自分は自分の精神的な話者であり、聴者である。でもどうしても生きているのがしんどいとき、自分の中に聞いてくれる人はどこにもいない。部屋の中にはどれだけ大きな声なのか判断できないひとりぼっちの話者しかいない。 何を話していたかなんてわからないけど、胸が強く締め付けられた感触だけは覚えている。
昨日、家の中で死んでいた蜘蛛を地に帰してやろうと彷徨ってたら体が壺にぶつかってそのまま割れた。その壺はキラキラの塗装がついていて、小さく謙遜な佇まいをしていた。わたしにとってはとても大切なものだったが、割れてしまったものは元には戻らない(継ぎをすることもできるけど)。 こういうときは余計な気を汲み取ろうとするのが楽しい。多分いいことかわるいことが起こる。そんなもの。専らこの壺は何かしらの役割を果たしたわけであったということにしておこう。もしかしたらいまから交通事故に遭って、
友達ってなんだろう。どんな関係よりも永遠でずっと続くものだと思っていたんだけど、実はそんなことなかったりする。ずっとずっと前に友達との衝突を避けて、結果的にその人が自分の前からいなくなってしまったことがあった。すごく辛かった。 友達ってなんだろう?知り合いでも恋人でもなければ家族でもないし、でも一方、知り合いにも恋人にも家族にもなれる性質を帯びている。この関係は至極あやふやで、曖昧で不安定なものである。断続的に向き合うことで続く関係もあれば毎日やり取りをしても関係を持ち続け
韓国…日本の植民地1910年から1945年の35年間
祖父を追って沖縄に来て半年が経ったが、「なぜ」という疑問がずっと「なぜ」のままで、いろいろなことを知れば知るほど自分の惨めさがどんどん出てくる。私は今向き合っていることに対して提案をしたいのか、事実を描写したいのか?体力だけが衰えていき、自分の中が空っぽになり、得体の知れない大きな物語に揺さぶられている。本調子じゃない。 ずっと会っていない好きな人がくれたポールアンドジョーのルージュカーディナルのマニキュアを塗ってみる。「大和さんに似合う」と言ってくれたけど、塗ってみたら、
小2のとき、東京に住んでいた。そのときわたしの世界の中心は、まことちゃんとななちゃんだった。2人が怖くて、このひとたちに嫌われたら、お母さんがお迎えに来るまでの児童館での時間が苦痛だと思っていた。私が徳島に引っ越すことが決まってからはよく無視されたり、ことあるごとに叩かれるようになって、児童館に行くのが辛かった。 2人はとても優秀で、私の何倍も足が早くて、自分がかれらと対等になることはなかった。わたしは次第に自分を守るために、物事を誇張して話すようになったし、いつもニコニコし
遠くにある言葉と言葉をくっつける ドラマツルギー的デモ活動 輝け!モータリーゼーション 裾野の餌食 脱臼都市計画 クロスセクター執着化 男も女も不平等する 尽日健常者の街 索莫的連帯 疲弊した亡骸 さばるんるんるんたんん マクドナルド化上陸 一度ラベリング戦死した祖父 擬似イベント沈没 断絶イベント エスノオブ普天間基地 そんなに簡単じゃないよピンキープロミス AGIL式空襲 独立してアウラ
ひととなにかをつくるのむいてないのかもしれないな
多分自分はこの人に惹かれているんだなと思う人がいる。でも一生自分の気持ちは言わないだろう。愛しいと思う気持ちはその人に向けると重たすぎて、嫌われてしまうことが経験から推測できるし何より、嫌われたくない。それにいつかこういう気持ちも粉々に砕けてなくなる。静かに、静かに黙って消えろと思う。
毎日、ブリコラージュをやっている気がする。余っている野菜を使って変なスープを作ったり、スマホに入っている多数の無料アプリを駆使したり、またはサブスク有用化の前に無料トライアル解約のループをするとかもしている。 職場でも使わなくなった新聞紙や雑誌・ダンボールを使って、ブックカバーや封筒を作ったりしている。即興的に解決策を見つけているから、自分の問題解決能力はぐんぐん伸びている気がする。けどこんな即興スタイルで、大きな時間を作っているのもどうなのかと思ったりするわけで。
じぶんの意見をはっきり言うこと自体は必要だけど、ただ強く批判したり「反対」と言うだけでその場止まりになるのは勿体ないと思う。(意見を言うのには、時間もお金もかかることだし) わたしは、批判や反対の先にある代案(オルタナティヴ)も一緒に建てないと「問題である」という形で問題が残ってしまうと思っている。 二項対立概念の中には捻れや倒錯的ものが確実に存在しているはずで、それは多分誰の目にも写っている。それをとっ捕まえて新しいものに変態したい。それは「あーそうだね!そういう意
自分の父方の祖父が沖縄戦に召集されていたという記録から、彼が戦時体制下〜アメリカ世〜復帰にかけてどのように行動していたのかを調査しています。そこからその時の当時の生活史やふるまいを読み解き、現代の生活の中にある戦争倫理について考えていきたいと考えています。 わたしは元々沖縄には然程興味があったわけではなく、生まれも育ちも生粋の沖縄の人というわけではありません。 ざっくり ちなみに、ざっくりとした沖縄戦について理解するなら下記の朝日新聞の記事や琉球新報社が出版してい
わたしは作品を作ったり、個人新聞の編集者をしたりしています。今は沖縄県に住んでいて、私的領域から沖縄戦時の資料を調べたり、戦時体制下〜アメリカ世〜復帰にかけての沖縄居住者(エスニックマイノリティ含む)の作法や座り方、ふるまいの変遷について考えています。下記にポートフォリオのリンクを貼っています。作品は以下から見ることが可能です。 noteには徒然なるものを書くのみ、悪しからず。
今日は沖縄戦のリサーチのために平和記念資料館へ。このリサーチに協力してくれてくれている人は祖父がたどったであろう経緯を独自に色々と推測して面白い資料を提示してくれる。帰るときは「作品頑張ってくださいね」って言ってくれる。
生活の中には、ものごとが破壊されるまでにまだ十分時間があるが、その決定的な現象が確実に予測できうる場面がある。 例えば、梅雨明けのカタツムリ。梅雨明けにカタツムリを見つけた。彼らはコンクリートにべったりしがみつき一日中動かない。今週の天気予報は全ての日数で晴れで、降水確率は20%あまり。 私はこのカタツムリたちが何かしら水の供給がない限りやがて餓死してしまうだろうことを知っていた。でも何も手を打つことはなかったし、殻が徐々に乾燥していき、生命の兆しが消えるまで観察を続け