淹れたてショコラの香りに誘われて
ドキドキ。 ほんの少し、緊張している。
右手の人差し指でこのベルを押すことを、私はまだ躊躇っている。ドキドキ。
私は、珈琲屋さんのカウンターの前に立っている。ここにはいつも、先客がいる。
外から見ると、お客さんは店主さんと仲が良さそうで、所謂常連さんだと思われる。その常連さんは、いつも違うのだけれど、どのお客さんも、親しそうにしている、ように見える。そんな雰囲気を醸し出している、気がする。
そんなお客さんと店主さんの会話を邪魔してしまうのは、気が引けてしまう。誰もいなかったら、入店しよう。と決めているのだ。
風に乗って、その香りは私の元へとやって来る。手前の交差点を渡りきる辺りで、ふんわりと届く。1日の勤めを終えた帰宅途中、どうしたって、私はその香りに癒されてしまう。
そうしていつも、お店を横目に通り過ぎる。左側に視線を預けながら、ゆっくりと歩く。いつも期待を抱いている。今日は誰もいないかな? 今日こそは!と。
だけど、もう最近は殆ど諦めていた。だって、いつも、いつも、誰かいる。とうとう、ふて腐れてきている今日この頃だ。
と言いつつ、やはり今日も、私は少しゆっくり歩く。そのお店の前を通る時だけ、丁寧に歩く。本当は、まだ期待している。
でも、きっと今日も、、と通り過ぎようとしたけれど、まさか。 先客が、誰もいない!
胸が、高鳴る。そして、怖気付く。
ずっと抱いてきた夢が叶いそうになると、きっと人は怖気付く。何かが大きく変わってしまいそうで。その夢に近づいていることを実感すると、まだ夢を見ていたいと思ってしまう。
だって、夢を見ることは、楽しい。”変わらない”は、安心する。珈琲屋さんに、入ることでさえも。
2種類のドキドキをブレンドさせた状態で、もっと注意深く、店内を覗きこむ。
まさか。。。
店主さんも、いない?
この珈琲屋さんには、イートインの空間と、テイクアウト専用のカウンター口が道路側にある。
外のカウンター口から、店主さんを探してみる。すると、カウンターの左端にベルが置いてあった。店員さんを呼ぶ際に押す、結構な大きさで音色が響き渡る、押すにはちょっと勇気の要る、あのベル。
押すのか、押さないのか。私次第だ。
そんなにコーヒーに詳しいわけでもない。そんな私が、こんな見るからに本格的な珈琲屋さんのコーヒーを飲んでもいいのだろうか。
でも、ずっと、来てみたかった。目の前のベルを押せば、やっと。人差し指で、押すだけ。
深呼吸をしよう。
息を吸ってー、、、コーヒーの香りが強まった。うわぁ。と心で呟いて、せっかく吸い込んだ息を吐く。ゆっくり、深めに。道行く人には、その深さに気付かれないように。
そして、右手の人差し指で、ベルを押した。
いち、に、さ、、ん秒数える一拍手前で、オシャレな前髪の店主さんが、目の前に現れた。
「こんにちは。」
屈託のなくもない笑顔で、そう言った。
こんにちはと返してから、「あの、コーヒー、頼んでもいいですか?店内で飲めますか?」と聞いた。ちょっと緊張してる。
中へどうぞ。と、店主さんは入口の扉に視線を向けながら私に伝えた。
″引″と書かれている扉を、右手で引こうとして、予想以上の重さに慌てて左手も添えた。
扉を開けると、一気に香る。ふわっと、どころではない。ぶわっと、くる。
「うわぁ。」 思わず、呟いていた。
その勢いで、すごい香りですね!と興奮のあまり伝えてしまうと、店主さんは屈託のない笑顔を向けてくれた。その瞬間、緊張はどこかに消えた。
カウンター席の右端に座って、コーヒーの好みを伝える。酸味の少ないショコラっぽいもの、と伝えると、メニュー表の中から2種類のコーヒー豆を提案してくれた。もちろん、決められない。
決められないから、もう豆の名前で決めることにする。甘い香りがしそうな名前の豆に決めた。
こっちにします!と伝えると、少々お待ちくださいね。と店主さんが笑顔で言った。
なんだか、とてもいい香りがしてきた。わくわく。
店主さんが、大事そうに、自信を持って、1杯のコーヒーを差し出してくれた。ずっと来たかった珈琲屋さんでの、記念すべき初めての1杯。
シンプルな、真っ白なカップとソーサー。ほんのり、チョコレートっぽい香りがする。猫舌なので、火傷に気を付けながら、ひと口。
「おいしい。」
ありきたりで申し訳ないけれど、あいにく、プロの前でその特徴を語れるほどの者ではない。ただ、スッキリとしていて、ほんのり苦味があって、おいしかった。何より、チョコレートの香りが最高だった。
「この豆を購入することって出来ますか?誕生日の人に贈りたくて。」
私は私と同じコーヒーの好みを持つ人を知っている。今週末は、その人の誕生日だ。
「もちろん出来ますよ。今日がお誕生日ですか?」
「いえ、今週の日曜日なんです。バレンタインデー。」
「そうなんですね!私の友人も、バレンタインデーなんですよ、誕生日。」
先程同様、屈託のない笑顔で店主さんが言う。なるほど。この笑顔が、常連さんの多い理由なのかもしれない。
私も嬉しくなって、そこから少し会話が弾んだ。こんなに本格的な珈琲屋さんの店主さんが、元々は紅茶派だったというから驚きだった。
「良かったら、こちらもどうぞ。これはサービス。」
そう言って、注文していない2杯目のコーヒーが目の前に差し出された。さっき凄く迷ってたから、と先程選ばなかった方のコーヒーを淹れてくれた。
嬉しさと感謝を伝えて、いただきます。をして、2杯目のコーヒーをいただいた。先程のより、もう少し苦い、かな。たぶん。私のコーヒーレベルは、この程度である。でも、ケーキと一緒に飲みたい味だなと思った。
近くで働いていること、実はずっとここに来てみたかったこと、でも勇気がなくて来れなかったことを伝えた。
「また、いらしてください。いつでも。おいしいコーヒーを、お淹れします。」必殺技くらいの破壊力を持つ笑顔で、そう言ってくれた。
今度は、もうすぐやってくる自分の誕生日用に、コーヒー豆を買いに来よう。帰り道に、そう思った。さっきの、ケーキに合わせたい方の豆を買って、ケーキとコーヒーを楽しみたい。
また、新しいちいさな夢ができたな。私はこうやって、ちいさな夢をみて、叶えて。途絶えることはない。そんな日々を、楽しんでいける。
そう思うと、あのベルを押した自分が、ちょっぴり誇らしかった。
ふわっと、後ろから風が吹いた。自分の髪が顔にかかる。髪から、ふわっと、ショコラっぽいコーヒーの香りがした。
そうか。あの常連さんたちも、こうして帰り道に、あの店内の香りと、あの笑顔を思い出して、また行きたくなるのかな。
もう、先客がいても、大丈夫。私も、常連さんの仲間入りだ。きっと店主さんは、あの必殺技を繰り出してくれる。
⁂あ と が き という名のネタバラシ⁂
ずっと行ってみたいコーヒー屋さんがあるんです。でも、いつも入りづらくて、入れない。
先日、奇跡的に、お客さんが誰もいない!チャンスだ!と思ったらお店の方もいなくて、目の前にベルがあった。勇気を出して、人差し指で押してみた。
しかし、3秒待っても、30秒待っても、お店の方は現れなかった。セキュリティが不安になったけれど、しょんぼりしながら帰った。
このしょんぼりをどうにも処理できなくて、ここに書いた次第です。実は。
だけど、コーヒーの香りがぶわっとするコーヒー屋さんにひとりで行ったことがあるのは本当です。2つのお店のことをブレンドさせて書いてみました。
店主さんのキャラクターやその他の事柄については、どれがフィクションで、どれがノンフィクションなのか、ご想像にお任せします。