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ばらばらの肩を寄せて型をつくる(編集中)


 自分の父方の祖父が沖縄戦に召集されていたという記録から、彼が戦時体制下〜アメリカ世〜復帰にかけてどのように行動していたのかを調査しています。そこからその時の当時の生活史やふるまいを読み解き、現代の生活の中にある戦争倫理について考えていきたいと考えています。
 わたしは元々沖縄には然程興味があったわけではなく、生まれも育ちも生粋の沖縄の人というわけではありません。

ざっくり


 ちなみに、ざっくりとした沖縄戦について理解するなら下記の朝日新聞の記事や琉球新報社が出版している沖縄戦新聞を読んでみるといいかもしれません。

 まずは父方の戸籍謄本を徳島県から取り寄せ、祖父が通称「暁部隊」という那覇市暁第6168部隊湾4500 (陸軍第一船舶輸送司令部)にいたことが、臨時陸軍軍人(軍属)届 (昭和20年3月1日午前零時現在)から分かりました。この部隊の正式名称は第7船舶輸送司令部沖縄支部で、隊長は「平賀又男中佐」という方であったといいます。

結果:収集したデータと分析結果
軍人軍属の区分・・軍属
部隊編入中の軍人又は軍属氏名 大和宏幸 1926年大正15年10月27日
身分(種類)・・・陸軍徴員
月給・・・不明
部隊編入年月日・・・1944年(昭和19年)10月20日
入隊編入区分・・・軍属捺中
帰還・・・1946年(昭和21年)10月30日
所属部隊の名称・・・那覇市暁第6168部隊 湾4500 (陸軍第一船舶輸送司令部)第7船舶輸送司令部沖縄支部(長 平賀又男中佐)
*19年4月9日に上陸、一部を宮古島に派遣

臨時陸軍軍人(軍属)届からわかること

暁部隊
陸軍輸送部下のこと。秘密保持のため指揮下の各部隊にはすべて「暁○○○○部隊」という呼び名が与えられていた。戦争終了時暁部隊は30万名あまり。

陸軍船舶戦争 松原茂生/遠藤紹 青雲社 平成8年5月1日

資料からわかることを沖縄戦の研究をされている学芸員Aさんにお話をお聞きしました。

研究者Aさんインタビュー



 1945(昭和20)年3月23日に空襲があって、もういよいよアメリカ軍が沖縄に上陸してくるっていうのが決定的になってくるということで、沖縄でも学徒隊少年とか少女15歳から18歳ぐらいの少年少女たちが軍隊に組み込まれて、軍人とか軍属になっていく。
 ということは、一般の人たちも軍隊に入り、戦うしかないという状況にも追いやられていくのがちょうどその頃だろうと想像ができる。「僕は兵隊じゃないから」って歩いてフラフラしてることが許されない状況。「僕は船乗りです。兵隊ではありません」というのは、多分通らなかった。

 ※わかりやすい年表↑(NHKアーカイブス)

 軍歴の名簿から、(大和さんの)おじいさんがこの平賀又男さんの下で行動したんではなかろうかと推測ができる。しかし、おじいさんは今までは軍属であったが、米軍が沖縄に攻め込んでくる過程で軍人になっていったのかはわからないことではある。
 以下のことは、おじいさんのことよりも、この平賀部隊がどんな動き方をしていたのかというのを資料が若干のこっているので導き出せる。

戦い方を知らない

 しかしここで述べておきたいのは、船舶部隊というのは、基本的に軍隊であっても、兵隊であってもほとんど戦い方を知らない人たち。後方部隊、裏方で働いている人で構成されている。例えば、軍隊にはひめゆり学徒隊というのがいた。病院、沖縄陸軍病院って言ったりするし、また野戦病院というのがいくつもあったりするんだけど、それをみんな「軍隊」と定義していた。軍隊だけどその病院で勤務していた人たちは、医者である。
「軍医」と呼ばれるお医者さんであったり、今で言う看護師。当時は「衛生兵」と言われていた。だから日本軍であっても、野生病院とか、そういう病院の部隊の人たちは、敵が来たら鉄砲すら打てないような人たち。勿論、最低限の訓練はやってるはいるだろうが、専門的なあの戦い方っていうのはできない人たち。他にも多数そのような部隊が存在していた。輸送部隊とか、兵器を修理する部隊とか。修理部隊、道を作る、橋を作る部隊など数多あるんだけど、そういう人たちは戦い方を訓練されていない人たち。
 それは船舶も同じ。船を動かすのは専門だけど、戦い方の訓練受けてない人で構成されている。そういう人たちを、この平賀さんは部下に従えて沖縄戦下をどのように行動したのか読み解いていきますね。
(事実この平河さん自体が戦い方もよくわからなかった)

部隊編成について


 
1945(昭和20)3月20日に、分司令官は特設両団という部隊を編成した。この特設両団とは、航空船舶部隊や兵站航空部隊のような、飛行場の整備や輸送などを担う後方支援部隊を意味する。通常、これらの部隊は直接戦闘に参加することは少ないが、当時の状況では兵力不足が深刻だった。九州や台湾からの応援部隊が期待できない中で、分司令官は自分の部隊内から広報部隊や後方支援部隊の人員をかき集め、即席で戦闘部隊を編成した。これらの兵士たちはほとんど戦闘訓練を受けておらず、具体的には、航空飛行場の部隊や船舶輸送部隊、道路を作る部隊など、戦闘以外の役割を持つ兵士たちを1万人ほど戦闘要員として再編成した。アメリカ軍が今まさに上陸しようとしている最中で、このような急ごしらえの部隊を編成していた。

特設第一連帯や特設第一両団、第二両団などが新たに設立されました。特設第6連隊は、第7選択輸送司令部沖縄支部長の平賀中佐が指揮し、船舶輸送の司令部で構成されました。那覇の港で事務所を構え、船舶の管理や荷物の取り扱いを行っていた人々を集めて、特設第6連隊が編成されました。

3月20日以降、船舶部隊は「特設第6連隊」として再編成された。


平賀又男部隊の流れ
1944(昭和19)年3月宇品 
p176 昭和20年3月20日 沖縄にいた軍司令官は特設旅団(連隊)を作る。航空飛行機が不足している、兵隊が足りないために。船舶、輸送部隊の人をかき集めた。約1万人。訓練などはしていない。

特設第6連隊 
第七船舶輸送司令部沖縄支部長 
平賀又男中佐
船舶輸送司令部、海上輸送大隊、滞留機帆船要員などで構成(総員約1000名)

4月3日鹿児島港を出発して奄美大島経由をして那覇港に4月9日上陸。
4月10日より昭和20年3月24日頃まで揚陸塔に服務する。


内閣府HPより抜粋

また書き込みます。



※もし自分が沖縄戦のときの祖父の立場だったら?と考えながら祖父の部隊の拠点であった那覇で生活をしています。
教えることや伝えることは言うほど簡単ではないと思います。「戦争はダメ」という言い方ではなく、なぜ戦争がダメなのか、どのような状況下が戦争に繋がるかということを感覚的に理解できる方法を模索します。

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