほど登場してもらった島地黙雷もこの団体に加わっていました。明六社は『明六雑誌』という雑誌を発行して、様々な問題を論じていました。その様々な問題のなかには“religion”も含まれており、明六社に集まった人々のあいだでも意見が分かれていました。
例えば、先ほど登場してもらった津田真道は『明六雑誌』で、“religion”を「法教」と訳し、日本が近代化を進めるために導入すべき要素であると主張しました。津田は、神仏しか持っていない日本の人々は愚かな「半開化」の民であり、キリスト教が「文明の説」に近いから、国家をあげてキリスト教を採用すべきだと述べています。キリスト教によって「文明開化」を進めるべきだというわけです。
これに対して西周(1829-1897)は、“religion”を「教門」と訳し、「政治」と「教門」は別であるという考え方をとって、国家が「教門」を国民に強制すべきではないと論じました。
津田と西の意見を受けて、森有礼は次のように述べています。
見てのとおり、森有礼は“religion”を「宗教」と訳しています。以上のように津田・西・森の三人は、“religion”という概念に対して、「法教」・「教門」・「宗教」という異なる訳語を与えているわけです。先ほども申し上げましたが、“religion”という概念は当初は、このように様々に訳されていました。「宗教」という訳語はそのなかの一つにすぎず、いろんな対抗馬が存在していたのです。こうした試行錯誤の末に、“religion”という未知の概念の訳語が最終的に「宗教」に落ち着くのは、明治10年代になってからだというのがほぼ定説になっています。
とはいえ、これまでに見てきた明六社の人々は、(黙雷も含めて)“religion”を「政治」という領域との関係で考え、“religion”を個人の領域に関わるものだと捉えていることは共通しています。言い換えれば、“religion”というのは個人の内面的な営為であるという語り口が形成されつつあったということです。
宗教学者の磯前順一は、以上のような問題についてこう述べています。
これは非常に重要な指摘だと思われます。興味深いことに、“religion”は、「教法」「聖道」「教門」「法教」「教法」「奉教」などなど、様々に訳されていたのですが、「信心」とか「信仰」(しんぎょう)といった訳語があてられることはほとんどなかったようです。江戸時代においては、「信心」や「信仰」といったことばは仏教に限らず、(現在我々が用いている概念で言うと)「民衆宗教」とか「民間信仰」などと呼ばれる領域をも含んだことばでした。
ところが、「信心」とか「信仰」といったことばが、“religion”の訳語として顧みられることはなかった。これは、“religion”という概念が、「民衆世界」から隔たった概念的世界で受容されていったことを意味すると磯前は指摘しています[磯前 2003: p.38]。「宗教」という概念は、インテリたちによって紙の上で創作され広まっていった面が強いということなのでしょう。
さて、もう一つ指摘しておきたいのは、彼ら明六社の人々は「教」ということばを用いる際に、現在我々が用いている概念で「宗教」と呼ばれている領域と、「教育」とか「道徳」と呼ばれている領域をはっきりと“分別”しているわけではないということです。
例えば福沢諭吉の場合だと、明治8(1875)年に出した『文明論之概略』のなかで「徳教」という概念を用いています。福沢はこの「徳教」という概念のなかに、「耶蘇の教」「神道」「仏法」を含めると同時に、「徳義」(今で言う「道徳」)も含めています。この時点では、「政」と「教」は別な領域だとする発想はあっても、現在の我々のことばで言う宗「教」も「教」育も「教」に含まれており、両者は未分化だったわけです。
ついでに言うと、明六社のメンバーだった西村茂樹(1828-1902)は、『日本道徳論』(1886年)という本のなかで、「世教」と「世外教」という概念を用いています。「世教」は現世的な「教育」や「道徳」を説くものであり、「世外教」は来世とか魂について説くものだというわけです。我々のことばで言う「教育」や「道徳」の領域と、「宗教」の領域がはっきりと“分別”されておらず、「教」という概念でまとめられていたがために、こんなことも起きていたわけです。
こういったことは、明治政府による教部省政策にも言えることです。先ほど見たように、教部省・大教院の体制のもとでは、教導職は三条教則を説かなければならなりませんでした。教部省は、三条教則が具体的にどういうものなのかを示した「十一兼題」や「十七兼題」というものを出しています。
「十一兼題」というのは具体的に言うと、「神徳皇恩ノ説・人魂不死ノ説・天神造化ノ説・顕幽分界ノ説・愛国ノ説・神祭ノ説・鎮魂ノ説・君臣ノ説・父子ノ説・夫婦ノ説・大祓ノ説」です。現在の我々が用いている概念で言うと、「政治」や「道徳」や「教」育に属するような事象も入っていれば、神や死後の問題のような、宗「教」に属するような事象も入っています。三条教則の「教」においても、やはり我々のことばで言う「教育」や「道徳」の領域と、「宗教」の領域がはっきりと“分別”されていなかったわけです。
ともあれ、日本において“religion”という未知の概念がどのように語られていったのかを見てきました。そうやって新しく生まれた「宗教語り」は、実に多様でした。「文明」とキリスト教は不可分だから、キリスト教を国教にすべきだと主張する者もいました。そうした議論を逆手にとって、キリスト教は「非合理的」であり、学問や哲学や「文明」などの領域と合致するのはキリスト教ではなく仏教だという主張する井上円了のような人もいました。明治の最初に再興された神祇官が、神祇省、教部省を経て内務省社寺局になってしまったことに満足せず、「祭政一致」を目指して神祇官の再再興を主張する人もいれば、「祭政一致」はすでに実現していると考える人もいれば、そんなことはどうでもいいと考える人もいた。
こんな具合に、「政治」と「宗教」の関係をめぐっては、いろんな人がいろんな「宗教語り」を生み出しました。それでは、「政治」は「宗教」を結局どのように扱う方向に進んだのかを見てみましょう。
「宗教/教育・道徳」の分化
仏教でも神道でもなく――伊藤博文が行きついた“境地”
時は明治21(1888)年6月。枢密院で憲法を制定するための審議が行われようとしていました。審議の開会にあたって、枢密院議長であり憲法の起草者でもあった伊藤博文は、明治天皇も同席するなかで、こう宣言しました。
このたび憲法を制定するにあたっては、我が国の機軸となるものが一体何なのかを確定しなければならない。ヨーロッパでは、憲法政治が芽生えて千余年が過ぎており、制度に習熟しているだけでなく、「宗教」というものがあってそれが機軸となっており、「宗教」が深く人々の心に浸透し、人々の心が一つにまとまっている。だが我が国の場合、仏教も神道もよわよわで、国家の機軸になりそうにない。だから、仏教でも神道でもなく、皇室を機軸にするしかない。そのように言ったのです。言うまでもないことですが、ここには仏教やキリスト教を国教化する意図は見られません。そして、神道や神社を国教扱いしたり保護・優遇したりする意図も全く見られません。
思い返せば、明治維新以降いろいろありました。神祇官が再興され、いわゆる「神仏判然令」が出されるなど、神道に肩入れした政策が打ち出された時代もありました。教部省・大教院のもとで神仏合同の教化体制がとられた時代もありました。しかし、そうした神道や仏教を動員した国民教化は、成果をあげることができずに失敗に終わりました。
また、大教院分離をめぐるすったもんだや祭神論争や真宗本願寺派の分裂抗争などなどを経て、「神道や仏教にヘタに介入すると大やけどを負いかねない」とか「神道や仏教は、国家を左右する重大事を託すには値しない。それだけの力はない」といった見方も出てきます。そういうわけで、神道でも仏教でもなく、皇室でやっていくしかない。それが、大日本帝国憲法を起草した人々が最終的に行きついちゃった“境地”だということになります。
ドイツの憲法に学び、お雇い外国人などの意見を踏まえ、伊藤博文と井上毅(1844-1895)が議論を重ねて誕生したのが、大日本帝国憲法第28条です(井上は、伊藤のブレーンとして活躍した法務官僚です)。
この第28条が、いわゆる「信教の自由」を条件つきで定めたとされていることは周知のとおりです。憲法の準公式解説書であり、伊藤博文の著作という形で出版された『憲法義解』は、この条文について、本心の自由は国家が干渉できないものであり、国教を国民に強いることは人知の発達や学術の「進歩」を阻害するものであると述べています。同書は、このように信教の自由や政教分離の原則を示しつつ、どんな信教があっても「臣民の義務」からは逃れられないとも述べています。
また、明治23(1890)年に発せられた教育勅語は、「宗教」ではなく天皇や皇室を機軸にするという方向性で、国民を統合しようとしたものだと言えます。ごくごく簡単に教育勅語の成立について見ておくと、文部大臣の芳川顕正(1842-1920)のもとで、教育の基礎となる「箴言」がつくられることになり、中村正直・元田永孚(1818-1891)・井上毅(1844-1895)の3人と、首相の山県有朋が関与しました。先ほど見たように、中村はキリスト教国教化論者でした。元田は明治天皇の側近で、神祇官の再再興を主張した儒学者です。井上毅は、伊藤博文のブレーンとして活躍した法務官僚で、大日本帝国憲法や皇室典範の起草に加わった人物です。
まず中村が草稿を起草して山県に提出したのですが、これを見た井上が批判を加えて自分の草案を提示し、この2つの案とは別に元田が草案を起草しました。やがて中村案は廃案となって井上案が採用され、これに元田が修正を加えるという形で教区勅語が成立していきました[小川原 2023: pp.57-61]。そういうわけで井上毅という人は、我々が知っている教育勅語にほぼ近い原案を描いた人だと言えます。
井上は、明治23(1890)年6月20日付の山県有朋にあてた書簡のなかで、教育勅語を作成する際の7つの注意点をあげています。そのうちの2つ目・3つ目・5つ目・7つ目にはこうあります。
「敬天尊神」などといったことばは避けなければならない。「宗教」上の争いを引き起こす火種となりうるからだ。また、特定の宗派を喜ばせて、他の宗派を怒らせるようなニュアンスではいけない。特定の哲学上の理論や漢学や西洋思想なども盛り込むべきではない。そのように言うのです。これはまさに、「宗教」ではなく皇室でいくしかないという伊藤博文の宣言の方向性に則ったものです。井上の基本的なスタンスは、教育勅語は天皇が社会に対して下すものだから、特定の大臣や学者の思想や立場を反映したものであってはならないし、逆に特定の学説を排除するようなものでもいけないというものでした。
結局のところ政府は、西洋の政教分離や信教の自由といった西洋の考え方や制度を学んで、仏教や神道を通じて国民教化を行う路線から撤退していったのです。仏教からも神道からも距離を置いて、学校教育の場で教化を行おうとする路線をとるようになったのです。つまり、教育勅語や、学校に配布された御真影(天皇の肖像写真や肖像画)や、歴史教育など、「非宗教的」な回路を通じて教化を行おうとする方向に進んだわけです(ただし、こうした政策を受けとる側がどう考えたのかは、また別の問題です。その後内村鑑三不敬事件が起き、言論界を広く巻き込んだ「教育と宗教の衝突」と呼ばれる大論争に発展したりするのですが、このあたりの問題は次回以降に譲ることにします)。
その後も政府は、「宗教」と「教育」の分離を推し進めていきます。例えば、明治32(1899)年には、次のように定めた「一般ノ教育ヲ宗教外ニ特立セシムル件」(文部省訓令第12号)を発しています。
官公立学校はもちろん、「学科課程ニ関シ法令ノ規定アル」私立学校についても、「宗教教育」や儀式を禁止したのです。結果として、法令の規定下にあったキリスト教系の中学校は打撃を受けることになりました(なおその後、青山学院や明治学院などによる抗議や欧米諸国への配慮から、文部省は訓令の適用を緩和せざるをえなくなります。こういったことの背後には条約改正の問題があったりするのですが、本稿では割愛します)。
先ほど触れたように、明六社の人々は「教」ということばを用いる際に、現在我々が用いている概念で「宗教」と呼ばれている領域と、「教育」とか「道徳」と呼ばれている領域をはっきりと“分別”していたわけではありませんでした。宗「教」も「教」育も「教」に含まれており、両者は未分化でした。しかしここまでくれば、「宗教」と呼ばれる領域と、「教育」とか「道徳」と呼ばれる領域がはっきり分かれたと言えます。「宗教」は学校の「道徳教育」のような公的領域からシャットアウトされて、あくまでも私的領域に属するものだということになったわけです。そして、私的領域においては「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由」があるということになったのです。
ざっくりまとめると
そういうわけで、明治時代前半の政府による「宗教」政策の変遷をざっくりまとめると、
①神道に肩入れして、いわゆる「神仏判然令」などの極端な政策を実行した時代
②教部省・大教院のもとで神仏合同の教化体制がとられ、神道だけでなく仏教も体制に取り込もうとした時代
③政教分離や信教の自由といった西洋の考え方や制度を学び、仏教からも神道からも徐々に距離を置いて、干渉を控えるようになっていった時代
という時系列で進んだことになります。
ここまで読んでくださった方のなかには、こんな疑問や違和感を抱いた方もおられるかもしれません。「近代の日本では、神道や神社が手厚く保護され優遇されていたというイメージがある。政府が神道から距離を置くようになったという見方はおかしいのではないか」と。
実はこの問題については、ここ数十年のあいだに実証研究が進んで、一般的なイメージとはかなり異なる像が専門家に共有されつつあります。しかしそれについて述べているとものすごく長くなってしまうので、次回詳しくお話しします。モヤモヤしている方もおられるかもしれませんが、少々お待ちください。
20世紀の新しい「宗教語り」をめぐって
「無宗教」と『日本主義』
さて、これまでに見てきたように明治時代前半には、「文明」とキリスト教は不可分だから、キリスト教を国教にすべきだという「宗教語り」が存在していました。キリスト教は「非合理的」であり、学問や哲学や「文明」などの領域と合致するのはキリスト教ではなく仏教だという「宗教語り」も存在しました。しかし、こうした語り口によってキリスト教は正しいとか、仏教は正しいと主張することが困難であることも、徐々に明らかになってきます。
まず、近代科学が普及し、進化論や唯物論や無神論なども輸入されると、キリスト教をはじめとする「宗教」は、むしろ近代科学と相いれない時代遅れのものだという考え方がでてきます。そうすると、「文明」や「学問」などの領域と「宗教」との結びつきは何ら自明なものではないと考えられるようになってきます。
そうした西洋思想の導入もあいまって、「宗教」を時代遅れの「迷信」扱いする流れが強まり、明治30(1897)年には「無宗教」を掲げる『日本主義』という雑誌が創刊されます。これは、東京帝国大学教授の井上哲次郎(1856-1944)や、その弟子の木村鷹太郎(1870-1931)などが創設した大日本協会という団体の機関誌です。井上哲次郎については今回は深入りしませんが、キリスト教は必ずしも「文明」には結びつかず、むしろ国家や教育勅語に反すると論じて、キリスト教を攻撃した人です。木村は、「宗教」を国家に有害な「迷信」だとみなして攻撃し、日本には「無宗教家」が多く、「宗教」ではなく「道徳」によって社会の秩序が保たれてきたと論じました。
また、『日本主義』に関わっていた心理学者の竹内楠三(1867-1921)は、この雑誌の第1号で、小学校教育の場で「堅実なる無宗教的道徳を涵養する」ことを主張しています(竹内楠三「普通教育と宗教」、p.112)。竹内はさらに、「自ら宗教国と称する欧米」ですら、教育を完全に「宗教」から独立させているとしたうえで、学校で「宗教教育」を行うことを禁止すべきだと主張しました(竹内楠三「宗教学校に対する文部省の方針」、p.19)。先ほど見たように、政府はこの時代に「一般ノ教育ヲ宗教外ニ特立セシムル件」(文部省訓令第12号)を発して、学校での「宗教教育」や儀式を禁止しています。竹内の主張は、「宗教」と「教育」の分離が強力に推し進められていく流れと一致していました。
ともあれ、以上のような「宗教語り」によれば、「宗教」は時代遅れの「迷信」であり、「文明国」になるうえでは「無宗教」の方がよいのだということになります。
従来の「宗教語り」の限界
さて、キリスト教と「文明」は不可分だという議論や、仏教こそが「文明」の時代にふさわしいのだといった議論は、こういったこととは別な面でも困難を抱えていることが徐々に明らかになってきます。
例えば日本は明治27(1894)年に起きた日清戦争に勝利し、明治37(1904)年に勃発した日露戦争にもどうにか勝利し、不平等条約の改正も成し遂げます。こうした出来事を通じて、日本も「文明国」の仲間入りを果たしたと考える人も出てきます。そして、そのように考えるのであれば、「キリスト教と『文明』は不可分だ」などという語り口は全く説得力がありません。キリスト教なんかなくても、日本は「文明国」になれたじゃないかという話になるからです。
そもそも「Aは『文明』と合致する」という語り口は、「文明」というのは輝かしいものであり、日本は「文明」を手にしていないから、「文明開化」を進めるのは正しいという前提に支えられているがゆえに力を持っていました。よって、その前提が崩れて、Aがなくても日本は「文明国」になったと考えられるようになれば、そうした語り口も力を失わざるをえません。この語り口は、「文明開化」という名のイデオロギーの価値が下落すれば、それにともなってAの価値も簡単に下落してしまうという弱点を抱えていたわけです。
さて、明治時代後半には、「宗教」は「文明開化」に役立つとか、「宗教」は「学問」と調和するといった、従来の「宗教語り」とは異なる新たな語り口が登場しますので、ここで見てみましょう。
姉崎正治――個人の「宗教的意識」
明治時代後半に、新たな「宗教語り」を提示した人物としてまず紹介したいのが、姉崎正治(1873-1949)です。姉崎は、東京帝国大学に日本初の宗教学講座を開設し、日本宗教学会の初代会長となり、近代日本において宗教学の確立に努めた人物です。聖徳太子奉讃会や帰一協会などの、(インテリを中心とした)「宗教運動」や「道徳運動」にも積極的に関与しました。日本の政府や社会に影響を与える立場にあった、非常に政治的な性格の知識人だったと言えます。
これまでに見てきたように、そもそも“religion”というのは、人類が時代や地域を超えて普遍的に抱く概念ではなく、近代に新しく創作されていった概念です。そして、言ってみれば当たり前のことではありますが、“religion”について研究しようとする動きは、“religion”という概念が誕生して初めて出てくるものです。つまり、「宗教学」というのも近代に生まれた割と新しい学問分野なわけです。本稿では深入りしませんが、宗教学者のエリック・シャープ(1933-2000)は、西洋において誕生した初期の「宗教学」が、植民地支配の拡大と手をたずさえて成立し、非西洋地域の「宗教」現象を、キリスト教を頂点とする「宗教進化論」のなかに「“劣った”宗教」として組み込んでいったことを明らかにしています[シャープ 2023]。「宗教学」という分野もまた、近代的な知に基づいた新たな構築物なのです。
そういうわけで、日本における「宗教学」という名の“制度”やその問題点について論じるためには、その確立に関わった姉崎正治を避けて通ることはできません。しかし、ここでは姉崎の思想をめぐる論点に網羅的に触れる余裕はもちろんありませんので、姉崎が「宗教」という概念にどのような新しい語り口をもたらしたのかという点に話を絞って簡潔に述べることにします。
姉崎は、明治33(1900)年に『宗教学概論』という本を出して、こう宣言しています。
自分の学問の目的は、「宗教」の「本質」を認識することを目的にするというわけです。そして、「宗教現象の根柢は個人の意識にあり」と言っています[姉崎 1982: p.15]。つまり、「宗教」の「本質」は個人の意識にあるのだというのです。そして、そうした「宗教的意識」は、人間がみんな生まれながらにしてもっている性質だというのです。我々の目に見えるキリスト教や仏教などの個々の「宗教」(姉崎はこれを「成立宗教」と呼んでいます)は、「宗教的意識」が外面的な現象としてあらわれ出たものなのだそうです。
我々の目に見えるキリスト教や仏教やイスラームなどの「成立宗教」は多種多様であり、いろいろと違いがあります。しかし、姉崎は「宗教」を「本質」(「宗教的意識」)と現象(「成立宗教」)からなるものだとみなし、目に見える「成立宗教」は、その「本質」である「宗教的意識」からあらわれ出た現象だと論じたのです。この見方でいくと、キリスト教や仏教などの個々の「成立宗教」の違いは、「宗教的意識」が異なる形で社会にあらわれ出たものであって、その違いは相対的なものにすぎないことになります。そうした多種多様な「成立宗教」という現象を生み出す根底にある「本質」は同じだということになります。
宗教学者の磯前順一は、次のように指摘しています。
姉崎にとっては、キリスト教や仏教といった個々の「成立宗教」の教団を絶対視するような「信仰」は、表面的な現象にとらわれたものであり、「宗教」の「本質」から目をそらさせるものでした。彼にとって重要なのは、教団という表面的な現象ではなく、そうした現象を通じてあらわれ出る個人の「宗教的意識」の深さだったのです。このような語り口は、「宗教」を教団を単位として捉えるのではなく、個人を基本として捉えたものだと言えます。
ただし姉崎は、目に見える「成立宗教」の教団を全面的に否定しているわけではありません。というのも、姉崎にとっては、「成立宗教」の教団や儀礼といった目に見える現象は、個人の「宗教的意識」に基づいたものです。ですので、個々の「成立宗教」(現象)を「比較」することを通じて、それらの根底にある「宗教的意識」(「本質」)を解明することができるということになります。よって「宗教学」は、「本質」(「宗教的意識」)と現象(「成立宗教」)の両方を研究するものだという話になるわけです。
とはいえ、個々の「成立宗教」は、どれも「宗教的意識」が社会にあらわれ出たものであり、数ある形のうちの一つにすぎないことにはなります。姉崎は、「成立宗教」が排他的な「信念」を抱いたり、古典を偽造したりするなどして自分の「信仰」にいたずらに拘泥すると、「病態」に陥るとも言っています[姉崎 1982: p.405]。
姉崎は、「宗教」について端的にこう語っています。
ところで姉崎は、現在の我々の目から見るとミもフタもないようですが、次のようにも言っています。
つまり、人間の根底には普遍的に「宗教的意識」があって、それが「社会的事情」に応じて外面にあらわれ出て発達していくのだというのは、「宗教学」が実験や観察を通じて発見した法則ではなく、あくまでも假定だというのです。姉崎宗教学は、この假定によって成り立っていたわけです。そもそも「宗教」という概念は、時代や地域を超えて人類が普遍的に抱くものではなく、近代に新しく創作されたものだということを現在の我々は知っています。よって、現在の我々から見ればこの假定には大いに疑問の余地があるわけですが、ともかくも姉崎は以上のように言ったわけです。
新しい「宗教語り」と「神社宗教論」
さて、姉崎の「宗教語り」は、従来のそれとは異なっていました。明治時代前半に登場した、「宗教」は「文明開化」に役立つとか、「宗教」は「学問」と調和するといった「宗教語り」と異なっていることは言うまでもないでしょう。重要なのは、姉崎の見解は、「『宗教』というのはキリスト教や仏教のようなものだ」という従来の考え方とも異なっていたということです。
すでに述べたように、明治時代前半の(広い意味での)「政治」を通じて、キリスト教や仏教は「宗教」だと“される”ことになりました。「(キリスト教や仏教のように)教義や教団組織があって、生前や死後の問題について語り、布教や葬儀などを行うもの」が「宗教」だと“される”ようになったわけです。逆に言えば、こうした要素を備えておらず、神社のように教義も教団組織もはっきりしないように見える神社は、「宗教」ではないと“される”ようになったということでもあります。これが明治時代前半までの話です。
でも、「宗教」をそのように捉えるのではなく、姉崎のようにすべての人間の根底にある「宗教的意識」を「本質」とするものだと捉えるのであれば、話は変わってきます。教義や教団組織があるとか、布教や葬儀を行うといった条件を満たしていなくても、人間の根底にある「宗教的意識」からあらわれ出たものであれば、すべて「宗教」だと言えることになるからです。
従来の見方では、「宗教」だと“される”ものの範囲は、キリスト教や仏教のようなものだと“されて”いました。現在の我々がイメージするような「宗教」の範囲よりも、はるかに狭かったわけです。「宗教」という概念は、当時と今とではだいぶ異なっていたのです。しかし、姉崎のような見方をとれば、キリスト教や仏教を「宗教」と「非宗教」を“分別”する基準に設定する必要は全くなくなり、「宗教」だと“される”ものの範囲は、大幅に拡大されることになります。
もうお気づきの方もおられるかもしれません。姉崎のようなスタイルの新しい「宗教語り」は、神道や神社も「宗教」であるという見方を可能にするものだったのです。神道や神社も「宗教的意識」からあらわれ出たものだということになるからです。「宗教運動」や「道徳運動」にも積極的に関与した天下の東京帝国大学教授が、このような新しい「宗教語り」を提示したというのは大きなものがあります。かくして、神社もまた立派な「宗教」であるという見方がもたらされることになりました。大ざっぱな言い方をすれば、19世紀の「宗教語り」と20世紀の「宗教語り」には断層があるわけです。
現在では、神社は「宗教」ではないと言われると違和感を覚える人の方がおそらく多いでしょう。これは、20世紀の新しい「宗教語り」が広く浸透した結果にほかなりません。一方で、「神社は仏教やキリスト教と比べると『宗教』っぽくないと言われれば、そんな感じがしなくもないな」などと漠然と思う方もおられるかもしれません。これは、19世紀のキリスト教や仏教を基準にした「宗教語り」の流れを汲んだものだと言えます。
私に言わせれば、神社は「宗教」であるという見解は、正しいわけでもないし、正しくないわけでもありません。神社は「非宗教」であるという見解も、正しいわけでもないし、正しくないわけでもありません。そもそも、「神社は『宗教』なのかそうでないのか」という問い自体がおかしいのです。問い自体が疑似問題であり、成立していないのです。
繰り返しになりますが、「宗教」という概念は、キリスト教(特にプロテスタント)を強固な基準として創作されたものでした。しかし、プロテスタンティズムを背景に創作された「宗教」というものさしは、日本の状況を理解するうえで不適切なものだった。
しかも、その「宗教」という概念は、何ら固定的で確固としたジャンル概念では全くなく、19世紀の「宗教語り」と20世紀の「宗教語り」は大きく異なっていたりする。我々は「『宗教』の『本質』とは何か」などと平気で口走ったりするけど、「宗教」という近代に新しく創作された概念は全く固定的なものではなく、時代によって異なる中身が“政治的に”盛り込まれることで、大きく変化してきているわけです。「『宗教』の『本質』とは何か」などという問い自体がそもそもおかしいのです。このような問題の多い概念を疑うことなく、日本で見られる現象に乱暴にあてはめようとするから、話がおかしくなってしまうわけです。
「神社は『宗教』なのかそうでないのか」「儒教は『宗教』なのかそうでないのか」などということが現在でも問題になることがあるのは、以上のような事情によるものです。ここにあるのは、「宗教」という西洋中心主義的な新しい概念を受容せざるをえなかった近代日本の悲喜劇です。不幸なことに、「宗教/非宗教」という新しく創作されたものさしは、日本の実情にあっていなかった。「神社は『宗教』なのか否か」「儒教は『宗教』なのか否か」などという問い自体がそもそもおかしいにもかかわらず、「宗教/非宗教」という新しく創作された土俵にのることを余儀なくされてしまった。「Aは『宗教』である」「Bは『非宗教」である」「Cは……」といった具合に、プラパンチャ(ことばの虚構)を創作していかざるをえなくなってしまったのです。
「朝鮮人無宗教説」?
ここでちょっとつけ加えておきたいことがあります。姉崎は、幕末から明治初期に登場した天理教や蓮門教や丸山教といった、いわゆる「新宗教」に対しては非常に冷淡な態度を示していました。これらの「新宗教」は、「恒産なき貧者が病的騒擾をなして或は瘴気性迷信騒擾を惹起」したものだとボロクソに言っているのです[姉崎 1982: p.462]。
「宗教とは人類の精神が自己の有限なる生命能力以上に何か偉大なる勢力の顕動せるを渇望憧憬して、之と人格的交渉を結ぶ心的機能の社会人文的発表なり」という姉崎のことばにしたがえば、天理教や蓮門教や丸山教も「宗教」だということになるはずです。しかし姉崎は、これらを「迷信」というフォルダに乱暴に放り込んでしまっている。新たな「宗教語り」をもたらした姉崎も、本稿で述べてきた「宗教」という近代的な概念が孕んでいる暴力性からは逃れられなかったのです。
少し話が脱線するようですが、日本が韓国併合へと向かっていく1900年代には、朝鮮の人々は「無宗教」だから、日本によって「文明化」されるべきだという「宗教語り」も出現します。[藤原 2023: pp.48-51]。「宗教」という概念を受容していった大日本帝国は、その膨張の過程で、この概念がもつ暴力性を「外地」の人々に対して向けていったのです。「宗教」という概念は、差別意識にも結びついたわけです。しつこいようですが、「宗教」という概念は、決して無色透明で「中立的」な概念ではないということは、強調しておきたいと思います。
清沢満之と内面への沈潜
さて、明治時代後半に登場した新たな「宗教語り」についてもう少し見てみましょう。次に紹介したいのが、浄土真宗大谷派僧侶の清沢満之(1863‐1903)です。満之は、尾張藩の下級士族である徳永永則の長男として、名古屋市黒門町で生まれました。1878(明治11)年に、母が通っていた覚音寺というお寺の僧侶にすすめられて、真宗大谷派の僧侶になりました。そうした縁もあって、大谷派の英才教育機関として京都に開設されたばかりだった、育英教校という学校に入学することができました。
1881(明治14)年には、大谷派が指名する留学生に選ばれて上京し、東京大学予備門に入学しました。予備門を卒業後、東京大学文学部哲学科に入学します。哲学科を選んだのは、先ほど登場していただいた井上円了にすすめられたからです(ちなみに満之は、円了が中心になって立ち上げた「哲学会」という集まりにも積極的に関与していました)。哲学科を卒業した後は、新しくできたばかりの研究院(大学院)に進学しました。しかし、すぐに大学院を去って、京都府立尋常中学校の校長として赴任することになります。この学校は、京都府の財政難のため経営が大谷派に委託されており、その校長に選ばれたのです。満之は研究者として将来を期待されていたのですが、大学に残る道を投げうって、自分に学問をさせてくれた大谷派に奉公する道を選んだのです。
校長となった直後に、現在の愛知県碧南市浜寺町にある西方寺というお寺に入り、清沢ヤスと結婚しました。徳永満之から清沢満之になったのです(以下、彼のことは「清沢」と呼ぶことにします)。校長として赴任した清沢は、洋服を着て西洋タバコを吸い、人力車に乗って通勤する優雅な暮らしを送っていました。ところが、思うところがあったのか、1890(明治23)年に生活スタイルを一変させます。校長をやめて、髪を剃って肉食をやめ、黒衣と袈裟をまとって、禁欲生活を開始したのです。
禁欲生活と並行して哲学の研究を続け、1892(明治25)年に日本初の「宗教哲学書」とされる『宗教哲学骸骨』という本を出版します。この本は、本稿のその4で述べたシカゴ万国宗教会議で英語に訳されて発表され、高く評価されました。
しかし、禁欲生活で無理がたたったのか、1894(明治27)年に、当時の不治の病だった結核にかかってしまい、現在の兵庫県神戸市垂水区で療養生活に入ります。ところが、1895(明治28)年には療養半ばで京都に戻り、真宗大谷派の教団改革運動に関わっていきます。京都の洛東白川村に「教界時言社」という結社を設置し、『教界時言』という機関誌を創刊して、教学の刷新や教団の民主化を訴えました(白川村を拠点としていたため、「白川党」と呼ばれました)。
この運動は教団の外側にも大きな反響を呼び、全国的に注目されて、当時の教団内で大きな権力を握っていた渥美契縁を退陣に追い込んだりしたのですが、結局挫折します。清沢は運動の首謀者として、大谷派の僧籍を一時的に剝奪されました。
こうした遍歴の果てに清沢は、明治33(1900)年に現在の東京都文京区本郷で、弟子の暁烏敏(1877-1954)や佐々木月樵(1875-1926)らとともに、浩々洞という私塾をひらき、彼らとともに共同生活を始めました。そして翌年に『精神界』という雑誌を創刊し、「精神主義」と呼ばれる仏教思想を展開していきます。清沢とその弟子たちが展開した「精神主義」は、仏教のことばをなるべく使わないで、それでもなお仏教の精神を伝えるためのことばを模索したもので、当時の仏教界やインテリたちのあいだに大きな波紋を引き起こしました。
「精神主義」と「信仰」
清沢は、『精神界』の創刊号のしょっぱなに、「精神主義」というタイトルの論文を発表しました。そこにはこうあります。
己がこの世で生きていくうえでは、「絶対無限者」に接することなくしては、完全なるよすがを得ることはできない。己の外側にある人や物といった(いつかは滅びる)有限な現象を求めることなく、「絶対無限者」と対峙することを通じて、内面的な充足の世界に生きる。世俗的で物質的な世界を超えて、「絶対無限者」との内面的な対峙の世界に価値を見い出す。このような己の内面的な充足の世界こそが「精神主義」だというわけです。ここでは、真宗で「伝統的」に阿弥陀如来と言われていたものが、より一般的な「絶対無限者」ということばで言い換えられています。
このように清沢は、己の外側にある有限な現象を関心の外に置いて己の内面を深く探求し、内面に「絶対無限者」を見い出して、己の外側にある現象に左右されないことを求めるのです。清沢は、「宗教」とはこのような内面的な自己充足の世界に生きることであり、「主観的事実」であるとしています。
「宗教」は「主観的事実」であるという清沢の主張は、「宗教」は恣意的な主観に依存したものであり、それでかまわないのだということではもちろんありません。そうではなくて、「絶対無限者」は外界にあるのではなく、あくまでも己との関係においてのみあるのだということを言っているわけです。
よって、神仏や地獄極楽は外界に「客観的事実」として実在するかどうかが問われるようなものではなく、「私共は神仏が存在するが故に神仏を信ずるのではない。私共が神仏を信ずるが故に、私共に対して神仏が存在する」ということになるわけです。清沢は西洋哲学を学んだ人ですし、「絶対無限者」と聞くと、仏教よりもキリスト教っぽい感じがするという方もおられるでしょう。しかし、清沢が言う「絶対無限者」は、それを「信仰」する者を離れてはその存在が認められないものであり、ちっぽけな人間が何を言おうとも有無を言わさず存在するというものではありません。そういう点では、キリスト教的な神とは異なっていると言えそうです。
「でも、こんなことを言っていると、自分以外の人を無視した自閉的なジコチューになってしまうんじゃないか」と思う方もおられるかもしれませんが、そうでもありません。
「絶対無限者」は、主観に深く潜り込んでいくことで出会われるものだが、主観のなかにあるというわけではない。主観のなかにあるのなら、それは有限なものにすぎないからだ。「絶対無限者」は、内面に潜り込んで、内面を突破するところにあらわれてくるものだ。それが主観によって受けとめられる。言わば、「絶対無限者」は内面の奥から己を包み込むものである。そのように解釈できるでしょうか。
以上のように清沢満之は、「宗教」というのは内面的な「信仰」の問題なのだという「宗教語り」を紡ぎました。「宗教」は個人の「こころ」の問題に関するものだという見方自体は、明治初期の時点ですでに存在していました。先ほど見たように島地黙雷は、「政治」は法律や制度などの外面的なことを担当するもので、「宗教」は良心や倫理といった個人の内面の問題に関するものだと明治初期の時点で論じていたからです。それでは、清沢の「宗教語り」と黙雷のそれは何が異なっていたのかというと、清沢は「宗教」を語る際に、「信仰」を特権的に位置づけたということです。これは黙雷の「宗教語り」には見られなかった特徴です。
「宗教」の「本質」は「信仰」だという「物語」の創作
我々は、「宗教」ということばを聞くと反射的に「信仰」を連想しがちです。「宗教」の「本質」は「信仰」であり、「信仰」がなければそれは「“ほんとうの”宗教」ではないなどと、何の疑問も覚えることなく口走ったりしてしまいがちです。しかし、「宗教」といえば「信仰」だという連想は、明治時代後半になるまで自明なものではありませんでした。「宗教」の「本質」は「信仰」だというのは、明治時代後半に新しく創作されていった、できたてほやほやのイデオロギーなのです[大谷・菊地・永岡 2018: p.367][星野 2012: pp.209-216]。
誤解する方がいるといけないので大急ぎでつけ加えておくと、これは明治時代後半になるまで、人々は「信仰」を実践していなかったということではもちろんありません。そうではなくて、近代に新しく創作されていった「宗教」という概念の中核に、「信仰」というものが組み込まれるようになり、それを前提にした「宗教語り」が出てくるのは明治時代後半になってからのことだということです。
これまでに見てきたように、明治20年代ごろまでは、「宗教」は「文明開化」に役立つとか、「宗教」は「学問」とも調和的なものであるという「宗教語り」が盛んでした。ところが、清沢が活躍した明治30年代には、「宗教」を「信仰」として語ることが大きなトレンドになります。「宗教」といえば「信仰」だというイメージは、清沢の弟子の暁烏敏や、清沢の思想から影響を受けた近角常観(1870-1941)をはじめとする真宗僧侶たちの説法や著作などによって、社会の広い範囲に普及していきました。
こうしたイメージを社会に普及させていったのは、清沢とその弟子筋の真宗僧侶だけではありません。内村鑑三(1861-1930)も、「宗教」といえば「信仰」だというイメージを社会に広めるうえで大きな役割を果たしました。ご存じの方も多いかもしれませんが、内村は、明治時代半ばから昭和初期にかけて活躍したキリスト教徒です。内村が書いた『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』『代表的日本人』『後世への最大遺物』といった本は、現在でも読み継がれています。その知名度や影響力の大きさを考えれば、近代日本を代表するキリスト教思想家と言っていい人物です。
内村は1900(明治33年)ごろに、「無教会キリスト教」と呼ばれる運動を開始します(ちょうど清沢が「精神主義」の思想を展開していった時期にあたります)。「人は信仰によってのみ義とされる」というプロテスタンティズムの思想を徹底し、救済のために教会という組織や制度は必ずしも必要ではないと主張したのです。
内村から教えを受けた人には、戦後に東京大学総長となった南原繁(1889-1974)や矢内原忠雄(1893-1961)とか、戦後の社会科学を牽引した「進歩的文化人」(死語)の大塚久雄(1907-1996)などがいます。内村の門下生からは、多くのキリスト教知識人が輩出されたわけです。内村やその弟子の無教会派知識人たちが書いた書物は、キリスト教徒でない人々にも広く読まれました。
日本キリスト教史研究の権威である鈴木範久(1935-)は、日本のキリスト教徒は人口の1パーセント前後にすぎないけど、「かくれ信徒」が人口の10パーセントほど存在しているという假説を提示しています[鈴木 2017]。近現代の日本には、自他ともに認めるキリスト教徒は少なくても、キリスト教に好意や関心を抱く人々が(インテリ層を中心に)そこそこ存在してきたということでしょう。内村や無教会派知識人の読者には、キリスト教徒に加えて、こうした人々も多かったと考えられるわけです。そういうわけで、「宗教」といえば「信仰」だという新しいイメージが社会に広まっていくうえで、内村が果たした役割は決して軽視することはできません。
さて、新仏教徒同志会(この団体がどういうものだったのかは次回以降に述べます)の中心人物の一人だった境野黄洋(1871-1933)は、明治38(1905)年にこんな興味深い証言をしています。
明治32(1899)年前後には、「まだ信仰の語は気恥かしくって使ひ得なかった」というのです。ここでも、「信仰」を「宗教」の中核に組み込んだ「宗教語り」は、明治後期から広く行われるようになった新しいものであることがうかがえるわけです。
明治時代に新しく創作された「宗教」という概念をめぐっては、当初は「宗教」は「文明開化」に役立つとか、「宗教」は「学問」とも調和的なものであるという「宗教語り」が盛んでした。また、明六社の人々は「教」ということばを用いる際に、現在我々が用いている概念で「宗教」と呼ばれている領域と、「教育」とか「道徳」と呼ばれている領域をはっきりと“分別”していたわけではありませんでした。宗「教」も「教」育も「教」に含まれており、両者は未分化でした。
しかし、「宗教」は近代科学とは合致しないんじゃないかという話になって、「学問」とは異なる領域だということになっていきます。また、「宗教」と呼ばれる領域と、「教育」とか「道徳」と呼ばれる領域もはっきり分かれていき、「宗教」は学校の「道徳教育」のような公的領域からシャットアウトされて、あくまでも私的領域に属するものだということになります。そして、私的領域においては「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由」があるということになりました。
かくして、「宗教」という新しい概念は、「学問」や「教育」や「道徳」などの領域から徐々に“分別”されるようになり、社会において「宗教」の占めると考えられる領域は切りつめられ、小さくなっていきました。「宗教」という領域は撤退戦を余儀なくされ、ほかの領域から分離されていったわけです。ただ、これは裏を返せば、「宗教」が「学問」や「教育」や「道徳」といった領域とは区別される独自の領域を確保するに至ったということでもあります。「宗教」というのは、「学問」や「教育」や「道徳」といった領域にはない独自の「本質」を帯びた固有の領域だということになったわけです。では、ほかの領域にはない「宗教」の独自の「本質」とやらは一体何か。それは「信仰」である――そのように物語るイデオロギーが、明治時代後半に新たに創作されていったというわけです。
「環流夢譚」としての「日本人無宗教説」
さて、ここから先は、今までに述べてきたことを少し振り返りながら、「宗教」という概念が抱えている問題に別な角度から迫ってみたいと思います。
先ほど見たように、幕末に来日して、日本を観察した西洋の人々は、日本人には“religion”がないと語っていました(当時はまだ日本語に「宗教」という概念はなかった)。イギリスの外交官のラザフォード・オールコックは、「キリスト教徒の考えるような宗教」を「文明だとすれば、日本人は文明をもっていない」と、キリスト教を強固な基準にして断言しました。キリスト教のような「宗教」と「文明」は不可分であるが、日本人は「無宗教」だというのです。日本人は「無宗教」であるという現在でもよく見かける「宗教語り」は、幕末に言わば“外圧”として誕生したのです。
そして明治時代の始めごろは、「文明開化」を進めることは絶対的に正しいとされた時代であり、以下の二つの異なる立場が存在していました。
①キリスト教と「文明」は不可分である。だが、日本人は「無宗教」であり「文明」をもっていない。よって、日本はキリスト教を受け入れて「文明開化」を進めるべきだ。
②日本人は「無宗教」であるが、「宗教」と「文明」の結びつきに必然性はない。むしろ、「無宗教」だからこそ「文明国」たりうるのだ。
①と②は一見すると対立しているように見えますが、近代に新しく創作された「宗教」という概念を疑うことなく受け入れてモノをしゃべっているという点や、日本人は「無宗教」だという考えを前提にモノをしゃべっている点では同じです。先ほど触れた井上哲次郎や木村鷹太郎らによる『日本主義』は、②の考え方を徹底化したものだったと言えるでしょう。
なお、本稿では深入りしませんでしたが、明治後期になると、
③日本人は「無宗教」だと言われているが、実はそうではない。「大和魂」や「武士道」こそが日本の「宗教」なのだ。
という「宗教語り」も登場します。これら①~③を一般化すると、こうなります。
①´ 日本人は「無宗教」である。よって〇〇が欠落している。
②´ 日本人は「無宗教」であるが、そのせいで何かが欠落しているなどということはない。時代遅れの「非合理的」な「迷信」にとらわれることがないから、むしろ「無宗教」の方が優れているのだ。
③´ 日本人は「無宗教」だと言われているが、実はそうではない。日本人にはキリスト教のような「宗教」とは形が異なる独自の「宗教」があるのだ。
となります。宗教学者の藤原聖子(1963-)らは『日本人無宗教説 その歴史から見えるもの』(筑摩選書、2023年)で、①´を「欠落説」、②´を「充足説」、③´を「独自宗教説」と呼び、近現代の日本においては、この欠落説・充足説・独自宗教説が、姿を変え形を変え、手を変え品を変え何度も何度も繰り返し繰り返し出現し続けてきたと指摘しています。同書は、近現代の日本において欠落説・充足説・独自宗教説がたどった歩みを、以下のように述べています。
これまでに見てきたように明治期には、キリスト教のような「宗教」がないと日本は「文明国」になれないという欠落説と、「宗教」なんかない方がスムーズに近代化を進めて「文明国」の仲間入りを果たすことができるから、「無宗教」の日本は有利だという充足説が存在していました。
ところが大正期になると、第一次世界大戦の動向が日々報道されるなかで、「宗教」を国力と結びつけて語る「宗教語り」が登場するようになります。例えば、「敗戦国となったドイツでは、大学教授が無神論者だらけになった結果、醜態をさらすことになった。戦勝国のフランスも、『宗教』を軽視したせいで惨状に陥った。日本の教育の中心である各大学はドイツ流の学者に満たされており、その結果日本の精神は荒れ果ててしまった」という「宗教語り」が出現します。これは、「『無宗教』だと国力が弱体化するから、戦争に勝てない」という方向性の欠落説です。
また、1920年代にアメリカで日系人を排除する動きが強まり、大正13(1924年)に排日移民法が制定されると、「日系人がアメリカや国際社会で受け入れられないのは、『無宗教』だからだ」などという「宗教語り」が登場します。これも欠落説です。大正期には、「不良少年少女は『宗教』的な信仰がない家庭から出てくる。母親がまず『宗教』を持つことで少年少女の不良化を防ぐことができる」などという「宗教語り」も登場します。これも欠落説です。
昭和初期には、「人間はどこまでも己の『いのち』の意味を求めようとする。『宗教』というのは、物質的な近代文明ではもたらされない『いのち』の意味を与えるものだ。『無宗教』の風潮はよくない」という「宗教語り」も登場します。ここで注意しなければならないのは、明治時代の欠落説では「宗教」と「文明化」は不可分だと言われていたのに、この欠落説では、「宗教」は「文明化」ではもたらされない生きる意味を与えるものだとされているということです。気がついたら、いつのまにか議論が完全に反転してしまっていたのです。
その後戦後になって、「平和主義」の思想が力を持つようになると、「『宗教』は世界に平和をもたらすものだ」という「宗教語り」や、「日本人が戦争中に残虐行為に走ったのは『無宗教』だからだ」などといった「宗教語り」が登場します。これは、「日本人は『無宗教』だから残虐行為に走る。人間性が欠けている」という新たな欠落説です。ここで注意しなければならないのは、先ほど見たように大正時代には、「『宗教』は国力を強くする。『無宗教』だと国力が弱体化するから、戦争に勝てない」と言われていたということです。ところが、戦後になって人々の価値観が変わると、「『宗教』は世界に平和をもたらすものだ」とか「日本人は『無宗教』だから戦争中に残虐行為に走ったのだ」という、完全に正反対の「宗教語り」が登場してしまった(!?)のです。一体どっちやねんという感じですね。
その後、日本が高度経済成長を経験すると、「日本人は金儲けのことばかり考えて利己的に振る舞うエコノミック・アニマルだ」と言われるようになったり、水俣病のような公害問題が起きてきたりします。すると今度は、「日本人がアニマル化してしまうのは『無宗教』だからだ」だの「日本人は『無宗教』なせいで公害に歯止めがかからなくなってしまう」だのといった欠落説が登場します。また、マルクス主義に基づく唯物論の立場から「日本は『無宗教』であり、ソ連や中国なみに『進歩的』だ」と主張した充足説も見られました。
そして1970年代以降になると、従来のように欠落説や充足説も存在し続けるのですが、新たに独自宗教説が多く見られるようになります。例えば、「日本人には、原始的な『宗教心』や祭儀の実践といった、キリスト教とは異なる形の独自の『宗教』があるのだ」とか「日本人が『非宗教的』だということはなく、超越的なものに対する畏敬の念が強い」といった議論が出てくるようになるのです。こうした独自宗教説は、新聞では主に識者によって主張されていたのですが、1980年代には一般読者の投稿にも見られるようになるなど、広まりを見せました。「日本人は『無宗教』だと言われているが、実はそうではない。『大和魂』や『武士道』こそが日本の『宗教』なのだ」という独自宗教説は明治期にすでに存在していたのですが、ここにきて広がりを見せることになったのです。
独自宗教説においては、祖先崇拝であるとか、仏壇にも神棚にも手をあわせる多層的な「信仰」などが日本人の「宗教」だとされました。しかし1990年代以降は、森などの自然のなかに霊を認め、畏敬の念を抱くアニミズムだという議論に(エコロジー思想の高まりとあいまって)収斂し移行していく傾向を示しました。
一方、オウム真理教事件以降には、「私は『無宗教』である」ということばが、「私は普通の人間である」「私はまともな人間である」というニュアンスを帯びる傾向が見られました。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ以降は、「一神教は排他的で攻撃的だが、日本人は『無宗教』だから安全であり平和だ」とか「日本のようなアニミズムや多神教は寛容で平和だ」という主張が出回るようになります。こうした主張はそれ以前から存在していたのですが、9・11をきっかけに一気に広まりを見せたのです。
ここで注意しなければならないのは、先ほど見たように敗戦直後には、「『宗教』は世界に平和をもたらすものだ」とか「日本人は『無宗教』だから戦争中に残虐行為に走ったのだ」と言われていたということです。ところが21世紀に入ると、「日本人は『無宗教』だから安全であり平和だ」という完全に正反対の「宗教語り」が広まりを見せてしまった(!?)のです。一体どっちやねんという感じですね。
また、21世紀以降は高齢化を背景にして、「日本人は『無宗教』だから死生観が欠けている。自分の死や、自分にとって大切な人の死と向きあうことができない」という欠落説が広まりを見せます。
『日本人無宗教説 その歴史から見えるもの』の調査によって明らかになった、近現代の日本における欠落説・充足説・独自宗教説の歩みをざっくりまとめると以上のようになります(もっと詳しく知りたいという方は、是非この本を読んでみてください。すばらしい本なのでおすすめです)。藤原聖子は、ミもフタもないようですが次のように指摘しています。
結局のところ近現代の日本では、どの時代にも「日本人は『無宗教』である。よって〇〇が欠けている」という欠落説が手を変え品を変え語られ続けてきたのです。そしてその〇〇は、時代の価値観の変化に応じて、目まぐるしく、そして都合よく変化し続けてきました。「○○と『宗教』にはほんとうに因果関係はあるのか?」と突っ込みたくなるようないろんなものが、○○に代入され続けてきたのです。何らかの政治的な主張や社会的な主張を行いたい人々が、「無宗教」を“釘バット”として用いながら、時代時代の論理を使って「日本人が〇〇なのは『無宗教』だからだ」と主張し続けてきたのです。
欠落説を唱えた人々の多くは、「日本人にはキリスト教や西洋哲学のようなバックボーンが欠落している。だから日本人はダメなんだ」と考えてきたと言えます。「西洋人のように確固としたバックボーンとなるものがないから、政治問題や社会問題に適切に対処できないのだ」というわけです。そして、対処すべき政治問題や社会問題は時代時代で変化してきたため、○○が「文明」になったり「国力」になったり「平和的な人間性」になったりといった具合に、実に都合よく変化してきたわけです。その結果、大正期には「『無宗教』だと戦争に勝てない」と言われていたのが、戦後になると「日本人は『無宗教』だから戦争中に残虐行為に走ったのだ」と言われるようになり、さらに時代が下ると「日本人は『無宗教』だから平和的だ」と言われるようになる、などという意味不明なことになってしまったのです。
これは、いわゆる西洋コンプレックスであるとか、いんたあねっとスラングで言う「出羽守根性」に絡んだ問題のように思われます。まず、19世紀の西洋には、近代文明はキリスト教を土台に成立したものであり、近代化と「宗教」は不可分だという考え方がありました。その一方で、唯物論や無神論に基づいて、キリスト教のような「宗教」は近代文明や近代科学と矛盾する時代遅れの「迷信」だという考え方も、当時の西洋には存在していました。日本が幕末に「開国」すると、この二つの考え方が日本に輸入され受容されていくことになります。
繰り返しになりますが、日本人は「無宗教」であるという「宗教語り」は、幕末に言わば“外圧”として誕生しました。「日本人は『無宗教』だ。だからダメなんだ」「日本が『文明開化』を進めるには、キリスト教徒になるしかない」という欠落説が誕生したわけです。そして、これに反発した充足説も、西洋の唯物論や無神論を利用して、「『宗教』は『文明化』の障碍になる。日本人は『無宗教』だが、その方がいいのだ」と主張したわけです。つまり、欠落説も充足説も、いずれも当時の西洋に存在していたコトバを使って「物語」を語っていた点では、同じ穴のムジナだったわけです(本稿のその3で扱った近代スリランカのプロテスタント仏教の誕生においても、似たような光景を見たような気がしますが)。
欠落説=「日本ダメ論」が強まると、それに対抗するようにして独自宗教説も出てきます。独自宗教説では、「武士道」や「大和魂」や「祖先崇拝」や「アニミズム」や「共同体の社会規範」などなどが日本の独自の「宗教」だとされました。独自宗教説は、往々にして「日本人はキリスト教とは異なる形の独自の『宗教』を持っているから寛容である。だから日本はスバラシイのだ」という「日本スゴイ論」と結びついてきました。
結局のところ、欠落説も充足説も独自宗教説も、政治や社会の問題について何かを言いたい人や、日本を特定の方向に引っ張りたい人、世直しをしたい人、日本社会に警鐘を鳴らしたい人などなどによって主張されてきました。「理屈と膏薬はどこへでもつく」などと言いますが、そうした人たちが、キリスト教(特にプロテスタント)を背景に新しく創作された「宗教」というモダンな概念にかこつけて、自分に都合のいい「宗教語り」を繰り返してきたわけです。
少し前まで千円札に印刷されていた夏目漱石が、イギリスに留学して精神を病んでしまったという話は有名です。近現代の日本には、西洋に留学して「ミーはおフランス帰りのスーパーエリートざんす。日本人は“劣等民族”ざんす。時代遅れの古い日本文化は捨てて、西洋化してチョ」などとのたまう出羽守になって帰ってくる人もいれば、逆にナショナリストになって帰ってくる人もいます。近現代の日本で生まれた欠落説や充足説や独自宗教説といった「宗教語り」は、巨視的に見れば、日本が西洋近代と接触した結果生じた数多くの悲喜劇のなかのヒトコマだと言えるでしょう。「環流夢譚」のなかの一部だったわけです。
「宗教」概念をどうするか
これまでに見てきたように、「宗教」というのは多くの問題を孕んだ概念であり、決して「客観的」で「中立的」なジャンル概念などではないわけです。幕末に「日本人は『無宗教』である」という(「中立的」とは言えない価値判断を含んだ)「物語」を突きつけられて以来、日本ではいろんな「宗教語り」が行われてきました。
しかし、そうやって「宗教語り」を行う人々は、自分では「客観的」な議論をしているつもりでも、「宗教」とか「日本」といった概念を無批判に用いて物を語ろうとすると、欠落説・充足説・独自宗教説の無限ループに簡単に絡めとられてしまうのです。キリスト教(特にプロテスタント)を背景に創作された「宗教」という近代的な概念を疑うことなく物を語ろうとするから、無限ループに引きずりこまれてしまうわけです。出羽守根性を背景にした「日本ダメ論」「日本スゴイ論」「日本特殊論」などのあやしげな「日本文化論」に陥ってしまうのです。
こうした輪廻のような悪循環から脱出するためには、ループを生んでしまう土俵それ自体を批判的に見据え、「宗教」という概念それ自体を根本から批判し、「宗教」という概念がもたらすプラパンチャ(ことばの虚構)を空じなければならないように思うのです。
さて、私の手元にある本にはこうあります。
また、私は昔、ツイッターでお坊さんが次のように語っているのを見たことがあります。
こうした一見すると不思議な現象も、これまでに述べてきたことを踏まえれば読み解くことができるのではないかと思われます。まず、本稿で何度も述べてきたように、「宗教」という概念は、プロテスタンティズムを背景に創作されたものであり、言語化された明確な教義のかたちをとったビリーフこそが重要であり、非言語的なプラクティスは二の次三の次であり副次的なものにすぎないというイデオロギーがまとわりついています。
「宗教」という概念には、こうしたビリーフ中心主義のイデオロギーがまとわりついている。そのため、「宗教」という名のものさしでは、世界各地の「生活世界に埋め込まれた慣習的行為の総体」=プラクティスの領域をうまく捉えることができないのです(「日本の」ではなく「世界各地の」です)。
先ほど申し上げたように、日本では現在も、家にある仏壇に手をあわせるという行為を日常的に行っている人々がいます。ですが、彼らのほとんどは、四諦八正道や十二支縁起といった仏教の教義に共鳴して手をあわせているわけではない。「仏教は無我説を説いており、アートマンを否定している。よって、仏教では霊魂の存在を認めない」などといった教理に共感して仏壇に手をあわせているわけではない。ビリーフとプラクティスが一致しているなどという理由で手をあわせているわけではなく、生活世界に埋め込まれた慣習的行為として、仏壇にも神棚にも手をあわせている。お盆やお彼岸にお墓参りをしている人々についても同様です。彼らは、言語化された明確な教義のかたちをとったビリーフに基づいて死霊や祖先の霊を「信仰」して手をあわせているわけではない。ごく当たり前の行為としてそうしているわけです。
こうしたプラクティスは、個人が意識的な選択によって特定の「宗教」団体に入信するとか、特定の「宗教」団体が説く言語化された教義体系=ビリーフを「信仰」し、それに基づいて行為するといった話とは異なります。集団的に行われたり、無意識的に行われたり、共同体を単位として行われたりするものなのです。こういったプラクティスに対して、内面的なビリーフ中心主義のイデオロギーがまとわりついた「宗教」という名のものさしを無批判にあてはめるから、「これは“ほんとうの”『宗教』ではない」とか「日本人は『無宗教』だ」などということを言ってしまうわけです。
本稿で述べてきたように、キリスト教(特にプロテスタント)を背景にして創作されました。その後、明治時代の後半に「宗教」の「本質」は個人の内面的な「信仰」だというイデオロギーが日本でも確立して、広まっていきました。こうした背景を考えると、日本に住む多くの人々が、お墓参りをしたり除夜の鐘をついたり初詣に行ったりしながら、同時に自分は「宗教」とは無縁だと感じるというのも無理もないでしょう。
なお、マスコミの報道も、日本に住む人々が「宗教」という概念に対して抱くイメージに影響を与えてきたと言えるでしょう。というのも、いわゆる「新宗教」団体が犯罪や不祥事を起こしたり、社会とのあいだに軋轢を生じたといった事案は、新聞やテレビなどで大きく報道されます。こうした報道を通じて、「『宗教』というのは、いわゆる『新宗教』のようなものだ」というイメージや、「世間の“常識”とは異なる独特の教義を説く教祖を中心にした団体があって、信者たちはその団体に入信し、教義を『信仰』している」というイメージが形成されてきた面があるのは否めません。つまり、ビリーフ中心主義的な「宗教」概念のイメージが、マスコミ報道を通じて結果的に強化されていった面があるわけです。こうなると、多くの人がますます「自分はそういうものとは無縁だ」と感じるようになるのも無理はありません。
こうしたことを踏まえれば、先ほどの「不動産屋でお坊さんは宗教家ではないと言われた」というエピソードも読み解くことができるように思われます。おそらく、この不動産屋さんの感覚では、お坊さんというものは四諦八正道や十二支縁起や無常・苦・無我といった教義を説く存在ではなかった。死者供養や法事といった「生活世界に埋め込まれた慣習的行為」に携わる存在だと漠然と思っていた。つまりこの不動産屋さんは、お寺さんというものを、「個人が意識的な選択によって入信する団体だ」とか「四諦八正道などのビリーフを布教している団体だ」とは捉えていなかった。こうした感覚が、お坊さんは宗教家ではないという発言につながった。本稿はこのように愚考いたしますが、どうでしょうか。
さて、近代的な「宗教」という概念の色眼鏡を外して、日本の現象を記述しようと試みる研究者もいますので、ここで紹介しておきたいと思います。
イギリスの宗教社会学者のグレイス・デイヴィー(1946-)は、現代のイギリス人のキリスト教との関わり方を、「代行の宗教」(Vicarious Religion)と表現しています。これはどういうことかというと、近年は教会に行かないイギリス人が多くなったけど、彼らは教会なんかなくなっていいと思っているわけではなく、牧師や神父がしっかり務めを果たしてくれているとなんだか落ちつくという心理があるというのです。つまり、少数の牧師や神父が、多数派の「精神的重荷」を代わりに背負ってくれているというわけで、デイヴィーはそれを「代行」と呼んだのです。この「代行」が行われているがゆえに、キリスト教離れが進んでも、教会は存続できているのだというのです[Davie 2007]。
ひるがえって日本の寺院や僧侶が置かれた状況を見てみると、「日本仏教は葬式や法事ばかりやってるからダメなんだ」という主張が従来から存在してきました。その一方で近年には、東日本大震災が起きた際に、被災地で犠牲者を弔う僧侶の姿が大きく報道されたのを見て、感動を覚えたという人々もいたりします。ここでは、僧侶が被災者の苦しみに寄りそい、お経をあげて死者を弔う僧侶の姿に感動した人々は、自分のことを漠然と「無宗教」だと思っていたりするのでしょう。被災地で死者を弔う僧侶と、それを知って感動を覚える自称「無宗教」の人々の関係は、デイヴィーが言う「代行の宗教」と重なる部分があるかもしれません(この場合、僧侶は無償の「ボランティア」だというのが議論のポイントになりそうですが……)。
宗教学者の岡本亮輔(1979-)は、デイヴィーの議論を踏まえつつ、日本では(葬式仏教や初詣のような形の)「信仰なき実践」や(檀家としてお寺に所属するという形の)「信仰なき所属」が行われていると論じました[岡本 2021]。これは、デイヴィーの議論を修正しながら日本に適用したものです。これは、従来の欠落説や充足説や独自宗教説よりも優れた議論のように思われます。「日本人は『無宗教』だ」とか「違う。日本人には独自の『宗教』があるんだ」などと頭から決めつけることなく、「日本ダメ論」「日本スゴイ論」「日本にはほかの国にはない独自の『宗教』があるんだ論」などの日本特殊論に陥ることもなく、国際的な「比較」可能性に開かれた見方だからです。
問題点をあげれば、この議論においては、「プラクティス/ビリーフ」という二分法の枠組みが従来のまま維持されているということです。どういうことかというと、「プラクティス/ビリーフ」という二項対立図式がそのままだと、どうしても「結局日本の人々にはプラクティスはあってもビリーフはないのか。残念だ」という価値判断を払拭しきれないのではないかということです。そのように考えると、西洋コンプレックスや出羽守根性には根深いものがありそうです。
かつてのヨーロッパでは、乱暴に言えばキリスト教が社会を統合し、多くの人々がキリスト教(会)に所属しているという意識を持っていました。しかし日本では、公的な領域を支配する社会規範は、もっと漠然としていました。仏教や神道や儒教や道教などの要素からなる社会規範があったとか、村落に焦点をあてて、「民間信仰」が社会規範として機能していたと指摘する人もいます。いずれにせよその社会規範は、特定の教義や聖典(ビリーフ)を基礎にして成り立っていたわけではありませんでした。これをキリスト教(特にプロテスタント)を背景に創作された「宗教」というものさしに無理やりあてはめようとすると、不適合を起こして概念上の混乱をきたしてしまうわけです。「こんなものは『宗教』ではない」「日本人は『無宗教』だ」などといったプラパンチャ(ことばの虚構)が創作されてしまうわけです。
いずれにせよ、西洋近代を自明のモデルとせず、「日本にはほかの国にはない独自の『宗教』があるんだ」式の日本特殊論に陥ることもなく、日本で見られる複雑な現象について記述しようとする試みは、まだまだ始まったばかりだと言えるでしょう。「宗教」という近代が生んだ厄介な概念を今後どのように扱っていくべきかは、これからの課題として残されたままです。
次回(その7)につづく
参考文献
<和文>
タラル・アサド/中村圭志訳『宗教の系譜 キリスト教とイスラムにおける権力の根拠と訓練』岩波書店、2004年
葦津珍彦/阪本是丸註『新版 国家神道とは何だったのか』神社新報社、2006年
姉崎正治『姉崎正治著作集 第6巻』国書刊行会、1982年
阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書、1996年
池上良正 、小田淑子、島薗進、関一敏、鶴岡賀雄編『岩波講座 宗教1 宗教とはなにか』岩波書店、2003年
磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜』岩波書店、2003年
井上禅定監修・正木晃現代語訳・山田智信解説『新訳・釈宗演『西遊日記』』大法輪閣、2001年
井上円了『井上円了選集 第3巻』東洋大学創立一〇〇周年記念論文集編纂委員会編、東洋大学、1987年
井上円了『井上円了選集 第4巻』東洋大学創立一〇〇周年記念論文集編纂委員会編、東洋大学、1987年
井上順孝・阪本是丸編著『日本型政教関係の誕生』第一書房、1987年
岩田文昭・碧海寿広編『知っておきたい日本の宗教』ミネルヴァ書房、2020年
大谷栄一・菊地暁・永岡崇編著『日本宗教史のキーワード 近代主義を超えて』慶應義塾大学出版会、2018年
小倉慈司・山口輝臣『天皇の歴史9 天皇と宗教』講談社学術文庫、2018年
碧海寿広『入門 近代仏教思想』ちくま新書、2016年
碧海寿広・嵩満也・吉永進一編『日本仏教と西洋世界』法蔵館、2020年
岡本亮輔『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』中公新書、2021年
小川原正道『日本政教関係史 宗教と政治の一五〇年』筑摩選書、2023年
奥山倫明『制度としての宗教 近代日本の模索』晃洋書房、2018年
桂島宣弘『思想史の十九世紀 「他者」としての徳川日本』ぺりかん社、1999年
桂島宣弘『【増補改訂版】幕末民衆思想の研究 幕末国学と民衆宗教』文理閣、2005年
川又俊則・小島伸之・寺田喜朗・塚田穂高編著『近現代日本の宗教変動 実証的宗教社会学の視座から』ハーベスト社、2016年
清沢満之/小川一乗編『清沢満之全集 第六巻』岩波書店、2003年
久米邦武『久米邦武歴史著作集 第3巻』吉川弘文館、1990年
オリオン・クラウタウ『近代日本思想としての仏教史学』法蔵館、2012年
小林和幸編『明治史講義【テーマ篇】』ちくま新書、2018年
阪本健一『明治神道史の研究』国書刊行会、1983年
阪本是丸『明治維新と国学者』大明堂、1993年
阪本是丸『国家神道形成過程の研究』岩波書店、1994年
佐々木聖使「神道非宗教より神社非宗教へ 神官・教導職の分離をめぐって」、『日本大学精神文化研究所・教育制度研究所紀要』16、1985年
島薗進・鶴岡賀雄編『<宗教>再考』ぺりかん社、2003年
島地黙雷/福嶋寛隆・二葉憲香編『島地黙雷全集第1巻』、本願寺出版、1973年
島地黙雷/福嶋寛隆・二葉憲香編『島地黙雷全集第5巻』、本願寺出版、1978年
エリック・シャープ/江川純一・久保田浩・シュルーター智子監修/シュルーター智子・藁科智恵・渡邉頼陽・小藤朋保訳『シリーズ宗教学再考9 比較宗教学 ひとつの歴史/物語』国書刊行会、2023年
鈴木範久『日本キリスト教史 年表で読む』教文館、2017年
W.R.スミス/永橋卓介訳『セム族の宗教』岬書房、1969年
ウィルフレッド・キャントウェル・スミス/中村広治郎訳『現代におけるイスラム』紀伊国屋書店、1974年
ウィルフレッド・キャントウェル・スミス/保呂篤彦・山田庄太郎訳『シリーズ宗教学再考8 宗教の意味と終極』国書刊行会、2021年
鈴木大拙『新宗教論』貝葉書院、1896年
関一敏「信仰論序説」、『族』 筑波大学歴史人類学系民族学研究室、27巻、1987年
関一敏「呪術とは何か 実践論的転回のための覚書」、白川千尋・川田牧人編著『呪術の人類学』人文書院、2012年
関一敏「呪者の肖像のほうへ」、川田牧人・白川千尋・関一敏編『呪者の肖像』臨川書店、2019年
エミール・デュルケーム『宗教生活の基本形態 上』山崎亮訳、ちくま学芸文庫、2014年
戸浪裕之「島地黙雷の政教論」、國學院大學研究開発推進センター編・阪本 是丸責任編集『近代の神道と社会』弘文堂、2020年
キース・トマス『宗教と魔術の衰退』荒木正純訳、法政大学出版局、1993年
新田均『近代政教関係の基礎的研究』大明堂、1997年
長沼美香子『訳された近代 文部省『百科全書』の翻訳学』法政大学出版局、2017年
イザベラ・バード/金坂清則訳『完訳 日本奥地紀行4』東洋文庫、2013年
羽賀祥二『明治維新と宗教』法蔵館文庫、2022年
J・L・ピーコック/今福龍太訳『人類学とは何か』岩波書店、1993年
深澤英隆『啓蒙と霊性 近代宗教言説の生成と変容』岩波書店、2006年
深澤英隆「宗教」、池上良正・氣多雅子・島薗進・鶴岡賀雄・星野英紀編『宗教学事典』丸善出版、2010年
福嶋寛隆「島地黙雷に於ける伝統の継承」、『竜谷史壇』53、1964年
藤井貞文「大教官・大礼官の構想」、『神道宗教』62、1971年
藤井貞文「出雲大社教成立の過程」、神道学会編『出雲学論攷』出雲大社、1977年
藤原聖子編著『日本人無宗教説 その歴史から見えるもの』筑摩選書、2023年
J・G・フレイザー/石塚正英監修/神成利男訳『金枝篇 呪術と宗教の研究1 呪術と王の起源 上』国書刊行会、2004年
星野靖二『近代日本の宗教概念』有志舎、2012年
宮地正人・安丸良夫校注『日本近代思想大系5 宗教と国家』岩波書店、1988年
山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版会、1999年
山口輝臣『明治神宮の出現』吉川弘文館、2005年
山口輝臣『日本史リブレット088 島地黙雷 「政教分離」をもたらした僧侶』山川出版社、2013年
矢野秀武「ビリーフ・プラクティス論を巡る覚書」、駒澤大学『文化』42、2024年
吉田久一編『現代日本思想大系7』筑摩書房、1965年
渡辺浩『東アジアの王権と思想 増補新装版』東京大学出版会、2016年
<和文以外>
Michael Bergunder “ ‘Religion’ and ‘Science’ within a Global Religious History,” In Aries: Journal for the Study of Western Esotericism, 16(1), 2016
Grace Davie, “From Believing without Belonging to Vicarious Religion: Understanding the Patterns of Religion in Modern Europe,” Detlef Pollack, Daniel V.A. Olson eds., The Role of Religion in Modern Societies, Routledge, 2007
Hildred Geertz, “An Anthropology of Religion and Magic,Ⅰ,” The Journal of Interdisciplinary History, vol.6, no.1,1975
Winston L. King “religion,” M.Eliade ed., The encyclopedia of religion, vol.11, New York: Macmillan Publishing Company, 1987
Keith Thomas, “An Anthropology of Religion and Magic,Ⅱ,” The Journal of Interdisciplinary History, vol.6, no.1, 1975
Deborah Tooker, “Identity Systems of Highland Burma: 'Belief', Akha Zán, and a Critique of Interiorized Notions of Ethno-Religious Identity,” Man(N.S.), vol.27, no.4, 1992
ここから先は
¥ 350
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?