この手の中に・・・ 今持ち合わせている " 最大限の愛情 " を精一杯に込めて。[第16週・6部 (80話前編) ]
[※期間限定・完全公開記事]
若き実力派俳優・清原果耶氏の代表作である 連続テレビ小説・『おかえりモネ(2021年)』 。 その筆者の感想と新しい視点から分析・考察し、「人としての生き方を研究しよう」という趣旨の " 『おかえりモネ』と人生哲学 " という一連のシリーズ記事。
今回は第16週・「若き者たち」の特集記事の6部となり、今でもファンの心を掴んで離さない " あの80話 " の特集記事だ。当然、筆者も思い入れが強い放送回のため、今回も特集記事を前編・後編と分けることにした。それでこの特集記事は、80話の前半部から中盤部までを集中的に取り上げた内容となっている(冒頭~約11分ぐらいまで)。したがって終盤の約4分間と、第17週・81話「わたしたちに出来ること」のアバンタイトルまでを、次回の第16週・7部(80話・後編)の記事として公開する予定である。ご期待頂ければ幸いだ。ちなみに前回の特集記事となる、第16週・5部(79話)の記事をお読みになりたい方は、このリンクからどうぞ。
さて、" 『おかえりモネ』と人生哲学 " というシリーズ記事を、当初はAmeba Blogで書き始めたのだが、その第一回目が2022年3月26日 (noteでの再編集版はこちらから) 。もう少しで3年が経過しようとしている・・・ まだ3年、いや、もう3年も経ってしまったか。
このシリーズ記事の企画意図は、『映像力学』などの制作手法の視点を中心に、ライティングやグレーディング(映像の階調・色調の補正)、MA(Multi Audio:音声編集ダビング)、そして出演俳優の演技などから、「セリフの文面やストーリー展開だけでは感じ取ることの出来ない、裏テーマやメタファ、登場人物の深層心理などの本質に迫っていこう」というものだった。
それで、このシリーズ記事を書き始めるキッカケになったのが 第15週・「百音と未知」と、この第16週・「若き者たち」、第19週・「島へ」という三つの週に、大きな感銘を受けたことだった( 単体の放送回では、第9週・「雨のち旅立ち」の45話 )。もっと言えば、「なんとしてでも・・・ 第16週・80話までは辿り着きたい」 これが約3年間にも及んだ、執筆のモチベーションと原動力だったのだ。そして80話まで、ようやく辿り着いた。筆者の感慨も一入だ。
実は第16週・80話の特集記事は、昨年の年末(2024年12月)には、一旦書き終えていた。しかしこの放送回への強い思い入れもあってか、その仕上がりに納得できず・・・ 。公開するかどうかギリギリまで悩んだが、「やはり納得できるものを公開したい」ということで一旦すべてをボツにして、一から書き直しした (まあ、既に過去記事でも何回もあった話だが・・・ 苦笑)。結局・・・ 相当な時間がかかってしまった。80話の特集記事を心待ちにされていた方々、公開が遅れてしまい申し訳ありませんでした。
それで、この80話のストーリーの核となるのは、やはり『汐見湯』のコインランドリーでの百音と菅波のシーンだろう。このシーンの舞台は狭く、登場人物の動作などの段取りや配置転換も少ない。したがって、今回の特集記事は、『映像力学』などの視点で捉えた分析・考察は少ない。また他の放送回と比較すれば、ライティングやグレーディング、MAなどにも象徴的な要素は少ないため、それらの要素から導き出した分析・考察も少ない特集記事となっている。
一方、この80話での注目すべきポイントは、セリフやストーリー構成、登場人物の表情や仕草、そして演じる俳優の表現力だ。特にこの放送回では、これらの部分に注目して分析・考察を行った。したがって、今回はセリフの意味合いやその本質を浮き彫りにするために、関連すると思われる過去の放送回でのセリフやエピソード、その伏線と回収などに多くの割合でフォーカスを当てつつ、分析・考察を行っている。
また、特にコインランドリーの約10分間のシーン(80話の約8分間 + 81話・アバンタイトルの約2分間も含む)では、登場人物の表情や仕草、そして演じる俳優の表現力をいかに見極めるのかもポイントだろう。そういうこともあって、コインランドリーのシーンでは、今回も『DTDA』という手法 ( 詳しくはこちら )を用いた。したがって、約10分間の全18,000フレームを" 1フレームごと " に観察して分析・考察したということになる。相当な時間を費やしたが・・・ 裏テーマやメタファ、登場人物の深層心理には、十二分に迫れたと思う。
付け加えるならば、今回のコインランドリーのシーンでは、実は前半と後半では " 描きたい事柄 " が異なっている。要するに前半と後半では、タームが切り替わるのだ。これをどのように文章に変換して表現するのか? 本記事の執筆では、このことに最も苦戦した部分でもあり、80話の特集記事を前・後編に分けた理由もそこにある。上手く文章で表現出来たのか・・・ 不安を残しつつも、それでも歯を食いしばって書いてみた。この部分にも、是非とも注目して読んで頂ければと思う。
さらに、この80話の演出を担当した梶原登城氏の発言や脚本を担当した安達奈緒子氏のインタビュー、菅波を演じる坂口健太郎氏のインタビューなども交えつつ、多角的な視点で分析・考察することで、この放送回の裏テーマやメタファ、登場人物の深層心理に迫っていく。この部分にも、是非とも注目して読んで頂けると幸いだ。
○「何もしてやれない」と思った時こそ・・・ 苦しむ人々にそっと寄り添うことで " 救いと生きる勇気 " を与えることができる
東京では、主人公の永浦百音(モネ 演・清原果耶氏)と幼馴染の及川亮 (りょーちん 演・永瀬廉氏)、そして妹・未知 (みーちゃん 演・蒔田彩珠氏)との間で、紆余曲折と波乱万丈のやり取りが行われている中・・・
その時、宮城では 百音の登米時代の恩人である新田サヤカ (演・夏木マリ氏)が、故郷・亀島の祖父・龍己 (演・藤竜也氏)に電話をかけていた。なんでもサヤカは龍己に、牡蠣の発注と発送を依頼したかったそうだ。
要件を話し終えたサヤカは、電話口の雰囲気から祖父・龍己の疲労の色を感じ取り、『元気?』と声をかける。すると龍己は、このように語り出す。
東日本大震災を経験した息子や娘世代はさることながら、孫世代までその苦しみに苛まれていることを、祖父・龍己はサヤカに語って聞かせる。
さてこの第16週のストーリー展開では、様々な属性における東日本大震災についての考え方や捉え方の差異、そしてそのコントラストを浮き彫りにしようとする狙いがある。
77話では、東日本大震災を体験した登場人物における " 世代間の考え方や捉え方の差異 " を、78話では " 東日本大震災を体験した若者たちと、非体験の若者たちとの考え方や捉え方の差異 " のコントラストを浮き彫りにしようとしていた。そしてこの80話では、主人公・百音の祖父・祖母世代の人々における、東日本大震災の考え方や捉え方にフォーカスを当てることで、" 震災体験者における世代間の考え方や捉え方の差異 " を浮き彫りにしようとしているわけだ。しかし、どのような属性であったとしても・・・ それぞれの共通の思いを、祖父・龍己の言葉が要約しているのだろう。
[ 震災の被害を目の前にして・・・ でも自分は子供で " 助ける力 " も無くて。あの時、何も出来なかった・・・ ]
[ 震災からの仲間たち復興を、手助け出来たはずなのに・・・ " 自分の力不足 " で。あの時、何も出来なかった・・・ ]
[ TVの画面で見る震災は、" 現実感 " が湧いて来なくて・・・ 呆然と見ているだけで。あの時、何も出来なかった・・・ ]
[ 震災からの復興に、苦悩する若い世代を目の前にして・・・ " 衰えた自分自身 " というものを突き付けられる。今現在となっては、何もしてやれない・・・ ]
どのような属性であっても・・・多かれ少なかれ " サバイバーズギルトのような後悔 " を、誰もが抱えて生きているということなのだろう。このことに対してサヤカは、一つの考え方を提示する。
さてこのサヤカの考え方を、皆さんはどのように捉えましたか? 主人公・百音を筆頭に父・耕治も菅波も・・・ 人々が抱く、「人の役に立ちたい。人を救いたい」という思い。しかし志を持っていたとしても、自分一人が持っている能力は限定的であり、またその力も微々たるもので " 救えないという現実 " に打ちのめされる。
「人の役に立ちたい。人を救いたい」と志し、気象予報士の資格とスキルを身に付けても・・・ 「救える範囲は限定されている」という現実を突き付けられる百音。また人を救う最前線に立つ " 医師 " という資格とスキルを有する菅波でさえ、「救える範囲には限界がある」ということに苦悩する姿を今作では描く。しかしサヤカは、
[ 「何もしてやれない」と思った時こそ、苦しむ人々にそっと寄り添うことで・・・ " 救いと生きる勇気 " を与えることができるじゃないのか? ]
と " サバイバーズギルトのような後悔 " に苛まれている人々に、訴えかけているようにも感じられる。さらに、
[ 若い世代の人々が、未来に希望が持てない時にこそ・・・ 我々のような人生経験の長い人間が、" 一生懸命にひたむきに生きる後ろ姿 " を率先して示すことで、" 希望の光 " も見せることが出来るんじゃないのか? ]
と訴えかけているようにも思えるのだ。この心意気はサヤカの仕草にも表れている。サヤカは、『私たちが " やれること " なんて、あと一つぐらいですよ』と語るまでは、目線が下がり俯き気味だ。
しかし、『最後まで " カッコよく " 生きてやりましょうよ』と語る瞬間に、目線を上げて、グッと下手方向に視線を送る。
『映像力学』的には( 詳しい理論はこちら )、下手方向には " 未来 " が存在していることになるため、サヤカの視線の先には・・・ " 未来への希望の光 " が広がっていることを表現しているのだろう。このような、
[ 何もしてやれない時にこそ、苦しむ人々にそっと寄り添う ]
[ " 一生懸命にひたむきに生きる後ろ姿 " を率先して示すことで、若い世代の人々にも " 希望の光 " を見せることが出来る ]
といった『サヤカ・イズム』は、今作制作の取材の中で東北の人々から学んだエッセンスなのか、それとも脚本家や制作陣たちが " 今作に込めた共通の願い " なのか。
いずれにしても、これらの『サヤカ・イズム』が・・・ この後のシーンでの百音や菅波の行動の選択は当然ながら、菅波の地域医療に専念する決断や、今後に百音が故郷・亀島に帰ることへの " 動機 " として繋がっていることを、事前に暗示する機能を持たせたシーンにもなっているわけだ。
第19週・「島へ」では、百音が東京を離れて故郷・亀島に帰る決断をするが、放送当時は「百音が帰郷する動機が、いまいち理解できない」という意見も散見した。第20週・「気象予報士に何ができる?」では、登場人物でさえ、帰郷の動機を百音に問う。
[ 東京で成功してたのに・・・ それを放棄して、なぜ帰郷したの? その動機は? ]
市役所課長のセリフは、視聴者や登場人物の百音への疑問を代弁させているのだろう。しかし、
[ 「何もしてやれない」と思った時こそ・・・ 苦しむ人々にそっと寄り添いたい ]
この『サヤカ・イズム』が、百音の中で芽生えたからこそ、彼女は帰郷する決断したのだ。今作では、このようなサブリミナル効果のような " 巧みな伏線と回収 " が、ストーリーの構成と構造に奥行きを持たせ、その深い味わいが視聴者を魅了した要素の一つではないかと考えている。では、百音は結局のところ、「 " 誰に " 寄り添いたい」と思ったのだろうか? このことは、この後の菅波の生き方の選択や決断などが、百音自身の意識にも大きく影響を与えていくことになっていく。
○その朗らかな表情が " 隠し味 " のように・・・ ストーリーに影響を与えていく
一方の東京では、紆余曲折と波乱万丈もあって妹・未知と亮の間にしこりを残しつつも・・・ 何とか無事に、幼馴染たちを故郷へと送り出した百音。
日付が変わると、百音には普段の日常が再び戻ってきた。彼女は早めに『JAPAN UNITED TELEVISION』に出社して、報道気象班のスタッフルームで準備をしていると、続々と報道気象班のスタッフたちも出社してきた。
百音の恋愛事情が順調であることを知るスタッフたちは、彼女の仕事ぶりも張り切っているように見えるのだろう。
その恋愛相手が、青年医師である菅波光太朗であることを昨日知ったメンバーたちは、百音に対していろいろと探りを入れてくる状況というところだろう。
さて、百音と野村明日美(スーちゃん 演・恒松祐里氏)とで、幼馴染たちを送り出したシーンと、報道気象班のスタッフルームでのやり取りのシーン。この二つのシーンを、皆さんはどのように捉えましたか?
ストーリー構成で見てみると、この第16週は緊張感のあるシーンが満載であり、非常に重苦しい空気感が続く。短絡的に捉えれば、この報道気象班のスタッフルームのシーンに持たせた機能が、ストーリー構成における緩急の " 緩の部分 " に該当すると感じられることも当然だろうと思う。そこで、これらのシーンの本質を浮き彫りにするために、ストーリーの一連の流れをもう一度振り返ってみようと思う。
紆余曲折と波乱万丈があったものの、何とか妹・未知と亮を無事に送り出してホッと胸を撫で下ろしている中、百音には普段の日常が戻って来た。彼女自身の状況に目を向けると、中継キャスターのデビューを無事に果たし、その翌週の月曜日・・・ 仕事は順調そのもの。菅波との恋愛事情も順調で、百音は今まさに乗りに乗っている状況と言える。そのような中での、このやり取りだ。
百音のモチベーションが " 公私共々 " に最高潮まで高まっていることで、彼女がいつもよりも早く出社していたと、報道気象班のスタッフたちには見えているのだろう。しかもその際に、百音が浮かべた表情が・・・ " これ " だったのだ。
快活で朗らかな表情の百音。他者から見れば、今まさに乗りに乗っている状況の人物にしか見えない。しかし・・・
[ りょーちんやみーちゃんから " 突き付けられた言葉 " が脳裏を巡って・・・ なかなか眠りにつけず、眠っても浅い眠りで。頭と気持ちを切り替えようと、いつもよりも早く出社した ]
この日の前日には、様々な問題と言葉を突き付けられた百音。このように早く出社した理由の一つには、彼女の人知れずの苦悩が要因だったことは言うまでもないだろう。ということは、幼馴染たちを送り出したシーンと報道気象班のスタッフルームのシーンで、「朗らかな表情の百音のカット」を入れた狙いとしては・・・
様々な問題と言葉を突き付けられ、百音は心理的なダメージを負いつつも、一見するとそれほど深刻なダメージでもなかったように、視聴者に感じさせる。
しかし、この後の菅波とのコインランドリーのシーンでは、" 百音の抑え込んでいた感情 " が一気に爆発することで、「実はかなりの深刻な心理的ダメージを負っており、そのダメージを独りで抱え込んで、ひた隠しにしていた」ということを、際立たせるための構成だったのではなかろうか。要するに、これらの対比によって、百音と言う女性の " 健気さ " を浮き彫りにすることを、脚本家や制作側は狙っていたのではなかろうか。
そして、この「朗らかな表情の百音のカット」が " 隠し味 " のように、この後のストーリー展開でも、じわじわと効果を発揮してくるところが非常に興味深い。またこのような百音の健気さが、今作全体の感動や感慨深さにも一役買っているところが、特筆すべきところだろうと思う。
○「理性的なターム」と「衝動的なターム」の狭間の中で・・・ 二人の感情は揺れ動く
今日の仕事を終えて、『汐見湯』のコインランドリーで洗濯をする百音。妹・未知からは、菅波と撮った2ショット写真が送られてきて・・・ その写真を眺めつつ和む。
このタイミングで、青年医師の菅波光太朗(演・坂口健太郎氏)がやって来て・・・ 驚きの表情を見せる百音。
百音は、2ショット写真を眺めていたことを菅波に知られるのが気恥ずかしいのか・・・ 素早く隠した。
さて、この一連の流れは、短絡的に考えると百音の気恥ずかしさから出た行動にも見える。しかし、この後のストーリー展開を見てみると、" この百音の行動 " が演出表現の上で、実は非常に重要な意味合いを持っていることが明らかになってくる。そのことについては、次回の『第16週・80話後編』の記事で詳しく述べたい。
それで、菅波との記念すべき初デートを、連絡もせずにすっぽかしてしまったことを詫びる百音。『もういいですよ』と語る菅波。何も持たない彼に、『先生。今日は洗濯じゃないですね・・・ 』と百音が問うと、このような答えが返ってくる。
と幼馴染の亮との関係性に、 " 動揺と嫉妬心 " を匂わせるような言葉を率直に語る菅波だが・・・ 彼の語った『動揺』には、実は別の意味合いがあった。この『動揺』についても、この後のストーリー展開において非常に重要な意味合いを持っていることが明らかになる。このことについては、この特集記事の中盤以降で詳しく述べたいと思う。
一方の百音は、菅波か語った『動揺』という言葉に、このような表情を浮かべる。
[ " 昨日のりょーちんとの経緯 " について・・・ 先生が既に感づいているということなの? そのことに先生は・・・ 『動揺している』と言っているの? ]
と況やばかりの驚きの表情を、百音は浮かべているようにも感じられる。だからこそ、菅波が『座ってもいいですか?』と語り出すまで彼女は呆然とした状態であり、さらにその後の百音の仕草が、非常にぎこちないものであったことにも頷ける。
さて、このシーンでの登場人物の配置や動作の段取りに、皆さんは違和感を感じませんでしたか? 筆者は初見の際に、かなりの違和感を感じたのだが・・・ 鋭い方々は既にお分かりでしょう。そうです!!! シーン冒頭から中盤まで(ずんだ餅を渡すまで)の段取りは、百音は一切立ち上がらずに " 常に座った状態 " で菅波に対応しているのだ。
日常生活で考えると、例えば知人と遭遇した場合には立ちあがって挨拶したりするのが、通常の行動だろうと思われる。特に今回のシーンにおいては、前日に記念すべき初デートを連絡もせずにすっぽかしてしまって、申し訳なく思っている相手だ。百音の心情から鑑みれば、立ち上がって詫びるのが通常の行動だろう。しかしこのシーンでの百音は、" 座った状態 " で菅波に詫びを入れる・・・ なんとも不自然だ。
この座位での謝罪は、ある意味、" 横柄な態度 " にも感じられて・・・ 筆者は、この行動が「健気な百音」という人物像に全く似合わないように感じたのだ。さらにこのカットをよく観てみると、百音が何度も立ち上がりそうになって、何度も我慢しているような様子が見て取れる。その不自然な段取りに、演じた清原果耶氏も " 感情の摺合せ " にかなり苦労したことが想像できる。
ではなぜ、このような不自然な段取りを演出家は採用したのだろうか? 理由は二つほど考えられる。その一つ目は『汐見湯』のコインランドリーという舞台自体の、圧倒的な空間の物理的な狭さだ。この第16週の演出を担当した梶原登城氏は、このように語っている。
このようにコインランドリーでの撮影は、圧倒的な空間の物理的な狭さによって、そもそもの構図の選択肢が非常に少ない。また空間の物理的な狭さから、登場人物を大きく移動させる演技も難しい。しかもこのシーンは、約8分間の長尺でもある (80話のみ) 。この長いシーンを視聴者に飽きさせずに見せるためにも、構図のバリエーションとその選択肢はなるべく残しておきたいところだろう。しかし、下の画像のような演者の配置で俯瞰の構図を撮影した場合では、もしも百音がこのままで立ち上がってしまうと・・・
「ごちゃっ」とした " 窮屈で野暮ったい映像 " となってしまうことは想像に難くない。要するに、俯瞰の構図のカットが用い難くなることを回避するために、演じる清原氏に " 座位の演技 " を指示した可能性は高い。
また二つ目としては、" 登場人物の主導権とそのターム " を表現しているのではないかと考えている。要するに、百音が座位状態の前半部では、「菅波が主導権を握り、彼の理性的でロジカルな思考が発揮されるターム」という区切りを、映像で表現する狙いがあるように感じられる。
一方で、百音が立ち上がった後半部に入ると、「百音が主導権を握り、彼女の衝動的で熱情が迸るターム」へと切替わったということを、映像で表現する狙いがあるように感じられるのだ。
要するに、「理性的なターム」と「衝動的なターム」を映像として区切って見せることで、" その狭間の中 " での菅波と百音の心の揺れ動きと感情の高ぶりをより一層際立たせて、浮き彫りにすることを狙っていたのではなかろうか。そして、この百音を座位から立位へと変化させる段取りには、構図の選択肢を残すということよりも、タームの切り替わりを視聴者に意識づけすることの方が、演出上の狙いとしては大きな要素だったのではないかと、筆者は推察している。
そして、このタームの切り替わりを念頭に置きつつ、このシーンを視聴すれば、前半の「理性的なターム」と後半の「衝動的なターム」での表現したいことの意味合いの差異と 、" 表現したい本質 " がクッキリと浮き彫りになってくる。ぜひともこの部分に注目しつつ、80話のコインランドリーのシーンを再度鑑賞して頂けると、その世界観がより堪能できると思うのだ。
○彼は " 彼女の心の痛みと苦しみ " を疑似的に体感したことで・・・ さらに " その本質 " へと迫ろうとする
座って落ち着いて話が出来る状況になっても・・・ 何も語り出さない菅波に『先生? 』と話を促す百音。彼はこのように語る。
[ " りょーちんと私の関係性 " について・・・ 先生は聞き出そうとしているの? ]
この菅波の言葉に、百音の脳裏にはますます「昨日の亮との光景」が、脳裏を駆け巡っているような表情にも感じられる。すると・・・ 菅波から意外な言葉が飛び出てくる。
[ えっ? なぜ、このタイミングで妹の話が出て来るの? ]
この菅波の話の展開に、百音も戸惑いの表情を浮かべているようにも感じられる。そして・・・ ようやくここからが本題だ。
このタイミングで、過去に百音から聞かされた " 妹・未知との確執 " についてを話し始める菅波。思ってもみなかった話の展開に、ハッとさせられる百音だった。
さて妹・未知や亮と対面して、ようやく分ってきたと菅波が語った、「百音が " あの日 " から抱えてきたもの」とは一体何なのか? 例えば、76話のエピソードが象徴的だろう。
記念すべき初デートに百音を迎えに行った菅波。しかし彼女は居ず、亮の元へと向かっていた。そのことを妹・未知に突き付けられる。
この時に菅波の心の中に沸き起こった感情は、亮に対する単純な嫉妬心ではなく、
[ 棘のある言葉。突き刺すような視線。心を切り裂くような攻撃性 ・・・ これか。彼女の心を傷つけていたのは、" 実の妹の心を抉る言動 " だったのか・・・ ]
[ 実の妹なのに・・・。 今、僕が突き付けられたような " 言葉の刃 " に、何度も晒されて・・・ 彼女は深く傷つきつつも、これまで耐え忍んできたのだろう。この " 実の妹の言葉の刃 " が、彼女を苦しめていた「心の痛みの本質 」だった ]
といったような妹・未知の攻撃性の高さと、その攻撃性が菅波の方へと向けられたことによって、彼は初めて「百音が抱えていた心の痛みと苦しみ」を疑似的に体感したというところだろう。
[ 実の妹から浴びせられる " 言葉の刃 " に心を抉られて・・・。彼女の「心の痛みと苦しみ」を頭では理解していたが、僕の思慮は浅かった。僕には・・・ " 実感 " が全く伴っていなかった ]
この妹・未知の攻撃性を受け止めた菅波は、亮への嫉妬心よりも・・・ むしろ「百音が抱えてきた心の痛みと苦しみ」というものに、関心が向いていったのではなかろうか。また、74話では亮と初対面した菅波。
亮から、そこはかとなく醸し出される " 負のオーラ " を感じ取った菅波は、
[ " あの日 " から・・・ 彼女の故郷・亀島の中には、潜在的に " 負のオーラ " が漂い続けて・・・ 今や彼らや彼女たちを押し潰そうとしていたのか ]
ということを敏感に感じ取ったのではなかろうか。菅波が語った「百音が " あの日 " から抱えてきたもの」とは、これらが複雑に絡み合った、単純には解決できない " 痛みと苦しみ " だったのだ。そしてこれらのことも、菅波は疑似的に体感したのだろう。
このセリフでは、「 " 疑似的な体感 " はあくまでも疑似的であり、" 本物と同質なもの " を体感したとは思えない」といった意味合いを、菅波は語っているのだろう。しかし、さらに彼は・・・ 百音が「 " あの日 " から抱えてきたもの」の正体へと迫ろうとするのだ。
○他者の " 個人的な領域 " に、踏み込んでいくことへの躊躇が・・・ " 行動を抑制する足枷 " にもなっていた
そして菅波は、百音の目を見据えて力強く宣言する。
さて、菅波のこのセリフを皆さんはどのように捉えましたか? そもそも彼が医学の道を志したのは、「患者を病から救いたい。治したい」という思いからであることは、想像に難くないだろう。第5週・22話「勉強はじめました」でのエピソードが象徴的だ。
このように登米に赴任した当初の菅波からは、「患者を病から救いたい。治したい」という強いこだわりを感じさせる。その一方で、彼のその強いこだわりが・・・ 過去に医療過誤を作り出すキッカケにもなっていたわけだ。
そして登米に赴任した当初の菅波は、この医療過誤のトラウマを抱えつつ、
[ 医療にも限界があり・・・ すべての人を救えない ]
[ 患者の痛みや苦しみに、過剰に感情移入することは・・・ 医療の範疇から逸脱する ]
という思いも抱えながら・・・ あくまでも医療を施す専門家として一線を引き、" 患者の個人的な領域 " には深く踏み込まないよう、常にドライに対応していたわけだ。また百音と出会った頃の菅波は、人の感情を察知したり汲み取ったりすることを苦手としていた。第15週・73話「百音と未知」では、彼自身がこのように語っている。
また演じる坂口健太郎氏は、菅波光太朗の人物像について、このようにも語っている。
この坂口氏が語った、菅波の「他者に対する壁」を作るような行動の背後には、
[ 本当は人と深く関わって治療を施したり、救ったりしていきたいが・・・ 僕は人の感情を察知したり汲み取ったりすることが苦手だ。だからこそ、僕のような人間は・・・ 患者や他者の " 個人的な領域 " に、むしろ深く踏み込んではいけない ]
というような、" 自身の行動を抑制する足枷 " のようなメンタリティーが強く作用していることが考えられるのだ。
そのようなメンタリティーの中で菅波は、『人の役に立ちたい。人を救いたい』との思いを強く放射する、百音という若い女性に出会った。菅波の心に突き刺さったのは・・・ 第6週・29話「大人たちの青春」での、百音の " この言葉 " だったのではなかろうか。
そして百音が抱く、『自分の夢や幸せよりも・・・ 人の役に立ちたい。人を救いたい』といった愚直なまでの思い。第9週・43話「雨のち旅立ち」では、彼女の " その原動力 " を菅波は知ることになる。
[ 彼女が自分の夢や幸せよりも、『人の役に立ちたい。人を救いたい』という思いを優先させてしまうのは・・・ " 後ろめたさという心の傷 " が要因だったのか・・・ ]
この時に初めて、
[ 医療従事者として立場ではなく、" 一人の人間 " として・・・ 彼女の心の痛みと苦しみを和らげてあげたい・・・ ]
という衝動に襲われた菅波だったのだろう。しかし・・・
この時の菅波も、 " 行動を抑制する足枷 " のようなものが強く作用してしまったのか、百音の " 個人的な領域 " に踏み込むことに躊躇し、" その衝動 " を抑え込んでしまって・・・ 結局、彼女の心の痛みに手を差し伸べることは出来なかった。この時の後悔が、今日まで菅波の心の中にずっと尾を引いていたということなのだろう。
このセリフの『今なら』という言葉には、" この時の菅波の後悔 " が滲んでいるようにも思える。そして百音と一緒に過ごすことで、菅波自身も人の感情を察知したり汲み取ったりすることが、日増しに高まっていった。だからこそ彼は、『自分が少し変わった』と語り、『今なら、少しは受け止められる』と宣言したのだろう。
○これからは・・・ " 痛みや苦しみに寄り添う生き方 " をしていきたい
またこの菅波のセリフは、最初は受動的なニュアンスで語られるものの、間髪入れずに " 能動的なニュアンス " に言い直しているところが非常に印象的だ。
では菅波が、『いや・・・ 受け止めたい』と能動的なニュアンスに言い直したのは、なぜなのだろうか? これは『Weather Experts』社での " 東日本大震災の非当事者たち " とのディスカッションが、大きく影響していると思われる。
78話では、神野マリアンナ莉子(演・今田美桜氏)が、「震災の当事者でなければ、その心の痛みや苦しみの実感を知る由もなく、非当事者が " 分るよ " と軽率に共感することは偽善に聞こえる」といったニュアンスのことを語る。実は菅波自身も、神野と同様の考え方を持っていたと筆者は推察している。
[ 神野さんは・・・ 僕と同じだ。その心の痛みや苦しみに " 実感 " を持てないのに・・・ 「分るよ」とは軽率に共感したくないんだ ]
ということは、第9週・43話「雨のち旅立ち」において、菅波が百音の心の痛みや苦しみに手を差し伸べようとするものの・・・ 土壇場で躊躇してしまったのは、このような神野と同様の考え方も、彼の " 行動を抑制する足枷 " の一つとして作用してしまったのではなかろうか。しかし、この後に語られる内田衛(演・清水尋也氏)の言葉で、" 気づき " を感じさせるような菅波の表情も印象的だろう。
[ " 被災の経験 " が無いからといって、その痛みや苦しみに実感を持てないなんて・・・ 言い訳なんじゃないの? 過去に自分が経験した痛みや苦しみに置き換えて・・・ 想像力を働かせれば、" その実感 " も沸くんじゃないの? ]
と内田の言葉は、菅波にはこのように聞こえたのではなかろうか。そして79話では、菅波は唐突にこのように語り出す。
[ 僕のこれからの生き方は、「人々の痛みや苦しみを確実に取り除く」というものではなく・・・ どうしても、取り除けない痛みや苦しみがあるならば、その痛みや苦しみを " 自分の痛みや苦しみ " に置き換えて、 "その実感 " を基に治療を施しつつ、人々に寄り添って生きていきたい ]
[ もしも人々の痛みや苦しみを " 自分の痛みや苦しみ " に置き換えられずに、どうしても "その実感 " が伴わなくても・・・ 僕は「その痛みや苦しみに寄り添う生き方」をしていきたい ]
79話での『体の痛みも、心の痛みも。本人でなければ、絶対に分らないんですよね』というセリフには、上記のような菅波の感慨と決意が含まれているように思えるのだ。脚本を担当した安達奈緒子氏は、このように語っている。
人々の痛みや苦しみが取り除けず、どうしても実感も伴わないものであったとしても・・・ 痛みや苦しみに寄り添って生きることは出来る。79話での " 菅波の気づき " とは、そういったものだったと筆者は感じるのだ。
この瞬間に菅波は、「百音の心の痛みや苦しみを受け止め、寄り添って生きていきたい」という決意と共に、「登米の人々の身体と心の痛みにも寄り添って生きていくんだ」といった、地域医療に専念する決断 をも同時に固めたのが、79話での『Weather Experts』社のシーンだったのではなかろうか。そしてこの決意と決断が、この80話での、
といった菅波の訴えかけるような目と、強く能動的な言葉に反映されているのではないかと思う。
○解きほぐされていく心理的ダメージと共に・・・ 沸き起こって来た「彼女の衝動」
さて妹・未知と亮の間にしこりを残しつつも、何とか落ち着きを取り戻しているようにも見えた百音。先ほども述べたように、直前の『JAPAN UNITED TELEVISION』のシーンを見る限りでは、気持ちを切り替えて仕事に取り組もうとしている様子だったわけだ。
また仕事も菅波との恋愛事情も順調であり、他者からすれば今まさに、彼女は乗りに乗っているように見えていたことだろう。
しかしその一方では、亮の失踪、妹・未知との確執、明日美の百音への嫉妬心、百音の「亮への哀れみの視線」が彼を孤立させていたこと、亮の百音への思いを一方的に突き放してしまったこと、妹・未知に「お姉ちゃんは冷たい」と非難されたこと・・・ 。百音にとっての「2016年11月27日」という日は、たった一日で様々な問題が噴出し、それを一身で受け止めた日でもあったのだ。平静を取り繕っていたとしても・・・ ボディブローのように蓄積していった心理的ダメージは、彼女が受け止められるキャパシティーを、もはや超えようとしていた。そのような切羽詰まった心理状態の中で・・・
[ 先生という存在さえいてくれれば・・・ 私は " 平静な自分 " というものを保っていられる ]
と、菅波との2ショット写真を眺める百音の表情には、彼に縋るような思いも滲んでいるようにも見える。要するに、今現在の百音の " 唯一の心の拠り所 " は菅波との関係性だけであり、彼女がかろうじて平静を取り繕って居られたのも、彼の存在があったからだ。このような状況の中で、菅波が語った " この言葉 " を、どのように受け取ったのだろうか?
[ 先生は、私の " 心の痛みと苦しみ " に寄り添って・・・ 一緒に歩んでくれると言っているの? ]
[ 先生は・・・ 私の " 心の拠り所 " になってくれると言っているの? ]
確かにこれまでの百音は、菅波という存在を " 密かに心の拠り所 " にしていた。しかし彼の宣言によって、公然と頼れる存在にもなったわけだ。この瞬間の圧倒的な安堵感によって・・・ 百音の表情からは、蓄積していた心理的なダメージが、一瞬にして解きほぐされていくようにも見える。
それと同時に、『受け止めたい』という菅波の訴えかけに・・・ 百音の心は完全に射抜かれたようにも感じられるのだ。さらに言えば、彼女の中に " 沸き起こって来た衝動 " のようなものも、芽生え始めているような表情にさえ感じられる。しかし・・・
安堵感や幸福感と共に、その言葉の重さを噛みしめつつ・・・ その一方で、菅波の『何かあれば、多少は頼りにしてください』という理性的な言葉が、百音に " 沸き起こって来た衝動 " を一瞬にして抑え込んだようにも見える。だからこそ彼女は『はい』と、理性的な態度で返答したのではなかろうか。
しかしこの理性的な返答が、この後の「衝動的なターム」での、" 抑え込んだ百音の衝動の爆発 " との対比とコントラストによって、その感動を倍増させる " 絶妙な隠し味 " にもなっている。是非ともそのことも念頭に置いて、この後の展開を堪能して頂きたいと思う。
○ " 理性と友愛 " が、「あなたが最愛の人です」という言葉を発することさえ・・・ 阻む
百音に伝えたいことを語り終えたらしく、菅波はこの場を立ち去ろうとする。
さて、ここまでの菅波の言動を、皆さんはどのように捉えましたか? 百音の立場になって考えると、そこはかとない物足りなさや満たされなさを、抱かざるを得ないように思える。
[ え・・・ それで終わりなの? 他にも " 私に伝えたいこと " があるんじゃないの? ]
もちろん " 菅波が伝えたかったことの本質 " を、百音は既に十分に察知し、汲み取っていたことだろう。しかし女性としては、" 確信 " も欲しかったはずだ。
[ 先生は、なぜ私に・・・ 「決定的な言葉」を言ってくれないの? ]
ではなぜ菅波は、核心に触れないような言動に終始しているのか? 女心に疎いという人物設定というのもあるのかもしれないが、筆者としては菅波が持つ「理性的でロジカルな思考」というものが、ここでも強く影響しているように思える。要するに彼は、「準備は万全で熟慮を重ねて、成功率を最大限まで高めてから初めて行動に移す」というタイプの人物像だろう。
もっと言えば、ここまで菅波が百音に語りかけていたことは、昨晩から一睡もせずに考え抜き、事前に準備された「理性的な言葉たち」で構成されていたようにも思える。その一方で・・・ 彼が百音に伝えたかったことは、『抱えてきたものを受け止めたい』という言葉の他に " もう一つ " あったはずだ。菅波がこのように語ったことが印象的だろう。
要するにこのセリフの背後には、百音への愛情から生まれる衝動を「理性的な言葉たち」で、菅波はなんとか抑え込もうとしているようにも感じられる。
もちろんこの言葉も、百音への愛情を語ってはいるのだが・・・ やはり衝動を抑え込み、情熱を削いだ、ある意味「友愛」に近いもののように聞こえてくるのだ。
[ 先生にとって私は・・・ " 特別な存在 " ではないの? だから・・・「決定的な言葉」を言ってくれないの? ]
このように、百音が感じている物足りなさや満たされなさは、菅波の語る「友愛」のような言葉に起因しているのではなかろうか。一方、『何かあれば、多少は頼りにしてください』と語りつつ、柔らかな微笑を浮かべる菅波。その心の中には、
[ 彼女に伝えたい言葉が " もう一つ " ある。しかし、いざ伝えるとなって言葉を並べれば、並べるほどに・・・ " 伝えたい言葉 " からは、どんどん離れていく・・・ ]
というような焦りの感情や、不甲斐ない自分に対する " 自嘲的に感情 " が見え隠れするようにも思える。さらに『以上です。じゃあ』と、話を切り上げようとする、その直前の菅波の表情が・・・ これだ。
[ 彼女に一番伝えたかったことは・・・ " そんなこと " じゃないんだ・・・ ]
[ 「今の僕にとって、あなたは特別な存在で " 最愛の人 " なんです」という " たった一言 " を彼女に伝えたかっただけなのに。それさえも僕は・・・ 素直に言葉することが出来ないのか? ]
この凍りついたような菅波の表情からは、上記のような心の声と自問自答が聞こえてきそうだ。ではなぜ百音に対する気持ちを、菅波は素直に言葉に出来なかったのだろうか? この後の放送回から徐々に判明するのだが、彼が衝動的で情熱的な感情に身を委ねてしまうと・・・ 暴走を起こして、自分自身でも思ってもみなかったような " 突拍子もない行動 " をしてしまうような人物像だったのだ。
[ 僕は・・・ 衝動に身を委ねてはいけない。情熱に身を委ねてはいけない ]
菅波は衝動的で情熱的な感情に身を委ねることで、過去には多くの失敗した経験があるのだろう。その教訓もあってか彼の言動は、常に理性的でロジカルな範囲の中でコントロールされているようにも思えてくる。そしてこのシーンにおいても " 菅波の行動を抑制する足枷 " のようなものが作用してしまったことが、彼の言動に強く影響しているのではなかろうか。
しかし、この菅波のメンタリティーこそが、「他者に対する壁」や「乗り越えられない壁」を生み出しているようにも思える。その壁を打ち壊し、壁を乗り越えて、新しい世界へと一歩踏み出すためには " 菅波の衝動を解き放つ力 " が必要だった・・・ 「衝動的なターム」に切替わると、それが一段と浮き彫りとなってくる。このことも、80話が感動的な放送回であった要素の一つだろうと思う。
○この手の中に・・・ 今持ち合わせている " 最大限の愛情 " を精一杯に込めて。
一方、『何かあれば、多少は頼りにしてください』という菅波の言葉を噛みしめていた百音。しかし、
と話を切り上げて帰ろうとする菅波。彼の言動からは、" その確信 " も得られずに・・・ 百音の心の中には、満たされなさや物足りなさ、そして一抹の不安感が残る。それと同時に、「先生からの " 愛情のボール " は投げられた」とも感じ取った百音。「何か言葉を返さないと・・・」と思うものの、菅波からの " 決定的な言葉 " があったわけでもなく・・・ 返す言葉が見つからない。咄嗟に、手元にあった宮城名産のずんだ餅を渡すことを思いつく。
しかし間髪入れずに、百音はこのように語る。
さてこの百音のセリフを皆さんは、どのように捉えましたか? このセリフを額面上で捉えれば、「先生からの " 愛情のボール " は投げられたのに・・・ それに対する返答が、ずんだ餅なんて。先生は、こんなものなんか求めていないですよね? 」といった、菅波への問いかけにも聞こえる。しかしこのセリフを語るカットでは、百音は菅波から顔を背けて、自分自身を嘲笑うかのような表情が象徴的だろう。
このカットでの百音の表情と仕草から、このセリフは菅波への問いかけではなく、" 百音の心の声 " が思わず口を衝いて出てきてしまったようにも思える。
[ この期に及んでも私は・・・ " 肝心なこと " を言葉にさえできないの? 本当は私の方からも・・・ " 先生に伝えたいこと " があるんじゃなかったの? ]
[ 「決定的な言葉」も無かったし・・・ 先生の言動が " 愛情のボール " を投げたというのは、私の思い込みなのかもしれない。先生は、その返答なんか求めていないんじゃないの? 私の愛情なんか・・・ 要らないんじゃないの? ]
というように、ここまでの菅波の言動からは " その確信 " が得られなかったことに対する、百音の揺れ動く心模様や一抹の不安感が表現されているのだろう。もっと言えば、
[ 私の愛情なんか・・・ 要らないですか? ]
といったことを、隠喩的に菅波に問いかけているようにも思えてくるのだ。この百音の言動に対して『頂きます』と、優しく微笑む菅波。
この菅波の『頂きます』と語った瞬間には、百音が最も聞きたかった「私の愛情なんか・・・ 要らないですか? 」ということが、彼に伝わったのだ。鼻を擦りつつ照れくさそうに微笑む菅波の表情が、その証拠だろう。揺れ動く心模様や一抹の不安感を滲ませていた百音だったが、この鼻を擦りつつ照れくさそうに微笑む菅波を目にした瞬間に、
[ " 私の伝えたいこと " が・・・ しっかりと先生に伝わったんだ ]
というような安堵感と共に、" その手応え " も得られたことで、どんどんと幸福感に包まれていく。そして、ずんだ餅を感慨深く見つめる百音。
[ この " ずんだ餅 " に、今の私が持ち合わせている最大限の愛情を・・・ 精一杯に込めよう ]
手の中のずんだ餅を見つめる表情には、このような百音の思いがひしひしと伝わってくるようだ。そして、彼女はずんだ餅を握りしめて、満面の笑顔を浮かべつつ " 何かの儀式 " でも執り行うように、ゆっくりと菅波に近づいていく。
しかし、次の瞬間に・・・ 思わぬ言葉が菅波から出てくる。
[ 先生が・・・ 東京からいなくなるっていうことなの? 今の私の " 唯一の心の拠り所 " が、目の前から急に消えて・・・ 無くなっちゃうっていうことなの? ]
今まで包まれていた安堵感や幸福感は一気に消え去り・・・ 不安感と喪失感が頭をもたげてくる百音だった。
さて次回は・・・ 「衝動的なターム」へと突入し、百音と菅波のそれぞれの衝動が爆発する。
お互いの思いが通じ合ったと思われたが・・・ 菅波は東京を去るという。 " 唯一の心の拠り所 " である菅波がいなくなるということで、一気に不安感と喪失感に襲われる百音。その瞬間に、一旦は抑え込んだ " 彼女の衝動 " が、再び沸き起こって来る。それと同時に、亮や妹・未知から突き付けられた言葉が、百音の実感へと繋がっていき・・・ 再び彼女は傷ついていく。
ということで、次回の特集記事は『おかえりモネ』ファンには涙が止まらない、あの感動の " 80話・終盤の約4分間 " と第17週・81話「わたしたちに出来ること」のアバンタイトルまでを集中的に取り上げた、第16週・7部(80話・後編)となる。乞うご期待!!!