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どうか、刹那的に生きる私に、存在と永遠の時間軸をください。

立春はとうに過ぎた、2月23日。
桜のイヤリングを付けて家を出た。

同じ高校で、同じ大学。でも、出会ったのは去年の冬。
そんな友人とはじめてご飯に行って、色んな話をした。

どんな生き方をしたいのか、ずっとずっと話していた、気がする。
「案外、刹那的に生きてるね」
そんなコメントをもらって、私は初めて自分が刹那的_とは何だろう_に生きていることに気が付いた。


人生、冒険をしたい。
「何」になるかに頓着はしない_起業家でも旅人でも政治家でも_けど、ずっと素敵なものに吸い寄せられるような生き方をしたい。いただいたご縁を信じて、ある種流されて生きていきたい。


全ての元凶は何だったのだろう。

でも、今の私があるのは、確実にあの体験をしたからだって、思うものがいくつもあって。

ヒッチハイクは、本当に偶然と気まぐれで知り合った友人に教えてもらったし、彼がいたおかげで私は今旅人になってしまった。
かつての大切な人から、『言葉』がどれだけ素敵なものかを教えてもらったから、今もこうやってnoteを書いている。

そんな体験が、本当に無数にあって、全部全部、私の心の宝物ボックスに、感謝のメッセージの付箋つきで保管されてます。保管状態は、そこらへんの重要文化財より良いのでご安心下さい。


長い目で未来を見据えた将来設計は、したことがない。
どんだけ有意義で素敵な経験をしたとしても、それに目的意識があったわけではない。表向きあったとしても、心がその目的をそこまで重要視してくれない、まである。

でも、沢山の出会いと経験には恵まれている自負はあるし、それをモノにできているとも思う。行動の前に、「目的」という意義を設定はしないけど、その時間や出会いや経験の意義は、明確に認識ができていると思う。

ヒッチハイクだって、創作だって、大学への潜入だって、トー横に行ったことだって、国会議員事務所で働いたことだって、なんだって、全部全部ただ面白そうだから。それが動機。好奇心と心のレセプターが理由です。


自分軸がないねって、言われたことはほぼない。
でも、大層なビジョンも、叶えたい夢も、別になくて。

いや、もちろんやりたいことはいっぱいあって、
素敵な友人と東南アジアに秘密基地を作ることから、大阪市長になってみることから、南極に行くことから、トヨタくらいの会社を作ることまで。何があっても、自分の大切な人を守れる人間でありたいし、そんな彼らといつまでも対等な関係性で笑い合える自分でいたい。

でも、それがビジョンって訳ではない。人生で成したいことではない。
も、もしかして私は強欲か!!??((このネタは一度寝かせる))



そう、でも、私はこの生き方が好きだし、それを刹那的と表現した中国人の彼は、素敵な日本語の使い手だと思う。

でも、ずっと『刹那的』に生きるのは少しだけいやだって、言われたときに思った。存在すら誰も証明できない私たちが、途切れ途切れでとっ散らかった時間軸で生きるって、なにか_わからないけど_を諦めてる気がして、いやだって。

野心、ビジョン、成したい事、なんでもいいけど大きな夢を持った人のことを、私は心から素敵だと思う習性がある。それは、多分、彼らに刹那的じゃない時間軸を求めているからで、私に足りないものを、持っている人だからで。その時間軸に、私も生息させてほしいのだと思う。

もしも、彼らが何か大きなことを成したら、それはきっと永遠_とまではいわないけど、限りなく刹那よりも時間軸として存在が確認されやすい_だし存在したことがどこかに刻み込まれる。別に、社会的に大きなことかどうかじゃなくて、彼らにとって大きなことだったら、どこかに残ると思う。


そして、刹那的に生きる、時間軸と人生がとっ散らかっている私は、背骨になってくれるような自分よりも確かに永遠で存在する時間軸を、他人に求めているのだろう。

だから、素敵なことを成そうとしている人がいたらそれに付いて行きたくなるし、人間としても素敵だと心から思う。そういう習性。

ビジネスパートナーでも、恋人でも、人生を共にする人は、お互いの時間軸がお互いの人生を解釈するにあたって補助線になる存在だと良いと思う。そして、お互い真っすぐ一本の時間軸とか、お互い何本もの線がとっちらかってるよりも、比較的まっすぐ長い時間軸の人と、短い時間軸が沢山あちこちにある人、その組み合わせの方がお互い解釈しやすいし存在の確認がし合えると思う。


だから、今日も私はふらふら生きているし、
夢がある彼らのことを心から素敵に思います。






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