語り部の感情や考えが,ほかのキャラクターに伝播し,またそれが観客に伝播されるような演技,演出の方法を創出したい! ver. 2 #演劇note
今日(6月11日(日))の稽古では、移人称いにんしょうと身体の関係について、俳優と一緒に研究を進めました。
移人称とは、もともと文学批評から生まれてきた言葉です。移人称で作品を書く代表的な作家といえば、滝口悠生さんです。私は、滝口さんの作品を過去に2つ読んだことがありますが、読むたびにふしぎな感覚におそわれます。それから、これは移人称とはあまり直接的な関係がないかもわかりませんが、滝口さんは、ひじょうに読点を特徴的に使用します。魔法みたいに読点をつかいます。
例えば『文藝』2023年夏季号に掲載されていた滝口悠生さんの作品「緑色」では、文章の語り手(人称にんしょう)が「1行空け」することもなく移り変わっていきます。「人称が移る」から「移人称」と呼ばれているんですね。
私は、自分の演劇作品をつくるにあたって、移人称的な表現を舞台上でおこないたいと考えています。そのような考えに至ったのは、もとはと言えば、私が芝居をつくるにあたって、戯曲ではなく、まず小説を書くようになったから、なのだと思います。
戯曲にはそもそも人称なんてものはありません(戯曲をより精密に、構造的に捉えれば、人称を見出すことも可能であるかもしれませんが、一般的に見れば、やはり戯曲には人称なんてものは存在しません。存在するとすれば、舞台に登場する全員がそれぞれ「人称」である。という結論に達すると思います。このことについて語りだすと長くて複雑な道のりになりますので、今回はやめておきましょう)。
しかし、私は小説を書いて、芝居にしようとしているものですから、人称について考えることを避けて通ることはできません。ひとりの語り手(登場人物)が淡々とストーリーテリングしていくのではなくて、まるで4×100メートルリレーのバトンの受け渡しのように複数の登場人物に語りが分担される状況とはなんなのだろう……と考えたとき、それは舞台上における移人称なのではないかとひらめいたんです。
演者は登場人物になりきろうとします。登場人物になりきって、セリフを言ったり体を動かしたりすることを、私たちは「演じる」と言って表します。
しかし、移人称を舞台上で体現しようとするとき、演者は登場人物になりきるだけじゃなく、「その登場人物を観察する」という視点を持つようになります。こうした視点を持つことによって、(私たちがやろうとしている)演技の難易度は上昇していきます。しかし、その分やり甲斐も増していきます。
演者たちは「自分の役」を共有しています。わかりやすく言えば、シャーロック・ホームズを演じる者が同時にふたり(演者Aと演者Bとが)存在していて、あるセリフは演者Aによって読まれ、シャーロックの次のセリフは演者Bによって読まれる、という具合です。
ですから、移人称を演技——とりわけ演者の身体——に起こすということは、相手の演技を注意深く観察し、それを自らの演技にも反映させていく、というプロセス自体のことを指しているのだと思います。
例えば、同じ場所、同じ時間に、同じものを食べたり、見たり、寝たりするという体験は自身と他者の区別を曖昧にし、その共同体はある種の「全体性」を有し、ひとつの人格として機能するようになるでしょう。そのようなプロセスを、舞台上でどのように表象するべきだろう……11日(日)の稽古では、そんなことを考えていました。
私たちは、聴覚的なイメージ(演者の発語方法)によって、移人称的な舞台表現をはかる術すべをすでに習得しつつあるのですが、視覚的イメージ(演者の身体的表現)によって移人称を表現することはまだできていなくて、今回の演劇公演『太陽と鉄と毛抜』ではなんとかしてその手がかりを見つけたい、と思っている最中です。
稽古の終わりに、「視覚的イメージはかならずしも要らないのではないか」というフィードバックもあったのですが、視覚的イメージと聴覚的イメージを共存させることができれば、観客と舞台がより深いところでつながりあうことができるような気がしていて、その可能性をできる限り追求したいと、今のところは思っているんです。
視覚的イメージを生むための方法として、11日(日)の稽古であげられたアイデアのいくつかを列挙してみます。
身体の同期: 演者たちが同じ動作やリズム、呼吸を共有することで、全体性を視覚的に表現することができます。これは観客に対して、演者たちが一つの集団として動いていることを感じさせる効果があります。
反復と変化: 同じ場面や動作を反復することで、その場面や動作が一つの人格を形成するプロセスを表現することができます。その反復の中に微妙な変化を加えることで、共同体の成長や変化も描き出すことができます。
感情的な共有: 感情的な瞬間を共有することで、観客に演者たちが一つの人格として感情を共有していることを感じさせることができます。
空間と環境の活用: 空間や環境を効果的に活用することで、全体性を表現することも可能です。例えば、舞台上の物体や装飾品の位置を全ての演者が同時に動かすことなどが考えられます。
……このように、移人称を身体で表現するための方法は——どれもアイデアの段階だけれど——大きく分類して4つあります(と11日(日)の稽古で考えが及びました)。
この4つの方法のうちのどれかを、演出家と演者は具体的な舞台や物語、登場人物にあわせた方法を選択するべきだよね、と私たちは話しあいました。そして、今作『太陽と鉄と毛抜』では、「3. 感情的な共有」の方法を採用するべきなんじゃないかと、11日(日)の稽古では考えました。
「感情的な共有」の方法を採用するべきだと感じたその理由は、今回の台本で移人称的な状況が発生するのは、「4. 空間と環境の活用」のように、「演者が同じ空間に居あわせること」が最重要視される要素ではないからです。というよりかは、ひとりの優秀な語り部が存在し、その語り部がほかの登場人物に憑依し、思考イメージを乗っとることによって発生している移人称的状況である、と考えるからです。
つまり、語り部の話のなかに登場するキャラクターに感情移入することで生じる「エネルギー」を発端に、移人称的な身体と発語が形成される、ということです。
では、そこで形成される身体とは、どのようなものだろう?
移人称的な身体とは、ひとりの語り部の視点や感情がほかのキャラクターに流れ込むことで生まれる、共有された身体だと考えることができます。これは一種の共感や連帯感を生み出すでしょう。つまり、語り部が表現したいと思う感情や視点が、そのほかのキャラクターにも共有され、かれらの行動や言葉に反映されるのです。それらが見事に一致すれば、その身体はひとつの共有された存在として観客にも認識されるはずです。
移人称の概念を採用することにより、従来の一人称や三人称の視点に囚われず、新たな視点から物語を表現することができるようになります。これは小説にとって革新的な方法だっただけでなく、同様に演劇にとっても革新的です。つまり俳優が、個々のキャラクター(一人称)と語り部(三人称)の両方を演じることによって、これまで見えない誰か(劇作家)が動かしていた物語を俳優主体で動かすこと、または動かしているように見せることが可能になるのです。
この方法は、俳優にとって、物語の全体的な構成や進行をより自由に、そして創造的に操る新たな方法となるでしょう。これは演劇が新たな創造性と表現力を追求するうえで重要なステップであり、舞台上での表現の幅を大きく広げることになると確信しています。
ただし、このような表現方法を採用するにあたっては、演者たちが感情や視点をどのように共有し、どのようにその共有を身体的に表現するかという点について、十分な稽古と研究が必要になってくるとは思います。そして、観客がその共有された身体を理解し、共感できるように、演出にも細心の注意を払わなければなりません。そのためにも、稽古前の仮説、稽古中の実践、稽古後の研究をこのようにして文章にしてまとめておく必要があるのです。いつかこの文章を参照しながら、移人称の演技の方法をより明確に記す日が来るでしょうから。