《概念の分解》仏教ってなんだろう④
こんにちは😊
今回も、よろしくお願いいたします。
さて、前回は【何故苦しいを苦しいと感じるのか】を恋愛を例に考えてみました。
自分の事ばかりを考える私は、自分にとって都合の悪い事を苦しいと感じており、苦しみとは外から来るのではなく、自分の内側から生じているのではないか、自分が生み出しているだけではないのか、という疑問にぶつかりました。
今回は、【苦しみは自分が生みだしている】という部分を、もう少し掘ってみたいと思います。
では、早速進めていきましょう。
苦しみを生むものの正体
前回の投稿で、彼女と別れ苦しく感じた事を幾つか挙げました。
それらの発生源と言えば良いでしょうか、生まれた場所を考えてみたいと思います。
→マークの先に、自分自身を優先に考えている場合は【自身】、彼女の事を優先に考えている場合は【相手】と表示します。
それに加え、その事柄がどの様な欲求なのかを《》に書いてみます。
以下の苦しく感じた事柄は、前回の投稿と同じです。
•好きな人に会えない→【自身】《執着》
•いつもの心休まる日常が無くなった→【自身】《執着》
•話を聞いてくれる相手が居なくなった→【自身】【承認欲求】
•自分以外の男性と過ごしているかもしれない事に嫉妬している→【自身】《嫉妬》
•別れを私自身への否定と捉えてしまい、孤独を感じている→【自身】《承認欲求》
•相手のサインがあった筈なのに、キチンと読み取れず関係修復の機会を逃してしまった→【自身】《執着》
•相手に我慢ばかりさせていたのだと気付き、後悔はするものの、謝ることすら出来ない→【自身】【自己保身】
•自分の浅はかさが、相手を傷付けていた→【自身】《怠慢》
•自分が優しさだと思っていた事は、自己満足に過ぎなかった→【相手】《理解》
•ただただ、会いたい→【自身】《執着》
自分で書きながら、『私と言う人間は…』と、大ダメージを受けておりますが、身から出た錆、更に話を進めていきます。
ここまでの話で、何を表したいのかと言いますと、あくまで私の話ではありますが、【自分の事を優先に考えている】つまり、私が感じている苦しさと言うのは【自分が可哀想】だという【自己中心的な考え】が発生源であって、【相手を思いやる気持ち】からは苦しみは発生しないのではないかと言う事です。
私が正直に考えた上記の事柄の中で、唯一【相手】となったのが、【自分が優しさだと思っていた事は、自己満足に過ぎなかった】ですが、思い出してみると彼女はそれを伝えようとしてくれていたと【気付く】事で、自然に【感謝】の気持ちが生まれました。
他の事柄は、グラデーションがあるものの、どれも突き詰めると【相手】ではなく【自分】の欲求から生まれており、非常に苦しく感じます。
現時点では、【自分】の事を優先に考える【欲求】は苦しみを生み、【相手】の事を考える【欲求】は感謝を生むのではないかと思われます。
仏教では、この【自分の事を優先に考える欲求】を、【悪い因果を生む欲】すなわち《煩悩(ぼんのう)》と表現します。
仏教自体は、【水が湧き出るからこそ井戸と呼ぶ】の例えが有名ですが、【欲があるからこそ人間だ】と説き、決して【欲】を否定はしません。
ただし、良い因果(いんが)をもたらす欲と、悪い因果をもたらす欲があり、後者を煩悩と呼びコントロールしなければならないと、教えます。
因果とは、原因と結果という意味です。
原因が悪ければ結果も悪い、原因が良ければ、必ず良い結果に結びつくという事です。
原因を、はじまりと言い換えても良いと思います。
苦しいを苦しいと感じる原因は自分の内側にあり、苦しみは自分自身で生みだしている。
そこには、【煩悩】が大きく関わっているのではないか、をまとめとし、今回は終わりたいと思います。
次回は【煩悩】をもう少し掘り、仏教が煩悩に対しどう向き合っているのかを、見ていきたいと思います。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました😊
師走に入り、更新頻度が落ちていますが、次回もまたよろしくお願いいたします。