お気に入りの町:社会考2/8
昔はウィンドウショッピングというものがあったし、よくやっていた。陳列された商品に憧れて、いつかこれを買おうなどと思って頑張った。そんな小さな夢に希望があった。自分から望んだことだから、外すことが少なかったと思う。後悔が今ほど聞かれない時代があった。少なくとも後悔の質は違った。
幸せの小さな物語があった。しかしそのうちに、展示品を早く手に入れないとそこから消えてしまう時代になってきた。次々に「新モノ」が現れるようになった。後悔のないように即決即断しなければならない。買い物での即決は金次第だ。評判などの情報も重要になる。
また、セールスは玄関の中に入ることが重要だったが、家に電話が敷かれて、各家庭にテレビが置かれて、玄関を超えて商談をすることが可能になった。今では各人がスマートフォンを持っている。
バブル期以前では今ほど市場や身近な者に選択を急がされることはなかった。願うような買い方から、奪うような買い方になった。他者の正論やPRだらけで、自分の感覚で価値を感じる事が難しくなった。欲望させられるものを次々と見せられる。意思していなかったのに意思させられる。見なければ欲望しなかったのに、勝手に誰かに欲望させられている。
まとめればデジタルデトックスと同じで、急に指図をする人からは距離を置いたほうがいい。災害は突然起きるかもしれないが、よくよく考えるとおかしい。微弱な人災と考えられなくもない。
数ヶ月で解散するプロジェクトや今年の目標の一つ程度のサイズなら枠決めは有用だが、それ以上のサイズでは避けよう。特に人生サイズでは。
本に、いわゆるコマーシャルがないのは、いつ伝わるかがわからないからだ。物が話しかけない街もいい。
本のように、必要があったら書いて伝えるのではなく、今日の新聞は1ページですというわけにはいかない。メディアの隙間を埋める必要に迫られて伝える。重要でなくても、枠(通信量)があるからなにか言うことが仕事になった。重要なニュースはほんのたまにしか出会えない。
また、いい役職に就きたかったけど叶わなかったからコーチングをしているのだろうと思える人を見かける。時代により夢破れた「真面目さ」なのだろう。
それまではセールスマンがやっていたことを、POPや広告や情報媒体に語らせるようになった。多くのヒトは、本心と違うことをやり続ければどこかおかしくなる(だから失われた「ロスト部長」を取り戻そうとするのだろう)。
しかし分業は売り場と距離を取れるし、機械は平然とやれる。メディアの活用により、段々とセールスは、精神的にやれる範囲を超えてきた。うるさいし、どこまでも追ってくる。
社会の変化を眺めていて、新しい価値の創造が、古い価値を壊すだけでは成り立たないようになってきたと感じる。改善のために現状を壊しても、未来に対して曖昧では、先がなくなってきた。
いや、未来を作るのは突飛な空間を作ることではなく、よりよいけれど当たり前に暮らせる空間だ。イメージと違い落ち着いたもの作りだ。
情報技術の影響で、既存の形式が半自動的に壊れていく時代だ。意図的に時代を破壊しても、新しく作れないのなら意地が悪いだけだ。尖るのではなく優しく作れるのかだ。
夢を見て、それに向かって成長をして癒されていた団塊世代。しかし日本はバブル期に金を持ち、社会は人を信用しなくなっていった。世の中はそれが苦しいのだと思う。
80年代にはすでに、一世代前のモノはダサいという感覚があった。自分が体験して、見慣れたものはしょぼいのだ。期限切れにしかみえない。自分のとらえ方を修正しなければ、そのモノがくだらなかったと思ってしまう。しかし記憶にないモノや、二世代以上前の未体験のモノはかっこよいのだ。つまりモノの新しい古いではない。
体験がない古いものは、知らない世界からやってきた、古臭さがノーカウントの物体だ。未来から来たものと変わりがない。むしろ出会いの希少さで「価値が高い」。「知らなさ」。現在では「体験せよ」だ。日常行動の価値が薄いものの見方だ。
すでに80年代はお年寄りを尊敬しなくなっていたから、時間の厚みのある思考ができなくなっていたのかもしれない。美味しい餌を与えられて目先ばかりになってしまった。
70年代あたりから「子供騙し」は当たりまえにあった。どのくらい前からあるのはわからない。でもその頃の大人は子供騙しを問題視していた。例えば子供のお菓子に、子供が喜ぶ絵やおまけやCMをつけていた。売り方だが、それらを大人たちは「子供騙し」といった。
70年代生まれの僕は、幼少期に子供騙しを喜んでいた。しかし、10歳の時に、支えだったひいおばあちゃんを亡くした。自律心を働かされて、自分が好きだったものが幼稚だと気づいてしまった。そうして少しずつだがテレビも見れなくなっていった。
大人になったあるとき、同世代が大人になったのに、まだ子供騙しにだまされていると気づいてしまった。イメージに思い込まされていない人が周りにいないと気づいた。周りの人は共通の、ちゃちな物語の、売られているこだわりの世界が見えている。これが、合理化、(効率化の)善悪判断の集団世界だ。
そのイメージに縛られていなければ、自分なりの素朴な現実が見える。自分なりの現実と他者に味付けされた現実と、まるで違う世界観が存在する。ほとんどの人は、他者から思わされた世界に住んでいるのだ。それは自分の外部から、自然な浸透圧を超えて入っている。
自分の力でとらえて構築した人生を持っていない。僕がデンマークにいって、生き心地を取りもどしたのはこういうことだった。僕と同じような、世界が素朴に見えている人たちがいた。地球上でやっと、サバイバーと出会えた気分だった。
デンマークの友人たちは、気持ちを消費や浪費に使わず、興味や活動に向けている。そしてやる気が高い。身の回りの物はスタンダードで固定されている場合が多い。一生物とかお気に入りの物を持っていたら、もうそれはそれでいい。新しい提案は少しでいいし静かでいい。だってひとまずお気に入りがあるのだから。
プレーンな世界には、濃い味の世界とは違う風が吹いている。気持ちを取り戻してほしい。今までと違う見え方を手にするために、前情報のない行動に範囲を広げたりお気に入りのものを持ってほしい。そのきっかけに、通る道などの行動を変えてみるのもいい。いつも選ぶ色を変えるのもいい。手の技術などを身につけて、頭ではなく精神の気持ちを思い出してほしい。