このうえなくシンプルな、親の願い。室生犀星の「わが子のうた」に込められたもの
こんにちは、詩のソムリエです。
子育てのなかで考えた、詩のはなしをちょこっと話す「こどもと詩」シリーズ。どんな時代もかわらない、親から子への思いのこもった詩を紹介します。
もらい泣きの朝
朝ドラ『らんまん』を観るのが、最近の楽しみだ。ただ、ここ数週間は、主人公の槇野万太郎(モデル:牧野富太郎)に次々と試練が襲いかかっている。その一つに長女・園子の死があった。1歳にも満たないおさなごの命を奪ったのは麻疹だった。おなじ年頃の子どもをもつ親としては観るのがつらく、息子を抱き寄せておいおいともらい泣きしてしまった。
親となって、見方考え方、生活リズムなど、とにかくいろんなことが変わった。その数ある変化のうちの一つに、神社仏閣を詣でるときの祈りが、とてもシンプルになった…ということがある。
とにかく、なにはともあれ、息子が健やかに育ちますように。あとはなんとかやります。ただ、それだけ。
わが子への願い
そういう親心は、きっと大昔からあるのだろう。室生犀星というひとの詩に、「わが子のうた」という作品がある。娘を思う父親の気持ちが切々とうたわれた詩だ。
そう言った父親は、「何一つ頼りになるものもない世」だから、と続けて祈る。
「花のような少女に」という望みから、後半ではもっと素朴な、健康への願いと変わっている。「これだけなら神にだって」というからには、詩人は神に祈る習慣などないのかもしれない。それでも祈るしかない。その気持ちは、予防接種など医療が充実し乳幼児の死亡率がずっと下がった今だって、たぶん変わらない。
室生犀星は、詩に出てくる「朝子」を腕に抱くまえに、豹太郎という待望の第一子を、生後一年で亡くしている。その死を悼んだ詩「靴下」は、ほんとうに切なくなる作品だ。
書き出しの二行から涙を禁じえない。亡くなったわが子に、父親として最後にできることを淡々とする姿がそこにある。
その死があったからこそ、次に生まれてきてくれた朝子の健康への願いも並々ならぬものだっただろうと思う。ドラマでも、園子の次に生まれた子に、万太郎がただただ長寿を願って「千歳」と名付けたのは胸が打たれるシーンだった。
そういえば、最近結婚したばかりの友人夫妻が「どちらが先に逝くか」「妻は淋しがりなので、残しておくと心配だから先に死んでほしい」というノロケ話をしていたので、夫に「うちはどうする?」と冗談混じりで聞いた。夫の答えは「息子より先に死ねればよい」だった。そう言われて、まったくそのとおりだと同意した。夫は父になり、わたしは母になったのだなぁとしみじみ思う瞬間だった。
「こわいもの知らず」になったけど
出産して、こわいことは、なくなった。子どものためなら、なんだってできるし、なんだって耐えられる。戦わなくちゃいけないときは、もうむちゃくちゃ戦う(何と戦うのかは、わからないけど)。母になって、気持ちは最強モード。でも、一方で、とてつもなくこわいことができた。それは、子どもをなくすことだ。子どもが巻き込まれる事件事故をみると、長いこと心身にダメージを受けるようになった。
子どもを持つと世界が変わる、と人が言うのは本当だなと思う。自分の命より大事なものができる、ということは、天地がひっくり返るような出来事なのだ。
息子よ、大きくなり、病気をせずにふとってくれ。父と母より長く生きてくれ。それだけでオーケー。
でも親というもの、もう少し子どもが大きくなれば、いろんな期待をしてしまうのだろうか?そんなときは、この詩を読み返したいな、と思う。
*おまけ*
室生犀星と妻の微笑ましい愛の物語も、ぜひ。
***