社会への適応とは神経の通った足を靴に合わせること
思ったことの羅列です。最近のメモ。
「社会への適応」って結局は自分が合わせていく作業だよね。靴を自分専用に改造カスタマイズして足に合わせるのではなく、靴に自分の神経が通った足を合わせていく作業。確かにその靴が一つしかなければ、全員それに合わせなきゃいけないかもだけど、その靴が20センチだとして、世の中にはたまたま20センチの人や19,5センチ、21,5センチの人もいれば、30センチの人もいるんだから、人によって合わせやすさ、適応のしやすさ、しにくさは絶対あるよね。
その長年の時を経て作られた20センチの靴がいい悪いじゃなくて、事実としてある以上は、そこにうまく足を合わせられれば痛くなくて楽だし、無理やり足を入れようとすると痛くて靴擦れおこすから諦めてかかとを踏んで履いておけば楽になったかと思いきや、それを見たたまたま足が19.5センチで苦しみが伴わずに靴に合わせることのできた奴や、自分も痛いけど頑張ってそれを隠すように笑顔で靴を履いてるやつらに、はしたないだの行儀が悪いなど指摘されるんだもん。みんながみんなずっとずっとうまく合わせられるかと言えばそうでもなく、最初はうまく足が靴にフィットしてたかと思いきや、成長するにつれて窮屈になったりもする。いくらサイズがあっても色や柄が好みでなかったりもする。
でも、そこに20センチの靴という枠がある以上、意識せずにはいられないし、はだしになることもかかとを引きちぎってしまうことも色を塗り替えることもデコレーションすることも、みんなとの違いが目立ってしまって簡単にはできないよね。
学習というのはコミュニティへの参加問題
子供の貧困の問題とかひきこもりの問題、数が増加してるようにも見えるけど、社会学あるあるで、今まで統計調査取られてなかったものがより精密に調査されるようになって、増えたのではなく「掘り起こされた」だけってこともあるよね
サービスって利用するものでしかないのに、福祉サービスとなると「頼る」とか「お世話になる」みたいな認識あるよね。協議の結果の最終手段みたいな。それまではできる限り身内でみたいな。単なる一サービスなのにね
親なんて何十億パターンのうちの1パターンの人生しか経験してなくて、人は自分の選択していない経験をジャッジできないのに、子にはこうなってほしいみたいな人生の歩み方に対する勝手な願望をもって子育てするとか怖すぎ
共通項のが多いもの同士が集まって一番でかくなった集団を「大衆」って呼ぶのかな
タピオカってでんぷんだから主食だよね!!!
文系大学生は考えて文字書いてなんぼって感じ
いくら理想像を語っても、現状から理想への移行方法をも一緒に語らないと、結局窒息するだけだよね
昨日、ひきこもりに関する論文読んでて、所属の回復が大事だと述べられてたんだけど、その著者のいう所属は名前も社会的地位も備わっていないネットのゲームコミュニティなんかをも内包しているのではなく、学生だとか会社員だとか、社会的に認められた公式に名前のついてる市民権の得た所属しか「所属」として認識されてなく悲しくなった。だから自分の部屋から出られなくなる人がでてくるんじゃん!!まぁそもそも「ひきこもり」って言葉だとか自分の世界に入って外界にあまり触れないこと自体がマイナスの意味を帯びているよね、この世界では。